第三部



 秋の雨が降り出していた。雲が重たいせいか雨粒も重たいような気がした。視界が悪いので操縦が難しい。水滴でガラスは見えなくなるし、真っ直ぐ飛ぶための指標となるものが霧で見えなくなる。逐一コンパスで確認する必要があった。冷気は隙間という隙間から忍び込んだ。俺もアンちゃんも防水布に包まりながら飛行機に乗った。

 今、誰かが俺達を追いかけていたとしても気付きにくいだろう。

 飛行機の壁もガラスも厚いから雨音は聞こえない。ただ雨が降る映像だけが流れている。


 火が使えないから冷たく苦い水と乾いたレーションだけの夕食だ。それを手短に終える。

 つまるところ兵士にとって食事は無駄に過ぎない。人間は快楽を得ている時、一番無防備になる。

 飛行機のハッチを開け、暗闇に目を凝らす。当たり前だけど何にも見えなかった。仕方がないから、ハッチの間に棒を差し込んで少し開けておくことにする。

 それから脳内でレオを仔細に思い浮かべる。彼の足先から髪の毛の先まで。そうすると長年の染みついた習慣でよくよく気を張ることが出来るんだ。

 レオより俺が生きることは許されなかった。俺よりレオの方が傷だらけなんてことは以ての外だ。





 そこらに飛行機を止め、いざ王都へ向かう。門の近くまで向かえば、人だかりが出来ていた。何じゃらほい。

 正直な話、体調は万全じゃなくてしんどいから、ちょっと勘弁して欲しかった。あの晩からずっと微熱が続いている。傷はずっと痛みの信号をマーチに脳へ送ってきた。

「どうしたんです。」

 アンちゃんがそこらの人に尋ねてくれた。助かる。

「あぁ、検閲してからじゃないと入れないらしい。知らないけど。」

はーーーーーーーーん。十中八九とまではいかないけれど、うーーーーーーーん、何だか俺達のことのような気がする。自意識過剰だろうか。


 自意識過剰じゃなかった。金髪長身の青年と若い女の二人組を探しているらしかった。俺とアンちゃんは目配せをして、怪しまれないよう別々にその場を離れた。

 塀から距離をとって、足を止める。暫くすれば、アンちゃんもやってきた。俺とアンちゃんはそんなことをしてもどうしようもないのに塀を見やった。

 俺はうんと頷いた。

「ここでお別れだ。」

 アンちゃんは腕を組んだ。視線を王都から地平線へ移した。俺もそちらを見てみたけどだだっ広い平野と空と地面の境界線しかない。俺はアンちゃんに向き直った。

「ね、私がこんな目に遭ってるのは何でだと思う。」

俺は正直に答えるべきかどうか悩むためアンちゃんから視線を外した。

「理由は二つあるわ。一つは父さんよ。リスクが怖かった父さんは、ちまちまとギャンブルを続けたわ。負けても額が少ないから何度もリトライしたんだわ。」

 アンちゃんはにい、と口角を上げた。仁王立ちで笑う彼女はしっかと地球の地面を掴んで立っていた。

「二つ目は私だわ。小遣い稼ぎだなんてケチな思惑で兵隊の財布を盗もうとした。」

アンちゃんが目尻も下げる。瞳は弧を描いている。

「賭けるなら、大きな勝負じゃなきゃいけなかったのよ。」

 雲の切れ目からさっと日が差し込んで彼女の頬を撫でた。すぐに雲の切れ間はなくなったけれど、ぴかっと輝いた彼女の顔は酷く印象に残った。

 俺は彼女を、まるで初めて会ったみたいなつもりになって眺め降ろしてみた。豊かな髪の毛、今度の旅で痩せてしまったせいか、顎が少し尖っている。目も大きく見えた。その下には黒々と隈が横たわっている。

「アンタに協力してあげる。だから、成功した暁には報奨金を頂戴。」


 俺は今度ばかりは今まで以上に命の危険があることを告げた。アンちゃんはフンと鼻息を鳴らした。つまるところ、どんなに紳士ぶったって、今更遅いとのことだった。

「結局、熱に浮かされて母親を呼ぶ姿をもう知ってるもの。格好つけたって手遅れよ。」

 うん、それは手遅れだわ。

 俺は彼女がそんなことを申し出る理由に、(或いはあれほど人生に怯えていた彼女の変わりようの理由かもしれない)思い当たる節がなくて、アンちゃんを見つめてみた。どうして、と尋ねなかったのは結局、彼女の言葉がどれだけ信ぴょう性があるかどうか俺には確かめようがないからだった。それが嘘か本当か判断がつかないなら、聞いたってしょうがない。

「どうやって入るつもりなのよ。」

 彼女は俺の言葉を無視して尋ねた。しかし、見込みがなければ怯んでくれるだろうか。その可能性は何だかなさそうな予感がしたけど、予感なんて外れることばかりだろ。

「夜陰に乗じて飛行機で中に入る。」

アンちゃんは瞼を微かに上げた。俺は夜間に飛行機を飛ばしたことがない。

 青空の中で飛ぶのは目立つ。それでもしてこなかったのは、夜はマジで何にも見えないからだった。

「それ、大丈夫なの。」

 聞かれて首を横に振る。見つからないよう高度を上げる必要がある。雲が出ていれば、そのまま目的地を見失う。けれど低い高度じゃ騒音で気づかれる可能性があった。いや、宮殿の庭に着陸予定だから、その前に気付かれるだろうけど。



