第4話 『おうさまとおなじ、ほしい』

 自分のものではない血を吸って、どろどろの服を着たリゼルはふらふらとおぼつかない動きで手を伸ばした。桃色の緑簾石を血溜まりから拾って拭う。煙を閉じ込めたような見た目をした柔らかな温かさを持つ石。大きさはリゼルの手のひらですっぽり覆えるくらいだ。


「母上」


 呟いて、リゼルは血で錬成に必要な陣を描き始めた。陣は錬金術において複雑な錬成を行うための指示であり、はじめるための導火線に似た役割を持つ。本来なら、錬成に必要な原料も揃えなければいけないが、リゼルの場合は原料の段階から錬成するので必要ない。息を詰めて無心で描く。そして、真ん中に王妃であった石を置いた。エリオットの石は砕けて、魂が欠けてしまっているが、王妃ならまだ……。


「母上、戻ってきてください、死なないでください」


 もしも王妃を蘇らせることができたとしても、彼女が選択を変えることはないと本当は気づいていた。けれど、願わずには、祈らずにはいられない。たとえ禁忌を犯すことになったとしても。ひとりには、なりたくないから。


 血色の陣がぼうと輝く。ちかちかと陣は明滅して、その中から強い風が吹き出す。窓ガラスが割れ、リゼルの軽い身体は壁に激しく叩きつけられた。刹那の間、意識を失くしていたリゼルが目を開けるとそこには王妃が立っていた。さっきまでと寸分違わない美しい女の人だ。灰銀の目を輝かせ、駆け寄って、そしてリゼルは自らが生み出してしまったモノの正体を見た。


「リゼル、リゼル、リゼル、リゼル、リゼルリゼルリゼルリゼルリゼルリゼルリゼルリゼル」


 人形はひび割れた声で繰り返す。まばたきも呼吸もしないこれが、人間であるはずがなかった。


「……母上、ちがうのです。ぼくは──」


 怨嗟がリゼルの首を絞める。王妃の姿をしたまがいものがリゼルをじっと見ていた。虚ろで濁った瞳が恐ろしくて、リゼルは踵を返して駆け出した。今度はリゼルが犯した過ちだ。まがいものからは逃げられても、罪からはどうしたって逃れられない。


 血塗れの服を捨てて血を洗い流して。そこからどうやって塔の前にやってきたのかは覚えていない。気がつけば、リゼルは王の塔の前に立っていた。蔦で覆われた外壁は隙間にほんの僅かに白を覗かせるばかり。見渡す限りは深い森で、一歩でも踏み出せばたちまち方向感覚をなくしてしまうだろう。せせら笑うように葉を揺らす木々にとって、人を騙すのは簡単なことだ。だから、この場にそぐわないのは霞むくらいに高い尖塔ただひとつだけ。この世界で一番高いと言われている王の塔。錬金の王が遺した最初で最後のたからものなのだ、とも言われている。確かに存在しているはずなのに、辿り着くことのできた人間はいない。


 ──今日、この瞬間までは。


 扉はわずかに開いていた。蔦を払い除けて重い木の扉を押し開ける。ぎぃぎいと断末魔の叫び声を上げると、蝶番が壊れて扉と一緒に地面に落ちた。リゼルは壊れた扉を無視して、中に足を踏み入れた。ひやりとした空気がリゼルの頬を優しく撫ぜる。螺旋階段の端々には色とりどりの透き通った石が生えていた。血の紅、空の蒼、沼底の翠、黄昏の黄色、夜明けの紫、綻んだ花の桃色……、口にすればきりがない。


 石は殻を失くした魂の成れの果てだ。それなら、この塔では多くの人が死んだのだろうか。それとも、世界の法則が違うのだろうか。おそらくは後者が正しい。はじまりの王以外でここに踏み入った人間はいないから、そしてここの時間は止まっているから。宙を揺蕩う光の粒が静止している。動いているものはリゼルだけだった。


 埃すら積もっていない階段を一段ずつ踏みしめて登る。ゆらめく時間の淀みを掻き分けて、先の光を見据えた。歩みひとつがこの塔の中に敷かれたことわりを壊していく。美しい石はひび割れていく。頂上に着けば、この場所の時間は眠りから覚めるだろう。


 そうしてリゼルは王の塔のてっぺんに辿り着く。肩で息をし、空気を求めすぎた肺は悲鳴を上げている。座り込みかけたが、その動作は顔を上げたリゼルの瞳に映ったものに妨げられた。


「──!」


 ひゅっと喉が音を立てる。だってあまりにもきれいだったから。リゼルは灰銀の目を落としてしまいそうなくらいに見開いた。


 まるで宝石の森だ。結晶は剣のようにその切っ先を空へと向けている。そして最奥の壁で真っ白な少女は黄金の鎖で身体中を縛られ、磔にされていた。彼女の髪も肌も全部、何にも染まっていない純粋無垢な色をしている。これがほんとうの白という色なのだろう。少女の背には翼がひとつだけ生えていた。片方もがれたわけでもなく、初めから彼女の翼は半分だ。凍りついた時は少しずつ、少しずつ、淡雪のように溶けていく。さら、と少女の白い髪が肩から滑り落ちた。


