第8話 「大丈夫、リゼルはいい王様になれるよ」

 リゼルの身体は空の中にあった。クライノートとは手を繋いでいるだけなのに、重力はリゼルを無視している。どうやら天のみ使いはその両翼で飛んでいる訳ではないようだ。天のみ使いは翼を広げてそらを舞う、そういう概念が法則として機能している。だから、クライノートの身体の一部と世界が認識すれば、今のリゼルのように飛べるのだろう。


 初めての空に興奮した様子のクライノートの飛び方は危なっかしい。突然星を数え始めたり、リゼルに向かって笑ったり、地上との距離に驚いたり。これがぐるぐるローテーションで襲ってくるので、クライノートの付属品たるリゼルは危険飛行に戦々恐々としているわけだ。


 それでも、雲のない空は泣きたいくらいに綺麗だった。頬を切る風の冷たさもほとんど気にならない。心に羽が生えたみたいだった。


「クライ、きれいだね」


『うん!』


 波打つように翼が羽ばたく。一際高く飛び上がり、クライノートは旋回してみせた。天蓋の端はもう近い。虚ろな黒い世界の果ては壁としてそそり立っている。


 ちか、と眼下で何かが光った。クライノートも気がついたらしく、リゼルの顔を見つめて首を傾げた。


「降りてみよう」


 地面に足を着けた途端、身体を襲った重力に膝を着きそうになった。草木の甘いすえたような匂いにむせそうになる。


 思えば、リゼルが城の外に出るのはこれが初めてだった。何もかもが物珍しくて、同じく外を見るのが初めてのクライノートときょろきょろする。さながらお上りさんだ。それとも王都からやってきたからお下りさんとでも言えばいいのだろうか。


 リゼルは自分たちが降りてきた空を振り返ってみたが、森の木々に空は僅かな隙間を残して閉ざされている。雪はないものの、しんと身体に響く寒さにリゼルは身体を震わせた。


「さっきの光は家の明かりみたいだったから、この辺に人が住んでいるのかもしれない」


 半分独り言のように呟いた。所々に生えている鉱石が薄ぼんやりと発光し、森を行くリゼルとクライノートの姿を淡く照らし出している。不意にリゼルの袖をクライノートが引いた。


「どう──」


 ──したの、と口にし終える前にリゼルはクライノートの視線の先にあるものに気づく。小屋だ。レンガ造りのおもちゃみたいな小さな家。煙突は蔦に絡みつかれながらも、ぽくぽくと煙を上げている。小屋の近くには井戸と小さな菜園、それから小さな牛小屋があった。ぽつんとひとつだけ立っている家はリゼルの目にはどこか現実味のないものとして映る。誰が住んでいるのだろうと、唐突に家の戸を叩くことへの躊躇よりも好奇心の方が勝った。


 控えめに戸を叩く。クライノートはリゼルの後ろに隠れたが、身長の関係でリゼルは全くクライノートを隠せていない。


「こんな遅くに一体誰かな?」


 柔らかい老婆の声と共に扉が開いた。クセのある白い髪をした彼女は、扉の前に立つへんてこりんな二人を見てはしばみ色の瞳を丸くする。方や綺麗な顔の少年、方や左右で違う翼を生やした白い少女。


「えっと、その……」


 老婆が住んでいた、それは分かった。だが、それからどうすれば……。何も考えていなかったので、リゼルは固まってしまった。クライノートはと言えば、老婆にとりあえずにへっと笑いかけてみたりしている。


「中へお入り。外は冷えるよ」


「あ、ありがとうございます」


 老婆に誘われるままに、ふたりはいつの間にか毛布にくるまりながら野菜スープをすすっていた。リゼルはほかほかの野菜スープを夢中で口に入れる。生まれてこの方こんなに温かいものを食べたことがなかった。もしも、リゼルも“普通”の子として生を受けていたら、当たり前のように温かい食べ物を何の憂いもなく口にしていただろうか。視界がぼやける。涙をこぼさないようにリゼルは唇を噛んだ。


