第2話 「リゼル・オロ・レヴェニア殿下」

 ──アルケミラには亡霊が住んでいる。


 王城に一度でも足を運んだことがあるのなら、誰もいるはずのない地下書庫を徘徊する亡霊の話を聞いたことがあるだろう。アルケミラ、というのは愛称で、正しくは地下書庫、そこは古い錬金術の文献をはじめとする、錬金術全ての秘技と研鑽のすべてが積み上げられた広大な図書館だった。



 ランプの中の炎がふっと消えた。油が切れるまでここにいたのか、とリゼルは分厚い本の山からのろのろと顔を上げた。探るように手を伸ばし、新しいランプに光を灯す。深い黒に近い青髪に灰銀色の瞳をした少年の姿がぼんやりと照らし出された。齢は十三だが、身体は小さくてもっと幼いように見えた。リゼルが王城を好きに歩いていいのは夜だけだ。ただし、誰にも見つからないように。その理由を、母──王妃はリゼルが“特別”だからだという。


「リゼル、夜分遅くにすまないが、この図面と刻印で良いか、確かめてくれないか?」


 不意に声がした。疲れた様子でも、しんと重い威厳を漂わせる声の主は壮年の男だった。リゼルは足が地面に届かない微妙に高い椅子から飛び降り、男を見上げる。煙るような灰色の瞳がリゼルを見下ろすが、その目に感情の色はなかった。ふっとリゼルは目を逸らし、男が広げた錬金術が刻まれた羊皮紙を灰銀の瞳ですっと一通り眺める。


「父上、この刻印では上手く起動しません。擬似魂魄を生み出すのでしたら、この回路を繋ぐべきです。根本はほぼ完璧ですから、これでより速く、半永続的にホムンクルスを生産することが可能だと思います。──前の機構では生産が追い付かなくなったということですね」


 羊皮紙に刻まれた茶けた文字の上を少年の白く指が滑る。たった一度、たった一瞬、ただそれだけでリゼルの目は錬金術の秘蹟を解き明かす。だから、“特別”。その才能はいずれ錬金の王の再来とうたわれることになるのだが、それはまた少し先の話だ。


「また、黄昏の獣デルニエですか?」


 羽ペンで羊皮紙に修正を入れながら、リゼルは訊いてみる。城の外に出たことのないリゼルには物語の中の生き物としか思えないのだが、黄昏の獣デルニエは世界を喰らう黒い獣なのだそうだ。人も、地面も、建物も、黒い獣のひと噛みで崩れ消える。民の守護を義務とする王族と貴族の役目は黄昏の獣デルニエを狩ることだったはずだ。人間よりもわずかに黄昏の獣の蝕に耐えられるホムンクルスを戦列に加えようとすることはなんらおかしなことではない。


 がりがりと紙をひっかく音がしばらく続いた後、父王は眉間を揉んで苛立ちを押し殺した声で呟いた。


「ああ、今度の獣はなかなかに厄介でな。……まあ、お前には関係のない話だ」


「そうですね。ぼくはここで錬金術の研究ができればそれでいいです。それに、それが約束ですから」


 そう言って、父王とは全く似ていない顔の少年は微笑んだ。


 かつてこの王国を創った錬金術師──錬金の王は、一番星が瞬く頃の夜空の色をした髪と、狼の毛並みのような色の瞳をしていたそうだ。いとも容易く賢者の石を錬成した彼は生き続けることさえできたのに、ばらばらに砕けた心で石を割り、短剣で自らの心臓を貫いて永遠を棄てたのだ。



 リゼルは夜に目を覚ます。昼間は部屋の鍵が閉まっているから、起きていても意味がない。けれど夜になれば誰かが鍵を開けてくれるのだ。扉を開けた先にはアルケミラがある。累々と宝石にも等しい価値のある書物の棚が列をなし、五百年の歴史の記憶が詰まっているこの場所がリゼルは好きだ。ここで一生過ごすつもりだし、約束がリゼルをここから逃がさない。錬金の王の生き写しを自由にしてしまえば、父王の立場も次期王である兄の立場も揺らいでしまうから、父王はリゼルに決して人に見られないことと、城を出ないことを約束させたのだった。


