第9話 「ぼくの命令でたくさん、人が、死んだんだ」

 セルシュ・マゴットは王城勤めのメイドの中では新人の部類に入る。というか、メイドとしても経験は浅い方だ。


「でも、できることはちゃんとやらなきゃ」


 ふん、と拳を握って決意を固める。窓に映る自分をちらりと見て、少しだけ傾いているホワイトブリムを直した。それから、足首近くまである黒いワンピースの裾を揺らして歩き出す。私、完璧。


「あなた、陛下付きなの?」


 唐突に廊下で声をかけられた。セルシュは足を止めて声の主を探す。他のメイドだ。下っ端のセルシュからすれば、先輩といえばいいのだろうか。


「えと、一応違いますよ?」


 あの小さな王さまはメイドを自分の側に置かなかった。だが、リゼルがいつ倒れてもおかしくないような無茶な生活をしていることをセルシュは知っている。つい先日も熱で倒れたばかりだ。だから、放っておけなくて仕事の合間を縫っていつも様子を見に行く。できるだけ彼に関わる仕事を受けるようにしていたら、いつの間にか王の側付きメイドのようになっていただけで。


「そう、なら忠告しておくわ。……あの王は不気味よ、関わらない方がきっといいのだわ」


 声を潜めて彼女は言う。眉を寄せ、気遣わしげな視線を送る様子を見れば、この先輩メイドがセルシュを本気で憂いていることが分かる。


「お気遣いありがとうございます。ですが大丈夫です、今はもう私の仕事になってますし」


 まだ何か言いたそうにしている彼女にセルシュはぺこりと頭を下げ、再び歩き出す。問答している時間よりも倒れた小さな王が気になっていた。


 あの王さまは、不気味というよりも、可愛いと思うんだけどな、とクライノートの面倒を見る少年王の姿を思い起こす。そういえば、クライノートに食事を持っていく係がメイドの中で今一番人気のポジションなのだとか。


「陛下」


 リゼルの部屋の戸を叩く。が、返事がないのは当たり前なので気にせずに扉を開けた。まずはリゼルの身体の様子を確認して、カーテンを開けて、水差しの水を換えて……。やることリストを熱心に脳内で作成していたセルシュだったが、空っぽの寝室を見た瞬間、リストが頭から吹き飛んだ。


「へ、陛下!?」


 隣のクライノートの寝室ももぬけの殻だ。


「クライノート様!?」


 消えたふたりに愕然としていたので、後ろから現れた金髪の司祭に気がつくのが遅れた。


「陛下はしばらく留守になさると思いますよ。急用ができたのかもしれません」


 長いまつげは司祭の美しい蒼い宝玉のような瞳に影を落としている。セルシュはしばらく見入ってしまって、動けなかった。


「そう、ですか……。あなたは何か、知っていらっしゃるのですか?」


「行先は分かりません。ですが、そうですね、私が天のみ使い様に陛下の願いを叶える方法をお教えしたのは事実です」


「仰ることが私には分かりません……。あの、陛下はいつお戻りになられますか?」


 司祭の視線が窓の外を向く。細めた目はどこか笑っているようにすら見えた。


「明日、明後日、一週間、一ヶ月、一年。それから、ここには二度と帰ってこない可能性さえありますが──」


 司祭はにこりと微笑んだ。神さまがこぼしたような完璧で美しい笑みだったが、碧天の瞳は微塵もわらっていなかった。


「──陛下はきっとすぐお戻りになるのではないかと私は踏んでいます」


 たとえこのまま帰ってこないとしても、それはそれで構いませんが、とセルシュは聞いてはならない言葉を聞いてしまったような気がした。その発言の意図を理解したくなくて、記憶の底に沈めて忘れてしまおうと決める。気づけば、司祭はいつの間にか王のいないこの部屋を出て行ってしまっていた。


 世話焼きメイドを残して部屋を後にした司祭、セレスティアンは口の端を歪める。


 ──陛下に翼を乞うといいですよ、きっとあの方はとても喜ぶと思います。


 その言葉を聞いて、頬を紅潮させて喜ぶまがいものの天のみ使い。そんな彼女を目覚めさせたのは、おろかなおろかな箱庭の王。


 始まりの王はクライノートの目の前で心臓を突いて死んだ。そして、おろかな王の身体は彼女を縛る黄金の鎖になったという。


 ならば、終わりの王は一体何になるのだろう。


 閑散とした廊下を白い司祭は歩いていく。王の隣は退屈しない。天のみ使いを愚鈍に信仰する教会にいるよりもずっと。




 ***




 リゼルの部屋のテラスに転がり込むようにクライノートとリゼルが舞い降りたのと同時に、クライノートの翼の半分が砕け散った。夢の欠片は脆く、蛍火のように消えていく。けれど、なくなった翼よりもクライノートにはリゼルのことの方がよっぽど大切だった。


 座り込んだままのリゼルをクライノートは一生懸命引きずって部屋の中に入れようと努力する。が、顔を上げるとそもそもガラスの扉は閉まっていたことに気づいた。だから、リゼルの身体から一旦手を離して扉を開けようとする。


「クライ、ここにいて」


 リゼルはクライノートの袖を弱く引く。クライノートはすぐに中に入ることなどどうでもよくなった。リゼルの身体を両手でぎゅっと抱き締める。リゼルはそうしてやっと身体が震えていることに気がついた。


「さむいよ、さむい」


 身体の奥で生まれる寒さは外気のせいではない。両の手の中で失ったものは炎のように温かかったのに。クライノートはリゼルの手を白い手で包み込んで、はあっと息を吐きかけた。白い雲はリゼルの手を温めたが、その温度の頼りなさに失くしたものを考えてしまう。それが嫌でリゼルはクライノートの華奢な身体を抱き締める。けれど、天のみ使いは人間とは違う。たとえ体温があっても鼓動は聞こえなかった。