「……おばあさんはどうしてここにひとりで住んでいるんですか?」


 老婆は眉を下げる。


「本当は少し離れた所に村があったんだ。私は騒がしいのが苦手でね、娘が嫁いでからは村から離れた所に住むことにしたんだ。でも──」


 リゼルとクライノートを通り越して、さらに向こうを見ているように老婆は遠い目をした。


「あの黒い壁に村は呑み込まれて、私だけが残ったのさ」


 黒い壁、リゼルとクライノートが追いかけてきたあの世界の果て。この話が事実なら、果ては少しずつ迫ってきている。


「逃げないんですか? あの壁はどんどん近づいているのではないんですか?」


「いいんだ。私はもう十分生きたし、ここが私の家だから」


「……」


「ところでおまえさん、行くあてはあるのかい?」


 リゼルの目が泳ぐ。クライノートはスープのおかわりを食べている。


「無いのなら、ここにいていいよ。もっとも、ここもいつまで安全かは分からないけれど」


「いいんですか!? ぼくたちに返せるものは何もありません。それに……、何も聞かなくていいんですか?」


「聞く? 何を?」


 きょとんとして聞き返されて、面を食らったのはリゼルだった。このおばあさん、ボケてたりする?、と心配になる。


「え、ぼくたちが誰であるとか、ぼくたちがここに来た理由とか」


「ああ、なるほど」


 合点がいったと手を叩く老婆。しかし、彼女は微笑んだだけであえて何かを聞き出そうとはしなかった。その方がリゼルとしては助かるのだが、微かな居心地の悪さ、もとい引け目を感じてしまう。クライノートにちらりと視線をやるとまだ野菜スープをすすっていた。よっぽど気に入ったらしい。


「今夜はもう遅い。狭いかもしれないけれど、そこの藁に毛布と一緒にくるまって眠るといい」


 牛小屋に入れるらしき新品の藁が老婆の指し示す方に積んである。太陽の匂いが染み込んだ毛布を手渡されて横になると、リゼルのまぶたはとても重たくなって呆気なく閉じてしまった。見知らぬ人の家に転がり込んでいるというのに。そして、クライノートはリゼルの隣にぽてりと倒れ込んで眠り始める。


「こんな所で安心して眠るだなんて、よほど疲れていたんだね」


 あどけない子どもたちの寝姿に老婆はふっと頬をゆるめて微笑んだ。



 ***



 目を覚ますと、息が苦しかった。なんというか、物理的に。クライノートの手足がリゼルの身体をぎりぎりと締め上げている。当の本人は幸せそうににへにへと笑って眠っているのだが、リゼルの身体は悲鳴を上げていた。


「クライ、起きてー。朝だよー」


 寝ぼけているリゼルも半分しか開かない目のままクライノートの頬をつつく。


「ぼくちょっと苦しいんだけどー」


 ぱち、とクライノートの目が開く。金剛石の瞳が煌めいた。残念ながら、リゼルの抗議で目を覚ましたわけではない。


 では何が──


「二人とも朝餉あさげにしようか」


 ──老婆が食卓に並べたトーストの香りだった。


「うぎゃ」


 突然立ち上がったクライノートに踏まれてリゼルの目は覚める。それから、派手に腹の虫が吠えた。


『はやくはやく!』


 翼と足を動かしながらクライノートはリゼルを見る。踏まれた脇腹をさすりながら、リゼルは食卓についた。


 温かくてゆるやかな時間が過ぎていく。


 ひとつだけ気になったのは、老婆の瞳の色がリゼルの兄であるエリオットと同じだということ。やわらかな視線を向けられるたび、リゼルの胸がつきんと痛む。この手で、この手で処刑執行命令書にサインをした。あの緋色はリゼルの灰銀の瞳に焼き付いたまま。


 老婆のはしばみ色の瞳にどうしようもなく突きつけられる。これはリゼルの咎であり、責であると。やはりもう逃げ出すことなどできはしないと。


 きっとこの陽だまりのような瞬間も、砂糖みたいに溶けてしまうのだろう。


「悩みごとかい?」


 ぼうっと座って窓から空を見ていたら、老婆が隣に腰を下ろした。


「……そう、かもしれません。ぼくはずっと迷っているんです。ぼくの目指す場所はこれでいいのかな、と」


 ただしい王、ただしいまつりごと


 リゼルにはよく分からない。兄王子と王妃がリゼルの肩に載せていった願いの意味も、前王がやってきたことの意味も。


「でも、ぼくは立ち止まってはいけないんです。進まないと」


 そうでなければ、王として歩まねば、約束が守れない。リゼルは己のかたちを保てない。


「難しいね」


 老婆は言葉を重ねることもなく、ゆっくりとそう言った。あっさりとした言葉の奥にあるもののは、とても優しく深い慈しみだった。だから、リゼルは嬉しくて、うん、と一言言葉を返す。できる限りの想いを込めて。すると一緒に嗚咽が漏れて止まらなくなった。


