(十一)羽州街道

「広い……広い、広い!」


 羽州街道を南へたどるみちみち、藤太はなんともいいようのない未知の興奮をおぼえ、空へ舞い上がるような気分をおさえきれずにいた。

 旅とはこんなにうれしいものだったのか。

 そして天地とは、かくも八方へのび広がりゆくものだったのか。

 しぜんと心がはずみ、足どりが浮き浮きとした。

 空はまるく澄んで青いし、風にながれる白雲がまぶしい。

 西に見える海原はキラキラと微笑みかけてくるし、東に見える鳥海山ちょうかいさんはまだらに雪をのこして雄大であるし、ひっきりなしに人が往来する街道の模様を見ているだけで飽きがこなかった。

 まったいらに空をうつした水田では、せっせと草とりにいそしむ農民たちの姿があり、草と泥のにおいが涼風にのって薫る。

 かたわらを武家、行商人、修験者、農民、飛脚、老若男女がすれちがってゆく。

 人だけではない。土手に咲く名の知れぬ草花や、街道ぞいの樹枝をわたる鳥もにぎやかだ。

 どれもこれもはじめて目にするものばかりなのだから藤太は楽しくてしかたがない。

 六尺もある大男が、あたりをキョロキョロしながら踊るようにして歩いてくるのだ。通りすがりの人がおどろいて道をゆずった。


『よろしいですか、兄上。旅の道中では下手にめだってよいことはありませぬ。はじめての旅に心がおどり、羽目をはすしたくなるのは人のつねとしても、どうかくれぐれも自重なさってください――』


 口酸っぱく小言する直介の顔を思いだした。


「そうだいけない、俺は武家だ。浮かれすぎてはならないのだった」


 覆面のなかで顔と耳が熱くなった。

 ひとしきり反省すると深呼吸をひとつして、たしかな足どりをとりもどし一定に刻むのだった。

 武者修行へ出るなどと偉そうに言ってみたまではよかったが、藤太のことであるからどこへ行けばよいのかまったく思いつかなかった。

 ふといつだったか、ぬいが一度は行ってみたいものだと語らっていた地名を思いだし、ふかい考えもなく口にしてみた。


「まつしま……とは遠いだろうか?」

「ああ、仙台ですか。なるほど、それはよいかもしれませんね」

「せんだい……」

「ええ。はじめての旅でいきなり江戸となると難易度がたかい。かたや西国は異国との戦があって今は人心が荒れておりますし、京は政局の渦中にあって危ない。北前船もその煽りを受け、我が藩もこのありさまなのです。それにひきかえ東海に面した仙台藩はいたってしずかなもの。大坂から江戸経由で蝦夷まで東まわりを往復する千石船せんごくぶねは、開港まもない横浜へ寄るようになってますます盛んなのだとか。とりわけ奥羽諸藩随一の規模である仙台藩は、おのずと武家が多く武芸もさかんな土地柄。兄上とおなじ一刀流小野派もさかんですから稽古相手にもこと欠きますまい。仙台までの道のりは陸路だけでわかりやすいですし、なにかあれば私もすぐに行けます。おなじ奥羽にある外様藩で人の気質も似かよっていますから、はじめて旅にでる兄上にはうってつけの国でしょう」

「そうか、ならばそうする。ぬいに松島を見せてやりたい」


 というわけで目的地を仙台藩とさだめ、封土を南北につらぬく羽州街道の南路をえらんだ。

 秋田を発し横手よこて新庄しんじょう楢下ならげ七ヶ宿しちがしゅくをぬけ桑折こおりから奥州街道にはいって北上し、仙台藩領へいたる経路をたどる。その道のりはおよそ七五里(約三〇〇キロ)。一日あたり十里を進み、八日ほどで仙台城下までつく計算だ。

 聞けば直介は、藩主参勤のときに桑折まで行列にくわわった経験があったそうだ。

 なぜかと問えば、そうして行列を膨らませ近隣の家中に久保田藩の威容をしめすためであり、江戸にはいれば千住せんじゅあたりで江戸詰めの藩士が待っていて、ふたたび行列を長くするのである。昔からどこの藩もやってきたことだ。

 ともかくそんなわけで羽州街道ぞいの宿場を知っていた。藩がなじみとする定宿がよいだろうからと、わざわざ手製の旅のしおりを持たせてくれたのはありがたかった。

 さいわい天候にもめぐまれ、藤太は旅程を快調にゆく。

 疲れはまったくやってこなかった。が、またしても弟の小言が聴こえる。


『旅において無理はきんもつ。疲れは知らずしらずたまるものです。規則ただしく夜明けから歩き、日が西へかたむきかけたら必ず余裕をもって宿をもとめるのです。行けそうだと思っても行ってはなりませぬ。山の夜道とは足下を見わたせぬほど真っ暗になりますから。うっかり遅い時間に宿が埋まってから右往左往しようものなら、武家といえども足下をみられ宿代を高くふっかけられることもざらです。また世話してくれる宿女中には心づけをわすれずに。何もださないと藩の面目にかかわります。あ、そうそうあとは、宿にこまっても飯盛旅籠めしもりはたごなどはもってのほか、断じてなりませぬぞ。それこそ藩の名誉を貶めてしまいます』


 直介の指南は、なりませぬという言葉がとにかく多かった。

 あれもならぬ、これもならぬと小うるさい。

 でもたしかに直介の言っていたとおりにしていれば、なにもかも順調にことがはこんだ。

 おしえてもらった宿は、いずれも構えが大きくて夜と朝の二食つき。さらに昼飯用のにぎり飯をもたせて外まで見送りにでてくるというような具合だった。

 宿女中に心づけをわたすと微にいり細にいり先まわりして面倒をみてくれる。

 頭巾をしたまま飯をたべるので何となく怪訝そうにはするが、宿の者たちは、


「きっとたいへんなご身分のお武家さまにちがいないから失礼のないよう」


 などと噂しあって、やたらと丁寧に接待してくれた。

 奥羽の雄藩である久保田藩の上士、しかも勘定奉行の家の者となればこれぐらいは当然なのだろうが、藤太としてはいささかこそばゆくも感じられた。

 いくつかある関所も難なくとおりぬけられた。

 これも直介からおしえられた手順にしたがい、まずは無言のまま懐から手形をとりだす。

 つぎに何かをたずねられたら、脇差の角館正忠かくのだてまさただをわざと見えるように置きなおす。

 すると役人たちはきまって目をみはり、いっせいに半歩のいて、


「こ、これはとんだご無礼を! どうぞお通りなされませ!」


 と慇懃に通してくれるのだった。

 それがいったいどこからくるものなのか藤太は事情をよくわかっていなかったが、すべては直介が贈ってくれた脇差のつばに秘密がある。

 角館正忠のつばには笹竜胆ささりんどうの蒔絵が刻まれてあるのだ。

 それは清和源氏せいわげんじの由緒ただしき紋であり、こと羽州街道ぞいにおいては絶大な効果を発揮する。

 羽州街道のまたの名を佐竹道さたけどうとも呼ぶ。つまりこの街道で笹竜胆とくれば、佐竹一門につらなる者であることを自明した。皆がみな、一門の子息がお忍びでどこかへ赴くのだろうと勝手に推察してくれたわけである。

 頭巾をかぶったまま黙している藤太にたいし、まさかそれを取って顔をあらためさせよなどと言う者もいなかった。

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