空の騎士

@2805730

第一部



 これから、とレオが口を開いた。

 レオの厚い唇は、長く続く行軍のせいでカサついていた。

「俺はお前に、騎士の本分から外れることを頼む。」

 たまご色の陽がレオと俺に降り注いでいる。その時、びゅうっと空色の風が吹き渡った。行軍が長いことを理由に不精し伸びたレオの髪がはためき靡く。光を背にしているから、レオの輪郭は滲んでいた。だけど、その眼光は真っ白で真っ直ぐで太くて力強く消えそうにない。

 俺は「おう、いいぜ」と快諾した。

 本当は、俺の上官に当たり、その上、王位継承権第一位のレオにこんな馴れ馴れしく返事をしちゃダメなんだけど、レオが自分のことを「私」と言わず「俺」と言ったから、俺も騎士としてではなく、ただのお前の幼なじみとしてそう返事をすべきと思った。そうしてやりたいと思った。そもそも、俺は生まれながらの騎士って柄じゃない。実際、家柄で言えば、小姓なんだ、俺の家は。

 どうやらレオは俺の意思だけじゃなくて思考まで読み取ったらしかった。まぁ、それだけ俺達は長くいるし、レオは人の思考を読むのが得意だ。

「お前の本分は、お前が思っている以上に騎士だよ。」

 それはないと思うけどなぁ。 そうじゃないか。


 頼まれたのは、ちょっと王都へ戻って国王へこの密書を届けてこいというものだった。言うだけなら簡単だが、実行するのは難しい。何せ俺達は行軍中で、首都はおろか国からも離れた地にいた。

 レオが俺にこの話を頼んだのは、一つに俺が飛行機を操縦出来るからだろう。俺はレオと一緒の陸軍に所属していたが、飛行機というものがなかなか面白そうで、しょっちゅう空軍や整備工に入り浸っていた。簡単に飛ばせてもらったこともある。空軍の奴らにもいい線いっているんじゃないか、とまで言ってもらったほどなんだぜ。

 といって、演習場を一回りした程度だ。本式じゃない。そんな俺に頼むんだから、事態は余程逼迫していた。

 もう一つの理由は、俺がレオを裏切らないからで、レオもそのことを知っているからだ。レオを裏切ろうという人物は少ないだろうが、つまるところ十数年共に生きてきた年月は伊達じゃなくて、自惚れじゃなく、俺は一番レオに信用されている。

 俺はレオを絶対に裏切らない。


 俺はレオから、国王宛の手紙を受け取ると、どこにしまっておくか一瞬、逡巡した。ズボンのポケットに入れておくと、ション便して手を洗ったあと、ハンカチを出すときに濡れてしまうかもしれない。それで、胸ポケットに入れておくことにした。

 入れた手紙を服の上から軽くたたく。

「これで、よしと。」

 俺があんまりいつも通りで、レオが笑った。無論、それが見せかけで強がりに過ぎないことは二人ともよく分かっていた。

「それじゃ、よろしく。頼んだぜ。」

 レオが手を差し出した。俺はその手を握った。骨ばっていて剣だこがある、硬いレオの手だ。俺より指は短いが、厚みはあいつの方がある。

「じゃあ、またな。」

「あぁ。」

 別れの挨拶はそれでおしまい。どうせまた会うしな、って格好つけたかったんだ、二人とも。


 レオを乗せて飛行機を飛ばしたことはない。これからレオが偉くなることはあっても、その逆はないだろうから、きっとこの先も俺はレオを乗せて飛行機を飛ばすことはないんだろう。

 よくそんなものに乗ろうと思えるな、というのがレオの言だった。デカい金属の塊が空を飛ぶ。飛行機の理論は理解できても、それに身を預けようとは思えない、らしい。俺はそんなに難しく考えたことはない。誰だって、空を飛びたいと思ったことがあるだろう。それが叶うんだぜ。乗りたいだろ。

 昔からレオは独自の価値観に従って確かなものにしか手を出さなかった。新発売の味は俺の反応を見るし、俺が勧めても結局、大体いつも同じ味を食べている。かと思えば、この確かであるという基準はあいつ独自のものであるから、時に無謀に見える行動をしでかすこともあった。俺が明日の天気を知る為にすっ飛ばした靴を取りに行くために、近所のおじさんのチャイムを鳴らしたのもあいつだったし、嘆きのマダムの授業の前に時計を早く進めておく悪戯をやったのもあいつだった。しこたま𠮟られて、でもその後、ちゃんとレオはおじさんともマダムとも和解した。

 初心者が飛行機を飛ばすにはいい環境で、今のところ順調に俺は進めていた。実際、本当に初心者にはおあつらえ向きの日だった。荒地は視界や進路を遮る山だか木なんかないわけだし、空は快晴だった。大分先に山がちょっと見えるくらい。


 気持ちがいいと思っていられたのは、最初の二、三時間までだった。いやだって、何にもなさすぎる。もうちょっと、こう、何かあってもいいんじゃねえかな。腕の見せ所がないっていうか、さ。別に見せる腕があるってわけじゃないけどさ。


 そんな風に思っていた時期が俺にもありました。

 真っ直ぐに飛んでいた筈なのに、コンパスを確認したら思いっ切りズレていた。え、何で。俺はコンパスを二度見した。勿論、結果は変わらなかった。まぁ、俺は視力が二あるから、見間違いっていうのは薄い線だった。

 ひょっとしたらコンパスが壊れているのかもしれない。その仮定はぞっとしない話だった。何せ、東に真っ直ぐ飛んで、国に手紙を届けなければいけない訳だが、どれだけ進路からズレちまったのか知る術はなかった。

 前方で雲がぐい、と風に伸ばされて身をちぎられていた。呑気なもんだよ、空っていうのは。口を前に突き出しかけて、俺はようやくとうとう風に流されているということに思い当たる。なるほど、コンパスの針は東南を示し、雲は南に流れているのだった。

 つまり、さ、俺は今まで演習場をぐるりと回ったことしかないんだよ。今、この手に握っている操縦桿が曲がるためのものだっていうのは理解しているつもりだった。いや、そこはわかってたんだ。ただ、進路を保つということ、自分の存在を維持するということと結びついていなかった。真っ直ぐに飛ぶには、ただエンジンを吹かすだけじゃ駄目で、操縦桿で絶えず真っ直ぐを保ち続けなけりゃいけないなんて、思いつきもしなかった。でも、そりゃそうだ。世界が真っ直ぐ進ませてくれるわけはない。地球は回っているから、風が吹く。

 随分と任務が無茶なことは認める。俺には荷が勝ち過ぎてるんじゃないかってことだ。俺はパイロットじゃない。

 じゃあ、飛行機に乗るのを諦めるとまあ、そう簡単には事は運ばない。そしたら選択肢と言えばあの乗り物としては最低な駱駝か、馬だ。この荒地で、馬一頭と街生まれの人間一人に何が出来るかって話だし、俺としちゃ駱駝は触れ合う動物として可愛いところがあるのは認めるが、あれに乗って揺られるなんてもう二度とごめんだね。それに何より遅い。いや、人間よりかは早いけどもさ。とにもかくにも飛行機は早い。


 一体どれくらいズレちゃったんだろう。東にどこまで戻ればいいんだ。他にも俺には心配なことがあった。ガソリンのメーターを見やる。お、減ってるな、というくらいには減っていた。内心焦っていても、まだ焦る時じゃないって強がりがまだいえるくらいの量だとはいえ。

 俺もいっぱしの騎士だから、通行許可書というものを持っている。これを見せれば、俺達の国と友好な関係を持ち続ける予定のある地域の住民は、物資を提供しなくちゃいけない決まりになっている。つまり、拒否したら武装した兵士に襲われたって文句は言えないよっていう脅しだ。どんなにオブラートに包んだって脅しに過ぎないけどな。

 ただ、それ以前の問題として視界いっぱい、どこにも人家なんかない。あまりにもそれ以前の問題だった。人家がなきゃ、通行許可書なんかただの紙きれだし、インクで印刷されてるからケツを拭いたら黒くなる分、便所紙にも劣る。国王の印(印刷)なんてそんなもんだ。

 それに、水源を一つも見つけられていないのも懸念点だった。結構、飛んでると思うのに、どれにも行き当らないのはおかしい気がしてきた。百歩譲って自然が厳しいこの地域に人家がないのは仕方ないと言ってもいい。でも川とか湖とか、泉って自然代表だろ。なんで、こんなに大自然のど真ん中なのにないんだよ。そりゃ、荒地だからだろって俺の脳内のレオが冷静につっこんだ。水源が豊富なら人家だってある。そりゃ理屈じゃそうかもしれないが、感覚的にはやっぱり納得できない感じだ。


 陽が落ち始めたから着陸する。まだ野宿の準備も済んでいないのに太陽はよっぽど急いでいたらしくさっさと落ちてしまった。どうやら太陽はアフターファイブの男らしい。

 真っ暗な中で火打石をする。火花で手元がパッと一瞬だけ光ってすぐに黒に視界が塗りつぶされる。数度繰り返して、ようやく火をつけることに成功する。

 いつの間にか張り詰めていた肩と肺がほーっとした。筋肉が緊張で変に張り詰めているのがわかったけど、上手く綺麗に緩める方法がわからない。緩めないと凝るし、疲れやすくなって、後々影響するのはわかっているから息を吐いて緩めようと試みたんだが、結局どこかしらに緊張が残っているのがわかる。

 ま、任務は始まったばっかだもんな。あきらめて、飛行機に背を持たれ掛ける。焚火をぼーっと眺める。燃えるようなもんがないから、火事の心配をしなくていいのは楽だ。だけど、それはつまり薪の心配もしなくちゃならないってことでもある。

 はー。ハゲちゃわないか心配になるくらいに心配と悩みの種があった。いくつか芽を出している。いくつかっていうか、ほとんどだな。

 でも、悩んでいても今すぐ解決できるようなことは一個もなかった。それで俺はとりあえず寝ることにした。まぁ、ほんと、今悩んでもどうしようもないしな。また次の日に考えればいいよ。



 飛行機の一人旅で一番厄介なのは便所だ。一度着陸しなくてはならないが、用を足すためだけに貴重なガソリンを消費して着陸するのは何かこう躊躇われる。

 下がパカッと開いて、飛行機を飛ばしながら用も足せればいいのに。いや、待て待て待て。これ、案外、本当にいいアイデアじゃないか。俺ってほら、天才肌みたいなところあるからさ。

 レオを追いかけて軍に入隊した時もそうだった。あいつは王家の人間で、才能があろうとなかろうと指揮官になるのは決まっていた。(まぁ、あいつは誰よりも努力家で才能もあったんだが。)対する俺は何の後ろ盾も持たない。陸軍の末端も末端、端っこで、あいつに認知もされず、兵士として一生を終えるだろうなという覚悟はあった。それでも良かったという方が合っているかもしれない。俺はあいつの指揮する陸軍であいつの命令を、つまりはあいつの理想を叶える一助にどうしてもなりたかった。一助にもならなかったとしても、あいつの理想の一部、いや、千億分の一部でもなりたかった。ところがどっこい、すっとこどっこい、俺は才覚を表してしまったんだな。そうして俺はやったぜ、あいつ直属の隊まで昇りつめた。

