一食目.秋のクリームソーダ
なんとなく、本当になんとなくだったのだ。いつも通りかかっていた喫茶店がたまたまバイトを募集していたから、なんとなくノリで応募しただけなのだ。自分とはそういう人間なのだ。それがまさかこんなことになるなんて。予想だにしないという言葉は今の自分のために作られたのではないか、そうとすら感じてしまう。
「ええっと…名前は。お…?えぇと」
こちらが渡した履歴書を見ながらいかにも過ぎる見た目をしたマスターが眉を顰める。
「そ、そらです。大きい空って書いて大空…って言います」
頑張って声が震えないようにしたせいか最後の声が少しだけ裏返ってしまった。
「ああ、大空さん、大空さんね」
何度か頷くとマスターは胸ポケットに入れていたメガネをスチャッとかける。何とも様になる姿だった。きっとただの客としてきたなら見惚れてしまうかもしれない。
ああ、もう帰りたい。来るんじゃなかった。
大空がこんなにも悲観的なことしか考えられないのには大きな訳があった。
それはこの店に入ってきたほんの数分前に遡る。
「あ、あのー今日面接の予定の
少し重ための扉を開けるとチリンチリンとまるで鈴虫の音が頭の方で音が鳴る。大空は軽く店内を見渡した。お客さんはカウンターに座っている喪服の男とその隣にいる茶髪の男の二人のみ。しかしよく見てみるとその隣の椅子に影と同化してしまいそうなほど真っ黒な猫が丸くなって寝ていた。ところがこの店の従業員らしき人はどこにも見当たらない。
「あのぅ…。」
他の客もいることで気持ち抑え気味の声で大空は再び店の奥に向かって声を出す。
そのすぐ後の事だった。まるで夢でも見ているのかと思うような、いやむしろ夢であって欲しいような光景が大空の目に飛び込んできた。なんと茶髪の男がふわりと宙に浮かんだのだ。飛んだ、宙を移動したの方が正しいのかも知れない。
まるで某超有名漫画に出てくる竹とんぼを模した機会を頭につけたような、アニメでしか見たことがないような、そんな動きだった。
人間本気で驚いた時は声が出ないもので代わりと言ってはなんだが右手に持っていたクラッチバックを床に落としてしまった。その時喪服の男がこちらに振り返った気がして、目が合わないようにと慌ててカバンを拾う。今の顔は人に見せられたものじゃない、鏡を見なくてもわかった。いやな汗というのは具体的にどんなものかはわからないが、とにかく頬に一筋の液体が流れ落ちたのは理解した。
大空の頭の中を一言で表すならばパニックだ。
え、何あれ。何?幻覚?私の目がおかしいの?まさか、幽霊…?いやいやいやそれにしては馴染みすぎでしょ。何ちゃっかりカウンター座ってんのよ。幻覚、そう幻覚に決まってるわ、落ち着きなさいよ私!
そう自分で冷静になろうと努力してみるも毛穴から流れてくる冷や汗は止まる事を知らない。
「おや、気づかなくて申し訳ない。面接の方でしたね?どうぞそちらにお座りください」
こちらに向けられた声に反射的に顔を上げる。とそこにはマスターとその隣にまるで体育座りをするような形で宙に浮く先程の男がいた。
「あっ……………はい」
なるべく自然な笑顔を作ろうとしたのだが左頬の当たりが小さく痙攣している事は自分でも分かった。
大空は言われた通りぎこちない動きのまま二人掛けのテーブルにつく。顔を上げるとあの茶髪の男と目が合う気がして視線はずっと下のままだ。
マスターはそんなこちらの様子を気にする事なくそのままキッチンカウンターに移動して何やら作業し始めた。
そんなこんなで今に至るというわけである。
「大空さんは前に別の喫茶店で働いていたみたいだけど、どうして辞めちゃったのか聞いてもいい?」
こんな状況であってももちろん面接は続く。ここで「やっぱり大丈夫です」と勢いで帰ってしまえるほどのメンタルを持ち合わせていないのが非常に悔やまれた。大空は視線を下に向けたまま口を開く。
「え、ええと。実は、前の店の店長が、突然ハワイで結婚すると、言い出して、それで店を、閉めたんです」
「ええ…!それはまた突然。なんでハワイなんだろうね。良い出会いがあったのかな」
マスターは品のある様子で笑って見せる。
「は、ははは。そうですねー」
大空は今も尚ヒクつく口元を隠しながら無理やり笑った。なんとかこの場をやり過ごして早く帰ろう。そんなことを考えていると
「…なあお前、俺のこと見えてる?」
目の前で声が聞こえた。マスターではないもっと若い声。すぐにあの茶髪の男だということがわかった。
もう無理、無理だ。やり過ごすとか無理だから。帰ろう、今すぐ帰ろう。
我慢の限界に達した大空は男と目を合わせないようにしながら、ガタンと音を立ててその場から立ち上がる。
「うおっびっくりした」
茶髪男がそんな声をあげる。
うるさい!こっちの方がびっくりしてるわ!