 街の明かりで空は明るくて、ようよう目を凝らしどうにか一等星が見えるくらいだった。それでも飛行機を飛ばすには暗かった。手元の計器の目盛りは読めない。細かなスイッチやボタンも影に入っていて、視覚からはよくわからない。ただ、この数か月の日中、ほとんど閉じこもっていた甲斐もあって、どこに何があるのか感覚でわかった。操縦桿の革はまるで俺の手の形にくぼんでいるかのような錯覚さえあった。

 窓の外へ目を凝らす。けれど、影が濃くて何にもはっきりしなかった。何かあるような気がして、でも何にもないのだった。そこに壁があると脳が警報を鳴らすのにそこに向かって真っすぐに飛ぶ。足はしょっちゅうピクピクと痙攣でもしているみたいに動いた。手から汗が凄い。革が湿って気持ち悪い。汗は掌だけじゃなかった。ケツの谷間からも冷や汗は流れて蒸れて気持ちが悪い。飛行機のシートはお世辞にも通気性があるとは言えない。

 白い線だと思った。それが自分の顔に投げかけられ、視界が白く痛んだことで、光だと気付く。ライトだ。

 飛行機の中からでもウーウーという警戒音が聞こえてきた。きっと外はもっとずっとうるさいんだろう。ご近所迷惑だよな。兵隊ってそんなものだ。

「そこの飛行機に警告する。止まりなさい。ただちに飛行を停止し、降りてくるように。」

今まで沈黙を貫いていた無線機が喋り出して、俺はちょっとケツを浮かび上がらせた。おう、そこにいたのか。

 俺は光の中心へスピードを上げた。

 最初は信号弾が打ち上げられた。次に警告の赤色の発煙筒だった。それに合わせて無線機の口調も命令口調へと厳しさを増していった。そして、早々に実弾が打ち出された。

 おいおい、飛行機が市街地へ墜落したらどうするんだよ。答えは分かり切っていた。そうだけしても、俺を宮廷に近づけないことが優先されるんだろう。止まらない俺に、向こうも夜間飛行している機体が俺だと気付いていると思われる。

 近くで爆発したのか、風に煽られて飛行機が傾いた。俺は歯を食い縛った。歯を食い縛ったとてどうにもなりはしないんだけどさ。歯を食い縛ったって食い縛らなくたって操縦の結果は変わりはしない。それでも俺は歯を食い縛る。

 レオ、と呟く。

 俺にはありったけの運が必要だった。弾なんざ見えないし、だから俺は真っ直ぐに王都へ飛ぶしか出来なかった。市街地にこんなデカい金属の塊が落ちたら大変だから、どうにかこうにか持ちこたえてくれ。他にしようがないとも言う。


 とうとう街の中まで飛んだところで、ぶち当たったらしい。機体の尻が跳ね上がった。それから途端に機体を維持するのが難しくなった。ただジグザグに、だけど下降しようとする。俺はペダルを踏んだり上げたりしてどうにか高度を保とうとしてみた。無駄だわ。

 諦めたら落ちる速度だけが上がった。無駄じゃなかったわ。


 こんなフラフラの飛行機はどうやら恰好の的らしかった。どうやらってほどでもないな。猿でもわかる。





 真っ直ぐに立つのは難しい。人間の体は絶えず揺れている。うっかり二本足で立つから余計に重心が取りづらい。

 俺を最初に許してくれたのは料理長だった。こんなことになる前、俺は食いっぷりのいいガキだったからかもしれない。嘘嘘。彼はいい人間なのだ。

 まるで何事もなかったかのように、ある日突然、レオとその後ろについていくことしか出来なくなっていた俺に、こっそりとおやつをくれた。ケーキの端っこ。

 レオは自分の分を口に突っ込むと、俺のを受け取って、俺に渡した。俺はレオに差し出されたから受けとらないわけにはいかなくてそれを手に取った。でも、それをどうしていいかわからなくて手に持ったままだった。そのまま、レオの跡をついて厨房を出た。

 料理長はレオと俺が来る度におやつをくれた。それは人参の搾りかすやバターミルク、パンの耳を揚げて砂糖をまぶしたものだった。四、五回目くらいでレオに、食べないのか聞かれて、それから俺は食べるようになった。




 着陸は地面に機体の前部を地面に擦りつけるような形になった。衝撃は凄かったし、そのせいで、未だに俺の視界は微妙に縦揺れしている。そのうえ、摩擦熱で火が出た。金属の熱伝導で中はとんでもなく熱くなった。

 俺は這う這うの体でハッチを上げ、地面へ降り立つ。たぶんあと数分でも遅けりゃ、熱くてハッチのフタは握れなかった。

 だから夜の空気は火照った頬をよく冷ました。

 アンちゃんは首尾よく辿り着き、頼んでくれたらしい。宮廷料理人であり、その全てを束ねる男、グランバザール料理長は俺を待っていてくれていた。

 彼はいつもの白いエプロンじゃなくて黒いマントを羽織っていた。あんまり見慣れないから、マントというよりかズタ袋を見に纏っているみたいに見えた。

「ヨー、早くこの袋に入れ。」

 料理長は台車の上のズタ袋を指さした。

 うーーーーーん、入るかな。



 俺がじゃがいもであれば絶対に転がり落ちてた。料理長の台車の操作はそれくらい荒かった。荒いというか、慣れていないというか。下っ端をこき使っているからだぜ。その上、麻袋は通気性が悪かった。