 さっきのアイデアは帰ったら、飛行機の開発チームに話してやろう。実際問題、ミサイルだって落とせるんだから、技術的には不可能じゃないだろ。もし、パカッと開いたら、きっとタマがヒュンとして、でも解放感も凄いに違いない。



 夜は空を飛ぶことが出来ないから、着陸して焚火し野営をした。それで寝て、朝から夕方に掛けて、また空を飛ぶ。とにもかくにも飛ぶしかない。他に出来ることも求められていることもない。

 時間が惜しいから、飯もその野営の一回こっきりで済ませることにした。正直にいえば、昼間にとても腹が空く。レバーを持っていたはずの手が無意識に食い物を探そうとしている。でも、朝と昼に一回ずつ訪れる滅茶苦茶腹減ったを乗り越えると、案外いける。キューと胃が痛んで唾液が出て、どうしてこんなに我慢しなくちゃなんないんだって猛烈に何もかもにイライラして、それを過ぎると、へいっちゃらになる。なんで俺はさっきまで流れる雲にまで呑気なもんだと腹を立ててたんだろ。そりゃ流れるだろ、雲なんだから。

 それに、これにはもう一つ利点があった。まっずい保存食もとびきり空腹だと、最初の数口は美味しく……いや、間違っても美味しくはないな。気にならなくなる。うん、そんくらいだな。

 レーションを数ブロックと干した肉、腐るのを防ぐために薬草の漬け込まれた水が俺の晩餐の全貌だ。レーションは小麦粉と何だか知らない栄養素を混ぜ込んであるらしい。小麦粉ってそのままでも仄かに甘いじゃんか。よっぽど手をくわえないかぎり不味くならないだろ。それをあそこまで不味くできる仕組みがわからない。その上、噛むと全部舌と歯にまとわりつく。何とかかんとか飲み下しても胃の中でずっと固まっている。胃の中にコンクリートが流れて、底の方で固まっている感覚を味わえる。実際、コンクリートみたいな感じなんだ。コンクリを口に詰め込まれたらえづく。干した肉も普通の干し肉より不味い。何でだ。むしろ俺が作った方が旨いって。水は苦くて舌がぴりぴりする。ビールとかそういうんじゃなくて、ばあさんが咳止めにって棚から出してくる、それ何年ものよ、みたいな水薬の味がする。

 飯くらいって思うかもしれない。思わないかもしれない。レオは前者だ。俺は断然後者だ。食は人間の三大欲求だろ。つまり、それを満たすことは人間の最大快楽だ。特に食事は制限がある。永遠に食い続けることはできない。不味いものを食うってことはさ、その機会をみすみす失うってことだ。勿体ないだろ。いや、いつもこんな小難しいこと考えながら食ってるわけじゃない。むしろ、何にも考えてない。そうでもしないとなくならない。強いていうなら、糧食を口にしている時は虚無を噛んでいる心地だ。

 そんでも、みんなでまじい、って言いながら食うと気が紛れんじゃん。一番俺が参ったのは、誰もいないってことだった。

 一人で飯を食うとあっという間だ。そのあとの支度もベルトコンベアーで流れるようにさっさと作業が進んでいく。片付けて、火の始末をして、飛行機に戻って、座席で毛布にくるまる。一応、ガサガサいう断熱毛布だけど荒地の夜の冷え込みはものすごくて、全然断熱してくれない。すうっと冷気が毛布を通り過ぎてくる。これじゃ、ただただガサガサ煩いだけだ。誰もいないから、熱も騒がしさもない。


 風の塊と金属の筒がぶつかってガッシャーンだかヒュウヒュウだか派手な音が響いた。その上、俺はその金属の筒の中にいる。音は永遠に響き渡ってくる。

 つまりだ、遮るもののないこの土地じゃ風は我が物顔で勢いを増して吹き渡っている。目に見えないだけで実体がある。それに金属の筒があるわけだ。シンバルの原理で音は生まれて、笛の仕組みで音は育つ。控えめに言ってもうるさい。何より、壁ドンしても音は止まない。

 ヒュウウ、ガンガン、カツツツ、キキー。

 シートの中で身じろぐ。毛布がガサガサ言う。毛布の空白の中で、自分の肩が強張っていると実感する。何かあったらすぐにレバーなりペダルを動かせるように手足に神経を通わせていたから、突っぱねていてジンジン痛んだ。痛みそのものは大きくないんだけどいつまでたってもジクジク言っているからいい加減にしてくれよって思う。まぁ、身体からすりゃいい加減にしろよなんてこっちの台詞だよっていう話かもしんない。

 飛行機の操縦は、ずっと緊張している。だけど、身体を動かしているわけじゃないから、うまく休みに切り替えられない。運動は始めたらそれがオンの状態で、終ったらオフじゃん。わかりやすい。でも操縦しているときも眠る時も身体はシートの中で動かさない。交感神経と副交感神経の入れ替えがスイッチ一つ捻れば出来るようになればいいのに。

 キキー、ガタガタ。

 それに昼と夜って音が同じものでも違ってる気がする。昼に聞く、機体に風が掠める音と夜に風が機体を過ぎ去っていく音は違う。昼の風と夜の風は違うからなんだろうか。

 ガタガタガタガタ、ギイイイキイイイイ。

 うるせええええええええ。

 俺は諦めて目を開いた。どうせ、大したことはないんだ。ハッチを開いても結局風が音を立てていただけで、特に何にもないだろう。それでも気になって眠れなかった。


 それで、俺はハッチを開けて、ぐるりを見渡した。髪の毛が風に煽られる。地上に蔓延る闇の中で爛々と輝く黄金色の瞳と目が合った。その時、さっと雲が切れて月が顔を出した。よ、ナイスタイミングと声を上げる暇もなかった。黒い獣の影々がこちらに気付いて、身体の筋肉を収縮させていた。俺はすぐさま頭を引っ込めてハッチのフタを締めた。その直後、頭上で金属に(つまりハッチのフタ)何かがガツンと当たった音が響いた。

 荒地オオカミ達だった。荒地、とかいう資源の限られた場所で生きているせいで体は小さい。そして、何でも食べられるように丈夫な歯と胃袋を持っている。行軍の時に、何度か襲われた。その時に銃器を噛み、折り曲げたのを見たことがある。生命というのは苦難において耐えられるものだけが残る。

 そうして飛行機は金属で出来ている。銃なんかよりも軽い金属で出来ているだろう。

 俺は座席の下に置いていた銃を手に取った。弾が装填してあるのを確認する。安全装置を外す。

 あの数秒の邂逅で俺が視認したのは七つの黄金だった。つまり、目玉はそれぞれ対になっているから、……、あれ、一つ余るな。全然俺の目、頼りになってない。何の為の視力二だよ。でも、そも、ちょうど瞬きしていた奴もいるかもしれない。ウインクしてたオオカミも居たかも。それなら数が合う。

 まぁ、何頭いたとしても俺がそれを一人で退治しなくちゃならないのは変わりなかった。むしろ、何頭いるか分からなくて良かったかもしれない。あと何頭倒さなくちゃって考えるとプレッシャーだろ。


 一、二、三。

 ハッチを細く開けて、身を滑り込ませるように出る。万が一でも中に入られ、機器を壊されるわけにはいかない。

 ドォン。待ち構えていたオオカミに横から体を張り倒される。ツルツルと機体の上を滑る。足に痛み、顔に生臭い息が掛かっている。胸に爪の生えた足の感触と重みを感じている。臭い息をたよりに首を狙うオオカミの口に銃を噛ませる。口と左手で銃を掴んで、堪えながら、右手を腰に回した。ベルトからナイフを取り出す。

 夜というのは人間にとって不利だ。まーったくもって何にも見えない。仕方ないから滅茶苦茶にナイフを振り回した。足が痛い。別の所からもオオカミの生温かい息を感じた。

 ナイフが何か当たったらしい。キャン、という声と共に胸の重みと正面の生臭さが消えた。カハ、と息を吐きながら身を起こす。左足は以前として痛いままだ。だから、銃底をブン、と振り回した。それから、光が欲しくて真上に向かって(まさか飛行機や自分に当てる訳にはいかない。ところが真っ暗闇で何が何処にあるか俺にはさっぱり分からない。確かなのは上と下だけで、下には俺と飛行機があるのは確かだった)銃を撃った。雷管から火花が走ってバチッと一瞬だけ光が走る。視認出来たのは二頭だけだ。そこに向かってズドンと銃を撃ち込む。二頭目は銃声で移動するだろう。ただ、重心が右に寄っていたから、すぐに体を動かすとしたら右に行く。それを見込んで、先ほど視覚で捉えたオオカミの位置よりも若干右にずらして撃ち込む。

 横から再び飛びかかられる。ナイフで受け止める。怯んだのを感じる。そのまま、ナイフを持った手を突き出し、その喉元(と思われる)を掻き切る。

 今度は後ろからだった。オオカミ、すっげー頭がいいじゃんね。首にオオカミの牙を感じたってわけだ。銃底を後ろに突き出す。当たらなかった。俺は死にたくない一心で、相手を怯ませられないかと、うおおおおお、だか、おうおうおおおおお、だか、兎にも角にも叫んで吠えた。ナイフを持った手を大きく振り回す。牙が首に食い込んだのを感じた。

 俺はそれでも、死ぬわけにはいかなかった。レオに任務を託されていた。

 ナイフを己の首裏に近づけ、奴の口に刺す。首に牙がより食い込む。血がタラと流れるのを感じる。もう、十中八九、血だったが、俺は、「これは汗これは汗」と言い聞かせ、よりナイフで奴の口内を攻撃した。力が強まる。

 つまるところ、奴が俺の首を噛みちぎるのが先か、俺が奴の口を切り裂くかという話だった。幸い、奴はまだ俺の首をしっかり咥えられていなかったし、そして何より、俺は運だけは自信がある。いや、あと体の丈夫さも自信あるな。

 俺からオオカミの口がパッと離れた。身を振り返り、オオカミが恐らくいると思われる方向へ身を躍らせる。若干、座標はズレていたがオオカミの端っこをナイフで切り裂くことに成功した。軌道修正してナイフを振り抜けば、刃に手応えはなかった。そのかわりといっちゃなんだが、オオカミに腕を噛まれる。万力で締め上げられる。痛い痛い、折れるぜ。ミシミシ言っている。

 仕方がないから俺は片手で銃に弾を装填した。隊の連中と弾込め競争をしていた甲斐があったぜ。その晩の俺の装填スピードと手際といえば本当に惚れ惚れするくらいで、きっとこれで参加したら弾込め競争の優勝を狙えただろう。

 オオカミの柔らかな腹の感触が銃を通して伝わったような気がした。



 首は血がタラタラと流れているくらいだったので、包帯で巻いて終いだった。重症だったのは左足と右腕だった。足の傷口からは骨らしきものが見えてしまっていた。

 といって、やるしかなかった。

 俺が俺を手当しなきゃいけないわけだから、意識を朦朧とさせるわけにはいかなかった。俺はレオの名前を十回、心の中で唱えた。それから麻酔とかそれに準ずるものも無しで手当に挑んだ。