そう心で悪態をつきながら「あ、あのすみません。ちょっと予定を思い出して…」そう言いかけた時マスターがこちらに飲み物を持ってきたのが見えた。
おぼんの上には黄色をした炭酸とその上に丸いアイス、そしてちょこんとミントが乗せられていた。
「おや、予定があったのかい。それは申し訳ないね。しかし、もし急ぎじゃなければ一口だけでも飲んで行かないかい?」
眉を少し下げながらマスターは大空の前にグラスをおく。中にある氷がカランと音を立てた時、大空の鼻に甘い香りが漂ってきた。この香りは…。
「き、金木犀…?」
確かにその香りだった。よくよく思い出してみるとこの店の庭先にも金木犀の木が植えられていたような。唯一無二のあの花の香りを嗅いでいると不思議と気持ちが落ち着いてきた。
「正解だよ。よくわかったね」
大空は香りに誘惑され再び椅子に下ろした。
ま、まあ帰るのはこれを飲んでからでもいっか。飲むだけなら時間なんてそんなかからないし。
まるで自分に言い訳するかのように納得させるとグラスの横に置かれたストローに手を伸ばす。がうっかり手を滑らせて床に落としてしまう。
落ち着いたと言ってもやはり先ほど見たものが頭から離れず、動揺が完全におさまってるわけではなかったのだろう。大空は椅子から降りてから少し先に転がったストローを拾おうと床にしゃがんだ。
「パンツ見えるぜ、気をつけな」
その言葉が聞こえると大空は反射的にスカートを手で押さえて後ろを振り返った。
「俺の声、ちゃんと聞こえてるな」
振り返った視線の先にいるのは綺麗な毛並みの黒猫だ。もしかして先ほど椅子に寝ていた猫だろうか。その長い尻尾はパタパタと床を叩いている。
「し、しゃ、しゃべっ…」
大空は腰を抜かしたまま後ろにズルズルと後退る。
「やっぱそうかあー!さっきから異様に目が合わねえしもしかしたらって思ったんだよなあ!こいつの言葉がわかるってことは俺らのことも見えてるって事だろ?」
「ふんっオイラの方が一枚上手だったようだな」
茶髪の男と黒猫はまるで普通の友人同士のように会話をする。
「こらっ失礼ですよ二人とも。全く…。早く大空さんに謝罪しなさい」
マスターもこれまた普通に二人の会話に混ざる。「え?俺もぉ?」茶髪の男は不服そうに口を尖らせてからチラリとこちらを見る。その表情があまりにも普通でそれがむしろ怖くなり大空は再び後ずさった。
「えー、と…悪かったよ」
そういうと男は先ほどの衝撃で椅子から落ちたクラッチバックを拾うと立てていた大空の足と腹の間に乗せる。
さ、触った。今、私のカバン。
「別に驚かせるつもりはなかったんだぜ?」
黒猫は口を動かし日本語を流暢に話す。
「でも女子に向かって“パンツ“はないんじゃねえかこのエロねこぉお」
茶髪の男は片眉をあげると猫の首根っこを掴み左右にに揺さぶる。
「冗談だってばぁぁ。和まそうとしたんだぜぇぇ」
大空はもう何がなんだからわからなくなりただそのやりとりを見ることしかできなかった。
「おい、大丈夫か?」
するとまたしても別の男の声がする。見るとそこには心配そうにこちらの様子を伺う喪服の男がいた。その男は二十四、五歳程の人間に見える。
「悪かったな、あいつらも悪気があったわけじゃないから。……多分」
男はこちらに目線を合わせるようにその場にしゃがむ。
「あ、あの貴方は、いやそれよりあの人はな、なんですか?人間?」
この言葉に男は少し悩む素振りを見せてから答える。
「そうだな…。アイツは幽霊で猫は化け猫。あと俺は死神だ」