 最初は、何か籠ってるなぁくらいだった。そのうち、頭痛がしだす。それに何だか暑い。

 口を開けて息をしだせば、息苦しさはマシになった。でもすぐに、それでも苦しくなる。

 いや、そうだよ。だって袋の中にいるんだから、窒息してしまうかもしれない。このことに思い至らなかった自分に猛然と腹が立ちだす。だって、そうとわかっていれば、最初のうちあんなにバカスカ酸素を吸ったり吐いたりするもんか。計画的に呼吸していたらもっとずっと苦しくなかったのはわかる。

 ちょっと考えればわかることなのに、何で考えなかったんだよ。思い至らなかったんだ。

 でも、人生ってそういうもんだよな。いっつも、考えが至らなくて窮地に立たされている。

 母もそうだったんだろう。知らないけど。



 冷たい朝の牛乳のような、新鮮な空気がどっと入って身を包んだ。うぶ毛が立つ。俺は深々と息を吸い込んで、あんまり勢いが良かったのでむせた。咳き込めば、誰かが背中を擦ってくれた。俺は横目で見上げた。

 グランバザール料理長は、笑みだということにしているらしい彼特有の表情を見せた。それは、目は全く笑っておらず、口角を上げただけで、お世辞にも笑っているようには見えない。ただ、料理長は口角を上げているんだから、これは笑顔だろうと考えているらしいんだな。だから、新人の下働きはみんな最初の内、ビクビクしている。それどころか、料理長のその顔が笑顔だと知っていてさえなお、ビクっとする人もいる。

「次はこの箱に入れ。」

 料理長は小麦を入れている木箱を指さした。

 まぁ、性格は悪いんだよ。


 着いた先は貯蔵庫で、そこには祖父母とアンちゃんが待っていた。びっくりしようとして、もしかしなくてもそれはたぶん失礼なことだと思い直した。

 地下にある貯蔵庫はひんやりとしていた。汗が気化し、すうと体が冷たくなって背筋が震えた。ランプの明かりが一つきりだった。押し寄せる闇は自信満々で灯の下にいても影がそこかしこにわだかまっている。

「ヨミ。」

 祖父の声は記憶のものよりもしわがれていた。

「で、次はどうするの。」

古い地下室の中でアンちゃんの声は場違いなくらいに若かった。

「陛下に会いに行く。今度の調停の儀の前に会わなくちゃならない。」

一度、契約を結べば覆すのは難しい。

 俺が口を開けば、祖父母も料理長も俺を見た。けれど、一向に誰も口を開かない。え、何々何。いや、そりゃ大それたことかもだって分かってるよ。

「なに、どしたの。」

 茶化してみる。

「ヨー、調停式は明日、というかもう今日だな。今日の朝に行われる。」

大それたとかそれ以前の問題だった。


 偉い人みんな、ピンチはチャンスだという。時と場合に寄ると思ってた。それはピンチがチャンスだった人の意見だ。あなたがそうだったとして、みんなが皆そうとは限らないじゃん。

 前言撤回してもいい。俺は、これはチャンスこれはチャンスこれはチャンスと心の中で唱えながら口を開いてみる。

「ピンチはチャンスピンチはチャンス。これはチャンスだ。公の場なら、どうしても警備が薄くピンチはチャンスなる。それを狙って陛下に直談判すれば、これはチャンス時間もかからず一発OKっていう算段よ。」

如何にもピンチをチャンスに変えてきた男みたいな顔をして腕を組んで、ウィンクしてみた。決して、冷や汗が目に落ちて瞼を閉じたとかそんなんではない。違うよ。違うから。大丈夫、違う。

「正気か。」

 グランバザール料理長は鷹揚に頷いてみせた。たぶんだけど、料理長、たぶん本音と建て前、逆になってる。アンちゃんはプディングに歯が入っていたみたいな顔をした。

 俺は、おじいちゃんとおばあちゃんへ目を向けた。祖母は俺の視線に気が付くとポロと涙を落として、それからちょこっと笑った。




 父は母の裏切りにか、陛下の視線にか、それとも周囲の目かもしれない。自殺した。庭師小屋の梁に縄を掛けて、首を吊って死んでいた。発見したのは俺だった。

 季節は夏の入り口で、緑の匂いがむっとしていたのを覚えている。太陽の光が首筋を焼いてヒリヒリ痛んでいたことさえも思い出せる。

 俺は庭師へと降格した父を休憩に呼ぼうと駆けまわって父を探していた。言っただろ、俺はじっとしていられないガキだったんだ。走らなくてもいいことを、走りたいから走ってしていた。最後に訪れたのが庭師小屋だった。

