第二部


 山を越えて領土内に入ったといっても暫くは森だった。

 フラップがないから着陸箇所をえり好みして探す。

 このフラップというのが着陸する時に滑走路を短くても大丈夫なようにしてくれる代物だったんだな。

 もう目をかっぴらいて着陸箇所となるだだっ広いところを探す。空気が眼球に入って若干ピリピリするがそんなことを言っている場合じゃない。ドライアイ。

 太陽はもう地平線に片脚を突っ込んでいた。早い早い早い。冬に近づいているから日照時間が短い。戦争は兵士工面の都合上、農閑期の冬にしかできないからだ。

 どうにかこうにか見つける。もう太陽は沈んでいた。太陽が最後に見せてくれるあの真っ赤な残滓の中で、二の視力を活躍させたってわけよ。


 そんでもって燃料がいよいよのいよだった。

 レーションをもそもそしながら、薪の燃えさしを松明に、飛行機の燃料入れを開ける。松明の炎で浮かぶ影は黒くて見えづらいがそれでも燃料が少ないことが見てとれる。

「あの村でついでに燃料もぶん捕ってくれば良かったかもよ。」

 極悪人の俺が隣でせせら笑う。俺は頭の可笑しい妄想を追い払うために、燃料入れのフタを閉めてから松明を振り回した。ジリジリと炎は燃え進めていたらしく、いつの間にか松明は短くなっていて指をちょっと火傷した。何で、俺が。



 ふいに森がまばらになり出す。不思議に思っていたけど疑問はすぐに解決した。畑や牧草地が広がりだしたんだ。

 羊の姿が最初に目についた。それから牛や馬が車を引いているのも見かけるようになる。動物よりもぐっと少ないけど人も見つけられるようになった。人々は決まって作業の手を止め、手で影を作りながら此方を見上げた。

 ちょっと照れる。


 進めば進むほど俺の気は重くなる一方だった。肺をどんどん塞いで息が薄くなる。だけど、呼吸を深く吸うのは何だか躊躇われた。

 嘘つけよ、と俺がひょっこり顔を出す。

「お前はそうやって自傷にも満たないそんな行いをすることで罪悪感を減らしているだけだ。」

唇を噛もうとしたら、ヒョイと俺の脳内のレオが出てきて、ひょっこり顔を出してきた俺の隣の俺の顔面に拳を叩き込んだ。俺は吃驚して口も聞けなかった。おいおい駄目だろって話だけど、前方を見るのも忘れて脳内のレオを見つめた。

 俺の脳内レオは俺へ振り返ると、先ほどまで俺がいた場所を親指で差した。

「なぁ、こいつ、殴っていいか。」

俺は息も絶え絶えにもう殴ってんじゃんと答えた。

 いや、マジでお前、そーいうとこ。


 レオは生まれ変わるなら羊飼いがいいと主張した。物語の勇者は大抵、羊飼いだからだ。例え勇者になれなかったとしても、羊や犬と駆けまわりたいからやっぱり羊飼いがいいと言った。

 小さい時の話しだ。あの時のレオは王位継承権第三位くらいだったけどやっぱ王子だからな、与えられる玩具は全部綺麗だった。箔押しエンボス加工の美しい装丁の童話の本を膝に載せてレオはそう言った。こんな風にじっとしていてねと本を渡される時間がレオは大嫌いだった。俺もだった。だった、というか今も嫌いなんだけどな。気がムズムズしていても立っても居られなくなる。

 レオも俺も走り出したくて仕方ない年頃だった。走るのに理由なんかいらない。体をぐっと動かすのは、筋肉や繊維が伸びて気持ちいい。風が熱くなった頬を冷まして体が膨らむ。

「ずっと走りまわってられるんだぜ。仕事だからな。」

レオは本の挿絵をなぞった。

 俺?俺は来世も絶対自分がいい。だって、羊飼いって大変そうじゃん。


 この世は対価交換で成り立っている、ということになっている。労働を金に換えて、金を生活の資源に替える。

 通行許可書を見せて資源を譲ってもらわなくてはならなかった。

 肋のすぐ下、恐らく胃のあるところ、特に胃の上部がキリキリと絞られた。

 どうでもいいけど、胃って以外と上の方にあるよな。いや、胃の後に小腸と大腸が控えてて、全部を胴体に収めなきゃなんないわけだから、不思議なことではないんだけど。でも、胃って臍の辺りにあるような感じしないか。


 飛行機を着陸する場所にも気を遣う。牧草地や畑、休耕地に降ろすのは嫌だった。

「今更、心証を気にしているのか。どうせ資源を略奪するんだから恨まれるに決まっている。」

 ようやく降ろす。近くの人家は丘の上にあった。そちらへ向かって歩きはじめる。

 吹いた風は土の匂いをはらんでいた。草がさやさやしている。

「お前はいっつも、人がどう思うのか気にしているな。」

俺がせせら笑った。

「お前のいいとこだ。」

 俺の脳内のレオが力強く言った。レオの栗色の髪が夕日に照らされて赤く輝く。まるで、鬣のようだった。

 あんまり力強く言うもんだから、俺は歩みを止めた。それから、また、歩き出す。

 それ、フォローになってないぜ、レオ。お前、本当にマジで、そーいうとこ。


 家の戸口に立つ。それから、燃料はまだ暫く保つんじゃないって思い至った。燃料は所謂、油だから半年で酸化してしまう。期限がある。だからもうヤバイヤバイヤバイもう無くなるっていうところで貰った方がいいに決まっている。そうすべきだ。貴重な燃料を失う被害者は少ない方がいい。

 俺は戸を眺めているようで眺めていなかった。

 それで、今、貰わず(それとも奪わず、と言うべきだろう、と俺が懲りずに笑う)、飛んでいる最中で尽きたらどうする。どうしようもない。落っこちるだけだ。手紙諸共、俺は機体とごっちゃになる。

 指の関節を戸に近づけて止める。ノックをして音を立てれば、もうやるしかない。事象は確定されて逃げられなくなる。

 陽はとうとう沈んだ。俺はクシャミをした。寒いわ。俺は木戸をノックした。


 音がない。

 留守かな。俺の恰好は兵士の時のままだ。察して居留守かもしれない。

 とにもかくにも家人が出なければどうしようもないよな。つまりこれは神様が俺に今はその時じゃないと言っているのかもしれない。或いはこの行動はすべきじゃないと言っているのかもしれない。うんうん、そうかもそうかも、そうかもしれない。

 俺はうんうん頷いた。体の向きを変えるために足を上げた瞬間、「はーい。」と家の中からおばあさんの声が聞こえた。

 胃の入り口がきりきり絞られてシクシクしだす。今夜は飯を抜こう。


 「あらぁ、兵隊さん。お勤めご苦労様です。おひとり?何かの任務の途中ですか。」

開いた戸から杖をついたおばあさんが出てくる。杖は使い込まれて飴色に輝いていた。おばあさんは赤く分厚いショールを肩に羽織っていた。足がだいぶ悪そうだった。

 俺は、はい、そうなんですと返事をした。

「あら、じゃあ、お腹が空いてるんじゃない?是非、食べて。」

 手を引かれる。

「ありがとうございます。でも、あの、」

おばあさんが笑った。俺は口を閉じた。

「うふふ。一人じゃない夕飯なんて久しぶり。ね、それもこんなに若くて男前さん。」

俺は思わず笑みを落とした。

「俺も、こんな素敵なレディと食べるの久しぶりですごい嬉しいです。」

 俺が頬杖をついてあぐらをかいていた。

「何ていい人なんだろう。お前の悪行がますます対照的に浮かび上がるなぁ。」


 廊下は薄暗かった。

 やっぱり燃料を節約しているのかなぁ。というかわざわざこの人のところで貰わなくてもいいしな。こうやってズルズル先延ばしにするのは俺の悪い癖らしいんだけど、わざわざ足が悪い人のところで分捕る必要はない。

 通された部屋は、元はリビングだったんだろう。大きなダイニングテーブルがあったけど上にいっぱいものが載っていて、今は使っていないようだった。その先の台所に案内される。

「そちらに座って。在り合わせのものしかなくて悪いのだけれど、今、用意しちゃうわね。」

 俺は首をブルブルと横に振った。全然気にしていないことを伝えたくて、大袈裟に振る。おばあさんは笑ってくれた。

「支給された携行食料は、本当はこんなこと言っちゃいけないんですけど、もーまずくて。」

俺は首を屈めながらおばあさんの後ろについていく。

「手伝います。俺、おばあちゃんっ子だったから、手伝えます。」

 おばあさんは小さくて、ひょっとして俺の腰くらいまでしかなかった。まぁ、俺、足長いしな。

「そうなの。こんな素敵な子がお孫さんなんてあなたのおばあさんもきっと嬉しいわね。」

 そうだといいです、と答える。俺は祖母の孫で良かったと思っているから、祖母もそう思ってくれていたら嬉しい。

 皿を拭いて片づける。ごめんなさいねとおばあさんが言うから、実家を思い出しますと話題を逸らす。人に謝られるのは苦手だ。どうしたらいいかわからなくなる。


 夕飯はおばあさんが貰ったというプリザーブとオートミール粥、それから目玉焼きだ。キッチン横の二人掛けのテーブルにおばあさんと向かい合って座る。上部の照明器具には電球が三つ取り付けられていたけれど、二つは切れているらしかった。

「ごめんなさいね、薄暗くて。電灯に手が届かなくて。」

俺は電球ありますか、と聞いた。食べ終わったら皿を洗って、それから取り付けようと思った。

「あら、いいの、ありがとう。」

それからおばあさんは小首を傾げた。微笑まれる。

「それで、本日はどんなご用でいらっしゃったの。燃料か何かがご入用でいらっしゃるんじゃないかしら。」

 俺はスプーンを持ったまま固まった。それから返事をしなくちゃいけないということに気が付く。

「え、あ、えーと、その。」

おばあさんは困ったように笑った。

「あらあら、遠慮なさってちゃ駄目よ、兵隊さんなんだから。どうぞ。この楽しい一晩のお礼に。」

俺は顔に血が昇って下を向いた。


 でも、とか、あの、とか言ってみたけどおばあさんは聞かなかった。

「だって、あなた、きっと他の方に言えばたぶん嫌な思いをされるわよ。」

 俺はしおしおと俯いた。その方がいいくらいだった。だって、そんな。

「たぶん、息子や孫に知られたららきっと罵倒されるわ。」

そりゃそうだ。こんな年寄りの冬の蓄えをわざわざ剥ぎやがって。国は弱者からいつだって奪ってきやがるって俺なら思うな。

 それから、顔を上げる。

「そしたら、お礼に何でもやります。何か困ってることないですか。」

 俺が心の中で俺の首元をじっと睨んだ。


 何日ぶりに布団で寝るのだろうと考えを巡らせて、ほぼ一年ぶりと思い至る。本当に遠くまで来た。

 家中の電球を取り換え、ついでに掃除したあと、おばあさんの息子さんが昔使っていた部屋に案内された。

 部屋の壁紙は青と白の縞模様だ。カーテンは青の織物、箪笥が一竿あった。窓際に置かれた勉強机の様子といい、昔のままにしてあるようだった。ベッドは、うん、少し俺には小さいが、それはいつものことだ。斜めに寝れば大体入るだろう。