 傷口に酒を吹きかけてアルコール消毒とした。死ぬほど染みた。歯をギリギリと食いしばる。それから、焚いていた火の中から、じゅうじゅうに熱した石をトングで取り出した。トングがくそ熱い。それを傷口に当てて止血する。声が出た。声というか雄たけびだった。マジで痛い時、人間はすっげえ野太い声が出る。

 七転八倒、転げまわっても痛みは何処にも行きはしなかった。けれど、転がり回らずにはいられなかった。あとちょっとちびった。

 気を取り直す。身を起こす。熱で消毒した針には既に糸が通してあった。

 レオを思い出す。にかっと笑うんだ。レオの笑みはまさに威風堂々という言葉がふさわしい。

 俺は己の肉に針を刺し、傷口を縫い合わせた。途中でゲロが口に上ってきたが、今ここで止めたらもう二度と出来る気がしなかった。それで、ゲロを口に入れたまま、歯を食いしばって縫い合わせた。他にしようもないしな。


 痛すぎて、酒を喰らう。さっさと出発しなきゃいけないとは思ったが、痛すぎて、シートの座面に爪を立てるくらいしかできなかった。

 そこらの瓶に用を足し、後は痛みに爪を立て、歯を食いしばるだけだった。

 その上、どういう因果か知らなかったが頭まで痛かった。ガンガン、何ものかが俺の頭の中でディスコを始めたらしかった。無数の足が脳みそを踏み潰す。ハチャメチャに振り回されて視界は安定しないから目を瞑った。胃の中から気持ち悪さと吐き気がタップダンスしてらぁ。

 俺は何度もレオの名前を念じた。そうすれば、この痛みと気持ち悪さから解放されると、感じていた。勿論、頭の片隅ではそんなことはないと理解していたが、いかんせんディスコは大盛況で理性の声はほとんど掻き消された。



 汗で座面にシミが出来ていた。

 痛みは未だズキズキと規則正しく俺の右腕と左足から信号を発信していたが、我慢できないほどじゃなかった。頭は軽かった。腹も減っていた。体は起こせた。

 俺は座面へ真っ直ぐに座ると、操縦桿を握った。足をフットレバーの上に置く。前を見た。

 視界は青のグラデーションの世界だった。怖いくらいに雲一つない。天井は深い青で地平線に近くなれば清々しさを増すように白んでいる。鳥が弧を描き飛んできた。遠いから大きさもわからない。辛うじて茶色かもしれないと察せる黒い点だ。鳥が通り過ぎて、本当に青の光以外、空には何もなくなった。

 絶好のフライト日和だった。



 長時間の操行は出来なかった。痛みと熱で朦朧としてくるからだ。それで、進路から外れてしまうわけにはいかなかった。

 だから、遅々として進まない。レオはただ一人、俺に賭けて任務を託した。それなのに俺は任務を果たせないでいる。他の人間なら上手くやれていただろうか。考えたって益体のないだけど、(何せレオは結局俺に頼んだのだから。)でも丸っきり的外れな考えってわけじゃない。俺より強い奴も俺より旅慣れた奴もいたんだ。それって、俺はそいつらより上手くやらなくちゃってことだろ。

 つまり、俺は全くもって万全の調子じゃなかった。そこまでは知覚できたのに、じゃあどうすればいつもの自分に戻れるかさっぱり分からない。俺だってこんなこと考えてたいわけじゃない。頭の中、脳みその皺の隙間にカビが生えたような気分になるばっかりだぜ。

 レオ曰く、自分以外の人間なら上手くやれたかもっていうのは結局のところ自己保身に過ぎない。出来ない自分と出来るように努力したくない自分を守るための言だって言う。

 相も変わらずレオは厳しい。俺ならそんなことは例え思っていても言わない。だから俺はレオを守ってやりたいと思う。


 一日中、操縦桿を握っていたわけでもないのに腕が酷く痺れていた。そのせいで、水を飲む度にコップが震えて零してしまう。貴重な水だから、注ぎ足すことはしない。食料よりも燃料よりも顕著に水が減っていた。どうして水だけこんなに減るんだ。そりゃそうさ、人間はほとんど水で出来てるからな。

 ちら、と水源を見つけるために高く飛ぼうかという考えが頭をよぎった。よぎっただけだ。実行する訳がない。今は一刻でも早く向かわなくてはならない。水場に寄っている暇なんかなかった。


 ガゼルか何かの群れがいた。旅をする彼らに勝手に仲間意識が芽生えて、口角がちょこっと上がった。上がって、笑うのが久しぶりなことに気が付く。

 驚いた。え、いや、確かに俺笑ってなかったな。この俺がだぜ。


 植生が変わり始めていた。もう既に眼下に広がる大地は荒地ではなくなっている。まばらに草が生えはじめ、次第にポツポツと木が見えだした。そして、空の先、青いだけだった山々に影や白が認められ始めていた。木々と雪だろう。それらが視認出来る程には近くなったってことだ。ちょっとだけ胸がすく。青とか白はいつも俺の胸をスーッとさせる。


 陽に照らされて色あせた草原で、動物を前よりもよく見かけるようになった。生き物が特別大好きってわけじゃないんだけど嬉しい。生き物がいると何か嬉しくなる。

 レオはそれを生き物が大好きっていうんだろって言う。違うと思う。俺には触りたいとか、猫なで声で話しかけたいとかそういう欲求は無いんだよ。わざわざ一人で動物見るために動物園行こーとは考えない。仲間内で遊びに動物園行くのは全然アリだけど。可愛い女の子とデートなんて全然アリ、アリアリアリ。でも、それは誰かと行くからであって、一人で行こうとは思わない。

 ただ、道歩いて猫がいたら、お、猫って思うじゃん。こっちが近づいてもなかなか逃げ出さない鳩がいたら、人に慣れてるなってニヤニヤするじゃん。カラスの羽根が陽に照らされて虹色に見えたらラッキーだなって思うだろ。レオは思わないって一刀両断みたいな口ぶりだったけど、でも、やっぱそうなったら、きっと、「お、猫だな」って思うだろうし、ニヤニヤするし、ラッキーだなって思うと思うんだよ。素直になれよ。


 水場は水場でも、泥炭地だった。あーあ、期待したぜ。

 俺は木に寄りかかった。まだ日は高いが水だと思って着陸したのだ。進路から外れないところに水場なんてラッキーだと思ったのにな。まぁ、そうそうラッキーなんて起こるもんじゃないってことか。

 ヌーだかバイソンだか、野生の牛みたいな生物の群れが泥の中にいる。体に泥を擦りつけ合ったり、転げまわったりしている。俺もガキの時はレオとよく泥の中で転げまわったもんだが、如何せん人間のガキと野生の牛(のような生物)とじゃ体重が違い過ぎる。奴らが互いに体をぶつける度にちょっとした振動が伝わった。結構、距離を取っているけど、ぶつかったらと想像してちょっとヒヤリとするくらいには迫力がある。野生ってすごいぜって感じだ。

 俺は後ろに手を組んだ。でも、危惧すべき危険は今のところそれだけだった。まぁ、何かあれば、人間よりも感覚の鋭い彼らが気付くだろう。それに、俺は荒地オオカミの危機を切り抜けた男だった。

 怪我はもうずっと良くなっていて、激しい動きでなければ普通に動かせるようになっていた。

 

 俺は飽きっぽくて、とうとうピカピカになるまで泥団子を磨くことは出来なかった。けどレオは、それはもう熱心に磨いていたものだ。俺が遊ぼうとどんなに誘っても磨いていた。俺はレオの気を引こうとレオの周りで色んな玩具を引っ張り出し、飛行機の真似をして走り回った。飛び跳ねて、大声を上げた。大声をアイツの耳元で張り上げたのは大失敗で、レオはますます意固地になって泥団子を磨いたし、俺はおじいちゃんに叱られた。それでも、二人で遊ぶ方が楽しいに決まっていた。俺はトランプを配って、レオの代わりに自分のところからカードを引いたし、レオの代わりにチェスの駒を進めた。レオは何日も泥団子を磨いていた。最終的に俺はレオを、泥団子を磨かないと死んでしまう呪いに掛かった男に仕立て上げ、そいつの呪いを解く為に屋敷の中を冒険した。

 そうしてできた泥団子は凄かった。何か金属みたいだった。俺はその泥団子も、それからそういう風に磨き続けられるレオも羨ましくてしょうがなくなった。だって、結局、俺の手元には何にもない。

 レオはその泥団子を俺にくれた。レオは完成した泥団子には見向きもしなかった。磨くことが目的で、あいつはそういう残酷なところがある。俺は磨き続けられる根気はなかったが、貰いもんを大事にしとく才能はあって、実は未だ実家の机の引き出しにしまってある。

 俺は泥炭地で泥団子を作ると飛行機に持ち込んだ。毎晩磨こうと気まぐれに思いついた。でもいつまで続くんだかなんて自分のことだけど思う。


 マジで、泥団子のことなんて考えている場合じゃなかった。水が本当にない。もう水槽には四分の一ほどしか残ってない。

 逆に言えば、水のことを考えないよう、泥団子は磨いて気を逸らすのにちょうどよかった。


 唇は渇いて、唾液はねばついた。喉の奥から血の味がする。頭が痛い。

 こんなんで正しく空が飛べると思えないな。ここらで一気に残った水を飲んで、思考回路を正常化した方がより良い選択が出来るんじゃないか。

 それで飛行機の水槽の前にブリキのコップを持って立った。

 ブリキのコップは入隊の折におじいちゃんとおばあちゃんにもらったのだ。行軍で必要になるだろうってさ。周りの奴らはレオも含めてコップなんか使ってるのなんか誰もいなかった。流れる水に顔を突っ込んだり手で掬ったり、あるもので飲んでいた。それを言ったら、他の者がそうしているからってお前が行儀よくしてはいけない法はないってピシャリと言われた。まぁそれもそうで、あるに越したことはないから行軍の時には、俺はずっとブリキのコップで飲んでいる。

 俺の脳内のレオが(これは水が飲みたいあまり俺の脳がおかしくなったとかそういうんじゃないぜ、あしからず。俺の脳内には大体レオがいる。)そんなわけないだろ、とせせら笑った。(俺の脳内のレオは大体こんな感じだ。ムカつく奴だな。)結局、こういう場で生き残るのは計算高く水を飲める奴だ。

 それで俺は水をくまず、その晩は毛布を引っ被って眠った。ここのところすることがなさ過ぎて夜になると磨いていた泥団子だって磨かなかった。

 でも、次の晩からはまた磨くのを続けた。


 飛行機で飛んでいる時、眼下でシマウマの群れが歩いているのに気付いた。

 無論、彼らだって生物なんだから水を飲むに決まっている。

 俺は、三十分だけ彼らの後をついていくことにした。三十分だけだ。あんまり進路から外れるわけにはいかないからなぁ。


 あと五分だけ。


 あともう五分。


 そもそも、割と序盤から進路を外してたわけだ。今更、進路を外れることを恐れる必要はあるだろうか。

 あるな。


 あと五……、いや、もういいや。あと十五分。


 あと四十五分、と俺が自分の中で誓いを立ててすぐだった。(勿論、誓いは破るためにある。)

