第7話 『とぶよ、りぜる』

 囁き声が痛い。リゼルは胸を鷲掴みにした。全身を貫くような感覚に吐き気すら覚える。


『皇太后さまはお心を病まれてしまった』

『あの日の灰は大量のホムンクルスを処分されて発生したものなんですって。……おぞましい』

『兄王子もあの王に殺されたのではなくて?』

『あの王は玉座をほしいままにしているのだ』

『ホムンクルスは皆殺しとの命を出されたそうだ。血の王だ。彼の王は血に飢えている』

『天のみ使いは片翼だと言うが、あの王が片方を奪ったのではあるまいか』


 あちらこちらでひっそりと交わされる言葉がリゼルの耳に入らないでいるはずがなく、聞き続けた言葉の端々は一人きりの自室ですら黙ってくれない。


「ぐっ……、うぐっ……」


 伸ばした手が冷や汗で机から滑った。がたん、と大きな音がして、机上に積んであった書類や本がリゼルの頭上に降り注ぐ。


「大丈夫ですか!? 陛下!」


 メイド服の少女がばたばたと部屋に入ってくる。彼女はしばらくきょろきょろしてから、机に背中を預けて座り込むリゼルに駆け寄った。


「……陛下」


「ぼくは、平気だ。セルシュ」


 桃色の髪をしたメイド──セルシュはムッとした顔をした。


「何を仰るんですか! そんな死にそうな顔をなさっては説得力なんてありませんから! ……ほら、熱があるじゃないですか」


 ひやりとした手がリゼルの額をそっと撫でた。セルシュの声がどんどん遠くなっていく。視界は霞みがかって暗くなっていく。


「あ……れ……?」



 ***



 水の中でもがいてるようだった。冷たく重い液体に揉まれて沈んでいく。苦しい。息ができない。たまらず口を開けば、そこから肺の中へ水が入ってくる。ごぼごぼと吐き出すのは最後の息。吸っても入ってくるのは液体で、けれど空気を求めて口は無様に開け閉めを繰り返す。


 なんで。


 疑問に貫かれて、リゼルは手足の動きを止めた。


 なんで、生きなきゃいけないのだろう。

 意味なんて、ひとつだってないじゃないか。


 指先から、手足から、唇から、力が抜けていく。遥かな深淵へ身体は引かれて堕ちていく。翼の砕けた鳥のように。


 どんな光も殺し尽くす漆黒の中、それでも煌めいたものがあった。金剛石の眩しくて鮮烈な光。


 クライノート。


 片翼の天使の泣き顔が見えた。泣かないで、と口を動かしても届いていないようで、彼女はぽろぽろと大粒の涙をこぼし続けた。泣きながら、足を引きずりながらクライノートは果てのない廊下を歩いている。音のない彼女の言葉を汲み取るために目を凝らして、唇の動きをなぞって知った。


『くらいの、おうさまはどこ?』


 行って、言わなくては。


 ぼくはここにいるよ、と。


 そうだ、クライノートのために帰らないといけないのだった。


 死んでいく身体を無理矢理に動かして、リゼルは光に手を伸ばす。


 ぱちん、と夢が弾けた。


 目を開けば見慣れた天蓋がリゼルを見下ろしている。頭はもうすっきりしていて、熱は下がっているようだ。狼の毛並みのような灰銀の瞳を彷徨わせ、視界の端に真白の髪を見つけた。リゼルの左手をぎゅっと抱いて、クライノートは眠っている。窓から降る月の光は彼女を照らし出して、折りたたまれた翼のひと羽ずつが輝いているようだった。神さまの手で大事に大事に彫刻されたかたちは睫毛まつげ一本に至るまで完璧だ。新雪のような白い頬にかかった髪の一房をそっとはらった。


 窓の外に目をやると、見下ろしているのは綺麗な三日月。けれど、なぜかリゼルには月がリゼルを嘲笑っているように見えて、視線を逸らした。すると、視線はぱちりとクライノートのそれとぶつかる。金剛石の瞳がリゼルの顔を映して輝く。握っていたリゼルの左手に頬ずりをして彼女は笑った。釣られてちょっぴりリゼルも頬筋を動かす。


『わらった!』


 クライノートの翼が揺れた。


「……ここに、居たくないな」


 リゼルはクライノートの頭を撫でながらぽつりと呟く。本当はこぼしてはいけない言葉だった。正しい王さまはこんなことは言わないのに。


 クライノートがもぞもぞとリゼルの手と寝台の隙間から這い出した。裸足のまま、リゼルの執務机の傍らに設けた自分の机から紙の束とペンを持ってくる。何やら書きたいらしい。