 庭師小屋の扉は細く開いていた。扉に手を掛ける。開く。父の顔がいつも以上に高いところにあった。足は宙ぶらりんで、その下に切り離された影が寄る辺なく揺れていた。

 庭師小屋は陽ざしの燦々とした外に比べれば、ひんやりと感じられた。埃と土の匂いが染みのように空気にある。父の顔は梁の影でぼんやりとしてその表情はよく見えなかった。


 ただ、父は俺にとってあんまりよく分からない人だった。昼間は仕事をしていたし、母を失くしてからは一層、会わなくなった。俺が寝る頃に家へ帰り、俺が起き出すより先に仕事に出ていた。

 父というもの、存在、父という役割の人を自分は失くしてしまったという一点から俺は悲しさを覚えていたにすぎない。

 父は弱い人だった。母も、そうだったんだろう。そして祖父母も別に決して強いわけじゃない。

 でも、強いってなんだよ。本当に、強い人なんて存在すると思うか。人間、隠しているだけ、或いは他人に興味がないから気付いていないだけで、みんな、弱いんじゃないか。誰もが何かしら弱みを抱えている。そうとしか俺は信じられない。





 「とにもかくにもデカすぎる。」

料理長が言った。祖父がそっと視線を外す。俺の家は代々上背があるのだ。おじいちゃんも百九十㎝はある。

「変装のさせようがないのよ。」

アンちゃんが腕組みをして、俺を上から爪先までじっと眺め降ろした。居た堪れない。俺は足の位置を無意味に変えた。

「とはいえ、いつまでもここでじっとしてる訳にもいかない。」

料理長の言葉に俺は頷く。貯蔵庫を見渡す。

 明かりが一つきりでぼんやりとした輪郭しか見えないけど、あちこちで野菜の詰められた箱がビル群を形成している。山脈は穀物袋だろう。空気は粉っぽい。厳めしい顔で立ち並んでいるのはワインを始めとしたお酒の樽だ。チリ、と赤い何かが壁を走った。サラマンダーだ。

「サラマンダー退治を装って、警備室の人を退かせられないかな。」


 アンちゃんが器用に髪の毛を折りたたんで頭巾の中に入れ込むのを眺める。凄い。

 整理整頓が出来る人って本当に尊敬する。俺は無理。小姓の家だから、一応片づけも仕事の内なんだけどさ。誰だって出来ることと出来ないこととある。どんなに完璧な俺でもあるわけよ。元あった場所に戻すくらいは何とか出来るようにはなった。それ以上、つまり、四次元ポケットもかくやに物を収納させるのは無理。どうなってんの。物理の法則を無視してるでしょ。

 ちょっと薄汚れた白いズボンと何某かの染みが付いた上っ張り、そしてエプロンを付けたアンちゃんは見習いコック小僧にしか見えない。胸も真っ平だ。どうやったんだ。顔を小麦粉と煤で汚せばますますそれっぽくなる。

 作戦はこうだ。アンちゃんがサラマンダー退治に不慣れな見習いのフリをして、火トカゲを警備室に入れ込む。そうして警備員を部屋の外へ出す。俺達は中に入り、警備の配置図を盗む。

 ガバガバな作戦なのはわかるけど、ガバガバすぎてどこがガバガバかわからないから、たぶん大丈夫だ。ほら、こういうのはキッチリ作戦を決める方が駄目なんだよ。大体、こういうのは作戦通りにいかないもんなんだから。


 ほらね。

「坊主、慣れてないのか。大変だな。」

「料理長は人使いが荒いからな。手伝ってやるよ。」

いい奴~っ。すげぇいい奴らだ。ただし今はその優しさが邪魔をしている。うーーーーん。

 俺は全身をプルプルさせながら内心で唸りこんだ。勿論内心で、だ。何せ、俺は警備室の前の廊下に居る。正確に言えば、警備室の前の廊下の梁の上だ。

 天井が高いせいで明かりは上まで届かない。だから、存外気付かれないのだ。昔、レオと二人、梁の上に潜んで大人を驚かせる遊びが今に生きたというわけだ。ただ、この隠れ場所には欠点がある。安定感がまるでないことだ。ようはずっとしがみついていないといけない。それでさっきからずっとプルプルしている。指が限界を迎えてしまう。

 ドッターン、ガシャコーン。派手な音が響いてきて、俺は肩を飛び上がらせ、それから梁に捕まり直した。緊張のせいでか冷や汗が手から出てくる。何で手から汗なんて出るんだ。手から汗が出てもいいことなんか一つもなくないか。初デートで手を繋いだら笑われるしさぁ。

 浮かび上がった古傷にHPを削られつつ、部屋の様子に耳をそばだてる。いざとなったら乱入し兵士達を殴って黙らせる。筋肉は全てを解決するのだ。

「坊主、おい、落ち着けって。」

「本当に慣れてないんだな、おい、そんなしたら。」

 扉の隙間からサラマンダーがしゅるり、と這い出て来た。次いで、アンちゃんと警備の兵士達が、扉を開けてトカゲを追う。

 俺はあんまりの女優っぷりに笑みをこぼしつつ、梁から降りた。警備室に忍び込む。

 配置図の上へクッキングシートを広げた。木炭で配置図をなぞる。



 「まぁ、行くとしたらこの道か……。」

祖父の示した道に反論はなかった。当たり前田のクラッカー、警備はどこも厳しい。その中で唯一、通れそうなのはその道だけだった。

 恐らく、それはわざと警備を薄くしている道だろうけど、言っても仕方がないことなので俺も口をつぐんで頷く。罠だとしても他に道はないし、だったら言ってもしょうがない。頑張るしかないのだ。他に道なんかないし。



