第5話 「ごめん、もう少しだけこのままで……」

 ぼんやり目を覚ますと、もう暗かった。頭に当たっている温かいものに気がつくと、リゼルの意識は覚醒した。リゼルの頬を流れる真っ白な髪、リゼルの灰銀の瞳を真っ直ぐ見つめる金剛石の瞳。片翼の天のみ使いの名は、クライノート。彼女は微笑み、膝の上に頭を載せたリゼルの髪を撫でた。


「クライ……、ぼく、寝てた?」


 こくり、と白い少女は頷く。まだ頭がぼうとしていたが、リゼルはゆっくりと身体を起こした。砕けた宝石が散乱し、金粉がちらちらと白亜の地面で光っている。柔らかな星の明かりはステンドグラスをはめ込んだ天窓から降っていて、クライノートの身体は淡く輝いているように見えた。


 「ねえ、見て」


 立ち上がったリゼルは窓から身を乗り出す。世界で一番高い場所から眺める景色は、もう別世界といってもいいくらいだ。煌めく石を砕いて粉にして、空に並べて形を結ぶ。星図に物語の形を探した昔の人も、こんなにも天に近い場所でその光を見たことはなかっただろう。


 煌めく星と宝石は、どこか似ている。その数だけ違う色を持っていて、光り方だって違っている。石が人の命なら、星は人の夢なのだろう。あまねく藍の空を埋めて、光って、そして朝になれば消えてしまう。それが、永遠を生きる石と違うところ。そして、人は死してはじめて永遠を手に入れる。


 「──ならぼくは、どんな石になるのかな」


 クライノートが隣で口を動かした。


『くらいのーとは?』


 寝物語に子供たちがよく聞くという、この塔を造ったおろかな王さまの話をリゼルは思い出す。天のみ使いは死ぬと、硝子の花になるのだ、と……。


 「どうだろう。それはきっと、クライがどう生きるか、なんじゃないかな」


 硝子の花を砕くおろかな王にはなりたくない、とリゼルは思いながら目を伏せた。けれど、王妃を無理に蘇らそうとしたリゼルと彼の何が違うというのだろう。思索に沈みかけたリゼルの意識は、袖を引くクライノートに呼び戻された。


『そら、みて。はしっこ』


 指の先を辿って、天穹の端を見た。先まで気がつかなかったのがおかしいほど、そこには何も無かった。浮かぶ星のない真っ黒なおわりのいろ、綺羅星で豪奢に飾られた天蓋とのめいかくな断絶があった。


「果てが、あるのかな……、この世界には」


 ずっと側にありながら、誰も気がつかない天の欠陥をリゼルは初めて意識した。そして、同時にこの世界には明確な果てがあることを知ったのだ。年に似つかわない冷めた目を、リゼルは今、輝かせた。ねえ、とリゼルはクライノートの肩に触れる。音なく、『なに』と振り返る彼女に向かって、灰銀の瞳が星のように煌めいた。


「ぼくはこの世界の果てが見たい」


 クライノートは頬を染めて笑う。星の海に一番近い場所で、片翼の天のみ使いはくるりと回る。広がった翼と髪に星は祝福するように瞬く。きれいな金剛石の瞳の中は星月夜だった。




 ***




 片翼の天のみ使いを錬金の王の似姿が連れて帰った。無垢できれいな真っ白な少女は、嬉しそうに少年王に寄り添う。お伽噺の王さまの再来だ。けれど、今度は天のみ使いは泣いていない。神さまに寿ことほがれた美しい顔を綻ばせ、幸せそうに。


 ──彼女の翼がひとつだけなのは、凶兆か、それとも吉兆たり得るのか。


 いずれにしても、運命はひとりぼっちの少年王に触れて口づけた。決して、彼を逃がさぬように。




「陛下。クライノート様が……」


 本日何回目かの、面倒くさくて数えるのをやめたが、陳情にリゼルは口の端をぴくぴくと動かした。


「分かった。ぼくが対処しよう。今日はもう皆下がるといい」


 足早に去っていく家臣を見送り、しばらく間を置いた後でリゼルは執務室から飛び出した。報告を聞いて、サインをして、許可を出し、再考を促す──などという、つまらない仕事をやっとやめられる。そう思った訳ではない。残念ながら、ここには政務よりも大変な仕事があった。