 真っ直ぐ見つめる先で何かがキラと光った。それは飛んでいく内、キラ、という一瞬の煌めきからチカチカと光を常に反射している帯になった。光の帯は段々太くなっていた。

 川だ。

 胸の内で感情が静かに湧いて満ちた。



 無論、人生そう上手くいくもんじゃない。何事もなくいくことなんてあるわけないだろ、馬鹿。最後の「馬鹿」は好きなおねーさんの声で再生してくれ。いいよな、年上。

 俺がやさぐれているのには訳がある。理由がなきゃ大抵の俺は素直でいい子なもんだぜ。

 いよいよ水だ、いよーってところで足止めを喰らっている。対岸に得体の知れない化け物が生えているのだ。地面からにょっきり生えているからたぶん植物だった。ただ、それにしちゃ触手がうごうごしている。幹にあたる部分は真紫で、触手は黄色。触手からは粘液が滴っている。幹は上部がぽっかり口になっているらしかった。触手をシュッと伸ばして鳥だか魚だかを捕まえては口に放り込んでいる。全体的にいってかなりぞっとしない生物で、あと何だか卑猥だ。カラーリングとか。

 俺はシマウマの群れと共にその後ろで右往左往した。いや、ホント、貴重な水場だしな。頭はクラクラしてガンガン締め付けられるように痛い。目の奥の神経がぎゅっとされている。喉は乾いてペタンと張り付いている。そのせいで満足に息も吸えやしない。でもなー、ちょっとあいつに近寄るの危ないよな。

 シマウマの群れは右に進んで大回りすることにしたらしい。俺も従うことにした。

 その瞬間、触手が飛んできた。


 触手、スゲー伸びる。あっという間にシマウマの子供は攫われて、卑猥な木の化け物の胃袋に(胃袋があるか知らないが)収まった。俺は「触手スゲー伸びるじゃん」と思ってた。スゲー伸びるじゃん。

 シマウマの群れはパニックになり出した。そりゃそうだ。

 俺は駆け出した。パニックになったシマウマがこちらに来たら大変だ。シマウマは人間より脚が速い。それはつまりそれだけ脚力があるっていうことだ。その上、やつらの足には蹄がある。硬そうだ。柔らかいってことはなさそうだ。当たったら痛いでは済まされなさそうだった。

 人間より脚の速いシマウマから逃げられるのかって?やらないよりマシだろ。何にもしないでくたばる訳にはいかない。悔しいじゃんか。


 喉が渇いているんだった。そのせいで血が足りない。手足の先に血がないから上手く力が入ってくれない。そんな感じ。そのせいで、地面に足を着地させる度にふわふわとした感触に襲われる。地面が柔らかいから上手く蹴れない。全然先に進めない。すげーもどかしい。せめて手で空気を掻きたいと思うのに、腕を上げるだけで疲れてしまう。腕を振って足を遠くに出さなきゃ速く走れないわけだけど、その度に乳酸が重りとなってどんどん走れなくなる。

 背後で蹄が土を蹴る音がどんどん近づく。大きくなる。終いには地面の振動が伝わって来た。

 ヒュンという音が頭上からした。さっきからうるさいくらいだった蹄の音も地面の振動もなくなる。

 

 眼前に黄色。視界全部黄色。次いで、腹に衝撃が当たったこと、そして加わり続けていることに気が付く。何か食べてたら吐いてた。そんでもってずっと締め付けられているからずっと吐き気がして気持ちが悪い。俺は胃液の飲み下した。胃液ってすっげ、不味いよな。そんでもって足の下に地面がない。上にも下にも何処にも地面がない。

 俺は触手にとっ捕まったのだった。触手、スゲー伸びるじゃん。


 地面がぐんぐん離れていく。シマウマ達が小さくなりだす。

 俺は腰のベルトに差してあるナイフを取り出そうとした。ところがどっこいすっとこどっこい、腰に触手が巻き付いてあるんだな。触手を掴んで隙間を作ろうとしたけどヌルヌルしてまず掴めない。それで粘液の力を借りて、触手と体の隙間に手を滑り込まそうと試みる。うん、ぎっちぎっちに絞められてるけどまだいけそうな感じだ。

 服を上げて隙間が作れないかと試みる。気持ち程度出来た隙間に指をねじ込ませる。腹をへっこませる。手をよじよじ動かして捻じ込ませる。

 ナイフの柄に触れたのと、下から生暖かい風に吹かれたのはほとんど同時だった。

 見下ろせば、怪物の口があった。くせえ。生もの、特に普段魚を食べているらしく生臭い。耐え切れなくなって、俺は胃液を吐き出した。無論、原因は俺の胃の中じゃなく怪物の口臭にあって、現在進行形で吹きつけてくるから胃液を吐いても、吐き気は続いた。鼻の穴にまでせり上がって、ツーンとして痛い。涙が出た。

 ナイフの柄もヌルヌルで掴みづらかった。それでも握ることに成功する。引っこ抜こうとしたらヌルヌルですっぱ抜ける。もう一度、掴む。歯を噛み締めた。ミシと嫌な音が奥歯からする。ナイフを引き抜きたいけど滑るし、何より触手に抑えつけられてて引き抜けない。


 腹の圧迫感がなくなった。ものすごい勢いで落ちていく。臭いがどんどん強くなる。

 朗報。ナイフは引き抜けた。悪い知らせ。まぁ、宙にいるから切りつける相手はいない。

 ただ、幸いなことに俺は人間にしてはデカい方だった。この前の健康診断で測った時は百九十六㎝だった。俺が唯一レオより勝っている点だ。

 レオはこの件に関して何も気にしていないみたいな顔をしているが、本当は凄い悔しがっている。でなきゃあいつが牛乳を朝晩と飲むものか。みんなはそういう習慣のある男だと思っているみたいだが、あいつが牛乳嫌いなのを俺は知っている。反対に俺は好きだ。だって美味しいじゃん、牛乳。あいつの代わりに牛乳を飲んでやったのは俺だぜ。おばあちゃんはよくあいつに牛乳を飲まないと背が伸びないと言っていた。そんでもって俺がこれだけニョキニョキ伸びてしまったわけだから、今もってあいつは牛乳を飲んでいる。かくいうレオも百八十五㎝だから決して小さい方じゃない。でもあいつは何でもかんでも一番じゃないと気が済まないたちなんだな。俺?俺はそうじゃないって涼しい顔で言えたらいいけど、測定結果をレオに見せびらかすくらいには負けずきらいだ。負けるのが好きな奴なんていないだろ。

 実際のところ、身長がありすぎて良かったことなんてそれくらいだった。女の子にはビビられるし、何事もほどほどが一番だと結論付けてた。うん、そう、まあ、過去形だ。

 俺は持ち前の長い体を目一杯に伸ばした。左手が怪物の口の端を掠める。だけど、マジでギリギリ、あとちょっとのところで届かなかった。血の気が失せた。顔が冷たくなったのを感じる。左手がもがいたら次は右と、無意識的に右手も幹を目指す。

 カリ、とナイフの先が木の怪物の食道っていうのかとにもかくにも何処かに引っ掛かった。それはほんの少しだったけど、人間、生き残れる可能性を見出だせば体が無我夢中で動くように出来ている。俺はその取っ掛りを元に左手で今度こそ怪物のへりを掴んだ。右手でナイフを深く刺し直す。高身長万歳。

 ウオオオ、と怪物が吠えた。それは風となって俺にぶつかった。体が浮いたくらいだ。鼓膜もビリビリしたが、そんなことに構っている場合じゃない。ほぼ垂直といえる怪物の体に足を掛ける。そうして体を持ち上げた。

 眼前に触手があった。顔を近づけて、俺を押し込もうとする触手にかじりつく。真正面からきた触手はそれで怯んでくれたが、俺の口は一つしかない上、正面にしかついてない。正面以外の四方八方からやってきた触手が俺を押し込もうとする。

 俺は触手にもみくちゃにされながらも手当たり次第に噛みついた。時折外して歯と歯がぶつかってガチンと鳴る。どうにかこうにか怪物の口のへりに跨がった。そのまま反対側へ身を投げ出す。俺を捕まえようとする触手をナイフで切りつけ噛みつく。

 ドスン、と尾てい骨に衝撃が加わった。転がって川の中に入る。触手は水の中まで俺を追ってきた。しつこいな。いい加減諦めてくれ。俺を追うより魚を取った方がもういっそ効率的だろ。

 という願いが通じたのか触手がふ、と追ってこなくなる。

 それとも俺が流されているからかもしれない。


 水に抗うのは骨だった。何せ水は俺よりデカい。

 ガゼルが水飲み場とするくらいには流れは穏やかな筈で、岸へと水を掻く。足を蹴る。上半身を持ち上げて息をする。俺を押す力が強くてそのくせ押し返そうにも水だから手応えがない。だから順番通りに泳げない。手でめちゃくちゃに掻いて、隙あらば足で蹴る。息をするのが一番億劫で我慢出来なくなったら体を持ち上げた。酸素が足らない。

 右手が水とは違う、確かな感触に触れた。俺は足でせっせと水を蹴った。左手が土の感触に触れる。精一杯体を伸ばして、右腕を持ち上げた。岸を掴む。土が崩れるより前に左腕も持ち上げて、岸辺に乗せた。足で水中を掻き、岸辺に寄せる。何だか知んないけどトイレに行きたくなった。プールに入るとトイレしたくなるのすげぇ謎だし普通に困る。

 服も髪の毛も、もしかしたら皮膚も水を吸ったのかもしんない。水から顔を引き出すだけでもとんでもない重さだった。体を引き上げられる自信がなくて、岸辺に腕を掛けたまま、暫し揺蕩う。

 でも、これ駄目だ。水はずっと流れてるから中に入れば入るほど体力を失う仕組みになってる。体力回復したいのに失う。

 最後の力を振り絞って体を持ち上げた。持ち上がりきらなくて、陸へ肩から倒れこむ。そのままゴロゴロ転がって水辺から遠ざかる。

 そのまま寝転がって空を仰ぎ見た。自分の呼吸音が聞こえる。あれだけ喉が渇いてたけど暫くはいらないっすみたいな気持ちだ。鼻に水が入ってツーンとして痛い。それが過ぎ去れば草と土と水の匂いがした。

 肉食獣やら何やらがいるだろうけど、疲れて指一つ動かせる気がしない。まぁ、もう無理って思っても存外いけるから動かそうと思えば動かせるんだろうけど、そうする気になれない。

 瞼が重い。もう抗う方が馬鹿だろ。だってこんなに体は休息を求めてるんだ。一回休んだ方がもっとちゃんとしたパフォーマンスが出来るぜ。

 でも、俺は別にパフォーマンスを求められているんじゃないんだった。生き残って手紙を国に……あ?

 上半身を勢いよく起こす。ズボンのポッケに手を突っ込む。ない。当たり前だ、こっちにいれてない。胸ポケットに手を入れる。

 大層水を吸った手紙が出てきた。でもあれだ、ちゃんとした紙だからか形は保ってる。セーーーーーフ!