 祖父が先に歩き、見回りの警備がなければ進むよう指示をくれる。それで俺は、デカい体を精一杯縮こまらせながら進んだ。

 だけど、物事は順調にいかないように出来ている。ルートの途中に警備員が見張る部屋があった。祖父がどうにかこうにか退くようそそのかすが職務があるから、見張っているからと職務に忠実だ。うん、兵士として花丸ぴっぴだ。

 俺はそわそわと足を踏みかえた。じっとしていれば見回りの兵士がやってきて見つかるかもしれない。生憎なことにここの廊下は梁が剝き出しじゃない。

「掃除を頼まれているのです。何故、今晩は入れないのでしょう。」

 祖父の言葉に兵士も首を傾げた。

「どうにも式典で披露予定のもので、詳しくは私も知らんのです。どうにも我が国の技術を知らしめる発明品だとは聞いています。ちら、と見ましたがガラスのパイプや鉄の玉が怪しげな装置に繋げられていて、何だかよく分かりませんでした。」

鉄球。はーーーーん。俺は口元に手をやった。鉄の玉に心当たりはない。ただ、ピッカピカに磨きまくって、鉄の玉みたいになったものになら心当たりがあったりなかったりあったり。ふーーーーーーーーーーん。


 屋敷に言って泥団子取って来るわ。一度、戻って来た祖父に提案したら反対された。うん、冷静になって振り返ってみると確かに酷い発想だ。でも今までだって特段凄い発想なんか一つもないぜ。でも、生きている。生きてここにいる。

「やれることやるしかないよ。」

 それだけだ。そうして今、ここにいる。だから、また、やれることをやる。やるぜ、俺は。

 むやみやたらにうろつき回ればそれだけ見つかる可能性が高くなる。祖父の正論に、返せる根拠も正論も持ち合わせていない。それだけを述べる。どう考えてもおじいちゃんの方が正論なのに、おじいちゃんが口をつぐんだ。

 蝙蝠が鳴く。庭園の木々か花壇の花か、葉擦れの音がした。人工的に配置された彼らは、見栄えのために常に整えられ時には間引かれる。今日もきっとあの、ほとんど造形物めいた美しさであるだろう。

 祖父が口を開く。

「一体、お前の強さは誰に似たんだろう。」

 それは本当にそう。両親は現実に押しつぶされてしまった。俺もほとんど押しつぶされそうだ。いつもそうだ。それでも、俺は押しつぶされずにやってきたし、やってきている。辛うじて、だけど。



 「あちらの廊下に、鉄の玉が落ちていたのですが、あれはこの部屋の部品の一つではありませんかね。ちょっと見て欲しいのです。それとも、その、こういう時ですし、何か危険物でしょうか。」

祖父がまんまと兵士を連れ出す。


 装置はまあまあの大きさがあった。二か三mはある。ガラス管、フラスコ、ばねに振り子、の玉が取り付けられてある。うん、こうして見比べると鉄球とレオの泥団子は似ていた。まぁどっちもこの星の欠片だものな。

 壊さないよう、触れないようにそろそろとその脇を通り過ぎる。

 扉を開けた先、今回の黒幕である左大臣様が待ち構えていた。


 モザイク細工の床にセコイアのように太い柱が立ち並ぶ回廊。その先に左大臣様は後ろ手に手を組んで立っていた。窓の外からの明かりだけが頼りだ。そのせいで、ほとんど色はない。左大臣様はカツカツと沓の踵を鳴らしてこちらへ近づいた。柱の影からは兵士達の息遣いが聞こえる。

 俺?味方はなし。

 白いひげは宮廷の作法に従った付け髭だろう。証拠に左大臣様の眉は黒い。眼差しは黒く小さく冷たい。

「はっ。わざとネズミを捕まえるために、警備を薄くし通るならここだと思わせた。まんまと引っ掛かったなぁ。」

 気付いてたし!!!気付いてたしーーーーー!!!!!!

 左大臣は目じりを下げたけど、ちっとも笑っているように見えない。

「お人好し皇太子殿下が、こちらの思惑に気が付いたのは想定外だったが。」

お人好し皇太子殿下、というのがレオのことを指していると気が付くのに時間が掛かる。あ、そうか。裏切り者の息子を庇ったなんて、お人好しと見られておかしくない。

 敵国と左大臣は手を結んでいる。戦争を終わらせたと見せ、条約を結ぶ。そうして、ゆっくりと敵国を我が国で重要な地位へつかせ、そのうち乗っ取らせる。手伝った褒美に自分は乗っ取られた国でも確かな地位を確保する。おおかた、こういう腹積もりなんだろう。だけど、レオは敵国の腹積もりを暴き、俺を報せに使わせた。

 レオはお人好しなんかじゃない。レオは大抵、疑りから入る。初恋の君に裏切られた傷は深い。それとも、母が子供を見捨てる様を横からじっくり眺めて何も学ばないほどレオは馬鹿じゃない。だけど、疑っていることを人に見せないだけだ。

