(十二)出羽三山

 旅の初日は、とにかく浮かれた。

 二日目になるといくらか冷静になり、いつなんどき後ろから追手があらわれるのではないかと警戒した。

 三日目はなるべく人との接触をさけ、めだたないよう心がけた。

 四日目は心に余裕がでてきて、茶屋の主人や宿女中にこちらから話かけてみたりした。

 五日目にもなるとだいぶ慣れて、街道の中央を堂々と歩いた。

 右手に山の頂が青くかすんでみえる。

 風にまかれた淡い雲が、刻々とかたちを変えながらどこまでもついてくるのが不思議だった。

 懐の小瓶に手をおく。


「見てくれ、ぬい、あれが月山だそうだ。鬼王丸のふるさとだな」


 鬼王丸とは、月山刀工の元祖の名である。

 藤太が受けついだ刀は、おそらく何代目かの鬼王丸の作であろうとぬいが言っていたので、三百年か四百年ぶりの里がえりを果たしたことになる。

 月山がある出羽三山は、文字どおり出羽にある三つの山の総称のことで、羽黒山はぐろやま湯殿山ゆどのやまと尾根がけわしくつらなる。

 祖霊がしずまる精霊の山であり、生きる人の生業をつかさどる山の神、田の神、海の神がやどる神々の峰として、推古天皇すいこてんのうの世から広く信仰されてきた。

 月山の頂にある社には月読命つきよみのみことがまつられ、とおく天照大神あまてらすおおみかみの伊勢神宮と陰陽の対をなすとされる。

 四季をつうじ奥羽各地、あるいは関東と京から、こう(地域ごとにある信仰の共同体)の登拝者がたえず、人は五穀豊穣ごこくほうじょう大漁満足たいりょうまんぞく人民息災じんみんそくさい万民快楽ばんみんけらくを祈願する。

 山麓の入り口にある宿場は、そうした三山詣と参勤行列の人流によって栄えてきたのである。

 藤太は楢下宿ならげじゅくへ日暮れまえについた。

 白装束に身をつつむ三山詣の人であふれかえった通りは、ほかの宿場よりもひときわにぎやかだった。その人ごみをぬって、久保田藩が参勤でつかう本陣でわらじを脱いだ。

 宿帳には適当な名を走り書く。

 ちょうど江戸表から国許へくだる久保田藩士の一群とかさなった。すこし身構えはしたが、彼らは生まれも育ちも江戸なので国許の藩士とは面識がなく、あえて詮索されることもなかった。

 あたたかな湯船につかり、でてきた食事も申しぶんない。まさに極楽、殿さまの心地だ。

 食後にゴロゴロとくつろいでいたところ、くだんの藩士たちが部屋をたずねてきた。

 なんの用かと思えば酒のさそいで、すでにほろ酔いかげんでいる。

 いちどは断ったが、


「生まれはちがっても、おなじ家中で仕える藩士どうし、ぜひとも」


 としつこい。

 藤太は江戸のようすにも興味があったので、部屋をでて座敷の輪にくわわることにした。

 別館からもきて十数人あった。よく見ればいずれも軽き身分のようである。

 頭巾をしたままでいる大男に、皆がさぐるような好奇の視線をさしむけてきたが、


「幼いころに疱瘡をわずらい、みなさまにお見せできるような顔ではありませんので、どうかお許しください」


 とおそるおそる言ってみたところ、すぐに納得してくれた。

 江戸からきた人の気質は、故郷の人ともどこかちがった。

 語り口にお国なまりがなく、はずむような抑揚があって軽快にきこえる。その反面、どこか軟弱な印象もうけた。

 直介が言っていた地域ごとにある人の気質のちがいというものは、これを言いさしていたのだろう。

 ところでどうして江戸詰めの彼らがここにあるのかといえば、昨今のめまぐるしいうつろいによる。

 二年まえの文久二年に幕政改革があり、諸大名の慣例が大きくかわった。

 世情が風雲急をつげ、海防と財政逼迫に諸藩があえぐいま、幕府は思いきった歴史的大転換をはかった。

 たとえば参勤交代が二年に一度から三年に一度へあらためられた。江戸屋敷にある藩主妻子の帰国が認められ、家臣および家族の国許との往来が勝手にもなった。

 となれば江戸の人員が少なくて済むようになる。ぞくぞくと江戸から国許へ配置がえされる者がでた。

 三代将軍徳川家光とくがわいえみつ公がさだめた寛永かんえい閉洋へいよう(南蛮国の寄港禁止と貿易の制限)がすでに覆されたのだから、おなじころにはじまった参勤交代が見直されるのも当然だった。

