第2話
浅井宿での武士同士の斬り合いは、最初に手を出したのが紀伊藩の者であることが宿の手代の証言で明らかになった。襲撃されたのは長州藩の藩士で、そのうちの一人はその時負った切り傷がもとで三日後に命を落とした。
宿からの知らせで駆け付けた外田たち羽代の役人がその場で紀伊藩士を捕縛し、屯所で取り調べを行った。そしてその取り調べの半分以上の時間を紀伊藩士の抗弁に取られたという。
「自分は徳川様に謀叛を企てる不届きな長州者を始末しただけのこと。羽代の朝永様は御譜代であろう。なぜあのような輩を野放しにする」
刀を取り上げられ、屯所の座敷で外田と対面しての紀伊藩士の第一声がそれだった。外田は相手の口調に引きずられないよう慎重に言葉を返した。
「ここは天下の往来、東海道だ。様々な者が行き交う。ここを通るすべての者達に羽代の
外田はすぐ側に小林などの部下を揃えていた。一対一で対応すると呑まれる、必ず複数人で対応するようにと番方の山崎から助言を受けていたためだ。紀伊藩士の態度はいかにも堂々としており声の通りも良い。しばらく話を聞けば呼応する者が出てもおかしくないだろう。むしろ、そのような役目の者なのかもしれなかった。
「此度は自分が敢えて始末した。このようなことを起こしたくないのなら、羽代は攘夷を口にする者達をもっと厳しく取り締まれ。そなたも宿場に常駐している役人ならそのような任務を持っているだろう」
取り締まったところで羽代の決まりで裁くことができない他藩の藩士相手に、外田は口をへの字に結んだ。
「……少しは黙ってくれないものか」
思わず外田が溢したぼやきは、相手の耳には届かなかったようだ。
「京都の守護職であらせられる会津松平様の新撰組は、日に三人、四人と薩長の浪人を切り捨てて都を取り締まっている。あのぐらいの厳しさが必要だ」
「ここは羽代だ。京でも江戸でもない」
「いつまでもそのような言い訳が通ると思うな。徳川様を奉ずるのか、薩長の軍門に下るのか。羽代はどちらだ。腹を決めろ」
「おぬしは人を一人斬り殺した。その罪をうやむやにするな」
思わず外田が声を大きくし、それでようやく事件のあった夜の詳細についての調べを始めることができたという。
紀伊藩の藩士はしばらく屯所に留め置かれたが、数日後に東海道を江戸に向かうという紀伊の家老の一行に身柄が引き渡された。先日のこともあり、紀伊家に適切な処罰を求める書状には羽代藩主の公印が押された。
羽代城二の丸御殿の表座敷においてもこの事件は大きな波紋を呼び起した。
「もしや最初から紀伊殿の御指図だったか」
「井伊大老のご受難からこっち、今や各地で攘夷派を名乗る浪人に幕府重臣の方々のご家来が斬り殺されているご時世だ。焦る気持ちも分からなくはないが」
「先の長州討伐で幕府軍は長州軍を相手に撤退を余儀なくされた。さらにその後、天敵同士だった長州と薩摩が手を結んだとなれば、力の差はすでに逆転しているのではないか」
「かといって、仮に長州薩摩が朝廷と手を結び新たな世を作り上げると云っても、いったいどんな世の中になるというのだ。すべてがばらばら、戦国の世の再来になるぞ」
「だからこそ朝廷は薩長とではなく、徳川様との公武合体に乗り気なのではないか」
「ではやはり薩長の分が悪いのでは」
騒めく家臣たちを前にして、弘紀は筆頭家老の加納に尋ねた。
「浅井宿に薩摩の者はどのくらい滞在している」
加納はすぐに手元の宿帳の写しを見返した。
「薩摩の武士が浅井宿に滞在することは稀なようです。今月に入ってから三人組が宿泊しましたが、三日後には宿を発っています。以降、薩摩の者が浅井宿に滞在した記録はございません」
それも妙な話だった。江戸表からの報告によれば、現在、江戸では毎日のように薩摩訛りを隠そうともしない武士が街角で狼藉を働いているらしい。江戸取締役である庄内酒井氏を挑発し、幕府軍との交戦を招き寄せるためだ。
だが薩摩藩士が江戸に入るには、東海道を使う必要がある。
東海道の真ん中にある浅井宿で、薩摩の者だけ宿泊数が少ないのは不自然だった。別の宿場に定宿があるのか。もしそうならば、薩摩は非常に計画的に自らの藩士を江戸に送り込んでいることになる。
「羽代の近隣諸公に此度の浅井宿での状況を書状で報告し、代わりに他の宿場での状況を知らせてもらう」
弘紀は加納に書状に書くための情報の取りまとめを命じた。
「朝永は徳川公譜代の家。将軍様が朝廷との公武合体を進めているのなら、その結果を待つのみだ」
弘紀は表座敷に控える家臣皆に聞こえるよう、はっきりと宣言した。
それにしても内部の暴動の後始末や被害状況の把握、それに応じた年貢の計算のし直しなど、やることは次々に増えているのにどうして他藩同士の抗争の尻拭いを関係のない羽代がしなければならないのか。
思うように進まない事ばかりで立った腹が収まらず、弘紀はその日、その後の執務の手が止まってしまった。諸公に出す書状の作成を祐筆に任せて私室に戻った弘紀は、お仕着せの着物に着替え、こっそり二の丸御殿を抜け出した。
修之輔の手が空いていれば剣の練習相手になってもらおうと思ったのだが、向かった三の丸の長屋に修之輔の姿はなかった。部屋を覗いてみると、いつも置かれている場所に軍羽織がない。馬廻り組の訓練中なのだろう。長屋の外の空き地に見当たらないので、城の外で馬を走らせているのかもしれない。
弘紀は少しだけ大手門から外に出てみることにした。お仕着せ姿の弘紀は門番に見咎められることなく、城の外に広がる浜辺へと出ることができる。波打ち際に立てば中天をやや西に過ぎた夏の海の日差しは強く、けれど浜風は体から余分な熱を拭い去ってくれた。
砂浜に落ちる影に気づいて空を見上げると、羽代城の岸壁に住む
修之輔はあそこにいるのかもしれない。
船番所の屋形に目を凝らす弘紀の背後に、不意に人影が近づいた。
「これはこれは日輪の御子様、お一人で外に出られてよろしいのでしょうか」
それは弘紀に向けられた呼びかけだった。振り返ると柔和な表情でこちらを見る男の姿があった。年の頃は三十二、三歳、伊賀袴に筒袖で背には小さな
どこかで、見たような。
弘紀は自分の記憶を手繰ろうとしたが、目の前の顔を憶えることができなかった。目鼻立ちは整っているのだが一度目を離すと輪郭が朧になる。ならばと持ち物に目を移すと、行李に
「近頃江戸の築地では、外国人向けの
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