第3話 「おまえは正しい王になるんだ」

 陽光の下を歩く。きらきらとした暖かい日差しに打たれるのは初めてだ。喜んでもいい状況なのに、リゼルの足は鉛のように重たかった。


「陛下、玉座はこちらでございます」


 ずしりとした冠をいただいて、紫紺のローブを引きずる。白い司祭服を纏った男、セレスティアン・エルピスの後に続いて王になった少年は自分の行くべき場所へと向かう。


 白亜の城の最上階。錬金の王の姿かたちをした少年を多くの人間が息を呑んで出迎えた。羨望、期待、驚愕、戦慄、あらゆる感情が渦を巻いているのが見えるようだった。けれど、リゼルの灰銀の瞳は空の玉座から離れない。きらきらと降る光のかけらが床と銀の椅子を寿ことぶく。紅いカーペットがリゼルの足を導いた。孤独な冬の玉座へと。あの場所が寂しいと知っているから、ずきずきと心が傷んだ。


「ぼくはリゼル・オロ・レヴェニア。此度の一件により、この国の王となった。よろしく頼む」


 簡素な言葉で自己紹介を終え、リゼルはゆっくりと玉座に腰を下ろした。そこで初めて両手両足が小刻みに震えていることに気がついた。乾いた口の中を湿らせようと唾を呑んだが、ちっとも良くならない。からからの口はやっぱりからからだ。


 リゼルはこうべを垂れる臣下たちを冷めた目で見下ろす。何を考えて、何をなそうとしているのか分からない人々を隙を見せずに御さなければならない、と考えるだけでげんなりする。


 今すぐ逃げ出したいと叫ぶ心をねじ伏せ、リゼルは真面目腐った顔を作った。


 色々な色の腹を抱えて挨拶しに来る貴族たちをさばき終えたリゼルは、ふうと息をつく。ここまでは、うん、頑張った。それから、まだ見られていることを念頭に置き、真面目な顔は忘れずに、威厳のある声を出す。


「皆の忠義を裏切らぬよう、努力することを約束する。……では、解散とする。天の使いの祝福が皆にあらんことを」


 どのくらい経っただろう。パンを食べ終わるくらい? それとも、ロウソクが燃え終わるくらい? いずれにしても、リゼルには貴族たちが目の前からいなくなるまでが永劫に思えた。


「陛下。こちらの書類にサインをお願いします」


 部屋に戻った後、セレスティアンは一枚の紙切れをリゼルに手渡した。請願書、嘆願書ではない。紙面の文字に視線を走らせた時、くしゃりと紙が歪む音が響いた。


「……これはどういうことだ?」


 震える声で司祭に問う。司祭は平然と言った。


「どうも何も、エリオット・プラタ・レヴェニアの処刑の執行に許諾をいただくものですが?」


「……兄上を、ぼくに殺せと?」


 優しい兄が失敗したのはリゼルのせいだ。その責を問うことなどできない。本当なら、今セレスティアンが立っている場所はエリオットだったはずなのだ。怒りを込めてセレスティアンを見上げると、彼は形のいい唇から吐息をもらした。


「王殺しは死刑です。たとえ、それが誰であろうとも。あなたは正しくあるべきです。それが王としてのあなたの責務なのですから」


 蒼の目からリゼルは視線を逸らす。昨日まで自分のものではなかった部屋の床がなぜか遠く見えた。


「時間を、くれ」


 セレスティアンは頷いた。どこか満足そうな顔で。まるでリゼルが何を選ぶのかを知っているみたいだった。


 夜の帳がおりて、すべてが眠りの牢獄に閉ざされる頃。リゼルはか細い灯火を手に、宵闇に沈んだ城内を歩いていた。ネグリジェが風をはらんで肌寒い。身体を一度震わせて、リゼルは地下牢へと足を踏み入れる。カビの匂いに一瞬だけ顔をしかめた。染み出した地下水が水溜まりで跳ねる。ここはずっと使われていなかったのだ。罪人は収監されるのではなく、基本的に黄昏の獣デルニエが闊歩する平原に置き去りにされるのが習わしだから。


「兄上!」


 リゼルが駆け出したから弱々しかった灯火が消えてしまった。構わずに最奥の牢に囚われたエリオットに走り寄る。


「リゼル、どうしてこんなに所に来たんだい? ここは王さまが来る場所じゃない」


 やつれてはいたけれど、優しい声は変わらない。そのことに安堵すること半分、焦燥が半分。こびり付いた汚れも気にせず、リゼルは鉄格子を握って座り込むようにエリオットの隣に両の膝を着いた。


