(十三)あまやどり
さておなじころ、久保田城下にある白津地屋敷は左門の登城準備のため、おごそかな慌しさにつつまれていた。
規則ただしい歩調で動く使用人たちの足音が、朝の空気をゆらす。
襲撃の翌日から左門は、何ごともなかったかのように登城した。いまでは刀傷も癒えて以前のようにうごきまわっている。
その父の姿におどろかされはしたが、直介は藤太が去ってからも離れにいるふりをつづけた。使用人たちもすっかりそれにだまされた。
そして出発から五日目にして、藤太が行方不明であると左門の耳にいれた。
すべて計画どおり。嘘に明敏な父をだますため、直介がくわだてた用意周到な謀略であった。
「も、申し訳ござりませぬ。一昨日の夜まで蔵牢におりましたから、おそらく昨日の朝がたに脱走したのではあるまいかと」
「なぜ儂に知らせなかった」
「世間しらずのあの者のこと、腹がすけば戻るであろうと
「そうか」
背をむけたまま、裃をまとう左門が冷淡に応じた。
「陪臣らとともに五里四方の陸路をあたりましたが、いっこうに足どりをつかめませぬ。もしかすると昨日たった蝦夷ゆきの北前船に便乗したとも考えられます。本日はそちらを――」
ピシリと袴の紐をきつく縛る音が言葉をさえぎった。
行きさき不明の重い沈黙がだだよう。
「いいや、すておけ。奴はもともとこの屋敷にはいなかったのだ。下手に探しまわればよからぬ噂にもなりかねぬ。みずから出て行ってくれたのならむしろ好都合、よい厄介払いができたとみるべきではないか。勝手にのたれ死ぬがいい」
「はい、かしこまりました……」
直介が内心でほっと安堵したのもつかのま、部屋から出てゆこうとした左門が足をとめた。
「はてしかし、あの廻座のご家老が亡くなったのはつくづく残念だった。あのお方は農民たちから米を過剰に巻きあげ、藩にかくれ投機筋にながし、私利をむさぼっていたのだ」
「そう、だったのですか……」
「その証拠をやっとつかんだ矢先、あの過激党の一件がおこった。残党もろともあのお方を蟄居さす好機であっというのに、よけいなことをしてくれた者があったものだ。はて、いったいどこの誰であろうか――」
冷や汗が背につたう。下手に反応してはならぬと直介は己に言い聞かせた。
「――厄介なお方であったから誰も疑義をはさまなかったが、くさっても一門は一門である。ともすれば藩の威信をも瓦解させかねぬ一件だった。近ごろは武家のありようもわきまえず、浅はかにも刀を振りまわすクズの小人がずいぶんと増えたもの。嘆かわしいことだ」
間に髪をいれず、直介が膝をよせて首肯した。
「同感です! あってはならぬことでした。ちかく江戸から人員が到着するはずですから、城下の見廻りを増やしてはいかがかと」
肯定も否定もなく、左門が無言のまま去っていった。
冷たい気配がまだ室内にのこっている。
直介はふるえる息をながく吐いて、脚をなげだした。こわばった頬の肉を両手でさすると、いまさら唇のふるえをおぼえる。
「やれやれ……」
外からうららかな朝風が、ゆらりとながれてきて肌をなでた。
今日も天気がよいようだ。
「兄上はそろそろ
ここ数日、心配ごとを数えあげたら切りがなくなる。
楽しげに道をゆく兄の姿を想像し、ひとりで何度もうなずいた。
* * *
七ヶ宿は蔵王のけわしい山あいにある。
その名のとおり、川ぞいの街道にそって七つの宿場町が点在した。
ひとたび雨がふると、蔵王の山から水がおりてきて街道がひどくぬかるむうえに、川が暴れて足どめをくらうこともしばしばであるという。
ところどころ左手の山側からしみでてきた清水が、人に踏まれてまるくなった石を黒くしめらせている。コケを厚くまとったブナの樹林が高くびっしりとひろがり、残雪で冷やされた風があかるい森をわたってきてすずやかだった。