 関所のあらためも以前よりだいぶゆるやかにかわった。だからこそ直介も藤太の旅に同意してくれたのである。

 人がうごけば銭と物がながれ、情報と知識もはこばれ、人の気質もすこしずつかわる。

 久保田藩にかぎった話でもなく、諸藩の武家たちの自意識も変わりはじめた。

 城下の過激党の反抗も、それらの波動をあびておこった現象のひとつである。下の者が藩論に口だしをするなど、すこし前まで考えられないことだった。

 すっかり酔いがまわり首まで赤くさせた白髪まじりの熟年藩士が、にわかに表情をくもらせ憂いげに太息をもらした。


「しかし、それにしても遠かった。白河の関からここまで、歩いても歩いても山ばかりなり……。私は久保田藩士ではありますが、江戸に生まれ江戸で育ちました。いまさらこの年になって隠居を願いでても許されず、国許づとめになるとは思いもよらぬことにて。泣く泣く先祖の墓を江戸に残したまま、すべてをひきはらって参りました」

「これ、国許の方をまえによさぬか」


 となりの同僚が、藤太の頭巾をうかがいながら小声で袖をひいてたしなめたが、振りはらって駄々っこのように泣きわめいた。


「いいや、もう言わぬようにするから今日だけは言わせてくれ! そもそも十数代さかのぼれば、わが父祖は常陸国ひたちのくにの者。いまさら出羽国へ行けといわれても、私にとってはまったく馴じみのない土地。家内にいたっては寒いから嫌だ、いきたくない、それもこれもお前さまの働きぶりが悪いからこうなるのだ、などとなじられるしまつ。武家に生まれたさだめとはいえ、これからいったいどうなることやら……」

「おい、ちと酒が過ぎたのではないか。いいかげんわきまえよ。ここはもう江戸ではないのだぞ」

「ああ、それを言ってくれるな。江戸が恋しくなるではないか。うう……ぐひっ」

「わかった、わかった。わかったからもう寝てやがれ」


 この場にいる誰もがおなじ身のうえにある。そこかしこから自嘲の苦笑いが漏れた。

 藤太は藤太で、酔ってくだを巻く人を目のあたりにしたのも初めての経験であったし、彼らの嘆きに興味ぶかく聞きいっていた。

 なるほど、武家とは上の命があれば従うほかない。住むところも、やりたい役目も選り好みはできないのだ。

 それにひきかえ街道筋でみてきた町人たちは、表情も豊かにいきいきと仕事をしているように見えた。

 武家は二刀の象徴する特権をあたえられたかわり、不便を背負った身分でもあるのだなと、新たな視点をえて妙な感動すらおぼえたものだった。

 あとはここに来るまでの道中もたいへんだったらしい。

 なんと乱があった。

 水戸藩の天狗党てんぐとうが横浜の鎖港をもとめて決起し、一千人以上の塊となった。軍資あつめに市中までおりてきて、略奪、放火、殺生をもはたらく暴徒と化した。

 水戸天狗党といえば桜田事変までやってしまうような危ない連中だ。でくわしたら何をされるとも知れない。

 だがまさか水戸者が恐いので国許入りを待ってほしいなどとは、武家なので口がさけても言えない。上役から不心得者め、恥を知れと怒鳴られるのが関の山だ。

 ゆえに皆で出発の日をあわせて行列をつくり、暴徒をかわしながら奥州街道をくだってきたのだという。

 かようなわけで、愚痴がこぼれでてしまうのも仕方のないことだった。

 国許へはいってからは休む暇もなく、封土の海防や京師の警備にかりだされる。それが家中づとめの役目とはいえ、気の毒といえば気の毒な話だ。

 翌朝。

 北へむかう彼らとわかれた藤太は、いよいよ仙台藩領の七ヶ宿しちがしゅくへはいった。

 ふと城下のようすが気がかりになりはしたが、かしこい直介がうまくごまかしてくれると言っていたのだ、大丈夫にきまっていると前をむいた。

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