「は、はは。まさかあ。だってほら、触れるじゃん」
そう言いながら近くにあった喪服の手に一瞬触れた。普段はこんな軽装に人の、それも異性の手を触るなどということはできないが完全に動揺していた大空は手を伸ばした。
瞬間、男が手を振り払うのが早いか大空が意識を失うのが早いか。とにかく大空はその場で意識を手放した。
それから1時間が経った頃大空は目を覚ました。
体を起こすと一番に視界に入ったのはお洒落な照明。どうやら店のソファーの上に寝かされていたようだ。
あー、っと私、何してたんだっけ…。ぼーっとする頭で先ほどのことを思い出そうと眉間に皺を寄せる。
「起きた?」
突然大空の視界に茶髪の男がヌッと出てくる。
「うわあああああ!」
大空は思わず腕を前に思い切り出して男を突き飛ばす。男は体制を崩すとそのまま床に尻餅をつく。
「っ!痛いなあもう!なんなんだよ!心配しただけだろ!何も突き飛ばすことなくないか?」
男は立ち上がるとこちらに向かって指を指す。
「う、うるっさいわよ…!突然目の前に知らない男が来たらびっくりもするでしょう?てかあんた何?なんなのよ!」
大空は先ほど怯えていたのが嘘かのように負けじと声を張って言い返す。持ち前の気の強さが前面に出たのだろう。
「だから幽霊だってば!さっき律もいってたろ?聞いてなかったのかよ」
男の物言いが癪に触り大空はこちらに指された男の指をぎゅっと握るとそのまま奥に倒す。
「いったたたたたた!痛いってば!何すんだよ折れる折れる!」
男はジタバタと動き出す。がそんな様子をもろともしない大空は力を緩めることなく続ける。
「幽霊って?今触れてるんだからそんなわけないじゃん!」
「いやいやマジでほんとにギブギブギブギブ」
「何よ!幽霊なら痛くないんじゃないの?てゆうか律って誰よ?」
「…俺だよ」
その声に大空はハッとして思わず手を離す。声がした方向に目を向けると確かにそこには先ほどの男が気まずそうな様子で立っていた。
「うっわあ!さっきの虫男!」
大空がそう声をあげると二人は声をそろえて「虫男ぉ?」と怪訝な表情を浮かべる。
「なんで虫なんだよ」
茶髪の男は涙目ながらに自身の指をさすりながらそう聞いてくる。どうやら本当に痛かったらしい。
「そ、それは…」
大空はちらりと目線をあげる。すると喪服の男もこちらを見ていたようで目があってしまい急いで戻した。
「お?なんだなんだ、ようやくお目覚めか?」
そんな声とともに黒猫が店のペットドアをくぐってこちらに向かってくる。
「し、喋る猫…」
小さくそう呟くと「覚えててくれて光栄だぜ」と言い、先ほどとは打って変わって紳士的に大空の手の甲に鼻をつけた。
「みんなちょうどよく揃ったみたいだし、少しお話でもしようか」
いつのまにかマスターが先ほどと同じ黄色の、金木犀のクリームソーダを持ってやってきた。
「じゃあまずはオイラから失礼するぜ」
そういうと黒猫は大空の太ももの上にちょこんと座る。
「オイラの名前は小太郎。化け猫だぜー」
そう言うと小太郎は自慢げに尻尾を振ってみせた。
「もういつ死んだのか覚えてないけどー、死んだあと他の猫たちの体を代わる代わる借りてたらいつのまにか死ねない化け猫になっちまったって感じかな!よろしくだぜ!」
小太郎は軽々話すとピンク色の肉球がついた手を差し出す。大空は戸惑いながらもその小さな手と握手するように軽く握った。
いや待って、よろしくって何?私は今何をよろしくされたの?
