第10話「構いません。どんな地獄も貴方のためにならば歩んでみせましょう」

黄昏の獣デルニエを狩ってはならない」


 玉座の上から人々を見下ろしながら告げた。戸惑いは空気の震えでリゼルの所まで伝わってくる。今まで敵とみなしていた恐ろしい獣を狩ってはならないと言われたのだから当然だ。認めたくなかったのはリゼルも同じ。


「なぜですか!」


黄昏の獣デルニエと蝕崖の関係が明らかになったからだ。黄昏の獣デルニエを狩れば、蝕崖が国を呑む」


 感情を殺して淡々と事実のみを並べていく。灰銀の瞳は月のように静かだった。リゼルは動揺している人々を制し、もう一つ宣言した。


「したがって、“狩人”は解散させる。また、ホムンクルスの生産も中止する」


 黄昏の獣デルニエを狩ることを主眼に置いた騎士団も、ホムンクルスも、狩るものがないのなら必要ない、と言い切った王に騎士団の長であるベルデモントは言葉を失くした。あの王は分かっているのだろうか。騎士団は王の盾であり剣だ。身を守る剣と盾を手放せば、誰があの小さな王を守るというのか。今にも玉座でもろく砕け散ってしまいそうなのに。


「陛下! では、黄昏の獣デルニエはどうすればよいのですか! このまま民は喰われればよいとでもおっしゃるのですか!」


 王の身を案じたのはベルデモントくらいで、他はみな黄昏の獣にばかり意識を向けているようだった。彼らの目にはそもそも王など映っていないのだ。


「すでに方策は考えた」


 リゼルは黄金でできたランタンを持ち上げる。手のひらほどの小さなランタン。中で輝くのは最上級の澄んだ鉱石だ。金剛石に近い星のいろをして淡く光っている。美しいランタンに人々はくぎ付けになる。感嘆するのは、黄金を見るのが初めてだから。決して自然には生まれない唯一の金属が黄金だ。得るためには難易度の高い錬金術をもって生み出さねばならない。しかし、それは錬金術という名前の由来となった最も高貴な金属にして、黄昏の獣デルニエが唯一おかせない物質。故に黄昏の獣デルニエを追い払うことができる。欠点を挙げるとすれば、作れるのが錬金の王たるリゼルだけということ。


「陛下!」


 朝議を終えて玉座の間を辞したリゼルをベルデモントは追った。銀で飾り立てられた玉座を降りた王は本当に小さかった。整った目鼻立ちに華奢な身体は触れれば壊れてしまいそうなほど。彼は今までいないもの、いてはいけないものとして閉じ込められていた年端もいかない少年なのだ。彼は突然玉座の上に引きずり上げられ、そして同時に何もかもを失った。そして今は玉座に縛られて生きている。