「クライ、ずっとぼくの側にいて」


 絞り出した願いにクライノートは微笑んで頷く。強くリゼルを抱き締め返して、唇を動かした。


『くらいいるよ、ずっと』


 空の端が白んでいく。煌と差した光がリゼルとクライノートを下から照らした。何があっても、どんな人にも、等しく朝は訪れる。望むとも、望まずとも。


 結局、リゼルが城を開けたのは二日間だった。なぜ、と冷たく突き刺さる視線に平気なフリをして玉座に座る。二度目はもうないことをリゼルはよく分かっていた。


「陛下、なぜ突然玉座を空けられたのですか?」


 七卿のひとり、フリーデル地方を治めるハスラ・グスタフは鋭利な言葉を投げかける。痩せぎすで神経質そうな男は、組んだ腕を何度も組み直していた。


「──」


 一瞬の間にリゼルは考える。


 なんと答えれば良いのか。

 真実か。

 それとも。

 ただしい王として口にすべきなのは何か。


 手のなかで崩れて静かに消えた温もりの名残はまだ、リゼルの手にある。リゼルならいい王様になれるよ、と老婆が言ったあの言葉はまだ、胸の中で一番星のように輝いている。


 ただしさを決めるのは、リゼルだ。


 目を閉じ、己に誓う。


 リゼルのただしさは──


 ──すべての民を守り抜くこと。


 次に灰銀の瞳が守るべき世界を映した時、もう迷いはなかった。どんな手を使ってでも守ってみせる。だから、嘘をつくことも厭いはしない。


「この世界が少しずつ蝕まれていることは知っているか? 余はその現象についての手掛かりを得るために調査をしていた。何も告げずに城を離れたことは申し訳ない」


 リゼルは一つ、しかし致命的な失念をしていた。


 果ての壁は世界に果てがあることを認識した者にしか見えないということを。


 ハスラは明らかに失望したとばかりに溜息をついた。懐疑的な視線の中、リゼルはそれでも平然とした顔を作り続ける。


「皆、素直には信じられないか」


「果てに壁があるなどと突然仰られても困ります。実際、ここに会した我らの内で果ての壁を目にした者はおりませぬゆえ」


 しわがれた声でセガール・シュバイクは述べた。彼もまた七卿のひとりで、発言権は一際大きい人材だ。資産家であり、彼の手に入らないのは頭部の毛髪くらいだろうと言われている。


「では、至急我が国の領地面積および総人口の調査を実施せよ。余の言についての追求はその後聞く」


 リゼルは立ち上がって玉座を後にした。リゼルの意図を図りかねている人々はざわめきながらも、王の命を果たすために動き出す。彼の王は錬金の王。容易く生命を生み滅ぼすことができる恐ろしい存在であることを人々はよく知っていた。


 ひと月。


 それが調査にかかった時間だった。正確には、果ての壁──蝕崖しょくがいとリゼルは名付けた──を人々が認識するまでにかかった時間だ。蝕崖しょくがいに不用意に近づけば引きずられ、消えてしまう。崩壊と隣り合わせであることを知った人々の反応は良いものとは到底言い難いものだった。


 協会の信者が激増したのは序の口。将来を悲観し自死に走る者はまだそう多くはないけれど、その事実を公表しなかったとして王を責め立てる声は大きかった。


「クライ」


 クライノートの真っ白な髪にリゼルは顔を埋める。クライノートに引っ張られて帰ってきたあの日から、リゼルはクライノートとよくテラスで空を見上げるようになった。


「ぼくの命令でたくさん、人が、死んだんだ」


 蝕崖しょくがいを調べるには果てを探さなければならない。蝕崖を認識できるのはそれを知覚した者だけ。リゼルも指して蝕崖を見せて回ったけれど、すべての場所で同じようにできたわけではない。そして、人はひとり呑まれて初めて蝕崖を見ることになる。


「知ってたんだ。分かってたんだ。でも、ぼくはそれでも」


“りぜる、わるくないよ。みんなわるいいっても、わたしりぜるわるくないってしってる”


 クライノートは羊皮紙に書いた。リゼルは弱く微笑んで、立ち上がる。日はとっくに落ちていたが、リゼルにはまだやることがあった。


「陛下、そろそろお眠りになってください」


 日が沈んで久しいが、音を立てないようそっとセルシュが温かい紅茶を置いていく。ありがとう、と書簡の間から一瞬顔を上げて言うと、セルシュの綺麗な藤色の瞳と目が合った。何か言いたそうにセルシュは唇を動かしたが、結局何も言わずに頭を下げて部屋を出て行った。


 報告を見て、そして何度も確認する。


 あの日、リゼルは黄昏の獣デルニエを滅ぼした。その直後に蝕崖は老婆の家を呑み干した。


 前後関係が逆であれば良いと思っていた。そうであれば、まだ救いがあったはずだ。しかし、あらゆる報告書が語る真実は無慈悲だった。


 大規模な黄昏の獣デルニエ討伐の後、領地の面積は著しく減少していた。そこから導けるのは、ひとつだけ。


 ──黄昏の獣デルニエを狩れば、世界は終わりへと近づく。


 それがリゼルの辿り着いた答えだ。認めたくなくて、他の要因も考えようとした。けれど、どれだけ調べても出てくるのはこの仮説を裏付ける事実のみ。


 思い出したように口をつけた紅茶はとっくに冷めきっていた。

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