第10話 ターニングポイント

 意図せぬ遭遇というものは往々にして存在する。風呂で洗顔している最中に突如現れるGとか、或いは一人でシコシコしている最中に部屋に突撃して来る親とか。意図せぬ遭遇は僕にとっては基本的にバッドなイベントである。

 こういうのを何と言うのだったか……ああそうだ、マーフィーの法則か。

 兎に角、こんかいも例に漏れずバッドなイベントが到来した。……してしまった訳である。

 交錯する視線。困惑する思考。混迷を極める状況。そこには考え得る限り最も最悪なカオスが広がっていた。


「き、君は一体なにをしているんだ!!?」


 しかし。しかしゆめゆめ勘違いなされるな。これは僕がイマリティの靴を舐め回そうとしただけであって、断じて不埒な真似をしようだとか、そんなことは考えちゃいないのである。言ってしまえばこれはグルーミング。コミュニケーションの一環と言って過言ではない。まぁそもそも相手は男だし劣情を催すなんてことは絶対にあり得ないのだが。

 しかし困った。僕のやろうとしていた事はまんま談合だ。それをティア―シャに堂々を伝えられるほど僕の肝は大きくないし、立場も強くはない。

 ならば、どうするか。


「……とっぱつてきに、さこつをなめたくなった。が、がっつきすぎてつきとばされてしまった」


「鎖骨を!? い、いや、しかしそうか……君は吸血鬼だものな。吸血の衝動とは別に鎖骨周りに執着を抱きもするか。……すまない。不勉強を晒した」


「おかまいなく、そういうものですから」


 いや、どういうものだよ。我ながら言っている事が意味不明だ。

 しかしティア―シャは納得したように頻りに「鎖骨……鎖骨かぁ」と呟いており吸血鬼の同胞たちにあらぬ偏見を植え付けてしまったようである。

 ……同胞。果たして僕の同胞はどれ程残っているのだろうか。


「ま、まぁ鎖骨を舐るのも良いが程々にしておけ。折角出来た料理が冷めてしまう」


「かしこまり」



♪ ♪ ♪



 夕食を終えると僕はティア―シャの元に呼び出された。


「ヴラド、君はその……種族柄、鎖骨に対して執着を抱いている。相違ないか」


 相違しかない。しかしここで否を唱えればイマリティのところに行った事に関してのカバーストーリーが崩壊してしまう訳で。ともすれば僕の返事などひとつしかない。


「ええ。さこつぺろぺろ」


 僕は恥を捨てた。しかし一回恥を捨ててしまえば結構爽快なもので自然と鎖骨をぺろぺろしたみが湧いてくる。成る程、これが自己認識の変容というものか。今の僕は上でも下でもない第三の心、すなわち鎖骨の下僕。鎖骨を執拗に狙う、獰猛なハンターだ。


「ぺろぺ……っ!? そ、そうか。やはりそうなのか……」


 そう言うとティア―シャは薄衣の肩口をグイッと引っ張って鎖骨をよく見えるようにした。しかしそうなれば必然、布は下に伸びる。すると、深い谷間が更に見えてくる訳で。


「……ッ!!」


 あと少し。あと少し下に行けば秘されし弾頭が覗く。そんな際どいところまで布地は下がっていた。

 思わずゴクリと生唾を呑み込む。覗く鎖骨。露見した谷間、そして見えそうな乳。


「か、家族だからな!! こういう事もしていたのだろう!!」


 抗えない。ああ、抗えない!! これを前にどうして抗うという気が起きようか!! こんなものを見せられてはただ見ているだけではいられない。いられるものか。

 善は急げと人は言う。であればこの据え膳、頂かなくては無礼というもの。

 頂きま――


『思い出せ。ヴラド・N・ベルフォルマ。いや。君の原初の願いは、何であったか』


 そんな折、激しい頭痛が僕を襲った。

 それは前回の上の心がシャウトしたのと全く同じものだった。

 にしても原初の願い。原初の願いか。そんなもの、決まっている。僕は乳の山より生れ落ち、乳によって育まれ、乳によって愛された。つまり僕は生粋のおっぱい星人にして乳の寵児なのである。故に僕の原初の願いは――


「どうしたヴラド!? 頭が痛むのか!?」


「ち、ちがう。ぼくは……」


 ――そうだ。僕は何故吸血鬼になった。それはただただ吸いたいがために。

 何を。無論血液を。

 何故。血液の成分と母乳の成分は近似であり、実質血液とは母乳であるから。

 誰から。……そんなもの、とうに決まっている。


 貧乳だ。僕は貧乳の女の子の血液を吸って、トびたかったのだ。


 だが。でも。貧乳は僕から家族を、変えるべき家を、愛した人を全部奪っていった。かつての僕と、今の僕は決定的に違う。

 ……もう、僕はマリーを……巨乳を愛してしまった。


『それで良い。我が半身。天秤の心を持つ、今は遠き我が息子よ。酸いも甘いも、美醜も、全てを分け隔てなく愛するのだ。それが君の為、ゆくゆくは世界のためになる』


 それと。もう一つ。


 僕のモノローグを平然と読んで、僕に語り掛けてくる上ご丁寧に頭痛までつけて来るお前、絶対に上の心なんかじゃないだろ。


『……今はまだ語るべき時ではない。第十一の界域が開いた時。その時に私は君に正体を明かそう』


「体調が芳しくなさそうだな。もしかして、私の鎖骨では不満だったか?」


「いいえ。ぼくはおもいだしたんだ。ぼくがしんにめでるべきさこつとはなんなのかを」


「……そうか。君にとってのばあやは、それほどに大きかったのだと再認識させられたな」


 僕は、ティア―シャの鎖骨をぺろぺろしなかった。

 ただそれだけ。



 なのになぜだろう。僕は今、確かに大きな分岐点を超えたという実感があった。

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