大空は戸惑いながら小太郎に目をやると、小太郎は顎をこちらに突きした。
撫でろということなのだろうか。大空は昔近所に住み着いていた野良猫のことを思い出しながら顎下あたりを撫でる。
喉をゴロゴロ鳴らしているところを見るとただの猫のように見えた。
「んじゃ次俺な」
茶髪の男がだらりと手をあげる。
「俺の名前は
そこまでいうと大樹は言葉を止めた。そして数秒してから再び口を開く。
「俺は、幽霊だよ。でも生きてた頃の記憶とかないからさあ、特に話せるようなことはないかなー」
お喋りそうなわりにそれ以上話す事はないのかよろしくーと最後に大樹は付け加えて口を閉じた。
大空はため息をつくと思い頭を抱えて項垂れる。
「……あーもうわかったわよ。これって要は……夢?」
「じゃねえって」
ハンッと笑う大樹に大空は口をへの字に曲げる。そして深いため息をつくと机に肘をついて頭を抱えた。その体制のまま何度か深呼吸を繰り返す。そして大きく息を吸うと下げていた頭を重々しく持ち上げた。
「はあ、もう分かった。今度は本当にわかった。うん。これは夢じゃなくて現実。はいっじゃあ喪服の貴方。自己紹介?でもなんでもいいから聞かせてよ」
大空に突然指名された男は驚いた素振りを見せた。
「ははっなんだよお前意外と面白いやつだな。順応能力高すぎだろ」
大樹はそういうと楽しそうに目を細める。
「あ、えーっと俺の名前は
そう言うと律はスーツの内側から名刺を取り出し丁寧に差し出した。
そこには『黄泉の國案内 死神 桜木律』
と黒紙に白文字で印字されている。
黄泉の国案内……。
こちらが見終えたのを察したのか律は名刺を再びスーツの内ポケットにしまった。
「あの、ずっと気になってたんだがさっきの「虫男」ってなんだ?」
「あっそれ俺も気になってた」
「あーそれは…」
大空はマドラーで残り少ないクリームソーダをかき混ぜる。
「……さっき律、さんが…私の肩に触った時の感覚がなんて言うかその…全身がムカデとか足が多い虫に這いずり回されてる感覚がして…」
「えーー!きっしょお前!」
大樹はそう声を上げると眉間に深く皺を寄せて律から距離をとった。律はばつの悪そうな表情を浮かべながら小さく謝罪の言葉を口にした。
「大樹声でかいー」
太腿の上で小太郎がうざったそうに声をあげてから大きくあくびをする。
「てか大丈夫なの?」
大樹は律にそう質問する。
「ああ。たいして減ってない。一瞬だったからな。でも、悪かった」
律はこちらに向かって深々と頭を下げる。なんのことだかわからず困惑していると律は苦々しい表情で説明を始めた。
「死神に触れると、その、寿命が縮まるんだ」
「え?!私死ぬの?」
「い、いやさっきは触れたのが一瞬だったからせいぜい一、二分だ」
その言葉を聞いて大空はほっと胸を撫で下ろす。そんの位であれば誤差と言えるだろう。
「そうだとしても、悪かった。俺の意識が足らなかった」
そういって律は再度こちらに頭を下げる。
「い、いや!元はと言えば勝手に触った私が百悪いんですから!私の方こそごめんなさい!」
大空も同じように頭を下げる。
「もう大丈夫かな?」
マスターがこちらに向かって微笑む。
「え?あ、はい…!」
何に対してなのかはわからなかったが大空は頭を上げてとりあえず答えた。
するとこちらの反応に安心したように二、三度頷くと
「それなら今日はもうそろそろ帰ったほうがいいかもしれないね」
マスターはそういった。見ると空はもう随分と陽が沈んでいる。この店に来てから一体どのくらい経ったのだろうか。先ほどからお客さんが誰一人として見えないところを見るともしかして店を閉めていたのだろうか。
「あの、色々騒いでしまって申し訳ないです。あ、お代って…」
こちらが財布を出そうとすると「いやいいんですよ」と軽く手を振る。
「むしろ迷惑かけたのはこちらの方ですからね。私の方からも謝罪さしてください。ああそうだ、もし明日でもし時間があるようでしたら、お昼頃にでもいらしてください。まだまだ聞きたいことはたくさんあるでしょうし、その時にでも」
「は、はい。ありがとうございます」
「なんだよもう帰るのかよ」