 何と言っても、城内を好き勝手駆け回る天のみ使いを捕まえる仕事だ。


「クライ!」


 呼びかけながら、リゼルはクライノートの姿を探す。純白の少女はこの城にやってきてからというもの、見るもの全てが珍しいようでキョロキョロしながら城中を走り回るのが日課になってしまっている。なまじ、天のみ使いはこの国での信仰対象なので、誰にも止められないのだ。


 今日の午前は噴水で鳩と一緒に泳いでいたし、中庭で花木の手入れをしていた庭師の隣で茂みに頭を突っ込んでいたし、厨房でケーキを頬張っていたし……。考えれば考えるほど、リゼルの頭は痛くなってくる。


 厨房も、中庭も、全部くまなく探して、疲労困憊になったリゼルは、はあ、と大きな溜息をついた。翼が半分だけだから飛べないのが唯一の救──


 見上げた空、近くのバルコニーから飛び出そうとしているクライノートに唖然とする。半分だけの翼をぱたぱたと動かしている所を見れば、本気で飛ぶつもりだ。


「クライだめだ! 翼はひとつだけじゃ、飛べない!」


 クライノートはきょとんと下にいるリゼルを見て、首を傾げた。その拍子に手すりに載せていた足が滑る。考えるよりも先にリゼルの身体は動いていた。


「ぐ──ッ!」


 激痛がリゼルの身体を駆け巡り、右腕が嫌な音を立てる。それから、身体の上にクライノートのお尻が載っていた。しばらく、わけが分からないとばかりに呆けていたクライノートだっだが、自分の下で呻いているのがリゼルであることに気づいて飛び退いた。


 リゼルが倒れたまま痛みに顔をしかめていると、ぽたぽたと雫が上から降ってくる。少しだけ頭を動かしてみると、クライノートが大粒の涙をきれいな瞳から止めどなくこぼしていた。


『りぜる、いたい』


 激しい痛みを堪えながら、リゼルは無理やり微笑んでみせた。


「大丈夫。このくらい、すぐに治るから。それよりもクライは平気?」


 こくこくとクライノートが頭を上下に振ったから、本当に雨みたいに涙が降った。ゆっくりと右腕を庇いながら身体を起こし、リゼルは左手でクライノートの頭を撫でる。


「どうして飛ぼうと思ったの?」


『りぜる、とぶ、とおく』


 なぜ飛ぶことと自分が繋がるのだろうと不思議に思って、リゼルは首を傾げる。上手く伝わらないことを悔しがって、クライノートは唇をへの字に曲げた。


「クライはさ、文字書ける?」


 眉を寄せて考える素振りをした後、クライノートは首を横に振った。


「じゃあ、文字を覚えない? そしたら、きっとたくさんのことが伝えられるようになるから」


 涙に濡れていた少女の顔がぱっと明るくなる。


『おぼえる、もじ、おぼえる』


「じゃあそうと決まったら、図書館に行こう」


 地下書庫アルケミラの上の王宮図書館は、許諾を得れば誰もが立ち入ることのできる施設だ。城の敷地の端の方にそびえる円蓋の建物で、蔵書の数は三千万を越すという。錬金術に関するものは地下書庫アルケミラにあるが、その他は全部円蓋の下の一般書架に置いてある。例えば、子供向けの絵本なんかも。


 棚という棚が本で埋め尽くされた空間にクライノートは目を丸くした。城でうろちょろしていたとはいえ、敷地の端の図書館まではまだ足を伸ばしたことはなかったようだ。深く息を吸って吐く。長い時を刻んできた本特有のどこか甘くて懐かしい匂いがリゼルの口を綻ばせた。玉座以外の何もかもを失くしたリゼルにとって、もはや懐かしいと呼べるのはこの香りくらいだ。