 布団!甘美な響きだぜ。

 だけど、せっかくの布団なのに、堪能云々どころか頭を枕に置いたか置いていないかの段階で意識が急速に暗くなった。




 「開廷。」

ウサギが木槌を叩いた。俺はその光景に、これ何だっけと考える。

 バッとライトが当てられる。それで俺は今の今まで自分が暗がりにいたと知る。見回してみれば、俺はどうやら何かやらかしたらしい。被告人席に立たされて、しょんぼりとさせられている。そうだ、これは裁判だ。思い当たる。そしたら俺は自分の不利を隠さなくちゃいけない。

「”どうやら何か”だなんて、わかっているだろう。」

 あの俺が陪審員席にいた。えー。あいつに公平な判断が出来るとは思えない。

「わかんないぜ。心当たりは沢山あるもの。」

 カチャと小さく金属音が聞こえた。確かに傍聴席は人がいるのに、誰も彼も物音を立てないから響いたようだった。傍聴席の人々に光が当てられていないせいで暗がりに沈みこみ、輪郭だけがぼんやりとある。

「つまり、余罪があるということですね。」

 ウサギが耳を広げて言った。

 あ、しまった。俺は目を瞑った。

 ウサギがガンガンと木槌を叩きだした。絶え間なく響く音が思考をしようとすれば横入りしてきて邪魔をする。

「皆さん、聞きましたか。彼は罪を認めそれどころかさらなる罪があることを告解しました。」

ウサギの声はウサギ自身の打ち鳴らす木槌の音で酷く聞こえづらかった。いいのか、ウサギ。それとも俺だけなのかもしれない。傍聴席はウサギの言葉でにわかに賑やかになった。けれど木槌の音でやっぱり詳細は聞き取れない。群衆のさざめきは波のしじまのようだった。

「それでは罰を与えなければなりません。」

 ウサギの言葉に、舞台の裾から別のウサギ二羽がルーレットをゴロゴロ引いて来た。俺はどうして裁判所に赤い垂れ幕が掛かっているのか不思議なことに疑問に思わなかった。

 ルーレットの九割はしばり首とあった。ほとんどがしばり首だったから、俺とルーレットの間には結構な距離があったにも関わらず、赤の地に水色の文字でしばり首と書いてあるのがよく見えた。残りの一割はよく見えなかった。たぶん地の色は緑で文字は黄色だと思う。

 派手なドラムロールと共にルーレットが回される。残像は赤と水色だ。緑も黄色も目で追う事が出来ず、消失している。

 俺とは別の俺が意気揚々と長い脚を伸ばし、ルーレットの前に出る。そうして、ダーツの矢を何でもないように投げた。矢はBGMのドラムロールの派手さが浮いてしまうくらいにス、と刺さった。

 ルーレットの動きがゆっくりになる。そうして止まった。ダーツの矢は緑のところに刺さっていた。

 あれは何だろう。無罪放免とかだったらいいのになと思ってもいないことを思う。

 突然ラッパが鳴る。思わず、肩が飛び上がる。音の衝撃に目がさえ、それで自分は眠気を覚えていたことを知る。振り返れば、最初のウサギが木槌からラッパに持ち替え、高らかに吹いていた。ウサギのくせしてあのウサギ、ラッパ吹けるんだ。凄い。

「決まりました。決まりました。彼の罰は『罰を与えられない』ということに決まりました。



 目を開く。目を開いてから、自分が目を開いたことに気が付き、そこから自分が目を閉じていたことを知り、眠っていたのだと推察する。

 悪夢に見せかけてそうでもない夢だった筈なのに冷や汗が出ていた。体の表面が冷たい。心臓の表面も冷たいような気がした。

 俺は上半身を起こした。シーツを掻き混ぜ、しわをなでる。ぬるまったシーツは蒸れてまとわりつくようだった。

 久しぶりの快適な寝床に体が順応できていないのかもしれない。それとも知らない人のベッドに持ち主の許可を得ず寝たからかもしれない。

 俺は膝を立てた。頭を膝かしらに載せて、窓を見た。カーテンを閉めるのを忘れていたから、外が見える。街灯の灯りが青白く窓ガラスを照らしていた。雨が降っているらしい。トントンとポソポソの間のあの独特の雨粒の落ちる音がして、窓ガラスに水滴がポツポツポツとついている。

 目を瞑る。雨の音は集まって一つになって、サーッというような印象を与えた。


 結局、俺はおばあさんのところで納屋と柵を修理し、芋掘りの収穫をして、任務に戻った。燃料代の渡した。こんなんで足りる訳がないのに、お礼にとパンをくれた。嬉しくてちょっと目から鼻水が出た。鼻水だぜ。



 おばあさんのところで確かめたところ、俺は大分、北に流されていた。王都への道程はその分ある。道中、燃料を奪う回数もそれなりに増えるということだった。



 冬は晴れた日が多いのにどうして灰色のイメージなんだろう。夏のが雨が降っているけど、夏のイメージは青や水色だ。

 透き通った冬の空を飛ぶ。透き通り過ぎて空の色は薄く、灰色がかってみえるからだろうか。ものの見事に空には何にもなくて肺の中に風が満ち溢れていく心地がする。真っ直ぐに飛ぶ。

 眼下は今までと違って変化があって面白い。似たような営みをしているはずなのに人は一人ひとり違った生活をしている。丘の上に住む人(見晴らしが良さそう)、下に住む人(丘が風除けになっているのかもしれない)、大きな屋敷(代々続いてきた豪農だろうか)、小さな家(開拓者の家かな)、たくさんの人生がある。

 俺は少しだけ目をキュッと閉じた。口がむにむにと動く。そういう人の営みとか色んな人の人生があるって考えるだけで胸がそわそわして心が動くのがわかる。面白い、って思う。ワクワクする。あぁ、それでも、そう、人が俺を好いていなくても俺はやっぱり人が好きだ。それに、ホラ、俺にはレオがいる。そしたら十分じゃないか。


 畑が少なくなってきた。乾いた地面が見える。さらに進めば、ポツポツと鉄塔が現れだした。

 俺はいつか受けた地理の授業や記憶を頭の中でガシャゴシャと探し出した。うーん。地理の先生の説明が下手くそで、でも作ってきてくれるプリントは超わかりやすかったことは思い出せたけど、肝心の中身がさっぱりポンで思い出せない。わかりやすいプリントはどうした。

 思い出せたのは歯車のついた鉄塔がウィンウィンと動いて、地下から何かを引き上げている姿を目にした時だった。

 そうだ、南方は牧畜(特に羊)を中心とした農業地帯だが、真ん中は工業地帯だ。鉱山や地下から鉄鉱石を掘りだしているはずだ。


 思い出すのは悪さばかりだ。だから、思い出すと先生方に申し訳なさが立つ。俺は目を細め、地平線を見た。また新たな山が遠くに蒼白くある。

 授業中、レオに向けて紙飛行機を飛ばし、よく放課後にチャリで隣町まで遠乗りしようと誘った。俺は一人に一台、自転車でサイクリングしようぜという意味で誘ってんのに、アイツときたら、三回に二回くらいは、誘ってきたのはソッチだろうとか訳の分からない理屈でもって俺の後ろに乗ってきた。そう、アイツは俺にチャリをシャカリキに漕がせて、自分はその後ろに乗るのが好きだった。アイツ、クソ重いのにだ。自分の体重を考えろ。それなのにレオと遊びたくて、しょうがねーなー、で許しちゃう俺が一番馬鹿だ。今はニケツって犯罪だからな、いい子はやっちゃ駄目だぜ。

 坂を立ち漕ぎ通り越してがに股漕ぎして、駆け上る。お前、マジで馬力あるよな、この激坂をこんな速さで征服してるの見たことないってレオが感心したように言う。じゃあ、降りてくれ。と言いつつ褒められて悪い気はしない。何より、ヒイヒイ言いながら坂を登り切ったあとでブレーキ掛けずに坂を下るのは胸がすく。これをすると何にも覚えていられなくなる。テストとか嫌味とか授業の内容全部忘れる。シャブだぜ、これ、なんてレオに繰り返し言ったものだ。レオと俺、二人分の体重でブレーキを掛けずに下るもんだから時折というか毎度、車体は浮いた。俺はその度に空に溶けて混ざり合うんじゃないかって期待した。ソーダの気泡みたいにさ。

 これが女の子とだったらいいのにって二人でずっと言ってた。そんなこと微塵も思っちゃいなかった。レオの方は、家柄はいいし、他もそれなりだ。俺はカッコイイし可愛い。だからモテた、え、モテてた方だと思う。でも断って二人でずっといた。うん、やっぱ、男同士のが遊ぶには楽しいんだよな。女の子だってそうなんじゃねーの。それとも性別なんか関係ないのかな。気の合う奴といるのが一番いい。それはそう。

 その後はレオが俺にアイスを奢る決まりだった。そういうことになっていた。雲は流れ、夏は暑く、俺がチャリの後ろにレオを載せた日は、レオが俺にアイスを奢った。

 俺は毎回、新しい味を選んで、レオは必ず同じアイスを選んだ。俺はそうやって店のアイスの味を制覇した。レオは秋口になるとアイスはもう飽きたって言った。そりゃそうだろ。


 でもそれはそれだ。

 何が言いたいのかと言えば、もう俺のチンコが爆発しそうだっていう話だ。いや、いや、一人ではシてた。でもさぁ、一人ですんのって寒いじゃん。こう、出し切った感っていうの、そういうのはない。残尿感ならぬ残精子感っていうの、そういうのが先っぽの方にある。二人でやった方が絶対暖かくて気持ちいいんだよね。それが女の子ならなおさら。柔らかさまで加わるわけだからさ。

 女の子ってのは偉大だ。すべすべして柔らかくて暖かくていい匂いがする。行きつけの店の、仲良くなったねーちゃん達はみんな、口を揃えて努力してんのよって言う。女の子が最初っからそういう生き物だと思ったら大間違いだってさ。それってもっと凄くね。そういう努力が出来るってすげえ。