小太郎はググッと伸びをしてからもう一度太腿の上に座り直す。
「この子だって時間は限られてるんだ。早くどけ」
そう言うと律は小太郎を持ち上げる。
ほんとにただの人間みたい。そんなことを思いながら大空は荷物を軽くまとめると軽く会釈をしてから店を後にした。
店を出るとそこはあまりにも日常だった。部活帰りの学生が楽しそうに道を通り空ではカラスが鳴いている。大空は少し歩いてから来た道を振り返る。喫茶オランジェもその日常の一つでやはり先ほどのことは夢だったのではないかとも思ってしまう。漫画っぽく頬を少しつねってみたが痛みを感じてすぐにやめた。
ていうか私の面接どうなったんだろう。明日来てって、普通に「はい」って答えちゃったし。受かったの、かな。
大空はあんなに帰りたがっていたことも忘れ、明日何時ごろに行こうかななどと考えながら帰路についた。
「うわーんもうだめだよ大空ちゃん。原稿落とす!落としちゃうよお」
「頑張って有村さん!そう言って前もちゃんと終わらせてたじゃないですか」
結局あの後大空はオランジェでのバイトを始めた。断る理由を思い浮かべた時、もちろん一番に幽霊と一緒というのが頭に浮かんだが
「え?でも俺たち別に悪い幽霊じゃないし断る理由にならなくね?」
という大樹の言葉に妙に納得してしまいそのまま働くことにしたのだ。自分のこういう物事を深く考えないところは裏目に出ることもあるにはあるのだが、もともとからっとした性格の大空に特に問題があるとは言えなかった。
他にもバイトの人がいるのかと思ったらまさかの自分一人で最初は戸惑ったもののそれもすぐに慣れた。お客もほとんどが常連ばかりでクレームもない、むしろ今までのバイト先の中で一番いい環境であると言っても過言ではないくらいだ。
「やっぱり私に漫画書くのなんて向いてないんだあ」
四人席に一人で座り机いっぱいに原稿用紙を広げた女性は有村という漫画家だ。もちろんこの名は本名で漫画で使っているペンネームとは違う。
「そんなことないですよ。前回のも面白かったですよ!」
「主人公が男にパスタ投げつけるシーンが最高だったよなあー」
隣にあたかも客のように座る大樹が噛み締めるようにそう言った。
「わ、私の友人も主人公にパスタを投げつけるシーンが良かったって言ってましたよ!」
「あれは担当さんに無理矢理改変されてああなったんです」
「……」
大空はじろりと大樹の方を睨むと「いや今のは俺のせいじゃなくね?」と慌てた様子で頭をブンブンと振ってみせた。
「そもそも私はあんな話の流れにしたくなかったのに、王道展開にしないと売れないからとか言ってどんどん変えられて、それなのにパスタ投げつけるとかお前の中の王道ってどうなってんだよ…」
有村はぶつぶつと怨念のように言葉を並べる。
こうなったら長いんだよなあ。
大空はバレないように苦笑いを浮かべる。
「大空さん、これ運んでもらってもいいかな?」
「あ、はーい」
いいタイミングでマスターからのパスが来た。
お盆に載せられたのはすうっと酸味が鼻に抜けるレモンパイとアールグレイのセットだ。大空はそれを慣れた様子で窓際に座るサラリーマンのもとへ持っていった。
「ん、ありがとうね大空ちゃん」
「最近忙しそうですね、三河さん。頑張ってください」
大空は小さく会釈をするとマスターの元に戻る。
ここでの仕事はいつもほとんど変わらない。食事を運んで常連さんと雑談して、たまにマスターの作るし作品のケーキを食べて、人がいなくなったら大樹や小太郎、律と話す。大空はこの空間に一ヶ月もするとすっかり馴染んでしまっていた。
「はい、今日もお疲れ様です」
午後五時、今日もいつもと同じようにマスターが金木犀のクリームソーダと数枚のクッキーを差し出してくれる。
「大空って本当にそれ好きだよなあ」
「まあねー。美味しいんだもん」
「オイラもその気持ちわかるぜー。うまいもんは毎日飲んでもうまい!」
小太郎は足元でミルクをペチャペチャと飲みながら「にゃはは」と笑った。口元はミルクで白く汚れている。大空はそれを親指で少し拭ってやりながら視線を大樹に戻す。
「そういえば今日も律はいないのねー。最後に会ったのって一週間くらい前じゃなったっけ?」