「燃えろ」


 寝台の脇に置かれた燭台に火が灯る。丸くなったクライノートの瞳が炎のいろで満たされた。篝火の光は橙赤、黄、それからほんの僅かに青紫。夜を舐めとるように揺らめく炎は眩しくて、リゼルは灰銀の目を細めた。しばらく光に見とれていたクライノートだったが、彼女はペンを動かし始める。


 “りぜる、とおくにいきたい。わたし、りぜるをのせてそらとぶ。そらのはしっこ、みにいく。だから、つばさがもうひとつほしいの”


 幼児みたいにふにゃふにゃの文字。だが、リゼルにはそれが嬉しい。何も綴れなかった彼女がこうして一生懸命言葉を尽くしてくれるから。


「ぼくを、のせて……」


 “うん。わたし、とぶよ。りぜるのねがい、かなえたい”


 クライノートの顔は真剣だ。だから、リゼルの心も揺れた。


「すこしだけ。ほんの少しだけ、外に出てもいいかな」


 クライノートに翼をあげて。


 嘲笑ってくる三日月をリゼルだって嘲笑ってやる。一度だけ、少しの間だけ、冠を投げてもいいはずだ。


 リゼルがクライノートの手を引いて訪れたのは、地下書庫アルケミラのリゼルの部屋だった。集めに集めた鉱物やら小物やらがぎっしりと詰まった宝箱みたいな場所だ。


 錬金術は素材から新しい物質を生み出す。このときに使われる最も貴重な素材が鉱石だ。生命いのちはいつか石に還る。その生命いのちが永い時を経て集まって、凝縮されて鉱石になるのだ。色はその生命の魂によるので様々だ。錬金術が扱うのは無機物だが、本質的には生命いのちそのものを使っている。なんという矛盾だろう。


 燭台の光の中でクライノートの瞳によく似た鉱石を見つけ出す。一番硬く、一番強い輝きを放つ鉱石はリゼルの手のひらと同じくらいの大きさだ。興味津々に見つめてくるクライノートの目の前でリゼルは水銀を地面に流し、幾何学模様を描いていく。するすると地面へ流れる水銀は燭台の光を鈍く弾き返している。描き出すのは五芒星を並べ六芒星を連ねた円環。敷くのはことわり


「クライ、この石を持って真ん中に立って」


 陣は踏んじゃいけないよ。リゼルの言葉に答えてクライノートは地面を蹴って、円環の中心に舞い降りた。半分の翼が広がって、閉じる。


 鉛に土星。錫に木星。鉄に火星。金に太陽。銅に金星。水銀に水星。銀に月。それぞれ七つの金属を陣に組み込んで天球の法則を指し示す。


 天のみ使いは一番星に近い生命いのちだ。


 星から力を借り受けて、星の涙と言われる鉱石を体にして、そして人の身で天のみ使いに手を加えるという禁忌をやぶってみせる。


 今までにない規模で今までにない難易度の錬金術にリゼルの心は躍る。頬を冷たい汗が伝った。すべての準備を整え、最後に言葉を一節。


「星の息吹より編むは翼」


 ばきん、とクライノートの手のひらで鉱石が砕け散る。砕けた欠片は七星の位置で虹の火花を散らして踊って跳ねる。水銀で描かれた円環は薄碧の光を帯びてくるりくるりと回り出す。


 回れ回れ回れ回れ回れ回れ。


 水銀の円環は天球儀のようにクライノートを中心にして複雑に回る。虹の火花は細い糸になってクライノートの背中に片翼を紡いでいく。


 クライノートは喜色満面で両翼を揺らした。最後の火花が跳ねて散る。仄かに輝く左の翼がクライノートの背中で拡がった。クライノートはしきりに口をパクパクさせているが、唇の動きをなぞらなくてもリゼルには彼女が何を言っているのかすぐ分かった。


『くらい、そら、とべる!』


 リゼルを押し倒さんばかりに抱きついてきたクライノートの頭を手をうんと伸ばして撫でる。そっと蜉蝣かげろうのような翼に触れてみると、翼は燐光を散らした。


「ごめん。本当は本物の翼をあげたかったのに。その翼じゃ、飛べて二度──!?」


 クライノートに思いがけずに強く抱き締められ、リゼルは目を見開く。クライノートはリゼルの目を見て口をゆっくりと動かした。


『ありがとう』


 その一言で十分だった。リゼルはクライノートの胸に顔をうずめる。温もりがリゼルの心にのしかかる重りを溶かした。


「行こう、クライ。この世界の果てへ」


 暗い部屋を出て星の下に躍り出る。リゼルは笑ってクライノートの手を取った。そうして、白い少女は両翼を大きく羽ばたかせた。


『とぶよ、りぜる』


 ──あなたの願いがわたしの願いだ。

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