 リゼルは手を伸ばした。どのような、と尋ねられても答えようのない衝動に突き動かされた。ただ、錬金の王の似姿は金の鎖に華奢な指先で触れる。鎖が砕け、金粉は宙を舞った。縛るものを失くした片翼の天のみ使いは落ちてくる。ひとりぼっちの少年王の目の前に。


 慌てて手を広げたけれど、小柄なリゼルでは十六くらいの少女は少し大きすぎて、思いっきり下敷きになって潰された。


「ぐぇ……」


 潰れたカエルみたいな声が出た。リゼルはゆっくりと目を開ける。そして、美しい少女が長いまつ毛を揺らして目を開けた。透き通っていて色が無いように見えるのに、様々な色に輝く金剛石の瞳。それはお伽噺に出てくる天のみ使いのいろだった。少女はリゼルの顔をまじまじと見つめる。ぱちぱちと何度かまばたきをした後に、花が綻ぶように微笑んだ。嬉しくてたまらない、とでもいうように桜色に頬を染めた。


「あなたは──」


 リゼルが何か言う前に少女はリゼルの身体に手を回して、ぎゅっと抱きしめる。ぽかんとしているリゼルはしばらくそのまま抱きしめられていたが、おずおずと彼女に問いかけた。


「あなたは天のみ使いなの?」


 少女は腕を緩め、リゼルの顔を見てこくこくと頷く。半分だけの翼がぱたぱたと動いた。今度は少女が口を開く。口を開けたり閉じたり、何かを言っているようだが、音がない。リゼルは自分の口を同じように動かして、少女の言葉をなぞった。


『おうさま?』


「うん、ぼくはリゼル。あなたの名前は?」


 キョトンとした彼女は首を傾げる。絹糸のような真白の髪が肩からこぼれた。しばらく考えているような素振りを見せると、少女は首を横に振った。


「名前、ないの?」


 こくん。少女は頷く。そして、彼女はリゼルの手を引っ張って自分の胸に当てた。少し眉間に皺を寄せ、躊躇うように口を動かす。


「えっと、空飛びたいの?」


 ぶんぶん。首を横に激しく振る彼女は少し怒ったみたいで、頬を膨らませた。もう一度、ゆっくり唇を動かして。


『おうさまとおなじ、ほしい』


「ぼくと、おなじ……」


 リゼルは考える。リゼルが持っていて、彼女が持っていないもの。それはきっと──


「名前がほしいの?」


 金剛石の瞳が煌めいた。ずいと顔を少女は寄せて、リゼルの頬にそっと触れる。リゼルの灰銀の瞳にさざ波が走った。


「クライノート」


 音がリゼルの喉を震わす。ふっと脳裏を過ぎったものだったけれど、声に出して気がついた。この音は彼女のためにあったのだろう、と。少女が震えた。ぱたぱたと雫が降ってくる。未だに倒れたままのリゼルの上にいる彼女は、きれいな瞳から涙をこぼしていた。


「気に入らなかった、かな? そしたら、ごめん……。えっと、考え直すから……」


 少女がリゼルの上で激しく首を振るものだから、その振動でリゼルの身体がガクガク揺れる。


『すき。くらいのーと、すき』


 そう口を動かして、少女は陽だまりのような笑顔を見せた。さっきまで冷えきっていた身体が今は温かくて、リゼルは唇を綻ばせた。


「よかった」


 心の底からそう思えたことが嬉しい。今まで一度も、そう思えたことはなかったのだ。


「そろそろ、ぼくから下りてほしいんだけど、いいかな?」


 クライノートはリゼルの頼みを知らんぷりした。


「お願い、下りて、クライ」


 潰されて最後まで言いきれなかったのが本当のところだが、クライノートは嬉しそうに立ち上がって一回跳ねた。一緒に翼が広がる。純白の羽は天窓のステンドグラスから落ちる光で色とりどりに色づいた。真っ白だから、何色にもなれるのだ。


 黄昏の光が窓から見える。そろそろ寒い夜の時間が訪れる。


「もう帰らないと」


 立ち上がって呟くリゼルの袖をクライノートが掴んだ。金剛石の瞳に夕焼けの橙赤色と藤色を滲ませ、クライノートはリゼルを見つめる。もしもリゼルの背が彼女よりも高かったら、上目遣いで見上げられていたことだろう。


『いかないで』


 リゼルは眉を下げ、クライノートの手に触れた。


「ごめんなさい。でも、ぼくは王さまだから行かないといけないんだ」


『なぜ?』


 まっすぐな瞳に問いかけられる。リゼルは自分の手が震えていることを知らない。何もない場所に帰ることを思って、身体が悲鳴を上げているというのに。クライノートがリゼルの手を包み込むと、リゼルの足から力が抜けた。


「ぼくは、帰らないと。ただしい王さまにならないと。つよい王さまにならないと。ちゃんとしなきゃいけないのに、ぼくは……」


 とめどなく落ちる涙の雫は石の床にしみを作る。


「ぼくは、ぼくは、ぼくは……、ただ、みんなに生きていてほしかっただけなのに……」


 暗い場所にひとり取り残されてしまったようだった。何も見えない。何も聞こえない。孤独という名の暗がりだけがぽっかりとリゼルを誘うように口を開ける。


 クライノートはリゼルの肩に手を載せた。反対の手でよしよしと泣きじゃくる少年王の頭を撫でる。リゼルが少しだけ顔を上げると、クライノートは口を動かした。


『なかないで』と。

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