「まああいつはなー、死神だし」
「死神って何する仕事なの?やっぱり大きい鎌とか使って命とったり?」
その言葉に大樹はやれやれとわざとらしい素振りを見せる。大空は無言のまま大樹の右肩をしばいた。
「痛い!なんだよ」
大樹は口を尖らせながら自身の右肩を押さえた。
「そう!それも聞き忘れてたんだけど、死んでるのに痛みとか感じるの?」
「感じるに決まってんだろ」
「死んでるのに?」
「お前失礼な奴だなぁ」
「大丈夫!私が失礼な事言うの馬鹿にしてる人だけだから」
先ほどの仕返しをするつもりで大空はぐっと力こぶを作ってみせる。
「意味わかんねえよ!お前友達いねんじゃねえのか?」
「はあ?失礼ね!て言うかなんでそんなところまで話が飛ぶのよ!」
「お前ら、またやってんのか」
いつのまにか姿を現した律が一つ隣の席に座ろうとしていた。
「久しぶりだね、律。コーヒーでいいかい?」
「はい、ありがとうございます」
久しぶりに見た律の顔はなんだか少し疲れているように見えた。と言ってもいつもそんな元気そうな表情ではないが今日はそれ以上だった。
死神も疲れることあるんだ。
「俺だってそりゃ疲労くらいある」
律は軽くため息をついた。
「えっごめん私声にでてた?」
大空は慌てて自分の口元に手をやる。
「いや、でも顔に出てた」
ふっと笑うと律はマスターから渡されたコーヒーに口をつける。
「大空はすぐ顔に出るもんなー」
大樹は再びニヤッと笑うが「お前も人のこと言えたもんじゃないぞ」と言う律の言葉で今度は怪訝な顔に変わった。確かに表情が玉ころがしのようにコロコロよく変わる。
「マジ?俺そんなわかりやすい?」
「うん、あんたも相当よ」
「それよりお前らいいのかよ」
ミルクでパンパンになったお腹を揺らしながら小太郎はカウンターの上にやってきた。
「「何が?」」
大空と大樹の声が見事にかぶる。その様子を見ると小太郎は呆れた様子で寝転がる。
「律に聞きたいことあったんじゃないのかよ」
「あっ忘れてた」
「へへっバーカ」
「うるさい」
大空は短く言うと律の方に体を向けた。
「何、聞きたいことって」
律は頬杖をついて少しだけこちらの方に体の角度を変えた。
「えっと、死神の仕事ってどんなことしてるの?いつも忙しそうだったから気になっちゃって。あ、でも何だろ企業秘密?的なのあるんなら全然」
大空の言葉に律は企業秘密って…とほんの少しだけ口角をあげる。
「そういえばちゃんと話したことなかったか。別の隠す様なことじゃないしな」
そう言ってもう一度だけコーヒーを口に運んでから話し始めた。
「人は死んだらまあ所謂、魂だけの存在になって最高で二週間、この世を過ごした後に黄泉の国に行くんだ。黄泉の国には魂が輪廻するまでの最低二十年から最高百年間ほど過ごすための場所って言えばわかりやすいかもな。俺たちはそこで魂たちに場所を案内したり、輪廻に行くまでの手続きをしたり…ああ後、契約している場所に行ったり…」
「契約?」
大空は思わず口を挟む。
「ああ、詳しく話すとややこしいから割愛するが、俺がついている役職の奴らの大体六、七割が下界の人間と契約しているんだ。神社だったり、占い師だったり、俺の場合はここだな」
「律も契約してたんだ…」
「ああ、まあ俺の場合はマスターのコーヒー飲みたさに契約したみたいなもんだけどな」
律はそう言って控えめに笑うとコーヒーカップに口をつけた。
「なんで人と死神が契約するの?」
「まあ大体は悪霊がきた時の対処要員としてだな」
「そ、それってさあ」
大空は昔見た漫画で悪魔と人間が契約する変わりに何か代償を支払わなくてなならないと言ったシーンを思い出し少し鳥肌を立てる。
「何か対価を支払わないといけない、とか、あったりする?」
「いや、そんな物はないな。そもそも俺たちが見える人間なんて限られてるし、せいぜい霊が少し寄ってきやすくなる程度だろうな。それに契約した死神は契約してない奴に比べて下界にいくのも容易になるんだ。だから結構自ら望んでいる死神も多いな」
大空は律の答えに安堵の笑みを浮かべる。
「へえ、そう考えると意外とウィンウィンな関係性なんだね」