「あにうえ、逃げてください。このままでは、ぼくは、兄上を──」


「処刑する、と言うんだね?」


「はい。ですから、どうか逃げてください。逃げたいと、一言口にしてくださればいいのです。そうすれば、兄上によく似た人形を作って、それで、それで──」


 はしばみ色の瞳がリゼルを見てから伏せられた。エリオットはそっと首を横に振る。


「罪は罪として裁かれるべきだ。私は、失敗したんだから……」


 リゼルは目を大きく見開いた。鉄格子を握る手に力を入れる。


「いや、です。いやです。兄上を殺したくない。ぼくは兄上が好きです。優しい兄上が大好きです。兄上の罪ではありません。失敗したのはぼくのせいです。だから、お願いです……、にげて」


 ぼろぼろ泣いて縋っても、エリオットはすまなさそうな顔をして首を振るばかりだった。地下書庫しか知らないリゼルの世界はエリオットでできていた。エリオットがいない世界なんて許せない。許したくない。ましてや、自分の手で壊すなんて。


「兄上が悪だというのなら、きっとこの世界は間違ってます。少なくともぼくは認めません。兄上を裁くことなんて、ぼくはしたくありません」


 リゼル、と芯の通った声が耳朶を叩いた。ぐずぐずと続けていた言葉を断ち切られて、残ったのは突き放すような沈黙だった。爪がくい込んで血塗れになっている手をエリオットはそっと鉄格子から解いていく。その手が震えているのをリゼルは知った。


「おまえは特別なんだよ。だから、これでいいんだ。私はその踏み台でいい。おまえは正しい王になるんだ」


 何を言ってもエリオットは考えを変えないのだと理解してしまった途端、裏切られたような心地で胸が満たされた。なぜ、ここまでリゼルを信じられるのだろう。リゼルが特別だと、どうして信じられるのだろう。


「……どうしても、なのですね?」


 はしばみ色の瞳が笑んだ。リゼルはゆっくりと立ち上がって泣き笑いをしてみせた。


「わかりました、ぼくは……兄上の望む王に、なります」


 さよなら、と呟いて、リゼルは背を向けて走り出す。燭台は置き去りに、エリオットへの想いを閉じ込めて、漆黒に沈んだ世界に飛び込んで。寝台へと帰る気は起きなかった。だから、バルコニーに座り込んだ。星の瞬きすら痛くて、目をつむる。次に目を開けた時、空は白み始めていた。ゆらりと立ち上がって、ぐしゃぐしゃにした紙を開く。それからペンを走らせた。これからこの紙切れがエリオットを殺すのだ。


 野次馬の罵声が飛び交う中、リゼルは無感情な目でギロチンを見下ろした。黒髪の少年が引き出されて、首を刃に押し付けられる。リゼルと同じように久しぶりに陽の光を浴びた処刑道具は、久方ぶりの命の味に舌なめずりするかのように煌めいた。ぐるぐる視界が回り出す。上下が分からなくなって倒れそうな身体をリゼルは無理矢理押さえつける。耳障りな音の嵐がリゼルの感覚すべてを呑み込んだ。


 刃が落ちた。血が噴き出し、命の火が消えた身体が崩れていく。壊れた身体はやがて風に洗われて、最後に残るのは紫紺の灰簾石かいれんせき。そして、それは硬い地面に叩きつけられて粉々に砕け散った。


 じわじわと口の中に広がる鉄錆の味にリゼルは顔を僅かにしかめる。まだ、だ。まだ動いてはいけない。人が誰もいなくなるまで、待たなければ。泣くのも我慢して、リゼルは正しい王の顔をして待ち続けた。


 処刑場の地面に降りた時には、もうほとんど何も残っていなかった。血に濡れた地面が所々輝いている。ちいさなちいさな血塗れの破片を拾っては抱き締めた。忘れたくない大事なもの、正しくあるために切り捨てたもの、そしてリゼルが犯した最初の罪。


「……もうおやめください、陛下」


 セレスティアンに止められるまで、血の海をまさぐっていた。血のついた手を引かれ、リゼルは後ろ髪を引かれたまま城に帰る。ぼうとしている間に手を拭かれ、冷たい手がリゼルのものではないように、言うことをまるで聞かなかった。それでも、白亜の玉座に腰掛けて、政務を執る。王になるために必要な知識は一通り叩き込まれていた。忙しくしていた方が気が紛れるとは言うけれど、リゼルの心には何の変化も訪れない。