 何でこういう話になったかって言えば、工業地帯に入れば労働者が暮らす街が出始めるだろうからだ。そういう街には大抵、そういう店もある。ある。

 え、結構、時間をロスしたのにって俺の脳内で眼鏡を掛けたいかにもインテリゲンツァ~みたいな俺が言った。

 いや、でも夜は飛行機飛ばせないじゃん。

「どうせお前のことだからそういうことになったら服を脱ぐだろ。」

その方が気持ちいいじゃん。肌って俺、好きだ。粘膜って冷静に考えちゃうと気持ち悪いけど、肌は気持ちいい。

「それって無防備だよな。手紙はどうすんだよ。」

いや、でも。でも。でもさ、人間、息抜きも必要だと思うんだよ。その方がスッキリして集中できて、正しい道をより選びやすくなるわけだろ。うん、いいとこしかないじゃん。

 いいとこしか見てないんだろ、っていう声は無視した。


 飛行機は広い所に停める必要があるから、ちょっと離れた地に着陸した。だから、街に着いた時にはもう日はどっぷりと暮れていた。けれど街中は、働いて一日を終えるなんて嫌だと駄々をこねているせいで明るい。暗いところを無理やり明るくしているから、昼間と違ってすぐそこかしらで暗闇がうずくまっている。

 窓からオレンジ色の四角い光を通りに投げ出している店でどっと笑い声がガラスにぶつかっていた。通りのあちこちでコートやフェイクファーで着ぶくれした下っ端のボーイや駆け出したばかりの女の子がチラシを配ったり声を出したりしている。そのどれもが不満そうだ。流れる人々はまるで何にも聞こえていないみたいに歩く。

 俺はポケットに手を突っ込んで辺りをキョロキョロしながら散策した。初めての街ってポケットに手を突っ込んで歩きたくなる。

「お兄さんさ、何探してんの。」

 声を掛けられて足を止めて振り返る。声を掛けた女の子は「お。」みたいな顔をした。

 女の子は明るい茶髪であとちょっとしたら赤毛ぐらいっていう感じだった。フェイクファーの襟のついた分厚い男物のコートを羽織っているけど、その下から見えているヒラヒラした裾はかなり薄い。

「寒そーな女の子、かな。」

 首を傾げて笑う。女の子もニヤリと歯を出して笑ってみせてくれた。


 女の子の肌、というか肉体に触れて掴む度に、柔らかさから脆さを覚える。実際はそんな脆いものじゃなくて、触って握っても折れたり砕けたりしないって分かっているけど脆さを感じて怖くなる。出産するから女性体の方が男性体よりも柔軟性があって強いのは知識としてある。けど、それでも触れる度に心臓がミシリと脆さを覚える。その脆さを感じさせる柔らかさが一等好きだ。

 布団にうつぶせる彼女に上半身を近づける。俺は女の子を見下ろして一方的に腰を振んのも、一人で女の子がイッちゃうのも好きじゃない。

 呼吸のリズムが近づく。汗の匂いがぐっと立つ。近い、と思う。限りなく近づいている。布一枚の隔たりもない。人間は熱い。火傷しそうだ。掌が燃えている。

 呼吸と心臓の音が一つになれる時がある。その時が一番気持ちいい。それでそういう時が来たら俺は我慢できずにイクんだけど、そうすると女の子からピロートークの時に、いやどういうタイミングでって聞かれる。それはちょっと悲しい。

 もしも、レオと俺だったらそういうことはきっとない。どうして盛り上がったのか必ずわかる。



 「親とコイツは別人だろ。」

怒髪天を突く。レオが髪の毛を逆立てて怒鳴った。レオは滅多に人に怒鳴ったりしない。大抵は最初から諦めているかそれとも見限って終わりだ。だから空気はビリビリした。俺は止めなきゃいけないのに、レオの大声とあんまりの剣幕に吃驚しすぎてボケッと呆けてその背中を見つめていた。レオの背中は広い。肩甲骨が大きいから綺麗な逆三角形だ。

 レオがキッと此方を振り返った。髪がバサと音を立てていた。俺の姿を認めてレオの瞳孔がきゅっと小さくなった。え、と思う間もなく、先ほどよりも大きな声でレオが怒鳴った。

「お前も否定しろ。」

 レオの腹の近くでレオの拳がプルプルしている。

「お前も、否定しろっ。」

冗談じゃなく、屋敷のガラスの窓が震えた。

「こっちを向け。」

 俺はレオと嫌々向き合った。へら、と笑ってみせる。レオの後ろの奴らがうらめしい。こんなにレオを怒らせたことなんかない。どうしたらいいかわからない。

「いや、まぁ、言いたいことはわかるじゃん。言われちゃうのも仕方ないことじゃん。」

ダン、とまるでお菓子を買ってもらえないガキみたいにレオが足を鳴らした。いや、お前、それって人のお菓子のために駄々をこねてるみたいなもんだよ。自分のことでそんな風にムキになってくれよ。

「仕方なくなんかないだろ。遺伝子の影響は形質に関わる数パーセントしか関わりがない。人を形作るのは遺伝子なんかじゃない。お前の道を決めてきたのはお前だろ。今のお前はお前が選んだ道の果てだ。お前が今のお前を作っている。」

 相も変わらずレオは手厳しい。その理論で行けば、人は己の人生を人のせいに出来なくなる。その全てが、自分が選んだ選択の結果だっていうのは残酷だろう。苦しいだろ。俺は楽な方でいい。だから、親や生まれに関して何を言われても平気だ。お前も裏切るんだろうと言われても大丈夫だ。

「だって、分かんねーじゃん。俺がお前を裏切ることもあるかもしんないじゃん。」

そうそう、それもそう。未来は誰だって分からない。何が起こるか分かんないじゃん。

 レオが拳を俺に振りかざした。



 目を覚ます。心臓がすげー早いビートで打ち出している。そんな早くて大丈夫、俺、死ぬの。なんて。

 女の子はもういなかった。こういう店の子にしちゃ珍しい。それほど起きるのが遅かったかと思って多少焦って体を起こす。けれど朝の陽はまだ透明で洗い立てで、外は靄がかり、それほど遅くないことを示していた。

 首を捻りながら、ベッドから出る。落ちている服を拾う。一晩中放ったらかしにしていたせいで、あーあ、しわくちゃになっている。それに構わず袖を通す。パンツも拾って履く。それから、ふと気が付く。

 手をシャツの胸元にやる。それからズボンに飛びついた。ポケットを探る。ハンカチしかなかった。

 そう、手紙は何処にもなかった。




 血の気が引いていくのがわかった。それと共に気道も引き絞られていく。心臓がどんどん冷たくなって、けれど鼓動を打つスピードは上がっていく。胃の下の方が痛み出す。

 自分が、息をほとんどしていないことに気が付いた。深く吸う。肺に冷たい空気が満ちた。同時に、視野が狭まっていたと知る。手元しか見えていなかった。

 祖父の喝が聞こえるような心地がした。おじいちゃんは静かに怒る。騎士団に入ることを決める前までは、おじいちゃんの跡を継ぐことになっていた。俺は注意力が散漫でしょっちゅうミスをした。ミスをしたら今度は周りが見えなくなって固まってしまった。そんな時、息を吸うことを怠るな、ミスに甘えるなと怒られたものだった。人間は必ずミスをする生き物で、だから大事なのはその後だ。

 顔を上げる。カーテンの生地は薄くて、閉まったままなのに部屋はぼんやりと明るい。胃はキュルキュルと握り締められていて痛いままだ。他になくなったものがないか探す。財布と通行許可書がない。先払いしておいて良かったと考える。

 それから、部屋を出た。


 階段を掛け下りる。女将さんに話せば、彼女の顔色はまるで紙のようになった。俺はうん、と頷く。

「そういうようなことをする子じゃないんですね。」

女将さんも頷く。

「信じてもらえるかわからないですけど……。」

女将さんの手があんまりブルブル震えて冷たそうで、俺は自分の掌で包みこんだ。血の気が薄い。

 彼女が顔を上げた。栗色の髪の毛は解れて額にかかっている。むくんだ輪郭、眉間に刻まれてしまった皺。瞳孔は縮こまり、カタカタと揺れている。

「何か勘違いかもしれないし、事情があるのかも。心当たりと……、一応、その手のものが換金できそうな所も教えて下さい。」

少しでも熱をと思って、彼女の手をさする。ポタ、と冷たいものが俺の手に落ちた。

「はい。」

小さく彼女は言った。


 女将さんには悪いけれど、先に「換金できそうな所」へ行かせてもらう。

 大分、朝早いようで、それとも農業ではなく工業だからなのか、通りには人が少なかった。砂ぼこりが辺りを我が物顔で練り歩いている。店先はほとんど閉まっていて、これから起こる災害にどうにもならないのにどうにか逃れようとしているみたいだった。

 教えられた通りに進む。煙草屋のある区画を右に曲がって、二つ目の角をもう一度右へ。進んだ先の左手にある階段を昇り左手の路地に入る。暫く歩いていくと露天が出ているらしい。その露天の裏の建物だということだった。

 進んでいく内、もう辺りは住宅ばかりだ。ロープが頭上には掛けられ洗濯物が干してある。家々の裏口は開いているところも多く、そこから反対側が見えた。

 果たして本当にこんな住宅地にあるのだろうか。女の子を庇って、それともグルなのかもしれない。

 考えてもしょうがないぜ、と自分の頬をつねる。今のところ、俺には信じて進む以外の道はない。なら、疑ったって仕方ない。それどころか相手にも悪い。まずそもそも彼女が盗んだとは、まだ限らないのだ。


 家のお尻とお尻が向かい合った、正真正銘、住宅地の裏というところで突然露店が出ていた。それを認めて、それがあんまり唐突で立ち止まる。俺に気が付いた露店のおじいさんが俺のことを、目を細め眉も寄せて見上げた。あんまり客商売と思えない態度なのに、それは見れば見る程、露店だった。

 舗装された道には灰青色の布が広げられ、縁の欠けた陶器のお椀や木彫りの人形が並んでいる。物の隣には小さく三角に折られた紙が置いてある。数字が書かれているから値札なんだろう。

 俺はちょっと会釈をした。おじいさんは顔のパーツを真ん中に寄せたから、すごくしわくちゃになった。

 おじいさんの後ろの建物の前に立つ。それは二階か三階建ての四角い建物だった。窓ガラスはところどころはまっていない。全体的に埃で灰色がかって見えた。それとも俺の心象がそう見せているのかもしれない。あるだろ、そういうの。