 応急処置的に、錬成した鉄の棒で右腕を固定して吊っているから、自由に本を取って歩けないのがリゼルにはもどかしい。けれど、鬱屈とした気分は本棚に無邪気に目を輝かせるクライノートが拭い去ってくれた。


「クライ、こっち座って」


 一冊の絵本を持って椅子に腰を下ろしたリゼルは、ぽんぽんと隣の椅子を叩く。一直線に走ってきたクライノートが飛び込むように座ったから、机が大きく揺れた。


「図書館は走っちゃだめだよ」


 ビクッと肩を震わせ、クライノートは翼を縮こまらせる。


『ごめんなさい』


「怒ってないよ」


 左手でクライノートの頭を撫でて、リゼルは絵本を彼女に渡した。誰もが知ってるはじまりの物語を描いたものだ。本当は、違う本が良かったけれど、作られた年代や装丁が違うとはいえ簡単な絵本はほとんど同じ内容を扱っていたから、仕方なく。


 この物語は、ただの錬金術師だった男が空から落ちてきた天のみ使いを拾うところから始まる。天のみ使いを連れた男はいつしか人々に祭り上げられて、一国の主になった。君主となった男に手に入らないものはなかった。ただひとつ、天のみ使いの心を除いて。天に帰りたいと泣く彼女を地面に縛り付け、それでも愛されようと色々なことを試した。けれど、ふたりの心は最期まで交わることはなかった。息絶えて姿を硝子の花に変えた天のみ使いを甦らせるために、おろかな男は花を砕いた。そうして生まれたのが、声を持たない片翼の天のみ使いだ。追い求めた彼女でないことに絶望し、王は生まれたばかりの天のみ使いの前で心臓を突いた。それを憐れに思った神さまは彼女を時の狭間に封印したのだ。いつか、彼女を呼び覚ます者が現れる日まで。


 だが、片翼の天のみ使いを目覚めさせるのが、おわりの王であるという記述は残っていない。誰だって、おわりは見たくないものだろう。不吉な言葉は削られ消えた。星霜の時という忘却の彼方に。


 絵本の文字をなぞって、読み上げながら、文字を教えて。慣れない手つきで羽根ペンを握り、無意識に顔をくしゃくしゃにしながら、クライノートは文字を練習する。リゼルは自分がクライノートを見つけたことの意味を探しながら、紙と絵本を往復するクライノートの視線を追いかけた。


 日が傾き、図書館の窓が熟れた光に満たされた頃、クライノートは絵本の最後の一ページを読み終えた。


『おうさま』


 覚えたての文字で羊皮紙に書く。リゼルはその文字が無性に怖くなった。愛しいものを手放したくなくて、愛しいものが壊れていくのに目を塞いで、愛しいものを縛りつけた欲深い王のことを彼女はどう思っただろうか。それも、リゼルと同じ顔をしているというのだから。


『さみしい』


 絵本に出てこなかったから、クライノートはその単語の綴りを知らない。代わりに唇をゆっくり動かし、リゼルに告げたのだ。なんの反応も返せなかったリゼルに、クライノートは自分の言葉が届いてないことをいぶかり、もう一度薄桃色の唇を動かした。


『さみしい』


 その言葉にずっと王の顔をしていた少年は表情を崩した。正しくは、堰き止めていた水がこぼれ落ちるように崩れた。声を震わせて、リゼルは呟く。


「……そっか、さみしかったんだ」


 今まで錬金の王を愚かだと思っていた。たとえ愛していても、弱って死んでしまうくらいなら、離してやれば良かったのだ、とリゼルは信じていた。けれど、クライノートが言ったように彼がひとりで寂しかったというのなら。


 やっぱり、リゼルも彼とおなじだ。


 クライノートの華奢な身体に片手を回し、リゼルはそっと目を閉じた。クライノートはぱちりとまばたきをして、リゼルの左手を胸に抱く。


「ごめん、もう少しだけこのままで……」

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