 たぶん、レオは自分と俺だけ信じている。だから、俺はレオを裏切れない。





 齢四歳のガキがだぜ。自分の腹に鋏を突き立てるんだ。鋏は幼児特有のぽっこりとした柔らかな腹に既に血を滲ませている。そうして、レオは俺を殺したら自分も死んでやると言った。信じられるか。

 俺は生かされることになった。

 レオはまるでドーナツのつまみ食いが成功したみたいに笑って、俺の手を握った。

「これでずっといっしょだぜ。」

 俺はガタガタと震えて口も聞けなかった。その手を振りほどきたかった。けれど、あんまり怖くて出来なかった。膝が震える。恐怖のあまり俺は漏らした。


 レオは俺がずっと一緒にいることを所望した。そう文字通り、ずっと一緒だ。寝る時も飯を食う時も。自分のいないところで俺の首が無くなるのが怖かったんだろう。

 それだけ一緒にいりゃ、嫌でも慣れる。レオは、レオだけは以前のまま、変わっていなかったってのもある。


 レオは誰も信じていない。よくつるんでいた同級生が間者だと気付いたのはレオだった。使用人としてしっかりしろよと言われたら返す言葉はない。

 警備兵にそのことを告げて、今はその帰り道だった。庭園を抜ければ屋敷だ。庭は庭師だった俺の親父がいなくともさっさと次の人員が配置されたから変わらず美しい。刈り込まれた茂みからは見苦しく飛び出た葉や枝はないし、花は真っ直ぐ整列している。噴水は枯れることも零れることもなく、定量を噴き出し続けている。太陽の光が雫に反射して今日も庭は盛りだ。

 レオは噴水の周りに置かれたベンチに腰掛けた。俺は、そのベンチが使われているところを見るのは今日が初めてだなと考えていた。ベンチは庭を美しく見せるための構成物の一つ、飾りと認識されていた。

「俺が恐ろしいか。」

 レオは俺の顔を見上げた。何せ、俺はベンチに座らず傍に突っ立っていた。俺は頷いて、口を開いた。

「まあ。でも、たぶんそのうち慣れるんだろうなとも思ってる。」

うん、とレオは言った。どうして泣かないんだろうと思った。怒りもしていない。

 それから、裏切っているんだろうと思いながら付き合っていたわけだから、怒りようも悲しみ様もないのだと悟る。端から人間を諦めている。それってさ。それって、とてもものすごく、王様には向いていない、ような気がした。

 当時の俺にとって、王様っていうのは人民や兵士の力をいつも信じている人のことだった。

 

 腹の底で何かがグルグルと回っていることに気が付いたのは晩飯を食い終わってからだった。


 それが苛立ちだと気付いたのは一週間後の風呂の中だ。




「もう一つ、いいことを教えてやろう。」

左大臣がうっそりと笑う。色がないせいで、白い笑みは温度さえも感じられなかった。肌の色はまるで死体のようだ。

「レオナルド皇太子殿下は死んだ。」

 そうだろうな。俺はポケットに手を突っ込んで、鷹揚に頷いて見せた。

「俺が隊を抜け出した時、既に戦況は思わしくなかった。」

でもレオが俺の役割を担うことは許されない。レオは皇太子で隊の指揮官だ。人民を仲間を見捨てることは許されない。

 俺はレオが死ぬかもしれないことを知っていた。たった一人、生涯の主を見捨て、俺は隊を抜け出した。

 強がりか、と左大臣様は笑う。

 今わの際に強がらないでいつ、カッコつけるっていうんだ?



 ふかふかの絨毯の上に吐き散らかす。胃がキリキリと引き絞られる。立っていられなくて、のたうち回る。それでも横目でレオを見やる。痛みで視界はぼやけ、その上揺れていて表情まで見えなかった。

「きょ、今日、ミートボールにとま、トマト入ってる……。」

そこで俺の意識は途絶えた。

 本当にあそこで死ななくて良かった。最後の台詞が、トマトがどの料理に入ってるかの報告なんて締まらないにもほどがある。

 あとで、レオに見れば分かると言われた。甲斐がない奴だな。


 夜間に間者がやってきたというので、ちょっとしたジョークのつもりで夜に忍び込んだら、間者に間違われて殺されかけた。UNOしようぜっていったら本気で殴られた。

 でもUNOはやった。二勝三敗でレオに勝ち越された。


 扉を開けたらレオが半裸のお姉さんに乗っかられてて、固まる。叶うことなら、「うぇーい、今日こそ俺の疼く右手がお前を下すぜ」とかいう中二病全開の登場台詞をやり直したい。さっきまではカッコイイ台詞だと思ってたけど、こうして仲間が大人の階段を登っているところを目の当たりにし、それが幼稚な言葉だと悟る。もっと、そっと悟りたかった。

 レオの目線が助けを求めていることに気付く。なるほど、レオの手首は手錠でベッドのへりに固定され、床には怪しげな瓶が転がっている。ハニートラップだ。しかし、俺は生まれて初めて見る女性の胸に頭が真っ白になっていた。何がとは言わないけどピンクじゃないんだ。