 観音開きの扉の片側を押して建物の中に足を踏み入れる。中は外見よりか埃が少なくて、人の出入りがあることを窺わせた。

 横の壁の内から音がした。音はまるでネズミみたいにくぐもっていた。移動して俺の背後に回った。俺はちょっと首を傾げた。時間がないことを思い出す。それで、素直に相手が此方に近づいてきたのを見計らって、足を広報へ突き出し、相手を蹴り上げる。手応えならぬ足ごたえ。ズシとした重みにクリーンヒットかなと独り言ちた。

 振り返って見れば相手、つまり俺の背後を取ろうと画策していた輩が驚いた顔をして吹っ飛んでいるところだった。踏み出す。腕を伸ばして、その宙にいる相手の首元を握りにいく。相手も負けじと思ってるのか反射なのかはわかんないけど、腕を此方へ伸ばした。ただ、いかんせんリーチに差があり過ぎた。いいだろ、俺は腕も足も長いからな。あと鼻も高い。

 相手の男の首根っこを掴んで、床に抑えつける。相手のマウントを取る。無駄な抵抗をされないよう(だって見てて可哀想じゃん。)足で相手の脚を抑える。喉元を掴む手に少しばかり体重を載せる。少しだ。苦しく感じるくらい。喋れなくなってしまうとまずいから、加減する。

 敵意がないことを示すため笑って見せる。にこーっ、てさ。

「な、わりーんだけどさ、ここに女の子、入って来なかった?栗色の髪の毛で目は空色。まぁまぁボインで吊り目が守ってあげたくなるような感じの子。」

知らない、と男は答えた。俺は念のため、そうあくまで念のためだ。男に掛けている体重を増やしてみた。男は自分の喉元を掴む俺の手首に指を掛けた。剥がすためなのかそれとも苦しい故の反射か爪を立ててきた。でも、俺も逃げられないよう力を込めている。硬くなった筋肉のせいで上手く爪が立てられないみたいだった。

「そりゃ女なんて来る。そんな女、いっぱい来る。」

 俺は感心しないその言葉に眉を上げた。

 だって、そんな量産型の物みたいに言う。人間は唯一無二だぜ。何せ性格を位置づける脳細胞は外部の刺激によって分裂が変わる。同じ遺伝子を持つ双子が全く別の人間になるのはこのためだ。生まれた時の気温が違うだけで、同じ遺伝子は違う可能性へ変化する。

「今朝、もしくは夜明け前。深夜から今朝にかけてだぜ。」

 男は迷っているみたいだった。俺はどうしたら男の迷いを晴らしてあげられるか考えた。

 男に顔を近づける。男の肩がひくついた。うんうん、こんなイケメンが顔を近づけたらドキッってしちゃうよな。その耳元に囁く。

「教えてくれたら、ここのことは見逃してやるって誓うぜ。何処にも言わないって約束してあげる。」

俺は笑うのを止めて、男の顔を覗き込んだ。

 俺は今、兵隊の恰好をして騎士の証としての勲章を肩にブラ下げている。その威力や使い方は多少わかっているつもりだ。あくまでつもりだろなんて言わないでくれ。どんなに強がってみせたって警察沙汰は誰だって嫌なもんだって知っている。

 しばらくの後、男はツ、と力を抜いた。


 「ついてこい。見せてやるくらいなら出来る。それでお前が探してる女か自分で確かめたらいい。」

男の言葉にブンブンと首を縦に振る。礼を述べて、それから男の後をついて歩いた。

 タイル張りの廊下を歩く。隊で支給されているブーツの踵が音を響かせる。一つの部屋に入る。部屋はそこそこの広さだが何にもない。男は部屋の様子や内装には目もくれず真っ直ぐに歩いた。男が壁に手を当てればガコ、と壁の一部分がくぼんだ。

「すげえ。隠し通路じゃん。かっくいー。」

男の後ろから通路を覗き込む。恐らくさっきもそれで俺に近づいたんだろう。だが残念なことに俺は、壁の中のネズミを退治するためおじいちゃんに鍛えられてあった。これが、身内に不祥事が出ても、降格で済まされるほどに重宝された家令の技術だ。

 男は俺の言葉にかすかに口元を歪ませた。


 ここから覗けと言われ、腰を屈めて通風孔から部屋の中を覗く。

 今まで見てきた部屋はコンクリートが打ちっぱなしだったが、今度のは黄色い壁紙が貼ってあった。黄ばんだパンツみたいな色だ。酸化したワインみたいな色のクッションが張られたソファが一人掛け二脚と三人用一脚ある。テーブルには紙巻煙草の吸殻が山盛りになったガラスの灰皿が一つと枯れかかった薔薇が一輪飾られた花瓶が一つ、置いてあった。様相からだーいぶ察してやれば恐らくそこは応接室のようだった。たぶん。それとも元は応接室だった部屋。

 女の子はいた。あーあと思わないでもないでもない。ソファに腰掛けもせず、女の子は拳を体の横で震わせ、何か喚いている。安すぎるとかそんなようなことだ。男も一人いる。肩幅が広くてガッチリしている。そのせいで、実際よりも大きく見える。まぁ、一般的に見れば確かに大きい方には分類されるんだろう。こちらは一人掛けのソファの一つに座って足を組んでいる。男は本物だって証拠を見せてみろよと腕も組んでゆっくりと言った。まずは女の子に椅子を勧めてやれよ。それとも固辞されたのだろうか。まぁ、あのソファ、汚そうだもんな。

 俺は今まで歩いてきた隠し通路へ目をやった。真っ暗で、通ってきたはずの道は何にも見えなかった。それから反対側を見た。通風孔から漏れ出る明かりを頼りに扉を探す。

 明るい所で扉を探すのは恐らく骨が折れるが、暗い所から明るい所へ出る道を探すのはそれよりか、たやすい。細く隙間から光は漏れるもんだ。扉があれば、扉型に細かな光が四角を形成しているはずだ。いや、戸が三角や丸だったら、光も三角や丸だろう。

 レオとさんざ宮廷と屋敷をかくれんぼしたからな。雨の日は外に出るのを許してもらえなかった。宮廷にしろ屋敷にしろ広いから問題なかった。走っていると怒られたが、バレなきゃいい話である。でも一番の安パイな遊びは、走ったり跳んだりしないかくれんぼだ。年代物の家具は重たくて、この隠し通路以上に俺と外を隔ててくれた。だから、暗がりの中はどういうものかよく知ってるんだ。ちなみにかくれんぼは大抵、堪え性がなくて俺が負けてたけど、それは今、関係ない話だ。

 男は俺が出てきて目を丸くさせた。まぁ呼ばれてないのにジャッジャジャーンと出てきてしまったものな。

「ね、その子とさ、あとその子が持ってたものをさ俺に渡して欲しいんだ。」

 友好の証に笑ってみせる。ラブアンドピースだぜ。


 男いわくそれは出来ないらしい。そんなの道理が通らないと言う。

 道理とはつまり、男は女の子からそれを買い取った。これがどういう出所だろうと男は金を払った。だから、損をしないためにも男はそれを貰い受ける権利があるということだった。

 女の子はお前だって道理が通ってないと叫んだ。こんな値段の付け方ってないよと足を踏み鳴らす。

 俺はうんうんと頷いた。双方の言い分は俺にはどうでもいい。或いはこの世に権利なんてものはないことを知っている。

「な、無理が通れば道理引っ込むって言葉、知ってる?」

 修辞疑問文というやつだ。俺は最後に語尾を上げ、疑問形の形を取ってはみたが、それはどちらかと言えば言い聞かせるというのに近い。

 男は思いの外出来た奴だった。つまり殴りかかってきた俺に対して、立ち向かってきた。

 男の動作はけれど無駄が多い。おおかた威力を増そうと勢い付けるが、実はの話し、勢いをつけるとためが生じて力が分散される。あと、動作が大きいから動きが予想されやすくなる。士官学校の体術の授業ですごい注意されたから覚えている。だって体が大きいから仕方ないんだ。動作一つとっても、遠心力で勢いが付くんだよ。レオにもそのせいで実技の時間によくこてんぱんに叩きのめされた。少しは手加減してくれ。

 先ほどの男よりもこっちの男の方が大きいから体全体を抑えこむのは無理だろう。男の顔に拳を叩き込み、足払いして仰向けに倒れさせる。腕と首だけを固定させる。男は脚をジタバタとメスに捕まったオスのバッタのように動かしたが、首を絞めれば次第に大人しくなった。

「こんなことしても無駄だぜ。俺の仲間がお前をぶちのめす。武器だって持ってる。無事で済むと思うな。」

 俺は頷いた。

「無事で済まなくてもやらなくちゃいけないんだ。」

そんな、と叫んだのは女の子だった。女の子の言葉に、男が図太いなと呟いた。

 まぁそれくらいの方が可愛いじゃんね。


 男から通行許可書と財布を分捕り、ゴミ箱から手紙を拾い上げ、女の子の手を引いて退散する。

 無事で済まされない覚悟は出来ているっちゃ出来ていると思うけど、逃げ切りたいのも事実だ。苦労は買ってでもせよっていうけどやっぱり避けて通りたい。

 宿屋に戻る道だと気付いた女の子が口を開いた。

「っと、待って、宿に戻れないよ、え、こ、こんなことしちゃったあとだ、もん。あたし。」

 ゆっくり話を聞いてあげたいのは山々だったが、いつ男の増援がくるかわからない。俺はちょっと上を見てそれから決めた。


 バン、という破裂音。つい後ろを振り返った。物騒な黒い筒を構えた男達がいた。筒っていうか銃だけどさ。振り返るんじゃなかった。思ったよりも人数があった。あの男にそれほどの人望があったなんて、ていうのは失礼だよな。

「ちょっと失礼。」

 女の子の腰に腕を回す。それから、実は女の子に合わせていたのを止めて、目いっぱいに足を伸ばして走る。なるべく斜めに足をだしてジグザグに走るようにしてみた。何かそういう風にしたら狙いがつけずらそうじゃん。効果のほどはわからない。ワニは方向転換が苦手だから、この走り方は確かワニには効いたと思う。つんのめった彼女の手を取って支えながらもストライド走法は崩さない。二歩で次の曲がり角に到達する。曲がれば壁だった。

 女の子が「ヒ。」と引き攣った声を上げた。行き止まりだと思ったらしい。大抵、行き止まりなんてそんなにない。道は存外、あるものだ。まぁ、道の語義を広くすればの話しではある。

 つまり、俺は脇の塀に目をやって、足をまた大きく踏み出した。女の子の腰を支えるのとは反対の手も大きく振って勢いをつける。そして、走り出した勢いで塀へ足を出した。そのまま塀を駆け上る。同時に女の子に回していた腕を彼女の太もも裏まで下げてすくうように抱え上げる。……ここだけの話し、流石に片腕で抱え上げたら重かった。

 女の子は高くなった姿勢に、俺の頭へ覆いかぶさって来た。

「ちょ、ごめ、見えない。塀から落ちるって。」

 異議を申し立ててみたら、頭にしがみつかれたままではあるけれど、位置を調整してもらえた。塀を走って、そのままどこかのお宅の屋根へ上がる。屋根は歩いたり、まして走ったりするようには出来ていない。滑りやすくて、足の裏が緊張する。ただ、遮られるものの少ない風は力強く吹いて俺を包み込んだ。

「ぎゃーーー。狙われてる。」

 女の子が叫んで教えてくれる。ただ、うん、叫ばなくても実は聞こえる。耳がキーンとなって思わず目を細める。彼女は俺が気付いていないと思っているのかそれともただ興奮していただけか、俺の肩や頭をバンバンと叩いた。い、痛い。やめ、結構、力が強いな?!