 俺は今、一人だから誰も突っ込んでくれないのだった。暖かな日差しが降り注ぐ。

 まぁ、まぁね、言うてこれはセーフだった。悪ガキ時代に池に落っこちたり側溝に落ちたりした甲斐がある。濡れて引っ付いた紙は水の中に入れて、分離させて乾かせばいける。人生何が役に立つかわかんないね。

 それから俺は草原を見た。あの点みたいなのが俺の飛行機だ。遠いぜ。草がそよぐ。日に褪せて薄茶だ。飛行機の水槽を満たし、逸れた道のりを出来るだけ戻るわけよ。大分ロスしている。

 俺は罪悪感から目をそらす為に目を閉じた。そうすると日差しの暖かさが余計に感じられた。




 まばらに生えていた草は草原になって、ポツポツと生える木々の間隔はどんどん狭くなった。そうして、とうとう森になった。最初は日が良く差し込んでいる広葉樹林の森だ。それから、どんどん葉は茂って、地面はもうほとんど見えなかった。あるのはブロッコリーの群れみたいな木々の葉だけだった。いや、ホント、延々そんな光景だから、俺はブロッコリーをもう一年くらい食べてないのに、暫く食いたくないなという気持ちにまでなっていた。

 こうなってくると、着陸場所を見つけるのは一苦労だった。夕方になるよりも前に、もう着陸場所を探さないといけなかった。進路からあんまり外れるわけにもいかないから、ちょうどいい場所を見つけたら、まだ日が高くても飛行を止めることもあった。


 といってこれは早すぎる。飛んでちょっとした時に、着陸によさそうなポッカリとした空き地を見つけたが、なくなく通り過ぎる。何せ日は高いどころか東の十時の位置だ。空の先は健康的な入道雲がもくもく背を伸ばしている。青い空に白い雲って、ブロッコリーにマヨネーズくらい相性がいいよな。


 最初は頭痛だった。

 空はこんなに晴れているのに、頭が痛いことに気が付いた。気が付いてしまったから気になりだす。気づかなきゃ良かった。眉を顰める。

 太陽の光が目に入る。ムカつく。


 ふと見たら気圧計が壊れていた。え。

 まずい。まずいまずいまずい。気圧計の針は目盛りの一番下のその先に行っている。人間が限界を超えるのは素晴らしいことだが、機械は超えなくてもいい。むしろ超えないでくれ。むしろでも何でもないわ。超えるな。

 え、どうすんの。俺は思わずレバーから手を離して気圧計に触れた。触れたって癒しの波動なぞ放ってないから何にも起こらない。気圧計が壊れたら、どうやって嵐が来ることを察っしろというんだ。気圧計の針が下がったら低気圧で嵐の前触れなんだけど、……お?


 太陽は何時の間にやら雲の後ろだった。

 どうにかしなきゃと思うがどうしようもないから何をしたらいいのかわからない。いや、ホント、マジで何をすべきなんだよ。操縦桿を右に左に傾けてみる。飛行機は右に左に飛んだ。変わらず気圧計の針は限界まで下がって、可哀想にブルブル震えている。本当に哀れなくらいだった。まぁ、そう気に病むなよ。嵐が来るのは気圧計のせいじゃない。


 あ。一回着地してやり過ごすとかどうだろう。

 ところがどっこいすっとこどっこい着地出来る場所なんてありはしなかった。おい、俺の視力よ。何のための二なんだ。ここが見せ場だろうが。


 そうして、俺は大パニックに陥っていた。

 うん、そういえば理科の授業で、入道雲は嵐の前触れだって習ったな、ということを思い出す。そのリマインド、遅いです。

 えーん、俺のナイスな灰色の脳細胞よ、大事なことはもっと早く思い出してくれ。俺の脳みそとおそろっちの灰色の雲はこちらに大きく張り出していて、空が酷く狭く感じられる。気圧計は、あ、まだそんな下がれたんだ、え、嘘嘘、そんな下がっちゃう、え、まだ下がっちゃうっていうくらいの動きを見せていた。いやもう、そこらで手打ちにしてくれません?賭けポーカーしているレオ並の厳しさだ。俺はあいつに全財産を取られたばかりじゃなくて、文字通り、身ぐるみ剝がされたことがある。お情けでパンツは勘弁してもらったけど、最低限のお情けが過ぎやしないか。

 それなのに、どこにも空き地がなかった。俺は目を皿にして、懸命にブロッコリーの群れを見つめる。

 一回、朝にみた空き地へ引き返すべきだろうか。でも、ちょっとしたら見つかるかも。そしたらここまで飛んできたガソリンが無駄にならずに済む。そう、水云々で大分ロスしたから節約しないと嵐じゃなくてガソリン不足で野垂れ死ぬ。

 引き返さない理由は沢山あって、引き返すべきではない理由もいっぱいあった。


 結論、理由っていうのは少なければ少ないほどいい。一番いいのは理由がないことだ。

 つまり、俺は風に煽られ、操縦のコントロールをちょっとばっかし失って、それで墜落した。それはもう酷いもんだった。しっちゃかめっちゃか。俺はマラカスの中身みたいに滅茶苦茶に投げ出され振り回された。上下右左がどこかわからなくなるなんてもんじゃない。存在しているかも危うかった。

 レオの言葉の意味がようやく分かる。別にわかりたくない。空にいるっていうことは何処にも寄る辺がないってことだ。どこにも地についていないから踏ん張りようがない。落ちる、という恐怖は正確ではなくて、どこにも頼るものがないというのがまだ正解に近い。

 ただ操縦桿を握って、終わりが来るのを待つ。


 気が付いた時、何もかもが静止していた。それなのに、浮遊感がまだある。

 覚悟を決め、俺はパチッと目を開けた。飛行機はひっくり返ってどこか木か何かにひっかかっているみたいだった。そのせいで俺も座面ごと宙づりになっていた。

 そう、俺はまだ生きている。

 俺は静かに拳を地面に向かって振り下げた。(何せ俺は真っ逆さまの宙づりだから、そんな状態で勝利のポーズを取るとそうなる。)


 機体にロープを括りつけて、歩いて引っ張ってみる。ざわざわと梢が揺れて音を立てた。一向、飛行機は引っかかったまま外れそうになかった。


 つまり、だ、レオならこれくらい想定の範囲内で俺を行かせただろう。なら焦る必要は何処にもない。現実逃避とも言う。言い訳?あっはは。

 枝と機体の間に枝を差し込み、てこの原理で機体をどうにかこうにか浮かせる。うん、浮いてるよな。さっきより浮いてる気がする。一mmだろうが二mmだろうが浮いていればいいんだ。それくらいは浮いてる。

 それからうんうんいいながら紐を引っ張って、飛行機を動か…す……。ちきしょう、やっぱり動かない。そうだよな、一人でこんな馬鹿でかい機体、動かせるわけない。わかってんだよ。それでも、俺には任務があって続けなくちゃならない。

 うんうん唸りながら引っ張って、木と機体の間に枝をとにかくあちこちから差し込んで、それでも機体は抜けなかった。俺がおじいさんじゃなくて、あと、ねずみと仲のいい猫と友達の犬を飼っている孫と仲良しのおばあさんがいないからだろうか。

 もしかしたら、掛け声がまずかったのかもしれない。俺はひとまず腰を下ろした。あぐらをかく。股関節が伸びて気持ちがいい。腕を組んで頭を傾げ、典型的な悩んでいる人のポーズを取る。いや、マジでさ。ワンチャン、掛け声が不味いからみたいな線もあるんじゃないか。掛け声によって出せる力が変わるってきいたことがあるようなないような気がしないでもないでもない。それこそ、うんとこしょどっこいしょとかさ。つまりあれだけ語り継がれてる訳だぜ。そこには真実が含まれてんだよ。或いは何世代もの大人達が子供達に伝えたいことだとか、そういうのがきっと詰まってるわけだ。


 一時間くらい、色んな掛け声を試して、自分でもかなり独創的な唸り声を作って、ようやく俺は、問題は掛け声じゃないなって真実と向き合うことにした。いやでも、あとちょっとで機体を動かせると思うんだよ。あとちょっと、何か些細なことがきっかけで機体は動いて、そしたら滑るように地面に着陸できる気がすんだよな。そしたら、後は簡単だ。飛べばいい。

 俺は、こんな森の中でどうやって飛行機を飛ばすんだということに気付いた。


 つまりだ。飛行機っていうのはだだっ広いところで暫く走って、それで風とか気流とかそんなようなものを作ってようやく機体を浮かせられるわけだ。でも、森の中じゃ、飛行機を置いとくだけでどこかしらに枝葉が引っかかる。走らせるどころじゃない。

 ちょっと、運命さん、困難の配分おかしくないか。多すぎる。



 夜になる。火を焚いた。燃やす枝はいくらでもある。人間、腹が減って寒くて金がないと死にたくなるからな。

 これから食糧は減るだろうし、腹を満たす為に狩りをした方がいいだろうか。

 草原の上を飛んでいた時にしなかったのは俺が都会育ちだからだ。都会も都会、宮廷育ちだぜ。由緒正しい小姓の家柄。宮廷というのは小姓だって由緒正しきを求める。ひいひいひいひいおばあさん、とにもかくにももう思い出せないくらい古くから宮廷に仕えてきた。俺の祖母も祖父もそうで、俺もそう。

 だからさ、うん、何かこう自分の手で草食動物を殺すのには躊躇いがある。だって殺したことないもん。戦場とかね、命のやり取りとして殺したことはあるよ。名目上、騎士だからな。でもそれとこれは別じゃん。別に博愛主義者でもベジタリアンでもない。単純に食べるために自分の手を汚すのが嫌なだけ。だってさ、だってさ。草食動物ってスゲーつぶらな目をしてんじゃん。

 脳内でレオがせせら笑った。そういうとこレオはちゃんとしてる。自分の手を汚そうと汚しまいと、結局その肉を享受している時点で俺達は同じ穴のムジナで、なら、己の手を汚す方がいいと言う。狡さっていうものが何処にもないんだ。対する俺は狡さと甘さを捨てきれないでいる。

 俺は頭があんまり重たくて立てた膝に乗せた。視界が九十度曲がる。

 揺らめく炎は赤、橙、萌黄、色とりどりの薄絹のヴェールをひらひらさせているみたいだ。パチパチと音をはぜさせている。その度にちっちゃな鱗粉のような火の粉がパッと舞い上がってすぐに落ちた。這い寄る夜は炎に相対されているせいか完全な闇の色で、じわじわと近づいては光に近づきすぎて痛い目をみて慌てて下がっていく。周囲の木々はさやさやと音を吸い込んだ。

 レオは、そういう俺の狡いところ、甘さに対して、いいんじゃないかって言う。俺にはそれが許されるんだと。そういう性格、人格、それとも愛嬌があって許される。それって良いことだぜ、お前の長所を端的に表してるとかのたまう。