 そうこうする内、お姉さんが俺とレオを見比べだした。

「え、あ、え。つまり、お二人、そういう感じ。王子ってそういう……。」

 そういう感じがどういう感じか俺はまるっきりよく分かっていなかった。けれど、兎にも角にも頷く。

 「違う!!!!」

 レオが珍しく突っ込んだ。



 庭園の白薔薇は赤い血でまだらになっていた。泥と血で見るも無残な様子だ。

 雨が降りしきっていたけれど、レオも俺も差し出された傘のおかげで濡れずに済んでいた。死体はすぐに片付けますからと右大臣だか何だかの人が言う。片付けの指示や他に裏切り者はいないか検査で辺りは騒がしい。けれど、レオの周りだけは空気が凍り付いてしまったみたいだった。

 レオはじっと死体を見下ろしていたけれど、ふいに顔を上げた。俺を見る。傘の影にいるのに、よく光を反射するその瞳には変わらず光がある。レオは屈しない。

「どう思う。」

 今度は俺が死体を見下ろした。首を傾げる。

「流石に、慣れたぜ。」

 レオを見やる。

「人ってみんな、いつか死ぬし。ま、それまでお前も俺も楽しくやろうぜ。」

レオが小さくにっと笑った。



 乳母だった人がレオを襲おうとしていたから、俺は後ろからグサリとやった。何にも考えないで刺したから、乳母だった人はレオにドサリと覆いかぶさる形になってしまった。まだ俺もガキだったから、退かすのに苦労した。体を押し付けるようにして死体を退かす。退かし終えたら汗だくになった。

 レオは仰向けになって寝転がったままだ。俺はレオに手を差し出した。手を握られ、ぐっと引かれる。俺はバランスを失って、レオの方へ倒れ込んだ。

「なん、何。」

 レオは丸い瞳で、心底不思議そうな顔をした。

「何で、ヨミは俺を裏切らないんだ。」

俺は呆れかえってレオを見下ろした。

 ずっと一緒にいて、と願ったのはお前だろ。


 当たり前に寂しがりで傷ついているのを知っている。或るいはそう勘違いしているだけかもしれない。本当のところ、自分の気持ちもわからないままで、だからレオの気持ちや考えなんて絶対に俺にはわからない。

 俺の中のレオはしょせん、俺の創作物に過ぎない。

 でも、それはどうでもいいことだ。そうだろ。




 俺は二本の足で大地を強く踏みしめた。真っ直ぐに左大臣を見る。

「だから、何だよ。」

 俺の行動にレオは関係ない。

 俺が、そうだ、他でもない俺が、レオの傍にいたいと願った。お前の魂と同じ土俵に立っていたいと思った。俺も、お前が守りたいものを守りたいと考えた。

「それは俺とレオの意思を阻みはしない。」

 左大臣様が腕を上げ、振り降ろした。ザッと銃を構えた兵士達が現れる。両壁にズラリと並んでいる。

 でも、だから何だよ?進むしかない。それしかない。


 兵士達に向かって駆け出す。

 ズドンという音がした。空気がずっとビリビリ振動しているからたぶん、その後も鳴っているんだろう。でも、さっきの音が大きすぎて、酷い耳鳴りが起こって、何にも聞こえない。足が重い。腹に衝撃。後ろへ吹っ飛ばされそうになる。堪えて、拳を前に立ちはだかる男の頭に振り落とす。横に薙ぎ払う。

 足を前に出す。当たる衝撃が俺を後ろへやろうとする。

 流石にもう無理だ、って思う。思うぜ。流石にな。もう嫌だ。だけど、無理だって思ってもさ、もう前に進むしかないわけよ、マジで嫌になるけど、もう無理だって思っても、前に進むしか道はない。他に出来る事もすべきこともない。後ずさりしたいのに、前に進むしかない。前に進むしかない。

 前を真っ直ぐ見据える。息を吸い込む。深く、酸素で肺を満たせ。前に進むための秘訣だ。当たり前のことだって?そうだよ、前に進むのに秘訣なんかない。だからこんなに苦しいんだ。


 ヒィ、と左大臣様は後ずさろうとした。衣に足を引っ掛けて失敗し、盛大に尻餅をついていた。アンモニア臭が広がる。

「怪物だ。」

 俺はにい、と笑って見せた。

 怪物だったら、どんなに良かっただろう。そしたらどんなに良かっただろう。鉄の皮膚は怪我なんかしないんだろう。骨なんか折れないんだぜ。

 でも、残念なことに俺は人間だった。あんまり痛くて、進むのが苦しい。呼吸の一つも満足に出来ない。

 進む。



 待ち合わせ場所までどうにかこうにか辿り着けば、待っていた祖母が小さく悲鳴を上げた。大丈夫なのと問われる。大丈夫と答える。そんな訳ないでしょと返された。じゃあ何で聞いたんだ。うん、わかってる。俺の事が心配なんだよね。ありがとう。

「もう無理よ。」

 祖母の言葉に首を横に振る。無理なの、無理なのよと何度も言われる。

「諦めて。諦めなさい。ねぇ、何で、どうして、あなたがそこまでする必要があるの。」

もう、私達にはあなたしかいないのよ、と言う。それは申し訳ない。ごめんなさい。

「でも、結局、俺は母さんの子でもあるんだ。」

 目を瞑る。

「ね、だからさ、行こう。」



 時計が朝を告げる。

 ちなみに調印式は朝の九時に開始だ。わぁ!あと三時間しかない。

 余裕のある朝というのを過ごしてみたいぜ。



 腹の傷をおばあちゃんが持ち歩いている裁縫セットで縫って、人目を避けて移動する。

 視界は最悪だった。ずっと揺れている。しかも足に力が入らない。一歩踏みしめる度にガクンと体が下がる。おばあちゃんが俺の体の下に入って支えてくれている。重いだろう。頭には、今度の旅で旧知の友となった頭痛がまたもや居座って脳みそを絞り上げている。そのせいでずっと吐き気もしていた。脂汗が気化してずっと寒い。