「なぜ、なぜ! 陛下はなぜ、エリオット殿下をみすみすと処刑なされたのですか!」


 衛兵として置かれたホムンクルスたちを押し退けて、ひとりの女の形をしたホムンクルスがリゼルの眼前で叫んだ。ホムンクルスに特有の紅い瞳から涙をこぼして、彼女は問う。


「あなたの、兄でしょう! なぜ、殺したのですか!」


「この……っ! 無礼者っ! 衛兵! 早くこのホムンクルスを取り押さえろ!」


「──良い。どのみちこのホムンクルスにはもう稼働時間は残されていない」


 リゼルの一言で騒然としていた玉座の間は水を打ったように静まり返る。灰銀の瞳を尖らせ、リゼルは言う。


「王殺しは死罪をもって償うものだ。たとえ、兄であっても法を守るのがぼくの役目だ」


 裏切られた、ホムンクルスの女の顔はそんな表情をした。あの夜のリゼルと同じ、分かり合えないということに絶望する顔をした。リゼルは溢れそうになる感情を殺し、冷めた顔を保ち続ける。


「そんなの、認めない! エリオット様を殺したあなたをわたしは許さない! あなたが代わりに死ねば良かったのよ!」


 女は槍を真っ直ぐリゼルの心臓に向けて投げつける。立ち上がろうとする貴族たちをリゼルは視線で制し、指先を伸ばした。


「変転せよ」


 鉄だった槍は翠玉すいぎょくに変じ、投げられた衝撃に耐えられずにひび割れて砕けて散った。きらきらと沼の底の色が宙で躍る。そして、女もまた灰になって崩れ落ちた。ホムンクルスは石にはならない。人ではないから。


 一度しんとした玉座の間にどよめきが遅れて空気を震わせた。流石は錬金の王の再来、と囁く声がする。陣すら描かずに奇跡を起こすことができたのは、後にも先にも錬金の王だけだと伝説には残されているのだ。


「埋葬しておいてくれ」


 呟いたリゼルに扉の向こうからやって来たホムンクルスが耳打ちをした。


「母上がぼくをお呼びなのか?」


「はい、王妃様は自室でお待ちです」


 ホムンクルスの乱入に政務どころではなくなってしまったと、リゼルは貴族たちを帰らせた。四つに分けられた領地の管理、財務……などなど、彼らはそれぞれ役割を持って集っている。それから、黄昏の獣デルニエを狩る騎士団“狩人”の長と神殿の司祭であるセレスティアンも。


 ひとり、歩いて母の所へリゼルは行く。エリオットとリゼルを大事に育ててくれた美しい人の元に。だから、足取りは軽くて唇だって綻ぶのだ。久しぶりに会うのはリゼルにとってはとても嬉しいことだった。漆黒の髪をしたきれいなあの人はなんて言って、リゼルの頭を撫でてくれるだろうか。けれど不意に心配になる。彼女が愛したエリオットを、リゼルが殺してしまった。いくら間接的であったとしても、リゼルのまぶたからは二度と消えない。砕けた石のかけらが沈む血溜まりの、緋色はもう二度と。……あの人はリゼルを赦すだろうか。


「母上、リゼルです」


 はしたない子だと思われたくないから慎重に、リゼルはゆっくりとドアを空けた。


「ははうえ──」


 何かが飛んできた。苺の模様の入ったティーカップだ。確か、王妃のお気に入りの。耳の後ろで粉々になったカップに言葉を失くす。呆けて立ち尽くすリゼルの前で、王妃は疲れ果てた微笑みを浮かべた。


「聞いたわ。あなたがエリオットを殺したのね」


「……ぁ」


 怖い、と本能で感じる。リゼルはまばたきを堪えて泣かないように目を見開いた。


「ええ、あなたは正しいわ。叛逆は大罪だから。けれど、あなたの錬金術はエリオットを殺した。わたくしはあなたを決して、赦さない」


 憎しみという黒い炎が母の瞳の奥で渦を巻く。四肢から力が抜け、座り込んだリゼルの前で、ナイフの銀色が閃いた。首筋にナイフを当てがって、王妃は嗤う。


「よく見ておきなさい。これがあなたの罪よ」


「……や、め、……て」


「──でもね、あなたは“特別”。だから、正しい王さまになるのよ」


 少しだけ柔らかい顔をした後に、王妃の握ったナイフの刃は深々とその喉笛を切り裂いた。蛇口の壊れた水道のように鮮血が噴き出す。座り込んだままだったリゼルの頭は血で濡れて、服は血を吸って重たくなっていた。温度の消えた身体はやはりぼろぼろ崩れ、それから薄桃色のくぐもった輝きを持つ石が落ちた。桃色の緑簾石りょくれんせきだった。


 なんて身勝手な人なのだろう。“特別”と言って愛するフリをして、正しい王になりなさいと言いながらリゼルを憎んだ。理不尽に罪をリゼルの両肩に載せていなくなる。それでも、リゼルは母を嫌うことも憎むこともできないのだ。


 リゼルは暗がりの中で自分の肩を抱いた。リゼルの手のひらにはもう何も載っていない。残っているのは、寂しくて冷たい玉座だけ。

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