 そんな励まし、全然、何処をとっても、何ひとつ、全くもって嬉しくない。嘘でもそこはそんなとこないぜって言うところだよな。



 パキポキと小枝を踏む音がした。顔を上げる。次いでウギャとか、ギャーとかその中間のような低い悲鳴が聞こえた。松明代わりに燃えさしを一つ手にとって立ち上がる。落ち葉が掠れ合う音と共に唸り声のような悲鳴が大きくなったり小さくなったりしながら続く。悪夢の子守唄のようでもあった。それ何だよって言われると困る。


 呻き声に近付く。足を踏み出す度に落ち葉がガサガサと音を出し、着地させると小枝がパキポキ鳴った。

 声の主も自分の元へ何かが近付いてきていることに気が付いたらしかった。

「あ、あ、あ、ああああ!」

 声の調子が変わる。葉ずれの音が大きくなった。

「大丈夫ですよー。今、そっちに助けに向かおうとしてます。」

 声と音のする方へ話しかける。


 木立の隙間にいたのは虎ばさみに掛かったおじさんだった。おじさんの足元があんまり痛そうで目を細めて口を引き結ぶ。

 いや、荒れ地オオカミをあれだけ切りつけ、卑猥な木の触手に噛みついて何を今更って言われそうだし、実際そのとおりなんだけど。騎士として惨いものを作ってきたし、そういう仲間も見てきた。でも、やっぱりこういう一思いに殺すんじゃないやつが痛そうなのには変わりない。惨いものが増えたからといって一つひとつの惨さは軽くならない。惨さの程度に関わらず、惨いものは惨い。

 俺は飛行機に取って引き返し、ウイスキーと包帯を持ってきた。そうして手にじっとりと汗を掻きつつ虎ばさみをこじ開けておじさんの足を救出した。

 罠に関しちゃ、宮廷では狩りをするのが慣わしだから、猟師のように手慣れてるとは言い難いけど、見たことはあるし触れるんだ。器用貧乏とも言う。小姓なんてそんなものだよ。おじいちゃんは器用裕福だったけどな。

「いやぁ、どうもどうも、旅の御仁。助かりました。何ともいやはや。」

おじさんの顔はまだまだ青い。パンパンにむくんだ顔は、普段はきっと赤らんでいるんだろうということを窺わせた。早くおじさんの顔に赤みが戻るといいな。

「いえいえ、そんな。あなたも旅をされていらっしゃるんですか。」

その足では歩けないだろう。おじさんが近くの民家を知ってるといい。流石にこのおじさんを背負って森をさまようのは骨が折れる。それとも体を鍛えるいい機会かな。ずっと座りっぱなしだったもんな。

「いや、この近くに村がありまして、そこに住んどります。」

おじさんはポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭った。


 おじさんは肩を貸して頂ければ自分で歩けますと強く主張した。それで肩だけ貸したけど、結局ほとんどおじさんの体重を支えて歩く。これならおんぶした方が楽なんだけど、でも、おじさんが嫌なら仕方ない。時折、チラチラ確認するけど、おじさんは今度は顔を真っ赤にしてフウフウ歩いている。ただでさえ、森は根や倒木で歩きづらい。やっぱり、もう一回聞いておこうか。

 俺がおじさんの足元から目を離し顔を上げたのとおじさんが声を上げたのは同時だった。

「ほうほう、あれです。あそこが私の村です。」

おじさんの顔から前へ向き直る。

 木立の影から集落が見えていた。緯度は低いが標高が高いから多く雪が降るのだろう。雪が落としやすいよう屋根の大きな丸木造りの家々がポツポツと立っている。落ち葉があんまり降り積もっているせいで、まるでキノコのように地面から生えているみたいに見えた。



 あれよあれよという間にかくして宴は始まった。村の中心にはキャンプファイヤーもかくやの篝火が焚かれ(篝火とキャンプファイヤーの違いは、て聞かれると答えられないけど。)、即席でテーブルが置かれた。白いテーブルクロスが掛けられ、その上には次々と大皿、つまりご馳走が並んだ。

 レオが脳内で、知らない人から施しを受けるなと言ってくるけれど、あんな一件があったのにと言われるくらいには、能天気な俺はありがたく頂くことにした。人の好意は無碍にしちゃいけないよな。うんうん。存外、大丈夫なもんだって。もうレーションも干し肉も見たくないし、仕方ないぜ。

 ほくほくと湯気を立てる野菜をこの森の中で育てるには苦労があった筈だ。ただでさえ大抵の物事は人間の思う通りにはいかないが、森で野菜を育てるなら開墾、木を切り出し根っこを掘り出す必要があっただろう。そこに春の月の色をしたオランデーズソースがたっぷりと掛かっている。グレービーソースでテラテラと輝く鹿の肉はほとんど丸々一頭分に見受けられる。バスケットにはパンがあった。小麦はきっとそんなに収穫出来ないだろう。街まで降りて何かと引き換えに手に入れたのか。もうすぐ冬なのに。

 俺はおじさんを見た。おじさんは村の人と話してる。お前さん、助かって良かったねーとか、あの人が通り掛かっていなかったらどうなっていたことかーとか、そういう類いのおしゃべりだ。

 俺はご馳走に向き直った。湯気は悩まし気に腰を揺らし、褐色の肌の鹿肉の照り焼きはチョコレート色だ。柔らかな日差しの色のドレスを身に纏って野菜達が微笑んで手を振った。駄目だ。白いテーブルクロスが真昼の太陽のように光を放っているように見える。


 「ところで旅のお方。」

宴もたけなわという頃だった。

 太陽は相も変わらずアフターファイブで彼女の待つ家へ早々のご帰宅を達成されて、西の空の端が燃えるような赤さで縁取られているだけだ。あとは闇に近い紺色だ。真っ直ぐな空は無数の穴から天上界の光を零している。篝火も最初の頃の勢いはなく、「それでも俺はまだやれる」と主張しているくらいの大きさしかなかった。皿の食べ物もほとんどない。

 今まで俺の隣でずっとにこにこするばかりだった老人が俺に向き直った。あんまり喋らないからにこにこ人形かと思っていたことは心の内に秘めて、俺も老人へ向き直る。

「おいそぎですかな。」

頷けば老人は目じりを下げ口角を上げたまま、額の皺を深くした。俺はアハーンと思った。

「何かお困りのことで、俺が助けになることは?」

ご飯のお礼にと笑えば、老人はにこにこを継続した。

 世の中、タダより高いものはないし、旨い話なんてないのである。



 湖で片手剣を持ってウロウロする。

 体格に恵まれすぎているもんで(恵まれているのは体格だけじゃないけど、な)扱う獲物は槍のようなリーチが長いものが得意なんだ。それなのに持ち慣れない片手剣を手にしているのは槍が飛行機に入らなかったからだ。入口で引っ掛かった。どうにかこうにかやってみたけど無理だった。

 湖畔は朝日に照らされ銀色の糸が無数に走っているようだった。小さな魚の背は光に反射して投げ入れた銀貨みたくチッカチッカと光った。周囲の木々は静かなブロッコリーだ。パエリアやニースサラダにはいないタイプのブロッコリーだ。鳥がチッチと鳴いて飛んでいる。

 目的地は湖畔じゃない。その近くの洞窟だ。歩けば朝露がズボンの裾を濡らした。


 隣のにこにこおじいさんは長老だった。なるほど圧の掛け方が長老級だった。おじいさん曰く、元々こんな(と言われてもここがどれだけ森の奥か、近くの街までどれだけ離れているか俺は知らないんだけど)森の奥に暮らしているのは地下洞窟の宝石を採掘するためだった。ところが、その地下洞窟でサラマンダーが居座ってしまって採掘できない。

 サラマンダーは火を吹くトカゲだ。どうして、誰も近づきたがらないサラマンダーの元に俺一人を向かわせるんだろう。ぼやいても食べてしまったご馳走は戻らないんだな。


 洞窟の入り口に立つ。採掘に使っていたから地下へと続く道は階段状になっている。ぽっかりと口を広げ入口はずっと待っている。

 うーん、でもなぁ。俺は腕を組んだ。そもそも俺ってそんなに洞窟向きの体じゃない。しょっちゅう頭をぶつけそうじゃん。

 それから自然なのかはたまた人の手がある程度加わっているのかはさっぱりだけど、とにもかくにもカンテラに火を灯して、地下へと続く段へ足を乗せた。

 気分が乗ろうと乗っていまいと得意だろうと不得意だろうとやるしかない。世知辛いことに、そういうのはやらない理由になりはしない。やらなきゃ仕事はやり終わらない。本当に理不尽な世の中だよ。



 地下へ降りるほど空気は湿り気を帯び、冷たさをはらんだ。蒸し暑いよりはいい。むしろ快適とも言えた。涼しい上に湿度もあってお肌に優しい。荒地も草原もカラカラに乾燥していたから唇はひび割れが常態だった。肌はピリピリしたし痒くなった。さんざ痛めつけられてきた肌が癒されていくのがわかる。

 壁が濡れだす。ピチョンと水が滴った。足元もツルツルの岩な上、水に濡れているせいで滑りやすさ最高といった感じ。実際、ちょっと何回か転びかけて、二回くらい転倒した。足元に注意を払って歩かなきゃいけなくて、だから天井が急にぐっと低くなっていることに気が付かなかった。急に低くなるなんてそんな予想している暇もないほど足元に集中していた。それで頭をぶつけてバランスを崩してスッテーン。


 壁がじんわりと温かいような気がしないでもないでもないでもない。俺は立ち止まって何気なく手をついていた壁に視線をやった。足元に気を付けながら歩くのに目が休暇を申し出たんだ。カンテラの灯りに対して洞窟の闇は圧倒的だった。長年醸造されてきた闇は偽ウミガメスープのように濃厚だった。

 洞窟の壁はほんのり赤い色を帯びていた。俺は目を丸くした。何せ洞窟の中は、光が微かでそれとも闇が濃すぎるせいか、黒と灰色と薄い水色を帯びた灰色でしか構成されていなかった。

 しばし見つめる。赤色は次第しだいに範囲を狭くして、すぐに他の岩壁と同じ色になっていく。俺はその色味を追おうとカンテラを持ち上げた。


 色味を追いかけ触れれば、より赤い壁は確かに熱を持っているとはっきり悟る。熱を帯びて赤くなったのだ。

 この洞窟で熱を持った生命体に、俺は心当たりが二つしかなかった。すなわち俺とサラマンダーだ。


 地面を殆ど覆うようにトカゲの群れはいた。鱗がカンテラの灯りでヌメッーと黒光りする。

 俺達の細胞が呼吸によって生命エネルギーを得るように、サラマンダーは体内を燃やすことで熱エネルギーを得ている。それならばその炎が消えないように水辺や寒いところは避けるのが道理に思えるが、体の中が文字通り燃えているせいで彼らは常に熱に苛まれている。たんぱく質は高熱には耐えられない。そんな非効率的な体ってある?という話だが(俺は授業で聞いた時、そう思った)、寒い場所に生息する限り彼らは生きてこれた。進化は適応じゃない。たまたま生き残れた奴から生き残るのだ。強弱や倫理は根本的な要因ではない。こんなに低緯度で見かけるのは初めてだが、人の移動と共に来てしまったんだろう。