「リゼル、いるかい?」


 暗闇の中に明かりがひとつ増えた。リゼルはいそいそと椅子から降りて、兄の声の方へと向かう。


「兄上、お久しぶりです。今日はどんなお話をしてくれるのですか?」


 灰銀の瞳を輝かせ、黒髪にはしばみ色の目をした十六歳の兄を見上げた。兄は照れ臭そうに笑うと身体をかがめてリゼルのくせ毛を優しく撫でた。


「今日はね、特別な話をしようと思うんだ」


「特別、ですか?」


「うん、とても大事な話。おまえを王様にする話だよ」


 そして兄は優しくて聞き心地の良い声のまま、実の父を弑す話をした。父王を殺して、リゼルを王にして、兄は宰相としてふたりで一緒に国を守るのだ、と。


「……兄上は、それで、いいのですか? 兄上が王にならなくても、父上を手にかけても」


 兄は頷き、リゼルの華奢な身体を壊れ物を触るように抱きしめた。


「ここに縛られたままのおまえを私は見ていられない。知ってるかい、父上はホムンクルスを人と同じように扱わずに、道具にしてるんだ。命が短いだけで、彼らにだって、心があるのにね。貴族も安全な場所で遊んでいるだけで、剣を取ろうともしない。……こんなのおかしいよ。私が今まで通り戦場に立っていても、何も変わらないのなら、私は父上を討つよ。それから、王の資格のあるおまえが王につけば、もう少し国を幸せにできるはずなんだ」


 今にも泣きだしそうなはしばみ色の瞳を見ていたら、リゼルは何も言えなくなった。


 ──ほんとうは、王さまになんてなりたくない。ここにいたい。


 リゼルは唇を引き結んだ。兄の身体に回した手に力を込めて、口を開く。


「兄上なら、大丈夫です。きっと全部上手くいきます。ご武運を」


 立ち上がった兄はいつもよりももっと格好いい顔をして踵を返した。ふたり分だったランプの光が一つなくなって、ほどなくしてリゼルのランプの灯火も静かに消えた。



 それから五日経ち、アルケミラにやってきたのは兄ではなかった。純白の司祭服は闇の中でぼうと浮いて見える。金髪の男は本の山に埋もれているリゼルの姿を認めて淡く微笑んだ。


「殿下、早急にお伝えしたいことがあって参りました」


 本から顔を上げて立ち上がると、リゼルは真剣な顔を作る。ここに来たのが兄ではないことから、何を言われるのかだいたい予想はついていた。


「何ですか?」


 父王がお亡くなりになりました、と司祭は悲痛な顔で告げる。


「そう、ですか」


「あまり驚かないのですね」


「ぼくはこの場所から離れたことがありません。父上を見たことも数えるほどしかありません。限りなく他人です」


 淡白なリゼルの言葉に司祭は片眉を動かした。だが、リゼルの関心はそこにはない。父王を討つのは上手くいった。それならば、なぜここに来たのが兄ではないのか。


「そういうものですか……。ともかく、何があったのかを話すところから始めましょうか」


 ──兄、エリオット・プラタ・レヴェニアは、ホムンクルスと共に黄昏の獣を狩る騎士として戦場に出ていた。彼はホムンクルスを人とみなすことのない世界に憤り、挙兵。王の元へ駆けた。しかし、ホムンクルスの多くを味方につけたために王の軍勢は手薄、という予想だけは成り立たなかった。今までの製造ペース、今のホムンクルスの数。エリオットはすべてを鑑みて判断したとも。けれど、そう。数は予想を裏切った。より完成度が高く、製造ペースの早いホムンクルスによって、彼の計画は根底から崩れ落ちた。エリオットは父王の首を取った。が、その時には形勢は完全に逆転し、反乱の全ては主導者が捕らえられたことによって、呆気なく幕切れとなったのだった。


 ぐらぐらとリゼルの視界が揺れる。視界の端から真っ暗になっていく。だって、それじゃあ……、兄が失敗したのはリゼルのせいだ。王が狩ろうとした“黄昏の獣デルニエ”は兄だった。


 リゼルはふらつく足に力を入れる。そうしなければ、崩れ落ちてしまいそうだった。司祭は微笑む。能面のような笑い方だ。細められた目の奥には、獲物を前にして舌なめずりをする肉食獣の光があった。気がつけば、司祭はリゼルの前に跪いて、蒼色の瞳で真っ直ぐリゼルを見ている。リゼルの中まで覗かれているような、そんな気がした。司祭は震えるリゼルの手を取った。


「リゼル・オロ・レヴェニア殿下、玉座に着いていただけますね?」


 リゼルは唇を引き結ぶ。父は死に、兄は虜囚の身に堕ちた。もう、王位を継ぐことのできる人間はリゼルを置いて他にはない。たとえ、どれだけ王になりたくなくとも、道は既に定められた。リゼルは地下書庫の亡霊をやめて、外へ、昼の世界へ行かなければならない。どうしても。


 つばを呑み込んで、リゼルは灰銀の瞳から心を消した。王らしく。望まれるままに、玉座に座ろう。


「はい。ぼくはこの国の王になりましょう」


 そして、その日、地下書庫の亡霊は死んだ。

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