(十四)れら

 女の名は、といった。

 耳なれない響きのする名前だったが、町人のあいだではそうしたものかと藤太は思い、特段たずねなかった。

 ながらく蝦夷の箱館でくらしてきたが、この春さきに思いたってひとり旅にでたのだという。関所あらための緩和がきっかけであったらしい。

 年のころはおそらく藤太とおなじか、その前後であろう。

 同年代の女性とちかしく話すのは藤太にとってはじめての経験である。

 宿女中とも勝手がちがった。

 ときおり雨のにおいにまじり甘い香りが鼻さきまでとどいてくる。動揺しないではいられなかったが、なるべく息をとめて平静をよそおった。

 それを知ってか知らずか、れらが顔をちかづけてあれこれと尋ねてくる。

 藤太は問われるがまま名のり、久保田城下からきたこと、仙台城下と松島をめざしていることなど、たどたどしく答えた。

 れらが長い睫毛を垂らし、二本の柄をじっとのぞきこんで言う。


「箱館にいたころ、よくお武家さまとお話をする機会がおざりいしたからわかります。白津地様はさぞやヤットウがお強くてあられるのでしょう」


 首をかしげたしぐさが鎖骨まで襟元をあらわにさせ、着物の奥へかくれてゆく白い肌が藤太の目をくらませた。


「ふあ!? い、いや……たいしたことはない。まだまだ修行の身だ」

「いいえ、これでもわっちゃの目はたしかなのです。お腰のお刀はたいそうご立派なもの、ご身分のおたかいお武家さまとひと目でわかりいした。それにほら」

「ん?」


 形のよい爪が乗った人差し指が伸びて、藤太の掌に触れるかふれないかで止まった。

 思わず手をひっこめると、れらが肩をすぼめクスリと笑う。


「こちら、ヤットウをよくやられる方の手にできるタコとお聞きしいした。ここまで岩のようになったものを見るのは初めてでありいすが」

「そ、そうか……ところで、れらどのはどこへ行くのか」


 聞けばれらは、羽州街道を北がわからゆっくりとたどってきたそうだ。

 途中で久保田城下をとおりぬけ、酒田のにぎわいを楽しんだあと、出羽三山めぐりもしてきたという。

 このさきは気のおもむくまま寄り道をして桑折宿をめざし、奥州街道を北上し仙台へ行くか、南下して会津へいくかまだ迷っていると言った。

 他愛のない話をしているうち半刻もすぎて、空がいくらか明るくなってきた。

 ブナ林の葉をたたく雨粒がこぶりにかわり、葉陰で息をひそめていた山鳥たちも活動を再開した。

 土から淡靄うすもやがたちのぼっている。

 藤太は待っていたとばかりに立ちあがった。


「でではっ……先に失礼する」

「はい、どうぞおきをつけて。またどこかで」

「う、うん……」


 そのまま辞去しようと踵をかえしたものの、いつの間にかれらの足に起きていた異変が視界にはいった。


「おや、それは?」


 左の足首が赤紫に腫れている。

 ついさっきまではわからなかったが、膝頭も赤く擦りむいてある。

 れらが下先をペロリとだした。


「さっき雨がふりだしたときにあわてて駆けましたら、うっかり転んでしまいしいした」

「つぎの関宿まで二里もあるのだぞ。それで歩けるのか」

「足の指はうごきますから、たいしたことはありません、大丈夫でありいす。どうぞお気になさらず行かれてくださいまし」

「いいや、そうはいかない。なぜ言ってくれなかった。薬種なら手持ちがあるのだ」


 剣術の稽古では打撲や捻挫がつきものだ。手当てならば慣れている。

 剣士は自分でやれなければ命とりになるからと、ぬいから応急処置のやりかたと家伝の膏薬のつくりかたも伝授された。

 片膝のうえに白い足をひきよせ、足首と傷口にそれをぬりこんでやった。

 れらがビクと身をちぢめる。


「あっ……」

「すこししみるだろうが、それは効きめのあかしだ。この膏薬は刀傷や打ち身によく効く」


 かたわらに落ちてあった適当な小枝を添え木にして、手ぬぐいで足首を巻いて固定した。


「二三日もすれば腫れもひくだろう。どうだ、いたくはないか?」


 れらがにっこりと目尻をさげ、ゆっくりと首を横にふる。


「うずきがとまって楽になりました。ありがとうござりいす」

「よかった。よし、つぎの関宿まで送ってやるから俺の背に乗れ」


 藤太が大きな背をむけたので、ぬいが戸惑いがちに手をあおいだ。