 サラマンダー達は俺の足音に、一斉に此方へ向いた。我が王都の騎士隊も真っ青の全体行動だ。(ちなみにレオはこれが一番苦手だった。周りに合わせて歩いたり立ち止まったりするだけだから楽だと思うんだけどなぁ。)そうして、一様に頬を膨らまし、火を吐いた。

 うおお、あっちぃ!俺は慌てて壁の影に入る。壁の赤みからそろそろ近いなとは身構えていたが実際に出くわすと「うお、いた!」ってなる。

 時間が差し迫っている中で俺がこの仕事を引き受けたのは、彼らのそのもてなしが彼らにとって貴重なものだと知っていたからだが、(わかっているという意味じゃない。)もう一つに勝機があったからだ。サラマンダーはそんなに強い生き物じゃない。火を吐ききれば、ただのトカゲだ。城の貯蔵倉によく発生していて、お駄賃目当てによくレオと退治してた。一人で退治するのは厄介だが、たぶん、やれないことはないと思う。

 壁から顔を出しては炎を吐かせ、顔を引っ込める。引っ込めながら、村を出る前のやり取りを思い起こす。


「退治の方法は存外簡単ですよ。誰か一緒に行きませんか。」

長老を含めた村のご意見番方が怪訝そうな顔をした。

「ですが旅人様は退治されたことがおありなんでしょう。」

名乗ったんだけど名前は呼ばれない。

「えぇ、まぁ。でも、やっぱり何匹か残るかもしれないし…」

「残ってしまうと困るんですよ、旅の方。我々では退治の仕様がない。」

だから、一緒に行こうと申し上げてる、ということをもう少しオブラートに包んでみたけど、三分の一も包みすぎたのか伝わらない。手をわたわたさせながら「ですので」と続けてみる。

「退治の方法自体は簡単なので一緒に行ってみませんか。」

長老は眉をひそめた。

「結局のところ退治は出来ないのですか。」

長老の後ろに控えおろうご老人方があれだけ食っといて?という顔をした。それはまぁ、そう。

「いえ、退治は出来ますよ、出来ますけど。」

「なら、お願いしたいのです。私達はただ退治して頂きたいだけなんです。簡潔に答えて下され。退治は出来るんですか。」

って言われたら「はい。」て答えるしかないじゃん。


 村に戻れば長老が腕を広げて迎えてくれた。その後ろで村人の皆さんも半円を描くように集っている。とても恐縮する。

「無事に退治出来ましたんでしょうか?」

長老はにこにことしている。俺が頷けば村人の半円が良かった良かったとさざめいた。

 マジでマジで、神様、どうか生き残りが一匹も出ませんよーーーに。


 出た。

 朝、俺が退治して、昼に採掘に行ったらしい。それでサラマンダーが出た、らしい。なるほど、神様はいないのだった。

 俺は、ここらは奴らの餌が少ないから遠くへ狩りに出ていたのが戻ってきたんでしょうとか何とか適当なことを述べた。実際、サラマンダーが何を食べてるのかも知らない。ゴキブリが何を食ってるのかも知らないもん。サラマンダーの知識なんて生物の教科書に載ってたコラム程度しかない。教科書は国語と生物だけは隅から隅まで読む派だったんだ、俺。


 え?また出た?しつこいね。なんて言っている場合じゃない。

「はあ、口だけだな。俺なら出来んことは口に出さん。迷惑じゃろが。」

まぁまぁでかめの声で吃驚した。普通、そういうのって聞こえないように言うもんなんじゃないの。


「よくこの村に居られるよな。」

なるほどなるほどなるほどね。聞こえるように言ってるのね。そんでもって聞こえちゃうよとか諌める人はいないのね。マジで何。ストップ安胃痛。

 俺ならそういうことは思ってても言わない。だけど残念なことにここの村人は俺で構成されてないのだった。





 結局、とレオが何の脈絡もなく口を開いた。

 これは俺の脳内のでっち上げのレオではなくて、記憶だ。厨房裏の階段で、悪戯の罰としてジャガイモの皮を二人で剥いていた。カーペットの下に油を塗って滑りやすくするという悪戯だった。左大臣様は盛大にスッ転びあそばせられて、俺達は取っ捕まった。

 何せ宮廷なもんで、人がめちゃくちゃいる。その分ジャガイモも大量に必要になる。俺達は、最初は何か喋っていたけれど次第に無言になって、せっせこジャガイモをナイフで削っていた。朝に悪戯して、昼飯食べてから始めたのに、剥いた皮を入れるためのバケツは紅と影のコントラストを作り出していた。

 「結局」という言葉は何某か前に文章があって、結論を述べる時に使うもんだと思ってたんだけどなぁ。レオと俺は、別段さっきまで会話をしていたわけでもなかった。唐突にレオは口を開いたのだ。

「結局、お前は裏切られたいんだ。」

 その口調は心底呆れ返ったようなものでも、見下すようなものでもなかった。親が自分の子供のいたずらを近所の人へ話すような、そういう調子だった。それで俺はそんなことないぜ、てヘラヘラ笑えることが出来た。

「裏切られたいわけないだろ。」

 そんな奇特な奴いるかよ、なんて続けた。レオはそうか、と笑ってそれでその話はなかったことになった。

 嘘。

 レオは、俺がその話に触れられたくないなと感じていることを察して、流してくれたに過ぎない。提起された問題は変わらずそこにあり続けていた。そう、今も。

 俺は裏切られたいだなんて思ってない。違う。正確に言えば、裏切られたくないって思っているって思っていたいんだ。そんでもってちゃんとそう自分は思い込んでいる、って信じてた。これも微妙に違うな。思い込んでいる、ってそう思っておきたかった。だから、そう思い込んでいるって信じこんでいるってそういうことにしていた。俺は、レオが気を使うようなそういう、そういう、面倒臭い人物になりたくなかった。自分がそんな面倒臭い人物だって認めたくなかった。


 おじさんと共に村へ来た時から俺は目をつむりだしてたわけだ。

 おじさんはそれほど村の要職についているようには見えなかった。「運が良かったね」だの「見つけてもらえていなかったら」だの村人の返答から見るに、おじさんの非存在は捜索隊を出してもらえるほどの事項じゃなかった。それなのに、おじさんを助け出した俺はあれほどもてなされた。資源の限られる森で、貴重な野菜は振る舞われた。

 そうして、彼らに白い目で見られながら、まだ彼らの望むことを完遂していないという理由で俺はまだここに留まっている。

 俺にはやるべき任務があるのに。

 俺が腕を組んで、俺を見下ろしている。俺は地べたに座り込んで己を見上げるが、如何せん背が高いから逆光も相俟って顔は見えない。

「嘘つきの役立たず。裏切り者が。」

 見下ろす俺が、俺に降り注ぐ言葉には此方を傷付けようという明確な意思があった。

 俺は、裏切り者じゃない。


 今はまだ。




 どちらかを選ばなければいけない時、それはどちらを選んでも後悔するようになっている。

 つまるところ、俺が宮廷に居られたのは、いや、それどころか生きていられるのは親父の嘆願と祖父の長年の勤務実績とそして何よりも、レオが俺のことを気に入ってくれているからだった。重要度で言えば一:一:百くらいじゃないか。どれほど親父が哀れを誘い、祖父が仕え続けていたとしても、最後の一点、レオの存在がなければ俺は存在を許されていなかった。


 それ、がいつ始まったのか正確なことを俺は知らない。何せ母親はもうほとんど家に帰らなくなっていってて、俺はまだ小さくてずっと家にいた。だから、実際何が起こったのか直接知っているわけじゃない。

 ただ、冬だったのを覚えている。葉という飾りを失くした庭の木々は貧相でみすぼらしい。俺は玄関が見える窓の枠に座って、霜の降りたガラスに指を滑らせ絵を描いていた。絵を描くのが特に好きだったわけじゃない。上手いわけじゃなかったしな。ただ指でなぞると水滴や霜が落ちて外がはっきり見えるようになるだろ。その線とか絵からほんの少しだけ見える外と霜のコントラストがちょっと面白かった。ちょっとだけだけど。

 母親を待っていた。別に母親が恋しかったわけじゃない。そうすると母が喜ぶからで、母を喜ばせておけば、そうすれば変わるのを防げるんじゃないかって考えていたからだ。何かが変わりつつあるのは祖母と祖父の態度で何となく勘付いていた。俺は変わりたくなかった。今のままが良かった。

 その日、おじいちゃんは早番だった。それで帰って来た。おじいちゃんはおばあちゃんに外套を渡しながら、窓際に座っている俺に首を傾げた。

 何せその頃(に限らず)の俺といえばじっとしていることの出来ない子供だった。そこでじっとしていてねって言われても十秒数え切らないうちにもう十分待ったような気がして動き出していた。楽しいことは沢山で、でも夜になったら寝かしつけられちまう。

 どうしたんだ、っておじいちゃんが俺を指しておばあちゃんに訊く。おばあちゃんは眉尻を下げて肩をすぼめた。少し落とした声で、「あの子はお母さんを待ってるんですよ」と答えた。

「何っ。」

 普段、おじいちゃんは大きな声を出さないからそういう意味でも俺は肩を飛び上がらせた。祖父母の会話に耳をそばだてていたくせに、聞こえていないふりをしていたけど、それも止めておじいちゃんの顔を見た。目を丸くしてみせて、驚いたことを表す。いつもはそういう俺の表情にすぐに気が付いて此方を気遣ってくれるのに、祖父は一向俺の様子に気付いた素振りを見せず、こちらに近寄った。

 祖父が大柄だと実感したのはこの日が初めてだった。

「待っちゃいかん。もう金輪際、あいつを待ってはいけない。」

 俺は反論を思い浮かべるまもなく、ただ、祖父の声の大きさに頷いた。

「こちらへ来なさい。もうすっかり冷えて。」

 そうしてショールに俺をくるめたおじいちゃんはいつもの通りだった。だけど俺は、それが見せかけだと知ってしまったから身を固くしていた。

 今ならそれが見せかけじゃないってわかる、或いは信じられる。普段のおじいちゃんもあの時のおじいちゃんもどれも全て等しく正しくおじいちゃんの姿だ。だけど、あの頃の俺にとって、あの日のおじいちゃんの姿はあんまり衝撃的で他が霞んでしまった。

 俺の知らない間に、母は待ってはいけない人になっていた。


 母は父を捨て、皇太子殿下と駆け落ちした。

 殿下は烈火のごとく激怒した。そりゃそうだわな。愛する娘を捨て、婿が使用人と出奔したんだからな。それでも長年、殿下に献身的に使えて来た祖父母は降格で済ませるに留め、同じく裏切られた身である父のことも処罰しなかった。母が嫁入りの身で祖父母とも父とも血が繋がっていなかったのもあるんだろう。

 でも、俺は駄目ということになった。裏切り者の子孫はいつかきっと裏切るだろ。

 レオは嫌だと言った。言っただけじゃない。

 俺は裏切った者と裏切られた者の間に生まれた子として様子見になった。


 親だって裏切る。けど、友情だってこの世にはちゃんとある。




 俺はポケットに手を突っ込んだ。

 湖畔をブラつく。針葉樹の匂いが鼻の奥を刺す。標高がもう随分と高いから、冬が近いのに生える木々は緑を纏っている。草は柔らかく、固いブーツの底を通じてもほろほろとした感触がわかる。目線をあげれば静かな湖畔だ。恐らくカルデラ湖なんだろう。俺から遠く離れれば離れる程、湖は青と深みを増した。

 でも、じゃあ、どうすればいいんだよ?

