(十)旅立ちの朝
屋敷林が新緑の葉をひろげ、かさなりあうようになった元治元年四月の下旬。
ぬいが旅だって四十九日がすぎた。
無事ひととおりの法要がおわったので、直介はぬいの部屋へたちいり、遺品の整理にとりかかった。
さすがはぬいである。
整然とした無人の部屋が、ぬいという人のすさまじさを静かに物語っていた。
身じまいのほとんどが片づいていたので、残されてあった荷物はすくない。どこから手をつければよいのか一目してわかった。
文机のうえにあった黒漆の
ちゃんとそれぞれに宛名が記されてある。
同僚の使用人たちには引継ぎごとをことこまかく書き残し、出いりの商人には長年の礼をのべている。左門あてのものもあった。
直介はそれら一つひとつを配ってまわり、さいごに藤太がいる離れをたずねた。
もちろん藤太のために残された遺品もある。
それは大きな風呂敷づつみだった。
きれいな結びをほどいてみると、まあたらしい着物一式がでてきた。
「おお……」
それは
藤太には思いあたる節があった。
「そういえばいつだったかしつこく身の丈をとられた。いつも縫っていたのはこれだったのか」
胸のいわが病んでいたであろうに、
指さきでそっと撫でてみる。
絹糸のさらさらとした手触りが心地よかった。
「兄上、ぜひとも着てみせてください」
「あ、ああ……そうだな」
身にまとえば驚くほど軽かった。とくに手足を動かしやすいのがよい。袖は通例の形よりも細く、剣を振りやすくする工夫がなされてある。
雷風一刀流とは、型の見ためにとらわれることなく、五体を指さきにいたるまで繊細かつ激しくつかう流儀だ。ぬいが残してくれた着物と袴には、そうした思想が細部まで宿っている。
直介がうでぐみをして唸り、まぶしげに見あげた。
「兄上の大柄なお体によくお似合いです。江戸表からくる幕府の書院番士にも勝るともおとらぬ風格。とりわけ黒を基調とした装いは洒落ておりますな。まさに当世一流の武芸者のおもむきかと」
「そうか……」
「そうですとも。けして誇張でもなく、私は見たままを申しております」
あまり褒められるとなんだか気恥ずかしい。耳が熱くほてった。
こちらも試してみては、と直介が頭巾に手を伸ばした。中で重たくひっかかるものがあったので、両手で頭巾をもちあげてみる。
すると、どさどさどさと、なにかが床板に落ちて鈍い音をたてた。
「こ、これは……」
頭巾のなかにしのばせてあったものは、金三十両だった。
いったい何のための金だろうかと思い、ひっくりかえして書き置きをさがしてみたが、とくになにもなかったのでもてあました。
『これからの道はご自身でお決めになられませ――』
どこからともなく懐かしい声がして、屹然とした面差しが藤太の脳裏をフツとよぎる。
やいなや、全身がいかづちを浴びたようにブルッと震え、啓示にも似た決心を藤太は覚えたのである。
そうだ。
そうしよう。
俺は決めたぞ、ぬい――
夜になってふたたび直介がたずねてきたとき、藤太はおもいきって決心を告白した。
「俺はここをでて、旅にでたいと思う」
「えっ……突然なにゆえ?」
「もちろん剣の修行のため。あとは世のなかのことも知りたい」
直介にとっては唐突がすぎたのかもしれない。
せわしなく目を泳がせ、身ぶり手ぶりであたふたと言った。
「ならばならば、明徳館へ通われてはいかがですか? わが藩の教授方は博識で充実しております。また領内にも強い剣士はおりますし……もっとも、うち何人かはすでに兄上が斬ってしまわれましたが……」
「いいや、俺は死んだことになっている。こんな顔のやつが外をうろついたらお前や家に迷惑がかかる。でも俺は剣の奥院をみたい。よりすぐれた武家にもなりたい。それがぬいとかわした、いいや、師とかわした約束なのだ」
「そんな……お待ちください――」
直介はなかなか承知してくれなかった。
これから世がますます不穏になるから国を離れるべきではない、どの家中も騒がしいときだから旅をするには危ない、などなど、さまざまな懸念をならべたて慰留した。