「捕まってて。」

 正直な話、彼女は既に俺をヘッドロックする勢いでしがみついていたからこの声掛けは必要なかったような気もする。でも、まぁ、心の準備がいるかと思ったんだ。

 屋根から塀へ、そしてそのまま道へ飛び降りる。足裏から衝撃がジーンと伝わってきたけれど、止まるわけにはいかなかった。

 女の子を俵抱きしながら走る。飛行機までの方角は屋根に上った時に確認した。道までは把握しきれなかったけど、まぁ、迷ったらまた上がればいいだけだ。



 女の子を飛行機の助手席に押し込んで、着陸準備に入る。

「ねえ、この瓶何。」

女の子が液体の入った瓶を持ち上げた。うん、そう。俺のこの飛行機はまだ下がパカッと開いてトイレできる仕組みじゃないんだな。

 俺は着陸に集中しているフリをした。世の中、知らない方がいいことがある。本当に。




 「じゃあ、まぁ、その、次の街で降ろすのでいい。」

女の子に尋ねたら、馬鹿じゃないのと返された。

「今更、あんな近辺にいられるわけないじゃない。責任取りなさいよ。」

俺は言葉を探すのも忘れた。

 五分してようやく絞り出す。

「せ、責任って?」


 首都まで運べば、後は自分で職を探すと女の子は言った。

 それで、っていうのかわかんないけど、自己紹介をする。寝て、一緒に市中を逃げ回って、でも俺達は名前さえ知らないでいたのだった。

 前方を横目で気にしつつ、ペコリとお辞儀をする。顔にかかった前髪にブルブルと顔を横に振った。

「俺の名前はヨミ。任務を受けている騎士だよ。首都に手紙を運ぶ途中だ。」

 女の子はほんのちょっと逡巡した後、ペコと会釈を返した。

「私はアン。名前の綴りはイーがついてる方よ。」

頷く。

「イーのついたアンちゃんだね。」

よろしく、と言う前にアンちゃんが口を開いた。

「本当に育ちがいいのね。」

 それはそうだ。行儀が悪けりゃレオの傍にはいられなかっただろう。

「可愛いだろ。」

俺の数あるチャームポイントの一つだぜ。

 アンちゃんは前へ向きなおって、嫌味よと呟いたきり、ズブズブと座席に沈みこんだ。



 俺的には荒野よりも変化があるが、まぁ代わり映えのない風景であるのは否定できない。間違い探しのように細部は違えど印象は同じ光景が延々と窓を流れた。

 最初の頃は窓を覗き込んでいたアンちゃんは、頭を窓へ凭れさせて、ぼんやりと顔を前に向けた。次に爪の先を眺め出す。窓をチラと見やって、今度は座席に凭れかかった。モゾモゾとしてるなと思ったら靴を脱ぎ出す。放り出されて宙を舞った靴は確かに小さくて、そりゃ窮屈だよなと納得した。足を伸ばし上げて、指をバラバラと動かす。え、足の指が全部バラバラに動かせるって凄くないか。

「すげえ。足、器用じゃん。」

 アンちゃんは目を糸のように細くして視線だけを俺にやった。

「……何の役にも立たないけどね。」

 そうかな、勝手なイメージだけど足の指がバラバラに動くとバランス取るのが上手そう。でもたぶんこれは言わない方がいいことだった。ウザいと思われる。

「俺も役に立たない特技あるよ。野郎の乳首の位置を百発百中で当てられる。」

 フンッという音がした。アンちゃんは悔しそうに口を抑えている。いやー、ウケたぜ。女の子笑わせると勝った気になれるの何でだろうな。

「ね、何でなにも言わないの。」

 さらり、と彼女は言った。チラ、と彼女を見る。余所見もしていないけど別に真剣な顔をしているわけでもない。俺は前へ向き直った。

「裏切られたいんだ、俺。」

 は、と聞き返される。俺はへら、と笑った。

 俺の脳内にはいつもレオがいる。俺は自分の妄想のレオに向かって口を尖らせた。裏切る側よりも裏切られる側の方がいいじゃんか。いじめる側になるくらいなら、いじめられる側に。俺は被害者でいたい。

 そのくせ、と声が脳に響く。俺とレオの声だ。重なって一つになる。

「そのくせ、罰されたいんだ。」

救われないよな。



 さんざ、携帯食料の文句を言ってアンちゃんは眠りについた。隣の座席で小さく丸くなって寝ている。まぁ落ち着けるわけないもんな。

 俺は座席で足を伸ばし、腕を頭の後ろで組んで、天井を眺めた。

 この状況をみたらレオは何というだろうか。皆目見当がつかなかった。いつものレオなら「お前は。」って呆れた顔を作ってみせて笑うんだろう。割としょっちゅうそういう顔をさせてきたからこれはたぶん当たってる。でも、今回は違う。出発の前、レオは「騎士の本分から外れることを頼む。」と言ったのだ。女性を見捨てないのは騎士道だろう。

 だけど、レオは俺に頼んだのだ。ごろり、と寝返りを打って目を瞑った。睡眠不足はお肌と健全な思考回路の敵だぜ。


 朝だ。

 隣のアンちゃんはまだ眠っていた。離陸する時に結構揺れたが彼女は起きなかった。それとも眠ったフリかもしれない。

 俺は前を向いて飛行機を飛ばす。まぁ、結局、つまるところ、何が正しいことになるかなんて結果次第だ。


 「ねぇ、どれくらいで着くの。」

「まだ全然。」

王国の首都は北端にある。


「あとどれくらい。」

「数週間くらいかな。」


「……もっと早く着く方法ってないの。」

「これが一番早いよ。」


 退屈しきった女の子ほど恐ろしい技を放つものはない。

 アンちゃんは枝毛を探すのを止めた。

「ね、なんか面白い話して。」

 世の男共をこれほど震撼させる言葉があるだろうか。いやない(反語)。ないぜ。

 俺はウンウン唸った。

「俺のさー、親友が皇太子殿下なんだけどさ。」

待って待って、のっけから情報量がとんでもないとアンちゃんが制止をかける。でも、これは枝葉末節なので無視をして話を進める。

「アイツ、トマト嫌いなんだよね。」

 ところがどっこい、ウチの料理長はトマト信者だった。トマトには旨味成分でもあるグルタミン酸だか何だか(俺は料理長じゃないから正確なことはわからない。)が入っているから、トマトを入れておけば正解だというのが主張だった。本当に宮廷の料理人か、みたいなガバガバ理論だ。まぁ、他にも彼(料理長は男性だった)なりの流儀や理論はあってあの要職についてたんだとは思う。ただ、トマト信者でもあったのは確かで必ず何かしらにトマトを入れてきた。

 レオはそれにずっと抗議してきた。小さな頃は食べないという意思を見せた(けど乳母の方が手ごわくて結局食べさせられていた。)。もう少し大きくなって、レオと俺は抗議文という存在を知った。家庭教師の先生に教わって正式な抗議文の形に則って書いたというのにそれは受理されなかった。署名を集めた。無視された。レオと俺でプラカードを作ってデモ行進をした。微笑ましいわねと生暖かい目で見られた。

「それでさー、爆竹を厨房にブチ込んだら、襲撃と勘違いされてスッゲー騒ぎになったことがあるんだよね。」

 警備隊が二重三重に敷地に配置され、女子供はホールに集められた。レオと俺は最初、黙っていることにした。しかし、犯人が見つかるまで警戒態勢は解かないという命令を知ってゲロった。

「何かもう、すっごい叱られた……。」

隣を見たら、眉を寄せ、目を丸く開いた、何とも言えない、どうにか言うとしたら凄い表情としか言いようのないアンちゃんがいた。思わず吹く。はたかれた。


 珍しくアンちゃんはそっぽを向いて話しかけてきた。

「ね、アンタと結婚したら私も宮廷で暮らすの。」

頷く。

「そしたら、もう働かずに済む?」

それはない。

「いや、一生働きずくめだよ。俺の家は貴族じゃなくて家令だからね。」

アンちゃんはしばらく黙っていた。

「……その皇太子殿下な親友を羨ましいって思ったことない?」

よく聞かれる質問だ。

「いや。やんなきゃ多いのは向こうも変わりはないし、ずっと命は狙われてるし。」

やっぱりアンちゃんは暫く黙っていた。

「でも、アンタんとこに嫁げば安定した暮らしは出来るんでしょ。」

俺は目を細めた。

「まぁ、自分がヘマせず、なおかつ周囲の人間が問題を起こさなきゃね。自分が何かやらかさなくても、周りの馬鹿が何かやらかしたら、大体、一緒に即しばり首だけど。」

 大体。俺の母親もしばり首だった。俺もしばり首の予定だった。その違いは何かっていえば、レオだ。

 アンちゃんはこちらに背を向けた。


 ガクン、と飛行機が揺れた。それはもう結構大袈裟なくらいに。それどころか、何か傾いたままになる。

「ちょっと、気持ち悪いんだけど。」

そう言われましても。俺は操縦桿を傾いた機体とは反対に傾け、どうにかこうにか水平にしようとする。操縦桿を傾けながら、何が起こったのだとサイドミラーを覗く。左翼が少し欠けていた。そして翼の後ろに小さく別の飛行機が映りこんでいた。飛行機の先端に機関銃がついている。

「あ。」

 追手或いは敵襲といえた。


 俺は一気にスピードを上げた。とはいえ、空には遮蔽物がない。どうにか撒かなければならないが、どうやって撒くんだ。だって、本当に空って何にもないんだぜ!!!!