 胸中で俺に向かって問うてみる。そんなに意地悪いうならさ。俺はニヤリと笑った。

「裏切れっていうのか?村の人と約束したんだ。」

 俺はフンと鼻を鳴らした。

「そんなわけないだろ。」

 ポケットに手を突っ込んだ俺が立ち止まる。そうして仁王立ちで俺の前に立ちはだかった。

「裏切って踏みにじれ。蹂躙しろ。搾取しつくせ。」

 俺は、最後にみたレオの風に靡く髪を思い出してた。



 俺は眉尻を下げてちょっと笑った。食堂のおばちゃんはこうやって笑うと必ずおまけしてくれる。

「採掘であちこち穴が開いているからこのままだといたちごっこですね。」

村長さんは知っとるわいみたいな顔をした。

「一体、いつごろ片がつくんです。」

俺はさらに眉尻を下げた。

「一掃するには一気に逃げる隙を与えないことです。」

「じゃあ、それをして下さい。」

食い気味で答えられる。それを最初からやれよと言っているように聞こえた。

 俺は首を傾げた。コレすると踊り子のねーちゃん達に可愛いって言ってもらえるんだ。

「でも、それは今、出来ないんです。」

だからしてない訳だと言外に匂わせてみれば村長さんはちょっと、ほんのちょっとだけ黙り込んだ。

「何故、出来ないんです。」

俺は笑みを堪えた。

「引っ掛かってるんです。」


 えーんやこら。

 俺はせめてもの贖罪に心と力を込めてロープを引っ張った。実際、一番力を出しているのは俺だけだ。他の村の人達は何で俺達がみたいな顔してゆるゆると引っ張っている。そんでも人手は人手だ。

 木に掛かっていた飛行機はこうして外れた。


 木に引っ掛かった飛行機を独力で外すのは無理だ。そんでもって飛行機を飛ばすには開けた土地が必要だった。

 今の俺にはそのどれにも当てがあった。

 人生は手持ちのカードでやるしかない。


 飛行機は右の翼を下に、左の翼を天に向けて固定されて運ばれた。馬や牛が山道を登る。その後を歩く。村人の一団から離れるために足幅を狭め、ゆっくり歩くことを心掛け後方に陣取る。俺が共に歩いていないことに気付いていないのか、それともその意味を推察した上でか、村人達は勝手に喋り出す。

「村長のくせして。」

「ただ飯くらいが。」

「この後、自分の分の仕事もあるのに。」

「疲れた。」

 俺は樹皮の匂いに鼻の頭へ皺を寄せた。

 馬鹿と煙は何とやら。俺は高いところが好きだ。空の匂いに鼻を突っ込んで風が分かれていくのを感じるのは面白い。


 俺は取り入れが終わったらしい畑の跡地を見下ろした。この前まで開けた土地にいてウンザリしていたはずなのに、今は懐かしい。アレだな。草原と森のターンが交互に続けばいいのに。こう、今は荒地荒地荒地荒地、森森森森じゃん。そうじゃなくて荒地、森、草原、荒地、森、草原みたいに並んでくれればいいのにな。そしたら飽きないぜ。でも地球は俺を飽きさせないためにあるわけじゃないからな。俺が地球や他の誰か(例えば村人)のためにあるんじゃないのと一緒だな。

 飛行機の操縦席に乗り込む。座席に座る。既視感に何だろと頭を巡らす。わかったぜ、これは外出から戻って自分ちのトイレに入ったときの感覚だわ。


 かくして俺はサラマンダー退治に飛行機がいるんですといいながら、飛び立ったのだった。

 空から地底の生物を駆除できるわけないだろ。




 そう、俺はあの地平線の果てに見えていた山脈の近くまでとうとう到達していた。この山々を超えればもう王国の領土内だ。俺はぼんやり超えるべき山を見た。

 飛行機を上昇させる必要があった。

 高度を上げれば上げるほど空気の抵抗は少なく済む。それだけ燃料も消費せずに済む。これは助かる話だ。もう燃料は百人が百人、少ないねというほどしかなかった。

 空気が薄いと燃料が節約できるが、高すぎても空気が薄くて燃料を燃やせなくなる。そしたらやっぱり飛べない。

 そして、そもそも論、上昇できるのかという問題がある。この小型機の翼が上昇するための揚力をどれだけ得られるのかということだ。より高いところを飛ぶにはデカい翼がいる。

 考えなきゃいけないことは山積みだ。何か一つ過ぎ去れば別の問題が現れる。果てがない。当たり前だ。星は大体丸いから果てなんかない。

 そんでもって過ぎ去った問題なのにあの村の人達が俺の脳内に現れる。何度も振り払ってもまた出現してきていて、気が付いたらずっと考えている。過ぎ去った問題なんか考えてもどうしようもない。やっちまったことは取り消せない。そのせいで考えるべき目の前の問題を考えられていない。いい加減にしろよ。

 


 焚火に薪をくべる。標高が高いせいで非常に寒い。それなのに俺は野営地を後にしたあの時の恰好のままなのだった。熱が遠い。小さくて体を温めるに至らない。かざした掌だけが熱い。

 火の子がチラチラと散る。息を吐けば白い。もう大分上がって来たから、木もまばらだ。山の標高が高くなれば飛行機を着陸させられる平な場所もなくなる。超えるなら一気だ。

 睫毛を伏せていることに気が付いた。寒いから前こごみの姿勢になっている。おじいちゃんに叱られる。

 人より背が高いから背筋を伸ばしていると誰の顔も遠くなった。それに見下ろされて気持ちよく感じる人なんて少ない。レオも不服そうな顔をする。女性や子供ならきっと恐怖だって感じるだろ。自然、猫背になった。それで、しこたま叱られた。

 肩を前に縮こまらせ背を丸めれば、肺が圧迫され呼吸が浅くなる。酸素が行き渡らなければ人間、正常な判断が出来なくなる。だから、運命は背筋を伸ばして向かい合わなければいけない。

 背筋を伸ばしたら冷気がさらに服の隙間から入ってきて体がブルッと震えた。それでも、俺は人生に背筋を伸ばして立ち向かっていきたい。その方がカッコいいだろ。


 背が高いのは母似だ。顔は父親の血だ。思い出す母の姿はしゃんと背筋を伸ばしていた。顎を上げるのが癖だった。人の目を真っ直ぐに見る。今思い起こせば迫力のある人だったなと思う。

 ちなみに母はレオの初恋の相手でもある。俺は普段は強気だけど、信頼した相手にはおずおずと弱気な姿を見せてくれる子が好みだ。何かこうグッとくるじゃんか。守ってあげたくなる。

 つまるところ、どうしようもなかった。山を越えられなかろうと山を越えるしかない。俺は手紙を運ばなければいけない。



 座席横のスラストレバーを前方に押し出す。気がせいて一気に押し上げてしまったらしい。グンと傾いた。その上、上手く上がり切っていない。

 上昇するというのはエンジン出力を上げてスピードを上げるということだ。けれど上手く出来ていない。やり直す必要がある。俺はレバーを一度、元に戻した。ブレーキレバーを引いて減速する。

 理想としては上昇する際に、上へと昇っている風を捕まえることだ。でも、機体の中に居てどうやって風を探せっていうんだ。

 勝機は一つ。俺は、はちゃめちゃ運がいい。馬鹿って言うなよ。


  トライする。上昇しだすが、緩やかだ。この調子で上昇しても山肌にぶつかるだろう。

 やり直すことにした。


 ハイ、駄目。リトライだぜ。


 上昇失敗。

 というか、これ、風に乗れたとしても距離足りなくて、ぶつかるか?……うん、思いつかなかったことにしよう。何せまた挑戦するしかない。

 当たって砕けろだ。砕けたら歩いて山越えだ。


 いや、砕けたら生き残れないな。

 上昇するが緩やかだ。え、マジでどうする。レバーを元に戻してやり直すには距離が足りない。

 俺は目を瞑った。山肌にぶつかると思ったからじゃない。いいアイデアを降ろすためだ。

俺は士官学校のテストでヤマを張って当てまくってペーパー様と崇め奉られていた。神様とかけてのあだ名だ。今こそ真の神になる時だ。

 宿らねえ。


 イチかバチか、フラップを下げて減速する。フラップを一気に上げてさらなる上昇を試みるつもりだ。そう、上昇気流を見きわめ、上げれば、勝機はある。たぶん。恐らく。計算した訳じゃないけど、たぶんイケる。

 上昇気流を見きわめる方法?勘だぜ。今度こそ、俺は神になる!!!!




 なんでおじいちゃんの跡を継がないんだよとレオは聞いた。

 俺は一兵卒。レオは皇太子殿下だ。身分が違い過ぎるから、きっと入隊したらもうほとんど会えなくなる。祖父の跡を継げば、レオの小姓として、レオが戦から帰ったら奉仕できる。

 入隊前の晩のことだった。俺とレオは士官学校の寮のベランダに出ていた。寮の中では最後のバカ騒ぎと皆が酒盛りしている。ベランダの地面にはその様子が影絵として展開されていた。

 訓練するための場所だから少し人里から遠い場所にあった。そのせいで他に明かりは無くて、星はうるさいほどに輝いてみせていた。

 俺とレオはその二つの世界の狭間で瓶ビールを片手にいた。

「俺、お前には生きてて欲しいのに。何で、あの時、駄々をこねたと思うんだ。」

 レオは笑って言った。あっはは、みたいな。実際、駄々をこねたとかそういう可愛い次元じゃなかったことは書いておこう。

 俺はレオの目を覗いた。屋根のひさしの影に入っているせいでいつもより瞳の色が深い。

「お前が命を懸けているのにかよ。」

 酷い奴だ。レオは残酷な奴だ。俺はにへら、と笑った。

 レオが命を懸けるなら俺も懸ける。レオが人を殺すのなら俺も殺す。俺はいつだって魂の土俵だけはレオと同じところにいたい。いたい、というかいると決めている。



 飛行機がガッと縦揺れをした瞬間、俺は神がかり的な反射というか何が起こったか理解していなかったけれども、とにもかくにもフラップを上げなければとずっと考えていたせいというかおかげでフラップを上げた。

 それは上昇気流に突っ込んだことによる縦揺れだった。

 座面に滅茶苦茶に押し付けられる。歯を食いしばって、前方へ押し出したスラストレバーを維持し続ける。ここで離す訳にはいかなかった。

 ベッコンという音が遠くからした。

 腕が痺れた。

 俺は歯を食いしばり続けた。他にすることなんかない。




 ベッコンという音は片翼のフラップが剥がれた音だった。まぁ、フラップがなくとも飛べはするし、一応着陸も出来なくもないと思うので大丈夫だろう。

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