 祖母はずっとすすり泣いている。

 時計の鐘は八回鳴った。調印が行われる広場はまだ見えない。


 人が増えだす。途中で人目を避けることを諦める。そんなことしてたらいつまでたっても着かない。

 ただ、地面を、というか自分の足を見つめる。右足を出す。そしたら左足だ。出した。次は右足だ。交互にどちらの足を出すことを考えていないと忘れそうだった。

 足はどんどん赤くなっていく。


 人の声も聞こえない。右を次は左だ。

 なあ、いつまで、これを繰り返せばいいんだ。


 肩に衝撃、或いは抵抗。顔を上げる。視界はぼやけている。髭面の男が正面にあった。何か言っている。でも、言葉として捉えられない。まるで知らない外国語を捲し立てられている。

 その時、時計の鐘が九回、鳴った。

 男の肩越しに、壇上を見る。

 俺はいつの間にか調印式の行われる会場、市民(といっても宮廷に出入り出来る程の身分を持った人達だけど。)がその様子を見るためにステージ下に設けられた場まで来ていたらしい。

 ステージの上には、市民がその御尊顔を拝見できるよう、王様以下略の席が此方を向けて配置されている。既にお歴々は席に座っている。陛下の姿もあった。

 俺はさっと視線を戻した。兵士が幾人か。未だに言葉を理解出来る程の思考回路は戻ってきていなかった。しかし、人語なんてそう大したものじゃない。

 身を屈める。兵士らの隙間へ飛び出す。二歩目を踏み出したところで後ろにぐっと引き戻されそうになる。

 俺は空気を求めるように顔を上げた。

「へいか!」

 声を張り上げる。進みたくて、力の入りきらない手足を振り回す。沢山の腕が飛び出して俺を沈めようとする。

「へいか!」

俺は、胸ポケットに手を突っ込んだ。手紙はそこにあった。しわくちゃで紙は毛羽立ち何かもそもそしている。しかし、手紙の中央にはレオの封蝋がしっかりある。

「へいか、レオからです。レオからのてがみです。」

 俺は目一杯に腕を伸ばし、手紙を振った。

 陛下が騒ぎに気が付いて、こちらを見る。

「へいか!レオからのしらせです。」

声を上げる。

「陛下が、そんなゴミ見る訳ないだろ。」

 見た目、ゴミなのは本当に申し訳ない。すんません。

「へいか。」

 陛下が立ち上がった。御付きの人達が陛下を邪魔する。駄目だ。座らないで。俺のこと信じてないのは知ってる。だから、意地でもレオからだと分かるように手紙を残した。伝言なんて出来る訳ないのはわかってた。信じてもらえなくて当たり前だ。俺を信じているのはレオだけ。レオだけだ。でも、レオは違う。

「レオからの、てがみです。へいか。」

 陛下はきっとレオを信じている。俺は信じている。陛下がレオを信じていると知っている。或るいはそうだと知っている。

 陛下がステージを降りる。モーセが波を掻き分けたみたいに人波がはける。

「陛下、危険です。」

 兵士や御付きの人が邪魔をする。駄目だ。駄目。いや、マジでそれがあなたがたの職務なのはわかる。こんな怪しくて汚らしい男、陛下に近づけちゃならんのもわかる。こんな時だしな。普通に警戒されるわ。それに、よりにもよって俺だわ。

「へいか。」

俺には声を上げ続けるしか術がない。他に方法がない。仕方がないことだけど、諦めるわけにはいかなかった。俺は、俺は決めた。レオの使命を果たすと俺は決めた。へいか。

「危険なことなどない。」

 陛下が、口を開いた。陛下が、俺の元へ、近づく。

「かの者をよく知っている。」

 俺を抑えつける力が弱くなる。人々は頭を低くする。

「この男は裏切りなど起こさない。未来永劫、そのようなことはないと言える。そういう者だ。」

 陛下が俺の手から、手紙を受け取った。

 視界の端にあった白が急速に広がる。

 俺は瞼を閉じた。

 瞼の裏に広がったのは、この旅でさんざ見つめ続けた青空だ。雲一つない。







 瞼を上げる。瞼の裏の青空と同じ、晴れ渡った空が広がっていた。

 人々の歓声が聞こえる。光が俺と傍らの男にも、眼下に集まる市民にも降り注いでいる。遠くに見える屋根の一つに日向ぼっこしている猫がいて、口角が上がる。

「何、にやついているんだ。」

 奇襲を返り討ちにした奇跡の将軍が俺の腹を小突く。或いは、今日、この国の王になる男だ。

「レオ。」

名前を呼ぶ。

「これからだぜ、ヨミ。俺とお前で、これからだぜ。」

レオがにっと笑った。弧を描いた瞳の光は相も変わらず、滲みそうにも消えそうにもない。

「おう。」

俺はいつかのように返事をした。

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空の騎士 @2805730

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