とりわけ藤太は、まだ世間に慣れていないから危ういと言う。
それもまた真実であるが、藤太の心は揺るがなかった。
朝がたになったころ、やっと渋々ながら直介がみとめてくれた。
「わかりました……兄上のお心は、すでにどこかへ向かっておられるのですね。そのさきにあるものが剣の奥院であるならば、武家の者としてよろこばしいことに違いありません。これ以上おとめだてしては、むしろ失礼にあたるのでしょう。まだすべてを了解できたというわけではありませんが、そこまでおっしゃられるのならば弟として全力で応援さしあげます」
「わがままを言ってすまん……」
「ですが世がかつてなく不穏であるというのはまぎれもない事実にて、万がいち道中で不逞の輩や間諜などとあらぬ嫌疑をかけられでもしたら厄介です。藩の手形があれば便利でしょうから、外祖父にたのんで裏から手配いたしましょう」
そしていよいよ手形がおりて明日旅立つとなったときのこと。
直介は、藤太のおそるべき計画を知ることになった。
「いつかお前が言っていた、あの賊どもをけしかけた奴の屋敷を教えてくれないか」
「なんと。それはいったい、まさか……」
「師をやられて黙っている弟子はいない。仇討ちだ」
左右にずれた藤太の目が、それぞれに青白い炎をちらちらとゆらしていた。
初夏にさしかかる暖かな宵口であるというのに、直介はひやりとした寒気をおぼえた。たくましい筋骨から放たれた有無をいわさぬ剣気に息をのむ。
兄は一見のんびりとしているようでいて、やはり内実はあのぬいが精髄をそそぎこんで鍛えあげた生粋の武芸者であるのだ。
兄には兄の歩むべき道があるのだと、悟らずにはいられなかった。
* * *
翌日の払暁。
直介は城下のはずれまで兄の見送りにでた。
六尺ある藤太の大きな背が、右手に海をのぞむ道を力強い足どりで南へむかい、どんどん遠ざかってゆく。
いまもなお心配ごとは尽きないが、旅の心得をしたためた覚書を持たせてやったから、なんとかなるだろうか。
ぬいの特製頭巾が顔をうまくかくしてくれている。顔を見た者から思いやりのない雑言をあびることもないのだろう。
その懐にぬいの灰がはいった小瓶がおさまり、腰には月山鬼王丸が旅のともとして寄りそう。
脇差は
二刀はいずれも
剣の奥院をみたあかつきには、かならず帰ってくると兄は約束してくれた。旅さきからの手紙も欠かさぬよう頼んだ。
再会がいつになるのか知れないが、かたときも弟との約束をわすれないでほしいと願いをこめて脇差を贈った。
大好きな兄のゆく先に、よき仕合わせと武運長久あれ――
そう強く念じ、見えなくなるまで手袖を振るのだった。
さらに夜があけ、朝五ツとなったころ。
城下の一隅が大騒ぎになった。
とある
おどろくべきはその手際だ。
当主と陪臣の計八名の武士が、首と胴を断たれことごとく撫で斬りにされている。いずれも即死、誰も見おぼえのないみごとな太刀筋だった。
しかもまったく物音らしき物音がしなかったというから、女たちは誰も気づかずに朝まで眠っていた。
現場を検証した藩の重役たちを悩ませたのは、誰ひとりとして刀を抜いたようすがなかったことだ。武家としてあるまじき恥である。これが広まると藩の威信にもかかわりかねない。
下手に騒ぎだてすれば、近隣で目をひからす徳川譜代の
結句、諸事情をかんがみたうえ、なかったことにしようという結論になった。
この奇妙な一件は、流行り病のコロリにかかった主従が急死したこととされ、内外の慌しいどさくさのなかですぐに忘れ去られた。
ところでもうひとつ、直介のまわりで静かな変化があった。
「あの者、じつはすさまじい腕前であるらしい――」
襲撃の一件からそんな噂がながれ、陰湿な嫌がらせはぱったりとなくなった。
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