 リゼルが自分の後を追いかけてきた老練の騎士を見上げる。


「何用だ?」


「本当に、騎士団を解散させてしまってよろしいのですか?」


「そうか……、そなたは騎士団の長だったな」


 少年王は眉を下げ、目を逸らした。


「突然あのように宣言を出したことは申し訳ないと思っている。そなたの、……仕事を奪ってしまったな。別の形で何か用意しよう。武で民を守る役割はやはり必要だから」


 ベルデモントは愕然とする。この王は気づいていないのだ。気づいて、いないのだ。


「騎士団を、失くしてしまえば、陛下はご自身を守る武器を失います。丸腰になるのですよ!?」


 ふっとリゼルは微笑んだ。歳には似つかわない大人びた笑い方だった。しかしそれはなぜか見ている者の目にはあまりにも痛ましく見えて。


「よい。民のために尽くすのが王としての余の役目だ」


 唇を引き結んで、ベルデモントは剣を抜いた。曇りのない切っ先を王の前に突き立て誓いを立てる。目を見開いた幼い主君に忠誠を。


「リゼル・オロ・レヴェニア陛下。私が貴方の盾となり、つるぎとなることをどうかお許しください」


「よいのか? きっと、余の側は……、あまり居心地が良い場所ではないぞ?」


 老練の騎士は王の灰銀の瞳を見据えて頷く。痛いくらいに優しすぎる王を守るのが騎士としての最後の務めだ。そして、……それはなんて誇らしいのだろう。


「構いません。どんな地獄も貴方のためにならば歩んでみせましょう」


 その言葉を聞いたリゼルは泣き笑いをしていた。




 それから一年。


 黄金のランタンはやがて黄金燈おうごんとうの名で呼ばれるようになった。ひとつの村に最初は一つずつ支給されていたが、月日と共に少しずつ広がっていった。夜には黄金燈の明かりは町中を淡く照らし出す。蝕崖と黄昏の獣デルニエに蝕まれていく終わりの世界では、きらきらと輝くランタンはさながら希望の光のようだった。


「少しは良くなったかな……」


 自室のテラスから身を乗り出し、リゼルは夜景を眺める。黄金燈独特のゆらゆらと揺れる淡い虹色の光は柔らかく街を包んでいる。


“うん。りぜるはがんばってる”


 クライノートの手がリゼルの手に重ねられた。ほっそりとした彼女の手はやはり温かい。クライノートがいなければ、リゼルはきっと人が温かいということも忘れてしまっていただろう。リゼルの手の中にあるものはあまりにも少ないから。


「いたっ!」


 ぎゅっとつねられた手の甲をリゼルはひらひらと動かした。


“でも、りぜるはがんばりすぎ”


 極太のでかい字でそう書かれた紙が鼻先に突き出され、リゼルはのけぞる。クライノートはそんなリゼルを見て楽しそうに笑った。しかし、すぐに笑いをひっこめた彼女はペンを握って新しい紙に書きつける。


“あのきらきらはぜんぶりぜるがつくったの、わたししってる。おつきさまもねるまで、まいにちがんばってた”


「ありがとう、クライ」


“だから、おねがい。もっと、やすんで。わたし、りぜるのためにここにいるから。わたし、なにもできないけど、りぜるのことまもりたい”


 金剛石の瞳の中は側にある黄金燈の光で万華鏡のように色づいていた。複雑でぐちゃぐちゃ、色々な思いを閉じ込めて揺れている。瞳の温度に火傷してしまいそうだった。ふいとリゼルはクライノートから目を逸らす。


「あの日、ぼくが全部失くした日に、クライが落ちてきてくれて本当に良かった。ぼくはね、たぶんクライに会わなかったら、心もきっと失くしていたと思うから」


『……りぜる』


 クライノートは胸を押さえた。声が、欲しかった。何よりも大事なクライノートの王さまの名前を呼んであげたかった。陛下、陛下、陛下。声がある人はみな、リゼルの名を呼ばない。だから、クライノートは声を出してリゼルと呼びたかった。だいすきだと、あなたの側にずっといるよと、言ってあげたかった。こんな、紙切れなんかじゃ何もかもを伝えるには足りない。けれど、いくら願っても、片翼の天のみ使いは孤独な王に声を届けられない。


 なぜ、声を持たずに生まれ落ちてしまったのだろう。


「もう、だいぶ寒くなってきたね。中に入ろう、クライ」


 リゼルはクライノートに手を差し出した。両手でぎゅっとその手を握る。


 たった、三文字だけ。ただそれだけで良かったのに。それでもクライノートの喉から音はでない。それがとても悲しくて。


「クライ、どうして泣いてるの?」


 慌てたリゼルがクライノートの顔を覗き込んだ。


 ──りぜるのなまえがよびたいの。でも、くらいは……。


 ぼろぼろと大粒の涙をこぼすクライノートの頬にリゼルは手を伸ばす。


「泣かないで。クライには、泣いてほしくない。何か、ぼくにできることはある? ぼくはきみの涙を止めてあげたい」


 クライノートは首を横に振った。涙が宙を舞う。リゼルはあげてばかりだ。自分を守ることをしない。全部、全部、あげてしまったら後には何も残らないのに。リゼルを大切にしない人にもあげてしまうから。せめて、クライノートだけでも持たない王に何かをあげたかった。でも、それは叶わない。


