第4章 朱赤の凶雲

第1話

 月が。

 上弦の月が、羽代の海の上に昇っていた。


 浅井宿の宿の主人によれば、その武士は最初から様子がおかしかったという。

「先に二人連れの武士が入ったな」

「はい。お連れ様でございましょうか」

 看板灯籠に火を入れるため店の外に出ていた手代は、この武士も客なのかと思ったという。

「訛りのある話し方だったか」

 武士は手代の方を見ず、開けられた表戸の奥、二階に通じる階段を眺めていたという。

「はあ、確かに癖のある話し方ではございましたが」

「長州か、土佐か」

「お国までは手前には分かりません。どうぞお許しください」


 客ならば案内しようと手代が番台に声を掛けようとすると、武士はずいっと体を屋内へ割り込ませた。


「泊まりはせぬ。部屋だけを取りたい。先ほどこちらに入った者達の隣の部屋だ」

 飯盛り女は置かぬ宿のこと、どこかからか女を連れ込むつもりかと、番頭がそれ以上は知った顔をして武士に宿帳を差し出した。

「お泊りにならなくてもこのご時世、御身元を頂戴するのが決まりでございます。もし他にお泊りになっている宿がありましたらそちらもお書きください」

 武士は何も言わずに番頭の言葉に従い、寄こされた筆を使ってさらさらと宿帳に書きつけた。よどみなく文字を綴る手に、隠し事や謀の戸惑いはなかった。

「後からまた来る。遅くなるかも知れん」

 これはいよいよ胡粉を盛った商売女か、あるいは所帯持ちや若後家の訳あり女を引いてくるつもりだろう。

 先に金子を受け取った手代は、左様でございますか、と武士を往来へ見送った。

 番頭は改めて番台の明かりを手元に引き寄せ、宿帳の書きつけを確認した。そこに記されていた武士の身元は紀伊の国、本来の逗留先は浅井宿の中でも上等の宿だった。陣屋を置いていない浅井宿で陣屋の代わりに役職のある武士が使う宿である。

 手代と番頭は顔を見合わせた。そろそろ羽代の役人が見廻りに来る時間だった。

「見なかったこと、だな」

 へい、と手代は頭を下げた。


 上弦の月は、夏の夜を皓々と照らしていた。

 浅井宿の屋根瓦が白く光る夜半過ぎになって、その武士は戻ってきた。酒気も薫香も漂わせておらず、先ほどと同じく一人だった。

「部屋は」

 声を掛けようとした手代を制して、武士は一言、尋ねてきた。

「お申し付けどおりにご用意してございます。ではさっそくご案内を」

 手代が先に立って登る階段の先、先客たちが酒を飲み、羽代の海の幸を肴に上機嫌である。


「長州にゃあ敵わんが、この辺りの魚もうまい」

「酒は京の都で飲んだものが美味かったな。帝の攘夷のご意向を固めていただいた献上の酒だ」

「攘夷や開国やらと、もはや意味が無い。ただ我らは、幕府の意固地さが気に入らんだけじゃ」

「武家の世とはいえ幕政に就くのは決まった同じ面々だ。奴ら自分たちの私腹を肥やして他の藩の窮状を見て見ぬふりをしておる」

「わざわざ軍隊率いて遥々と長州までやってきたのはいいものの、全く歯が立たずにただ敗走するだけとは」

「様子見を決め込んでいた周辺の藩もあれで目が覚めただろう。いかに幕府が腰抜けか、就く旗を変えるのなら早い方が良いものだ」

 手代は足を止めた。攘夷を口にする者があればすぐに屯所に届け出ろと羽代の役人に言われていたのだ。しかし、この話の内容は。

 手代は迷った。自分ではこの話がいったい何のことを言っているのか分からない。彼らは徳川様にも京の帝にも同等に無礼なように思えた。手代は自分と親しい羽代の役人の顔を思い浮かべた。豪放だが細かい機微に疎い外田というあの羽代の役人に、この話を伝えたとして果たしてどこまで通じるのだろうか。


 手代が足を止めたそのちょっとの隙に、武士が手代を追い越した。

 あ、と声を掛ける間もなく武士はするすると音もなく廊下を移動し、そして。


 抜刀して座敷の中へ切り込んだ。


 怒号と、刀を打ち合う激しい金属音。


 手代は物影に身を縮こまらせて隠れていたい恐怖心をどうにか抑え、階段を転がり落ちるように駆け下りた。そして草履も履かずに飛び出した表通り、少しも迷うことなく羽代の役人が詰める屯所へ向けて走り出した。


 上弦の月が、道に落ちる手代の影を黒々と染めていた。

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