それから足どりもかるく上戸沢から渡瀬宿をすぎ、つづらおりの峠道にさしかかったときのことだ。
どこからともなく鈍色の雲がわいてきて、枝葉のうえにみえる空を暗くふさいだ。
そう藤太が気づいたころには、ポツポツと雨が降りてきたあとだった。
このていどなら大丈夫だろうと高をくくっていたが、みるみる地をたたく大雨にかわり、八方の視界をどっと白くふさいだ。
「うわぁ、これはまいったな」
あたりに雨やどりのできるところを求めてみたが、人家の気配がまったくしない。
濡れねずみになりながらさまよったすえ、やっと樹林のなかにブナの大木をみつけ、そこへいち目散にかけた。
大木の根元には雨がとどかない。
どっしりした幹によりかかると、濡れて重くなった頭巾をはずし水をしぼった。
思いがけない頭巾の欠点に気づいた。水に濡れると口と鼻にまとわりついて息をふさがれてしまう。
やれやれと顔の汗粒と雨水をぬぐいつつひと心地ついた。
つかのま、うしろから不意に人の声がした。
あわてて頭巾をかぶりなおす。
誰もいないと思ったら先客があったようだ。
若い女の声である。
まるで鈴音のように澄んでいて、ふりしきる雨音のなかでも明らかに聴こえた。
それは聴く者の心をおちつかせる、やわらかな唄声だった。
ねんねろやァえころころ
ねんねこしておひなだなら
あんずきまんまさごまかげて
もしもそれがおいやなら
しろいまんまにさげのよ
もしもそれがおいやなら
あんころにしょゆだんご
すいこまれたように太い幹をまわりこみ、そっと声の主をうかがった。
やはり旅装束の若い女が、根元にすわってあまやどりをしていた。
ほっそりした顎を頬杖にのせ、どこか遠くをながめ、赤い唇をちいさくうごかして唄をくちずさむ。
武家ではない、町人であろう。
あざやかな群青色と紅色で染めぬいた
やや大きめの銀の
思わず目がいってしまったのは、すらりと伸びた脚である。女は脚絆をとって草鞋と足袋をぬぎ、膝がしらまで白い肌をあらわにさせていた。
雨のなかに足をなげだし、小さな足指を伸ばしたり巻いたりして、戯れているようにも見える。
やがて藤太の視線に気がつき、はっとこちらを見た。
そり落とした眉のしたで、黒々と濡れたつぶらな瞳がとどまる。
暫時、雨粒がトツトツと葉をたたく音だけがひびいた。
気持ちよく唄っていたところに、覆面をした大柄な侍がとつぜんあらわれたのだ。女が驚くのも無理はない。
むしろあわてたのは藤太のほうだった。
「い、いや……す、すすす、すまない。けしてあやしい者ではない、ないのだ。あまりに美しい声がしたので聞きいってしまった。すぐに立ち去るから、こわがらないでくれ」
「…………」
だが女は悲鳴をあげるでもなく、おびえるそぶりもなく、じっとてっぺんからつまさきまで藤太をあらためたのち、肩をすぼめる仕草をしてにっと微笑んだ。
「まぁ、美しいだなんて、ありがとうおざりいす。お武家さまはお口がお上手であられますね」
「いっ、いやいやいや……」
「それにしても、この急な雨にはこまったもの。はやく止んでくれたらよいのですけれど。袖ふれあうも何とやらといいます。これもなにかのご縁でしょうから、すこしお話でもしていかれませんか。どうぞお気づかいなく、お掛けになってくださいまし」
「あ……ああ、うん、ではすまない。邪魔をする」
「はい」
藤太は大きな身を小さくまるめ、地にはった根を二本ばかりへだてたところでおずおずと腰をおろした。
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