 とりあえずここでもジグザグにいってみよう。飛行機もワニも何か形が似てるじゃん。え、気のせい?そう言われると反論の術はないんだけど。

 ただ、燃料をあまり消費したくなくもなくもなく、何だよな。ジグザグすれば必ず逃げ切れるっていうなら踏み切ってもいいというかアクセル全開で踏み切るけど、この世の中、必ずとか絶対とかそういう確かなものはない。この世が夢でない証明が出来ていない以上、確かな基盤なんてない。

 とは言え現在進行形で狙われている。向こうの飛行機には銃器が搭載されているし、それを此方に向かって発砲してくる以上、何かしらしなくてはいけなかった。

「ね、後ろの飛行機の先端の銃器が此方向いたよ。」

 アンちゃんが自分側のサイドミラーから、敵方の飛行機を確認する。

「そりゃ、超まずい。飛行機、動かすからシートベルトちゃんと着けてね。」

 飛行機の操縦桿を上下左右にガッチャガッチャと動かしてみる。飛行機がガクガクと前後左右に揺れた。うおお、お、お。

「……あ、あのさ、お、大きく動かさ、ないと、た、弾に当たっちゃ、ちゃうんじゃない。飛行機ってお、大きいから、狙いが外れても、ど、どこかしらにさ。」

 うん、それはそうだった。

 とりあえず右に大きく逸れてみようとして、既に操縦桿を右に傾けていることに気付く。そうだった。左の羽を撃たれたので、左に傾くようになってしまっている。その補正として右に操縦桿を傾けていたのだった。恐らく、左右にはそんなに大きく曲がれない。出来るのは上下に動くくらいだ。

 俺が神妙な顔して右に傾いた操縦桿を、気持ち右に傾けていたからか、察したアンちゃんから「あぁ。」と声が落ちた。

 あと俺達に出来るのは緩急をつけるくらいだ。スピードを上げてみる。その時、ガソリンメーターがガクンと下がった。

「……それとも俺だけに、大きく下がったように見えてんのかな。」

アンちゃんが静かに首を横に振った。


 

 燃料の消費量は気になるが緩急作戦は上手くいった。ようは鬼ごっこと一緒だ。大事なのはどこまで思いきれるか、大胆になれるか。


 まず俺は燃料についてひとまず脇に置いておくことにした。これは俺の特技の一つだ。レオからもこの点に関しては、「脇に置いとこうって言ってホントにそんなスッカラカンに忘れてられる奴なんてお前くらい」だとお墨付きをもらっている。

 それで俺は思い切りアクセルペダルを踏んだ。床につくんじゃないかってくらいだ。

 飛行機はギュンと加速した。拍子に座席に強かに打ち付けたらしい、アンちゃんがグエと蛙が潰れたみたいな声を出した。いや、蛙を潰したことがないから本当にそんな声を出すかは知らないんだけども。

 ただ前を見る。雲さえ追い抜かす。スピードに慣性の法則が働いて、座席に凄まじい力で押し付けられる。俺は歯を食いしばった。力が強すぎて、ペダルからも操縦桿からも身体が離れそうだった。けど、この操縦桿から手を離したら飛行機がバラバラになるんじゃないかって気がした。実際、それくらいスピードは出ている。速度計の針は振り切っていて、下の方で急に働かされてピルピルと震えている。頭が痛い。締め付けられる。肺がひしゃげて息をするのもやっとだ。アンちゃんのことが気に掛かったけど、横を向いたらそのまま正面に戻せなくなりそうで諦める。

 キシキシ、ピキピキと音がした。

 操縦桿を握る手が痺れだす。俺はますます歯を噛み締めた。歯の中からギリと音がした。思い至る。さっきから聞こえだしたこのキシキシという音は飛行機からしていた。装甲が剥がれ出しているのだ。

 飛行機を銃から守るために、飛行機を自分で壊してちゃ意味がない。

 奥歯が欠ける。俺はペダルにさらに体重を載せる。耳鳴りで音は聞こえなくなった。


 レオや俺を含めた宮廷のチビ共の間で挑戦ごっこというのが流行った。

 やり方はこうだ。一人が、「お前、こんなの出来るかよ」って挑戦を吹っ掛ける。もう一人は、その挑戦を受けるか受けないか選ぶ。受けないということはつまり、弱虫、臆病レッテルを貼られ、名誉を失うということだ。挑戦を受けたらその無茶を実行する。

 これは大分馬鹿な遊びと言えた。レオは良く言えば大人びていた冷めたガキだったから、そう馬鹿にしていた。けれどあいつは馬鹿だから、挑戦を吹っ掛けられれば大抵のことはやってみせた。口も堅かったから、それで怪我をしても誰から言われたのか絶対に口を割らなかった。

 俺は受けたり受けなかったりだった。無理そうなのはそりゃ受けない。痛そうなのとか。

 それである日、レオが二階から飛び降りることが出来るかと吹っ掛けられたことがある。レオの目はもう爛々と輝き出していた。レオの目はよく反射するように出来ていて、影にいてもペッカリと輝いた。舌でペロと唇を舐めた。レオがこの室内から、影の差さないバルコニーへ出て、その柵の隙間から飛び降りるかは時間の問題だった。

 二階から落ちたら無事で済むわけがない。それで俺はレオより先に飛び出した。ほとんど同時だったんだけど、俺の方がもう既に背が高かったんだ。リーチの分、俺はレオより先にバルコニーの端に到達した。こうして俺はまんまとレオより先に飛び降りることに成功した。

 とんでもない痛みだった。熱くて、どんなに歯を食いしばっても無駄だった。



 アクセルブレーキから足を離し、操縦桿を勢いよく左に回す。片手はブレーキレバーを引く。

 後退したんじゃないかって勘違いできそうなくらいだった。一気に減速したことで慣性の法則が今度は逆向きに働き、身体が浮く。

 サイドミラーに目をやり、後方の飛行機の位置を確認する。ほとんど同じ高度だ。高度を上げるにはスピードが必要だ。俺は高度を下げた。

 後方の飛行機がどんどん大きくなる。不細工な面だな。飛行機のエンジン音さえ聞こえだす。

「ぶつかるっ。」

 アンちゃんがもう止めてと言わんばかりに叫んだ。重低音のエンジン音がぶつかる中で、その高い悲鳴は器用に体を捩らせて俺の耳へ飛び込んだ。

 ぶつかりはしなかった。俺達のスレスレを飛んでいく。

 俺は操縦桿が自分の手汗でベトついていることに眉を顰めた。再びアクセルペダルを全開で踏む。一気にスピードと高度を上げる。耳鳴りが鼓膜を突き破る。脳みそがぶちまく。

 高度があれば少ない燃料でぶいぶいスピードを上げることができる。幸いなことにこの前の山越えでこの飛行機の限界高度はわかっていた。高度を上げきれば、あとは逃げるだけだ。

 おまけで雲の中に突っ込む。視界は見えないがぶつかるものなんかないんだから大丈夫だろ。たぶん。



 撒けたかどうか確証はイマイチなかった。何せ空には遮蔽物が一切ない。俺達は丸見えだ。

 それでも、そろそろ燃料のことを思い出さなくてはならなかった。というか早急に降りなくちゃいけなかった。

「やばいやばいやばい。」


 着陸してようやくアンちゃんのことを思い出す。座席を見れば、立ち上がる気力もなさそうだった。大丈夫と声を掛けたが返事がない。ただシートベルトを握りしめてブルブル震えている。

 俺は彼女の座席近くまで行くとしゃがみこんだ。そろそろと手を近づける。それから彼女の手を包んだ。氷のように冷たい手で、よくそんなに血が通っていないのにシートベルトを握りしめられているなとちょっと思った。かじかんだら手って自由に動かないじゃん。

 彼女の掌に対比され、俺の手はトロトロに溶けだしそうなくらいに熱く感じられた。

 次第しだいに熱が移っていく。


 焚火が火花をはぜさせた。

 彼女をここらで置いていくのは残酷なことだとわかっていた。ここで降ろしても前と変わらない。都市部の方がまだ仕事がある。上手くいくかどうかはわからないけれど、それでも、彼女の望みは都市に行くことだった。

 俺と一緒に行く以上、慣れてもらうしかない。

 俺はぼんやりと彼女の隣に座って熱を感じていた。大分長いこと火を見つめていた。それともそんなに時間は経っていなかったかもしれない。俺、じっとしてるの苦手だからさぁ。

「ね、いっつも夜になったら磨いてるあの玉は何。」

 アンちゃんがぽつりと言った。それはどうにかこうにか押し出されたみたいな印象を受けた。俺は泥団子だと答えた。アンちゃんは眉を顰めた。

「何で磨いてるの。」

俺は輝かせたいのだと答える。それだけだと言葉足らずだと思って、泥団子は磨くと金属みたいになること、そうしてみせたいという事を話した。アンちゃんの眉間の皺はより深くなった。少し口も開いている。所謂、典型的な理解できませんの顔だ。え、嘘、みんな誰しも泥団子を金属みたいにピカピカになるまで磨いてみたい欲ってあるよな。そんな風になるんだったらやってみたくないか。

「アンタってホント、気持ち悪くなるくらいに意味わかんないね。」

 ちょっとあんまりな言い草じゃん。へこみ。


 飛行機は動かせないから、歩いて街まで行く必要があった。幸いなことに飛行機が着陸する前に街は見えていたし近づいてもいた。さっすが俺よ。持ってる男だろ。

 夜明けと共にアンちゃんと連れ立って歩く。

 毎回、フライトのあとで歩く度、不思議な感覚に包まれる。地面は硬くて、でもふあふあしている。どこも傾いていないのに傾いているかもしれないっていう心地になる。

 中部が工業地帯なのはそこから資源が取れるからだが、土地が瘦せていて何にも作物が育たないからでもある。言いかえれば、荒地リターンズということだ。いや、荒地ほど草が生えていないわけじゃない。ところどころヒースの茂みはあるし、川というか小川もある。ただ、木とかそういうのはあんましない。遮るものがないから風が強かった。髪が滅茶苦茶になって顔にピシパシ当たる。

 女の子は大抵俺より髪が長い。特にそういう職業の子は長い。俺は風上に立った。

 アンちゃんが俺をチラと見て目を細めた。口をキッと引き結ばれる。ううん。俺ってデカいから、結構風除けになると思うんだけどな。実際、隊の仲間には割と日よけ風除けにされてた。