 迷って、迷って、散々躊躇ってから、リゼルはほんの少しだけかかとを浮かせる。そして、そっとクライノートの頬に口づけた。目を見開いたクライノートの目から最後の涙の一滴が零れ落ちる。


 やっと泣き止んでくれた、と笑った王さまは、こうして自分の心を片翼の天のみ使いにあげたのだ。




 ***




「セルシュ殿」


 夜の静まり返った廊下を歩いていたセルシュは足を止めた。長い影が二つ伸びる。王の住むこの場所を歩く人間は限られている。クライノートは言わずもがな、リゼルに認められて専属メイドになったセルシュと、リゼルの騎士となったベルデモントの二人だ。別段、ここに立ち入ることに許可は必要ない。ただ、人間らしさを感じられない王を気味悪く思う人間が大半なので、近づく人がいないのだ。


 王の住まう場所としてはあまりに簡素な廊下は藍のカーペットが白い床に敷かれ、セルシュがせめてと飾った花が壁に点々と続いている。大きな窓からは、澄んだ夜が覗いていた。


「殿はつけなくて構いませんと何度かお伝えしましたのに、ベルデモント卿」


 くすっと笑ってセルシュは老騎士を見た。


「ああ、その、すまない。つい癖でな」


 父親ほどに歳の離れた男がすまなさそうにぽりぽりと頭を掻く姿は何度見ても面白い。セルシュはできるだけ笑わないよう気を付ける努力はしたが、実践できていたかは定かではない。


「それで、私に何か……?」


「ああ、貴女は陛下についてどうお考えか?」


「どう……ですか。難しい質問ですね。ですが、私は陛下をとても尊敬しています。陛下は独りで戦っておいでです。クライノート様は陛下のお心の支えにはなりましょうが、まつりごとの面でお支えすることはできません。たった独りで支えるには、国というものは重すぎます。ですから、私はとても心配なのです。陛下が、壊れてしまうのではないかと」


 セルシュは思わず唇をかんだ。


「私もそう思う。玉座で心を凍らせて政務を執る姿は痛々しく見えてしまう。そして私には王の隣にいる金髪の司祭が恐ろしい。何を考えているのか、さっぱり分からなくてな。陛下にいつか仇なすかもしれないと勘ぐってしまうのだ。あの男について何か知っていることがあれば教えてもらえないだろうか」


 この国最強と呼ばれた騎士ですら恐怖させるものをあの司祭は持っているとでも言うのだろうか。セルシュはどこか蛇を思わせる司祭を思い出してぶるりと肩を震わせる。それから、一年前にリゼルがクライノートと共に姿を消した日のことをベルデモントに話した。


 いっそ、帰ってこなくてもかまわないと呟いたあの言葉も。


「……そうか、感謝する。私の方でも色々と調べてみよう」


 顎を撫でて言う老騎士の姿がセルシュにはとても頼もしく思えた。


「ありがとうございます。どうか、陛下を。優しすぎるあの方を守って差し上げてください」


 深々と頭を下げると、ベルデモントは心臓に拳を当てて頷いた。一介のメイドであるセルシュもその仕草の意味は分かる。


 それは、決して言の葉を違えぬという命を懸けた誓いだ。


 だから、セルシュも胸に拳を重ねて口にする。


「私も、誓います。陛下を守ることを」


 やがて落ちた静寂をベルデモントが破った。


「セルシュ、私は思うのだ。確かにこの世界は死んでゆく途中なのかもしれない。だが、世界を終わらせるのは、たったひとりに全てを押し付けることに慣れてしまった人々なのではないか、と」


 ちいさな王に全てを委ね、自分で考えるということをしなくなった人の愚かさが、どうやっても取り戻せない過ちを犯す日が来るのではないか、と。

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