第3話
柔和な顔の男は夏の真白な日差しの下、弘紀の方へと歩み寄る。
「このように近くにお目にかかるのは江戸参勤以来のことでございます。御目文字仕りますのはこれが初めて、わたくしは大国主命様のご加護ご利益を世に広めております出雲大社の御師、
出雲大社の御師、波笠。
その名は既に加納から報告を受けていた。
城下の矢根八幡宮に出雲の御師が滞在していると。
その
波笠という名のその御師と江戸でも会っていたことを。
——瓦版を、いかがでございましょう
弘紀の脳裡の記憶がどこかで嚙み合った。
夜の運河の水音。
江戸町人の贅を尽くした料亭百川。
赤い鳥居の向こうには徳富稲荷の社があった。
あの時、稲荷の社の側で瓦版を売りながら波笠が語っていたのは、黒河に伝わる月狼の伝説だったのではなかったか。
「近頃、伊勢が騒いで
波笠はしかし、己の出雲の信仰でも黒河の伝説でもなく、伊勢という言葉を口にした。弘紀は注意深く波笠に視線を固定した。
「……出雲の御師がなぜそれを知る」
弘紀の強い視線を逸らすように波笠は目を伏せ、話を逸らせた。
「今、天下が動こうとしております。これまでになく大きく」
「徳川公と京の帝が手を携えれば、天下の鳴動は直ちに静まるだろう。なのにそれを揺り動かそうと騒ぎ立てるのは薩摩や長州だ。巻き込まれて迷惑をしているのは羽代だけではないだろう」
「日の本のこの地を分かつ三百を数える国の領主様方、その多くが御子様と同じく賢明なご判断をされております。けれど地に生きる百姓町人数多の者達は、現世利益、目の前の損得に心を乱されます。……民が乱れれば、国が乱れましょう」
海の風が弘紀の着物の袖、袴の裾を大きく揺らした。
今、この場を離れなければ。
波笠という御師の話術に嵌ってしまっていることを弘紀は自覚していた。だが、忌避よりも強い興味が上回った。あるいはそれも術の内か。
波笠はそんな弘紀の様子を見て、口元に微笑を浮かべた。
「お知りになりたくはないですか、伊勢の御師がいったいなにを目論んでいるのか」
人を誘って離さぬ声音。
弘紀が江戸でこの声を聞いたときは、引き込まれる前に修之輔に腕を強く掴まれて我に返った。
けれど今、真夏の日の光の下に佇むのはただ二人。
弘紀の背には羽代城が岸壁にそびえる。
弘紀が守らなければならないのは自分自身でなく、この地、この国だった。
「……知っているのなら、今ここで、知っていることのすべてを語れ」
弘紀の応えに波笠の微笑が深くなった。
「そのために、貴方様と会う機会をこれまでずっとお待ちしておりました」
後戻りは、もう、できない。
「ご聡明な御子様の事、今の朝廷に近衛家という家があること、ご存じかと存じます」
「帝をお支えする五摂家の一つだ、知らないはずがない」
「その近衛家は薩摩の島津と縁続きでございます」
それは波笠に改めて指摘されなくても、広く知られていることだった。だが、その事実こそが朝廷と徳川幕府との公武合体を妨げている大きな障壁の一つだった。
「近衛家が関係あるのか」
「伊勢の御師が足しげく通い、伊勢の斎宮の復興を願っているそうでございます。斎宮の復興が約束されるのなら、薩摩、近衛への協力を惜しまない、と」
「なぜ今になって斎宮の復興を願うのか。伊勢神宮の斎宮は廃されて久しい。信長公の時代には既に途絶えていたと聞く」
さようでございます、と波笠が頷く。
「はるか昔、いまだ
古代の蘇我という豪族が仏教を背景にして力を増大させて専制をはたらき、中大兄皇子に滅ぼされた伝説は今も江戸や上方で人気の芝居の題材だ。中大兄皇子の腹心だった藤原鎌足の子孫がその後の天皇家の血筋に深く介入していったことは時代の皮肉だろう。
皇祖神である天照大神は大日如来と習合し、太陽神としての性質をより深めていった。時代が下って二人の天皇が南北に分かれて相争う混乱で朝廷の威信は凋落し、天照大神を祀る伊勢神宮の威信は次第に低下していった。
「足利将軍の最初のうちこそ皇族から天照大神の巫女として斎宮が派遣されておりましたが、戦国の世になれば皇族の姫君の身の上一つを他国へ寄せることは危険が伴いました。いつしか斎宮は伊勢に渡らず、徳川様の御代においてはこの国に数多おられる神々の一柱として天照神は信仰を受けていたのでございます」
「ならば今、朝廷に斎宮の復活を願う伊勢は以前の威光を取り戻そうとしているのか」
「左様でございます。王政の復古という名目で、己の神の復興を、記紀神話の復活を願っております」
それはあまりにも荒唐無稽な話のように思えた。
今、この国の信仰は仏教が基であり、民の戸籍も生死も寺院が管理している。民の生活に根差し、武家の統治を基盤から支える仏教という信仰を、秩序を、根こそぎ
弘紀の困惑を見て取った波笠が、口元に再び微笑を浮かべた。
「あまりにも大それた話ではございます。が、伊勢はずっと準備をしてきておりました。何十年、何百年の月日の間」
「……そして今、薩摩、長州、そして尊王攘夷を主張する近衛家に呼応して、各地で民を扇動しているのか」
波笠が頷くその背後に、いつか潮が引いて遠くなった水際が見えた。
弘紀は大きく息を吐いた。
「伊勢が民を扇動しているその理由が伊勢の神の復古か」
理由が分かれば、対応ができる。羽代の領主として弘紀がすべきなのは、現在実際に起きていることへの対応策を考えることだった。
どうにかできるのだろうか。いや、しなければならない。城の中、二の丸御殿の執務室を思い浮かべた弘紀は、すぐに大手門へ向かおうと背後に振り返った。
その背中に。
「日輪の巫女は」
波笠の声が被さった。
「さきほど声をお掛けしたとき、貴方様はその言葉で振り返った。お名前をお呼びしても、ご当主様とお呼びしても、きっと振り返ってはくれなかったでしょう」
足を止めた弘紀の背に、波笠は語り続ける。
「知りたかったからでは、ないですか。日輪の巫女について」
白熱の砂浜。
視界がゆらゆらと揺れるのは、立ち昇る陽炎のせいなのだろうか。
弘紀はゆっくりと振り向き、再び波笠と対峙した。
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