「紳士ね。」

 初めて保存食の水を飲んだ時の声と同じトーンでアンちゃんが言った。俺は頷いた。

「その方がモテるからね。」

ウインクもつけてみたけど、アンちゃんは顔を緩ませなかった。えーん、すべった。

「育ちがいいからでしょ。」

俺はちょっと考え込んでみた。うん。うーん、うん。

「いや、宮廷とかでもこういう気が使えない奴とか、気づくけど面倒くさいからしない奴とかいるぜ。」

 ちなみにレオは後者だ。

 俺は空を見上げた。夏はもう遠ざかり秋だ。空の色がもうこんなに薄い。

 別に空を見ても、「うわぁ空って大きい。自分の悩みが小さく思えるわ。」なんて思いはしない。悩みは小さかろうが大きかろうが悩みだ。そう、つまり俺のあれやそれやは変わらず俺と共にあった。

「その方が楽なんだよ。相手にどう思われてるのかいっつも気になってる。だから、いい印象が与えられることがあったら、それをしとく方が自分の精神衛生上、無難なんだよ。」

 アンちゃんはやっぱり仏頂面だった。


 街が見えてきた頃、アンちゃんがまるで息を吸うみたいに口を開いた。

「ウチの父親はお酒を飲まなかった。だからいい父親、マシな部類だと思ってた。」

アンちゃんが道端の小石を蹴った。てんてんと石は転がっていた。俺は遅くなった彼女のペースに合わせるためさらに歩幅を調整する。

「カッコつけだった。それで自分の稼ぎでいい生活を送ってやってるんだって、母さんと私にカッコつけるために借金してたの。そんでお金を返そうとして賭け事に手を出した。

 借金は大きくなかったから賭け事もちょこっとだけ。ね、賭け事がちょこっとで済むはずないなんてそこらのガキでも知ってるわ。」

 太陽は大分上がってきていた。地面も空気も温まり始めていた。

「母さんは体が弱くて、だから、みんな自分を助けるべきだって思ってた。」

 アンちゃんが俯いた。

「誰も助けに来てくれるわけないのにね。」

俺は彼女のつむじを見下ろした。左巻きだった。俺もレオも右巻きだ。

 俺は何も言えなかった。俺の元にはたまたまレオが助けに来てくれた。でも、彼女の元に来るとは限らない。俺が助けてあげるべきなんだろうが、俺は。俺はレオを助けると決めている。レオを助けることの邪魔にならない範囲でいい人でいるけれど、それ以上は出来ない。つまり、いい人だって思われたくて愛想を振りまいているだけの無責任な奴だ。いい人だって思われたい、敵だって思われたくない。敵意を向けて欲しくない。いつも俺は自分の保身ばかりだ。ばかりっていうかそれだけだ。俺の中に、困っているから何とかしてあげたいっていう純粋な気持ちはどれくらいあるのだろう。

「ね、そこは俺が助けるよって嘘でも言うところじゃない。」

 見下ろせば彼女は呆れた顔をしてみせていた。俺はウンと頷いた。

「正直ね。」

彼女は視線を前に向けた。もう街はすぐだった。



 市場は久しぶりだった。街や人の活気にじんわりする。おぉ、人の営みよって言う感じだ。

 人は大勢いて川のようだった。ただ大抵の人類は俺より小さい。アンちゃんは埋もれて息苦しそうだった。はぐれないように手を取れば、任務を終えて屋敷に戻ったレオの靴下の臭いを嗅いだマダム・ポンポン(猫)みたいな顔をしていた。

 燃料を売っている店を探す。キョロキョロしているとスリにカモだと思われるからなるべく控えめに。

 代わりに見つけたのは俺とアンちゃんを追う二人連れの男だった。

 気のせいかなとも思った。気のせいだといいな。俺、ちょっと神経過敏になってるだけかも。そうだとしたら、一度壊れた脳みそや神経はもう二度と戻らないらしいので嫌だな。

 アンちゃんを誘導し右へ左へ道を曲がってみる。せっかく市場に来てみたくせに、脇目も振らず早足になってみる。二人連れの男達はあやまたず俺とアンちゃんを追ってきた。

 こんな人混みでは猛ダッシュはかませない。それどころか思い通りの進行方向に行くだけでやっとだ。人の流れに逆らえば、誰かが転んで大けがするかもしれない。

 といって俺の身長じゃ隠れるとか人混みに紛れるというのも難しい。隠しきれない魅力ってやつだ。

 俺達にせいぜいできるのは人混みの中で出来得る限りに急いで距離をどうにかこうにか稼げないか試しつつ、周囲に被害を加えないよう路地裏に行くことだ。

 アンちゃんの腰に腕を回す。アンちゃんは目と口を真横に細めた。

 俺はせいぜい自分の上背で周囲を威嚇して、人混みを構成する人々に道をわずかばかり開けてもらうよう協力してもらうよう仕向けた。足を早める。


 パァンという音がした。

 俺は目を丸くさせてみた。おいおい、往来のド真ん中だぜ。発砲する奴がどこにいる。

 いや、まあ、割といるんだけどな。多少の犠牲者が出たとしても仕方がないと考える奴は多い。兵士側にも多い。取り逃して大勢を犠牲にするよりかはナンボかマシということだ。結局、撃たれるのが自分じゃなきゃ些末な問題になるんだ。何せつまるところ痛い思いをしたのは他人で自分じゃない。

 問題は、その銃声にアンちゃんが身を捩ったことだった。驚いて、いや、それも仕方がないと思い直す。そりゃビビるわな。

「アンちゃ……。」

「もう、離してっ。」

「ウンザリよ、四六時中命を狙われるのは。しんどいんだって。」

「だって、アタシ、アンタみたいに強くないのよ。狡いよ。」

 宥めようとして、抵抗が大きくて立ち止まる。アンちゃんは体を大きくくねらせ、腕を回して俺を跳ねのけようとする。その瞬間、人がぶつかってきて、ヌルリ、とアンちゃんが逃げ出した。

 あ?


 慌てて彼女の後を追う。急いで追いかけられたとは言ってない。

 歩幅を大きくして踏み出そうとして人混みに阻まれる。或いは、アンちゃんが前こごみで人の波の中に潜り込んでしまったとでも言うべきかもしれない。銃声で人の流れはしっちゃかめっちゃかになっていた。さっきまではなんとなく右側は東に行く人、左側は西に行く人みたいに流れがあったけれど、瓦解してしまっている。右に行く人を避けたと思ったら次は左前方に行く人が現れるという寸法だった。しかもそのせいで、流れが滞り、ごった返しは悪化の一途だ。人が減らず増えていく。アンちゃんは人の隙間を縫っていくのに、俺は如何せんそれをするにはデカすぎた。

 カチャという銃の音がした。最優先すべきは路地裏に入る事だった。


 何せ、彼らの目的は俺の目的を阻むことだろう。彼らが狙うべきで最優先で狙われている可能性が高いのは俺だ。何が言いたいのかっていうと、俺がいない方がアンちゃんは狙われないかもしれないってことだ。

 でも俺と一緒に行動していたのは事実で、だからそれを理由に彼女も狙われている可能性も高い。高いって言うか……、俺なら殺す。だって、関係者を全て殺せばなかったことになるのが宮廷のルールだ。物的証拠なんて金で消せるし買えるし。

 逃げ回り、つけてくる奴らを撒く際にアンちゃんも見つける。

 何だよ、ソレ。

「自業自得だろ。」

 人混みから俺が現れた。俺は歯を噛み締めた。なまじ背が高くてタッパもあるばっかりに俺は人混みから流れなさそうにない。

「へらへら、誰にもいい顔してっからだろ。嫌われたくないって保身に走ったからだ。自分ばっかり見ていて、誰の事も見てないからお前は、レオ以外の誰にも大事にしてもらえない。」

レオが俺のこと気に掛けてくれるならそれでもいいと考えていた。それでこのザマだ。俺は任務を果たせていない。

「だから、誰もがお前を軽んじる。」

でも、最初から軽んじられてしかるべき人間だったら、それは当然の評価と言える。そうだろ。そうだ。だって、そうだろ。だから、軽んじられるんだ。


 脇腹に熱が走る。あんまり熱くて体をねじった。けれど、ビキと嫌な予感がしていつもより体を動かせなかった。

 赤い何かが噴き出していて、その隙間から追いかけていた男の一人が見えた。

 舌打ちをする。考え事している場合じゃなかった。

 俺の血に気付いた雑踏から空気を割り裂くような悲鳴が出た。事態を把握したいと後ろの人々が動いて、前方の人が押し出される。俺と男の間にも人が入り、そうして男は腕を振り上げた。嘘だろという言葉が脳内に浮かんだが、それは本当に嘘だろと驚いた訳じゃなくて、嘘だといいなという俺の希望的観測に近かった。

 血がまた噴き出す。今度は俺のじゃないけど。鋭い悲鳴は耳が痛いくらいだった。遅れて脇腹のズキズキを痛みだと脳が認識し始めていた。それを認識してしまったら最後、痛みで確定してしまうから痛みに気付いてないフリをする。ただ、血を流さないようにただそれだけのためだぜ、そのために脇腹の服を握りしめて、傷口に押し当てる。一歩を踏み出す。どよめいた人並みに身を潜り込ませる。

 悪いけど怪我人だから大目に見てもらおう。人を突き飛ばして、路地裏を目指す。いや、俺が痛いからって誰かを痛い目に合わせていいなんてことにはならないのは重々承知の助だ。もちろん、わかってます。

 後ろでさらなる悲鳴が聞こえた。でも、それは俺が逃げ出したからじゃない。向こうが人を切りつけたからだ。


 思いのほか、足取りはフラフラしているらしかった。盛大にゴミ箱を蹴ってしまう。カーンと音を響かせ、ゴミ箱はテンテンと転がっていく。ゴミもそれに伴って広がった。ただ、ゴミを踏んづけて滑って転ばないことだけに注力する。曲がった先は塀で行き止まりだった。足を止める。その瞬間、相手の足音に意識が向いて、近いんだろうと理解はしていても実感していなかったのにしてしまう。たぶん引き返せば、最悪バッタリ鉢合わせする。

 俺は後ろに一歩下がって、それから駆け出した。右足を大きく踏み出し、左足で地面を上へと強く蹴る。両手を伸ばし、塀の縁を掴む。伸ばした拍子にビキキと脇腹が鈍い痛みを放った。半ば反射で体を引き上げたが、痛みに気を取られ、地面の着地に失敗する。肩から強く体を打ちつけ、勢い余ってゴロゴロと転がる。それから、立ち上がりたくないなと思う前に立ち上がった。