「泣いていいよ。枯れるくらい泣くといい。そしたら、きっと明日から頑張れるから」


 老婆がそっと手を伸ばして、黒に溶けてしまいそうな深青色をしたリゼルの髪を撫でる。


「ありがとう」


 呟いたけれど、鼻声の上にかすれていたから届いたのかはあまり自信がなかった。




 そうして二度目の日が沈んだ。黄昏に何もかも染まってしまう中で、一匹の獣が外で野菜を採っていたリゼルたちの前に現れた。息づかいの音すらない生き物は黒い霧を纏って、そこに居る。リゼルの背筋が凍る。クライノートが肩を震わせる。老婆の目が大きくなる。


 アレはだめだ。本能で分かる。近づいてはいけないモノだ。認識すら曖昧にしかできない黒い獣の名をリゼルは知っていた。


 ──黄昏の獣デルニエ


「リゼル、クライノート! ふたりとも逃げて!」


 老婆が叫んだ。しかし、リゼルの足は竦んでピクリとも動かない。まるで足が地面に根を張っているようだった。


 黒い霧の中で、黄昏の獣デルニエがリゼルを。音という音が遠ざかる。動かないように思える時間の流れの中で、リゼルはただ目を見開く。老婆の両手が強く、少年の華奢な身体をすくうように抱き締める。


「大丈夫。リゼルならいい王様になれるよ」


 獣が老婆の薄い背中に触れた。アリシア、と老婆は知らない人の名前を最期に呼ぶ。


 知っていたの……?


 答えはもう聞けない。永久とこしえに。


 老婆の身体の温もりが、存在していたという証明が、リゼルの身体から雪崩落ちるように消えていく。黄昏の獣デルニエに食べられたら、石だって残らない。


「……おばあさん。……メリダさん」


 応えはもう返ってこない。永遠に。


 獣はそして、リゼルの身体に手を伸ばす。クライノートが音なく泣き叫ぶ姿もリゼルには見えていなかった。


 リゼルは自分という存在が終わることを知って、目を閉じる。冷たい空気がリゼルを包む。


 なのに。


 なぜリゼルはまだ消えていない?


 はは、と乾いた笑い声を勝手に喉が立てる。リゼルは歪に笑っていた。泣きながら、笑いながら、この手はまだ老婆を探している。この心臓はまだ動いている。


 それなら、あの人が消えた意味は何ひとつだってないじゃないか。あの人が消えなければならなかった理由は何ひとつだってなかったじゃないか。


 これでは──


 黄昏の獣デルニエの胸に抱かれたリゼルの顔が歪む。手足の感覚などなかった。身体中を這い回る寒さは黒い獣のせいだけではない。


 ──リゼルが殺したようなものだろう。


かえれ」


 淡白に告げた。異様な怖気を喚起させる歪な獣は呆気なくその存在感を風化させていく。


 堕ちた陽の遺したあかいろのなか、黒い硝子の花が咲いた。ぱきんとすぐに砕けて壊れてしまった脆い脆い硝子のはな。もしも、そのまま咲いていたのなら、リゼルはきっと花を粉々にしていただろう。


「ぼく、は……」


 膝から崩れ落ちたリゼルの腕をクライノートが掴む。虚ろな目をしたリゼルの手を引いて、クライノートは翼を広げた。


 もう、遠かったはずの黒い果ての壁はすぐ側で。


 羽ばたくほどに砕けていく翼を目一杯動かして、クライノートは夜の空を切り裂くように飛ぶ。涙が止まらなかった。


 りぜる、りぜる。


 おしえて。


 どうして、このそらはこんなにつめたいの?












 ──アリシア、おまえの子はとても優しい子だね。

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