「それでは白津地様にご迷惑がかかりいす。わっちゃは野宿にもなれておりますから、どうぞおかまいなく。そうして蝦夷からひとりで来たのです」

「それはだめだ。このあたりは獣もでる。なにも迷惑にはならないから乗れ」


 そうしたやりとりが二度三度あったのち、やっとれらが背にのってくれた。

 立ちあがったときだ。

 藤太が想像していたよりもズシリとした重みを感じたので、おやと思ったが、おそらく腰にくくりつけてある荷物の重みであろう。


「ずいぶんと重いものをもってきたのだな」

「女子のひとり旅はいろいろと持ちはこぶものがおざりいすから、着替えやら、化粧道具やら」

「そうか、では行くぞ」


 うっかり勢いよく歩きはじめたため、れらが声にならない悲鳴をちいさく漏らしてしがみついた。


「白津地様はいつもこんなに高いところから眺めておられるのですね。たかくてこわいぐらいにおざりいす」

「あ、ああ……すまない。ゆっくり歩こう」

「いいえ、とても気持ちのよい眺めです」


 れらは愉快げに手をのばし、すぎてゆく葉に触れていた。

 さいわいにして街道の人どおりは少ない。

 すれちがう旅人が不思議そうに二人を見あげてくるが、笑うような者はいなかった。

 背にぴたりと寄り添う身の、やわらかな感触のことは考えないようにした。

 やがて一里もすすんだころだった。

 うしろから男の声がした。


「やいやい、待ちやがれ!」


 なにごとかとふりかえってみると、髭面の男たちが三人、わめきながら半丁むこうからドタバタと駆けてくる姿があった。


「ん、なんだ、俺に言っているのか?」

 

 いずれも着古した木綿の単衣を尻までまくり、毛むくじゃらの脛と褌をあらわにしている。

 小汚い髭づらに泥まみれ、腰帯に九寸五分の合口あいくちをさしていた。


「やいやい! やいや……え?」


 近くまできてやっと藤太の背丈がわかったのだろう。

 二人をしたがえ威勢よくかけてきた恰幅のよい男が、藤太をみあげ一瞬だけ言葉をつまらせたが、気をとりなおしたようにドスのきいた口上をきった。


「俺たちは七ヶ宿をしきる奥羽庄三一家おううしょうぞういっかの者。旅のお侍さま、その女を渡していただきましょうか」


 藤太の首にまかれた細い腕がいくらか強ばる感覚があった。


「なぜだ?」

「それは言えませんよ。悪いことはいわねぇ、俺たちはその女に用があるんです。どうか黙って渡してくだせぇ」

「駄目だ。この者は怪我をしている」

「そんなのは知ったこっちゃありぁしません。おい女、観念してさっさとこっちにきやがれ!」


 藤太は直介が教えてくれたことを思いだしていた。

 大きな宿場町には、往々にして地回じまわりの侠客きょうかくという者たちがあるという。

 その種類と性質は一様でなく、人となりもぴんきりで、火消しや目明めあかしとして宿場の治安維持に役だつ者もあれば、荷担ぎの人足を仕切って上前をハネたり、はたまた高利貸しや賭場をひらいたり、町人にゆすりたかりをして困らせる者もあるという。


『総じて土地の宿場役人や名士とは、持ちつ持たれつの関係にあるものです。たとえ武家といえども、よそ者には強気に出てきますからお気をつけてください――』


 なるほど、こいつらのことだったかと思いあたる。

 たしかに善人の風貌ではない。いかにも凶暴そうだ。

 どういうわけかわからないが、れらはこの三人に追われているらしい。さっき手当てをした足首の怪我も、逃げるときにできたのかもしれない。

 となれば渡すわけにはゆかない。

 藤太は首を振った。


「だめだ、渡さない。あきらめて帰れ」


 恰幅のよい兄貴分らしき男が、肩頬だけをつりあげニヤリと不敵にわらう。


「ほうほう、なるほど。そうか、そういうことかい。お侍はこの女のいい人でおなじ穴のムジナというわけだ。そうとわかればこちらも目明しをあずかる庄三親分の舎弟として黙ってはいられねぇ。やいてめぇら、こらしめてやれ!」

「へい!」


 男が左右に目配せをするやいなや、ほかの二人が腰をしずめ左右に散開し、合口に手をかけた。

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雷風の剣 葉城野新八 @sangaimatsuyoshinao

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