 スト、と音がした。後ろを振り返れば、男がいた。

 まぁ、諦めずに立ち上がったって駄目な時もある。沢山ある。

 男が俺に真っ直ぐに向かう。その手には真っ直ぐ俺に向けられた銃があった。

 俺は腕をクロスしたくなる衝動を払いのけて、胸ポケットの手紙を取り出した。クシャと握りつぶす。それからそれを口に放り込んだ。

 至近距離で撃たれた衝撃で体が宙に浮く。体の中で衝撃が響いている。

 俺は手紙を飲み込んだ。


 紙は人間の体じゃ消化できない。というわけで俺は口の中に手を突っ込まれた。胃の中身がせり出す。俺は口の中の手を噛んだ。せり出した中身を再び飲み下す。胃酸が喉を焼いた。

 男は舌打ちをした。それから俺の髪の毛を掴んだまま、今度は俺を仰向けにひっくり返した。俺を掴む手とは反対の手にはナイフが握りこまれたままで、それを構える。どうやら俺の腹を掻っ捌いて手紙を取り出すつもりらしい。

 俺は身を捩ったブチブチと髪の毛が抜ける音がする。あぁ、俺の髪の毛よ。相手が俺の頭を引っ掴む前に立ち上がる。ナイフを抑え込むために、腕を相手のナイフに突き刺した。ハッハー、これでナイフはもう使えないぜ。容易に抜かれないように深く刺しこむ。凄く痛い。相手が俺の顔面に拳を叩き込んだ。脳みそが揺れる。それでも、相手に向かう。相手へ圧し掛かる。何せ俺の方がタッパあるからな。縦に長いから体重もそれなりにある。相手が怯んだ隙にぱっと体を離し、駆け出す。腕に刺さったナイフが抵抗となったが無視して駆け出せば斜めに肉が抉れて離れた。相手もすぐに立ち上がった気配がした。腕を伸ばされる。

「わーっ。」

 といって俺に武器はない。仕方がないので精一杯に大声で叫んだ。まさかそんなことしてくると思わなかったらしい。やけっぱちが過ぎるとは俺も思う。或いは往生際が悪すぎる。

 でもレオは俺に、他でもないこの俺に、俺を信用して、俺に俺だけにこの任務を託したのだ。俺はレオに選ばれたのだ。


 鼻をひくつかせる。街の発展には運河が必要不可欠とは言わないけどかなりの確率で関わっている。水がないと人は生きていけないからな。俺はよく知っている。

 川の臭いを辿って、走る。

 辿り着いた川面は太陽の光にギラギラと輝いていた。魚の鱗みたいに銀色に光っている。俺はまるでそこに倒れ込むみたいに飛び込んだ。体の反面に熱さような衝撃がぶつかる。川面からすれば俺がタックルしてきたんだろうけどな。そのまま大きな力に転がされ、運ばれる。無論川は人を運ぶものじゃないから、身体を二つに割かれそうに、或いは三つに割かれそうになる。



 目を空けたらゴミと共に岸辺に打ち上げられていた。如何せん俺が大きすぎて、さしものの川でもスムーズに運び去ることは出来なかったらしい。うーん、こんなところでも体が大きいことが役に立つとは。

 腕を立て、身体を持ち上げようとした。ところがどっこいすっとこどっこい腕さえ立てることが叶わなかった。というか腕を動かすことも出来なかった。体が物理的に重すぎる。動かしたいという意思だけが体内を駆け巡って終了した。

 いやいやいや。体は水につかったままだ。それはまずい。水に濡れたままじゃ体温を奪われ続け力を失う。

 芋虫のように体を動かそうと試みる。ゴロゴロと転がってみようとする。

 信じられないくらいに時間を掛けて、俺は己の体を陸へ上げた。気づけば日は落ち切って辺りは真っ暗だった。それとも俺が瞼を閉じただけかもしれない。



 体の真ん中、胴体辺りが柔らかくて暖かい。モフモフとかではなくてふにふにとしたそういう柔らかさだ。鼻腔には乳臭さがあった。

 母だ。

 瞼を上げることは叶わなかった。何もかもが重い。もしかしたら首を傷つけてしまったのかもしれない。

 母に聞きたいことがあった。何で、殿下と父と俺を裏切った。どうして、その道を選んだ。ねえ後悔した。どう思ってた。ねぇ、何で。どうして。

 どうして、生きている。



 母は駆け落ちに失敗してしばり首になった。この世にいる訳がない。

 俺を看病していたのはアンちゃんだった。

 俺は目を開き、どうにも頭が重たいので持ち上げることは諦めて、視線を横にだけズラした。そこにいたのはアンちゃんだった。

 何か橋の下にいるらしかった。貧弱な焚火がパチパチと音を立てている。その音があんまり陽気そうで頭が痛い。

 口を開く。声は出なかった。何度か咳き込み、あーあー言っていたらアンちゃんが気が付いた。俺に近づく。お、どうにか声は出せそうだ。

「……な、んか、おれ、吐かなかった?」

 アンちゃんは思いっ切り眉を顰めた。それから、おもむろに手を俺の前へ突き出した。

「これでしょ。」

 その手にはくっしゃくっしゃでヨレヨレの手紙があった。



 「ねぇ、何なの。」

焚火は相も変わらず飽きもしないでパチパチ言っている。

「……追いかけてくるのは誰。」

 知ってどうするんだろうと思った。知っても知らなくても命を狙われているのは変わらない。

「敵国の誰か、或いはそいつらと内通しているウチの国の誰かだろうな。」

 俺がちょっと笑って答えてみれば、アンちゃんは顔を歪め、俺から距離を取った。でも、笑う以外にどんな顔をすればいいのか俺にはわからない。

 対戦国へ内通している者がいる。俺が持っているのはその報せだった。




 何か言いたいことがあるなら言ってみろ、と見下ろされる。いや、そんな可愛いものじゃなかった。ただ、押しつぶす一歩手前というような雰囲気で上から覗き込まれていた。

 足に力が入らなくなった。グンニャリした。ゴムになったみたいだ。或いは骨や神経が抜き取られたみたいだった。自分の掌に触れる自分の脚に確かな感触、骨があることがいっそ不思議な気がしたくらいだった。俺は頭上の陛下の眼力にそうしなくてはならないのかもしれないと猫背になった。手の血の気が勝手になくなって、俺は一言も命令してないし頼んでもないのにかじかんだ。

 まだ幼い俺でも、かの御前がこの国で一番偉いことを知っていた。いや、幼い故に陛下が世界で一番偉いというような感覚さえもあったのだ。

「申してみよ。恩赦で、何を申しても罰したり何だったりしないと約束しよう。」

 それは言えということだった。破格の対応をしてやってんだから言えよ、ということだった。俺は生まれて初めて空気を読んだのだった。言外の意図をどうにかこうにか読んだ。

 心当たりはまるでなかった。むしろ変わっていたのは周囲だった。

 厨房に遊びに行っても誰もおやつをくれなくなった。挨拶をしても返されない。優しい年上の女中達はそれどころか俺を避けた。もっと年上の者達は、来るなと拒んだ。いなくなれと言われた。俺は見えなくなってしまったらしく、存在に気付かれず蹴られた。

 俺は御前の前に出た市民の真似をし、床に上半身を伏せた。ギリ、と歯ぎしりの音が降ってきた。

「申せ。」

カツン、と頬のすぐそばで音がした。横目で確認すれば、陛下の扇子が己の顔のすぐ脇に立ててあった。

 手足の感覚がない。それなのに血の流れる音で耳が痛い。口を開く。

「て、手前は何か、一体どんな罪を、犯しましたか。」

 生きていること、と陛下は教えてくれた。


 新たに俺へ課せられたのはレオの毒味役だった。

 お腹を鳴らすレオの前でわざとゆっくり味わって食べれば、小突かれて、それからレオは破顔した。おまえ、とレオがきゃらきゃら笑う。口角が上がる。えへ、と笑って見せる。笑い過ぎたのかレオの眦に涙がちらと見えた。

 お腹の中からぷこぷこと温かな何かが上った。



 どっか俺達はおかしいんだ。それはわかる。でもどこがおかしいのかわからない。



 人生はいつも究極の二択を迫っている。それはよくよく目を凝らせば細分化されているが、大雑把に見て、二択と言える。逆を返せば、二択に見えても滅茶苦茶に探せば存外選択肢はあるということでもある。

 飛行機を手放すべきかそうでないかだった。飛行機で飛べば、土台どうしたって目立つ。飛行機以外の方法を取れば余計に時間が掛かる。

 でも、もう人のあるところまで来ているのだ。鉄道という手もあった。飛行機よりかは遅いが徒歩や馬よりもそりゃ早い。

 レオは鉄の塊が空を飛ぶのに不可解さを感じると主張し飛行機には積極的には乗らなかったが、そのくせ鉄の塊が馬よりも速く走ることにはそれほど抵抗がないらしかった。平気で汽車には乗ったし寝こけていた。

 焚火の炎は確かにそこで踊り狂っているけれど、それはまるでただの光のようで、熱はほとんど伝わってこなかった。

 アンちゃんは長い枝で焚火をつついた。

「それ、王様は結局、裏切り者を出すくらいの器しかなかったってことで終わりにしない。」

俺は首を横に振った。

 陛下はレオの父親だ。

 レオが陛下に感情を抱いていることを知っている。親子の情愛、は王族の家に生まれたせいで育ちようがなかったが、それでも悪感情でないのはわかってた。だから俺は、あの幼い日に俺と陛下の間に合ったことをレオに話したことがない。これを話せば、レオはきっと父親に悪感情を抱くだろう。きっと、じゃない。間違いなくだ。

「俺はレオを裏切らない。」

 それで自分の人生が食われてちゃ意味がないよとアンちゃんが言った。

 焚火の炎が地面にオレンジや赤の影を躍らす。

 俺の生にそもそも大した意味はない。でも、生きている価値がある人間なんてどれほどいるだろうか。



 起き上がる。

 夜の空気はしっとりと重たい。

 アンちゃんがこちらへ振り向いた。口を開いて閉じる。それから、やっぱりアンちゃんは口を開いた。

「死んじゃうよ。」

 俺は首を横に振った。死なない。何せ、俺はレオから預かった任務を達成してないからな。ニッと笑って見せる。

「そう簡単にくたばれたら楽なのにな。」

アンちゃんはコクリと頷いた。

 外でキジバトがデーデーポッポーと鳴いていた。



 「ねえ、正気なの⁈」

アンちゃんが吠える。

「飛行機で行けばまた見つかって狙われるじゃん。鉄道で行くでしょ。それとも検討には上げるでしょ。馬鹿―――――。」

そう言われましても。鉄道は徒歩や馬より早いけどやっぱり、飛行機と比べると時間が掛かるんだよ。

 まぁ、アンちゃんが元気そうで何よりだ。そうだろ。





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