こんなの
惣山沙樹
こんなの
大学を卒業した時、私には女友達がすっかりいなくなっていた。あれだけ他所の男に手をつけたのだ、まあ仕方ないと思う。
唯一の例外は里美という子で、彼女も手癖の悪い女だった。
「だって、少し声をかけたら、向こうから誘ってきたんだもの」
里美は足をぶらぶらさせながら不満を垂れていた。平日の昼間だった。コーヒー・チェーンには暇を持て余している人々が、皆同じように安いブレンドを啜っていた。私は二本目のタバコに火をつけた。
「良心の呵責ってやつ? 全く怪しまれていなかったのに、自分から彼女に申告するなんてさ。面倒な奴」
「同感」
里美も女友達が私しかいないようで、何かあるとすかさず連絡がきた。私は他人の話を、それこそ愚痴でもなんでも聞くのが好きな質で、暇なときはいくらでも彼女に付き合っていた。
里美のサイクルは早く、少し会わなかっただけで話のネタが増えているので、むしろ楽しみとなっていた。
「一番腹立つのがね、相手の女が『こんなのに浮気された』って言ったこと」
私は吹きだして、里美の顔をまじまじと眺めた。
「確かに『こんなの』だからね」
「何よ、あんたも人のこと言えないでしょ」
私たちは、決して美人と呼ばれる部類ではなかった。里美はどれだけメイクをしても、目の腫れぼったさが隠せない地味顔だ。
「里美、アイプチ何年やってるの?」
「中学の時から。うるさいわデブ」
「これはぽっちゃりって言うの」
「まあ、適度に肉がある方がヤるとき気持ちいいらしいけど」
「はは、そういうこと」
お互いの貞操観念がどうかしていることを知ったのは、共通の友人宅で初めて会って、泥酔した時だった。私たちは酒癖が悪すぎるところも似ていた。里美は午前二時に、大声でこうまくし立てた。
「セックスはスポーツだ!」
確か私は、空になった缶ビールで乾杯をした気がする。ひどかった。
「そんなわけで、相手の女から嫌がらせを受けるに至った、と」
里美は私のタバコを掴み、遠慮なく一本取り出した。いつものことだ。
「嫌がらせって、どんな?」
「店に来たのよ」
里美はだらしなく紫煙を吐き出した。
里美はその時、イタリアン・レストランでアルバイトをしていた。まともに就職が見つからず、在学中から世話になっていたその店でフリーター生活を送っていた。今回彼女が手をつけたのは、異動してきた三十代の社員だった。
店の女の子の中では、里美が最年長だった。何しろ高校生でもバイトできる所だ。三十代の社員を、彼女らはオジサン扱いした。里美だけがそうではなく、年上向けの話題もできたので、じきに気に入られた。閉店後、社員の車に乗り込みセックスをするようになった。
社員には二十代の彼女がいた。これが妻なら里美は渋い顔をしただろうが、たかが同棲とまるで気に留めなかった。それでも車に痕跡を残さぬよう、細心の注意を払った。浮気者なりの礼儀というものである。
大型車とはいえ、二人が車内で活動するのには随分骨が折れた。結局、服を着た後は、社員の膝に里美が乗る体制に落ち着いた。社員は里美を抱きしめながら、つらつらと囁くのが常だった。
「里美は、このままでいいのか?」
「このままって、どのままよ」
「こういうことがだよ」
里美は回りくどい言葉を嫌った。その度にうんざり、後ろから抱かれていて表情はバレないから、里美は思いっきり嫌な顔をした。何も答えない里美のことを、素直な気持ちを口に出せない子なのだと社員は思っていたのだろう。
店で二人の関係に気づいた者はいなかった。社員が彼女を連れてこの地に越してきたことが広まっていたし、里美は決して敬語を崩さなかった。
ところが社員は、ある日彼女に里美のことを明かした。関係を持ってしまったのだと。なぜそれを告白したのかは、社員にもわからなかった。彼女は社員を平手で引っ叩くと、里美の容姿と苗字を教えるよう迫った。それで、社員がおらず里美が出勤している日に、店に乗り込んできた。
「あんた、うちの男たぶらかしたでしょ?」
彼女は金髪をうねらせ、高いヒールを履いていた。それでもパンプスを履いた里美の方が背は高かった。何しろ百七十センチ近くあるのだ。里美は彼女を、呆然とした表情で見下ろした。
「とぼけんじゃないわよ! 全部、知ってるんだからね!」
彼女は今にも掴みかかりそうな勢いだった。高級な香水の匂いが里美の鼻孔を射した。里美は何も言わず、立ち尽くしていた。
「こんなのに浮気されたなんて……」
もう一歩、彼女が踏み込もうとしたときに、奥から店長が駆けてきた。
「お客様、どうされましたか?」
この店長、常に笑顔を絶やさない優れたサービス業者であるが、その風貌はチャイニーズマフィアみたい、とは里美談。彼女はそれでもキッと店長を睨むと、この女は他人の男を寝取ったのだと叫びだした。
店長は彼女を事務所に通し、里美にはフロアに戻るように言った。里美は他のバイト仲間に、変なことに巻き込まれてしまったと泣き顔で訴えた。
そういう日に限って店は暇だった。仕方がないので、里美が窓ガラスを掃除していると、社員の車が見えた。呼び出されたのだ。三人の話が終わるまで待っていられず、里美はシフト通り退勤した。後に店長が、事の顛末を里美に話した。
社員は里美のことを弁護した。浮気したというのは、最近冷たくなった彼女に構ってもらいたいがための嘘だったと。当然、彼女は噛みついてきたが、店長の里美に対する信頼が厚すぎた。明るく真面目な里美が、そんな不埒なことをするわけはないと思い込んでいた。
二人が浮気をしていたのかどうか、もはやそれはどうでもよくなり、店に私情を持ち込んだことを店長は叱責した。少なからず、他の客に迷惑をかけたからだ。経営者として当然の振る舞いだった。店長の形相に怯えたのだろう、彼女は最後の三十分間、じっと下を向いて押し黙っていたという。
「君はあくまで被害者なのだから、これまで通り出勤してほしい。他のスタッフにはちゃんと説明しておく。正直、君が今抜けると、困るんでね」
皆が里美の味方だった。異動して間もなく、騒ぎを起こした社員に、同情の目が向けられることはなかった。
「じゃあ、完全にあんたの一人勝ちってわけ?」
「まあね。そいつ、今も働いてるけど、そろそろ限界じゃないかな」
里美は、とっくに火が消えたタバコを、灰皿にぐりぐりと押し付けだした。そんなことをしたら灰が散る、と私は目を細めた。
「でも、惜しいことしたな。カーセックスって案外楽しかったもの。同年代じゃ自分の車持ってる子少ないし、常習的にするならやっぱり年上となんだよね」
「あれって身体痛くならないの?」
「なるよ」
わたしはふうん、と鼻を鳴らした。
「それにしても、『こんなの』か……」
例の彼女は、里美のどこを見てそう言ったのだろう。里美はおもむろにカバンから手鏡を取り出し、何度か表情を決めた。
こんなの 惣山沙樹 @saki-souyama
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