その言葉に律はふっと笑って「かもな」と言った。
「他に何か聞きたいことあるか?」
律の言葉に大空は先ほどの言葉をもう一度頭の中で整理させる。
「うーん……。あっ」
すると一つの疑問が大空の頭の中に浮かんだ。
「最高で二週間って言ってたけど、二週間を過ぎたらどうなるの?」
「…悪霊。自分が何者だったのかも分からずにただそこにいるだけの存在になる。時には人を襲ったりもするがな。その霊を対処するのも俺たち《死神》の仕事だ」
「対処…?された霊はどうなるの」
「完全にいなくなるってことだ。黄泉の国にも行けないし、輪廻もない」
そこまでいうと律は深く息をつく。やはり随分と疲れているようだ。
「じゃあ、俺もう行く。まだ仕事残ってるからな」
そう言って席を立つとまるで普通の人間のようにドアから出ていった。
「死神って徒歩で黄泉の国?まで行けるわけじゃないよね」
振り返ってそう尋ねる。質問が面白かったのかマスターは本当に小さく息を漏らした。
「外に行ってみてみたらいいよ」
その言葉に大空はもしかして空でも飛んでいるのではないかとファンシーな期待を持って急いでドアを開けた。そして流れるように空を見上げる。がそこに期待しているような光景はなくただ綺麗な星空が広がっているだけだった。
若干の落胆を感じつつ、周りを見回す。
「あれ…」
律がいないのだ。もちろん空にという意味ではない。右を見ても左を見てもいない。街頭は確かに暗いがそんなことには慣れてしまっている大空は多少遠くにいてもわかる。一本道なのだから後ろ姿くらいは見えそうな物だが人っ子ひとり見当たらない。
「……」
「別にあいつの足が速いってわけじゃねえぞ」
後ろからそんな声が飛んでくる。
「そんっ…なこと思ってないわよ」
大空はドアを閉めて元いた席へと戻る。大樹を見ると何も言わず嘲笑していた。反応したら負けだと思い大空は気づかないふりをした。
「律はここと契約してるってさっき言ってたろ?」
こちらが大樹の嘲笑を無視したためか少しつまらなそうに話し始める。
「契約してる死神はその契約先の入り口が上と下との狭間になるんだとさ。便利だよな」
「へ、へぇ、なんかすごいね」
ため息混じりの声を漏らす。
「ていうかさあ」
大空は話題を変えるように口を開いた。
「大輝は何処まで知ってるの?律のこと」
んーと喉で声を鳴らしながら口を真一文字にする。
「そう言えば俺、あいつのことなんも知らねえな」
少しの間を開けたあと独り言のように大樹はいった。
「知り合いじゃないんだ、元々の」
「ああ。俺がここにきた時には既にいたんだけどさ、あいつ自分のこと何も話さねえんだよな。ま、小太郎は初めて会った時からうるさいほどに話してたけど」
「まーオイラは生き様全てが武勇伝だからな!」
小太郎はふすふすと鼻を鳴らす。
「あ、そうだ!オイラが百匹の野良猫と戦って勝った話してやろうか!」
「その話もう三十回以上きいた」
「そうだったか?なら大空はどうだ?聞きたいだろ!」
「私ももう十回は聞いたかな」
「そうかあ?じゃあ十一回目を聞かせて…」
小太郎が言い終える前にマスターはカウンターにミルクが入った平皿を置く。
「あ、ミルクだ!」
すると嬉しそうに尻尾を立てて一目さんにミルクに飛びついた。
「大樹はさ、記憶ないんでしょ?」
「ん?ああ…」
「なんで?」
「いや俺が知るかよー」
大樹はあくび混じりに応える。
「思いだしたいとか思わないの?」
記憶がないと言う状況は経験したことがないためどう言った気持ちなのかが分からない。思いだしたいと思うのか、それとも記憶がないからこそ思いだしたいと思わないのか。
「まぁ思い出したいは思い出したいよ」
「そりゃ気になるかぁ。あ、私明日友達と遊ぶ予定あるからもう行くね」
「聞いてきたくせに対応雑すぎねえか?まあいいや、気をつけて帰れよ」
大樹は珍しくやんわりとした笑みを作るとヒラヒラと手を振る。意外と優しいんだよなぁ。大空は本人には絶対に直接言わないであろうことを思いながら同じように手をふり返した。
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