第11話
「かつてくろさぎという者は秋生のことを月狼と呼び、私の母のことを日輪の巫女と呼んでいました。それがくろさぎ一人の妄言でないことは、田崎が日輪の巫女と月狼の伝承を知っていたこと、貴方と月狼を結び付ける他の者達の言動からも明らかです」
弘紀が輝きを取り戻した黒曜の瞳で修之輔を見上げてきた。このところ良く寝ていないのならあまり無理をさせない方が、とは思ったが、久しぶりに仕事ではない話に夢中になれるのは、今の弘紀にとって好ましいことだろう。
修之輔は弘紀の言葉を受けて、自分が弘紀と共有している事実を確認した。
「弘紀は御母上の生前にそのような言葉を聞いた憶えがないということだったが」
「はい。けれど母が正月の海で何かの儀式を行っていた記憶があります」
冬の夜の海に浮かぶ満月。母は真白の衣装を身に着けて、小さな声で何かを唱えながらそれを見つめていた。
「あの儀式が日輪の巫女としてのものだったのなら、母自身、自分の身上を自覚していたのでしょう。……私には何も話していませんでしたが」
「代わりに残されたのは、あの笛の曲か」
「そうですね。母自身は笛を吹かず、私が笛の手習いを始めた時にあの曲を歌って聞かせてくれたのです」
修之輔の剣術の演武に、まるでそのための伴奏のように溶け合ったあの曲。
「だからこそ弘紀一人に伝えられた一子相伝の曲でもあるわけか」
もう一度弘紀の笛であの曲を聞いてみたいものだと、そんな願望が修之輔の心の内に浮かんだ。けれど、
「あの笛の曲が貴方の剣技と関係が深いのなら、月狼とも何か関係があるのではないでしょうか」
その弘紀の応えに、もしかして弘紀が奏でる笛の音を望む心は、月狼としての自分の心なのだろうかと、眩暈に似た感覚が修之輔の心を惑わせた。
惑いを振り払おうと瞬きをした視線の先、揺れる灯明の灯りに浮かぶ弘紀の揺るぎない眼差しが修之輔の心の揺れを鎮めさせる。
「日輪の巫女という言葉から想起されるのは、
「だが黒河で天照神を祀る神社は無かったと思う」
弘紀の母、環姫は、修之輔と同じ黒河の出自で、今の黒河藩主の妹にあたる。その環姫が斎宮のようにどこかの神社の巫女を務めていたことは無かった。そもそも黒河城下に神官が常在している神社は、修之輔が身を寄せていた佐宮司神社だけだった。
「本地垂迹に依るならば、天照大神は大日如来の姿で顕現すると言われています。大日如来をご本尊とする寺院はありませんでしたか」
修之輔は首を横に振った。弘紀は、そうですか、と目線を軽く下へ向けた。
「そして本来、黒河に伝わる伝承でありながら、佐宮司神社の神主はその伝承を無いものとして扱いたいようだと、礼次郎の手紙からはそう読み取れました」
「俺もその伝承について聞いたことは一度もなかった」
「私は母から、貴方も神主から、何も聞かされていない」
弘紀は顔を上げて修之輔と目を合わせた。
その言葉を口にしたくろさぎは死に、田崎は言葉を失い、佐宮司神社の神主は頑なに否定した。彼等から詳細を聞き出すことは不可能だ。
まるで意図的に継承が断たれているような。
「……けれど今、その言葉を使う者が二人、羽代にいる」
「竜景寺に就任した伊勢の神官と、矢根八幡宮に逗留している出雲の御師ですね」
弘紀はしばらく黙った。
「母は一度伊勢に嫁しています。母がどのような家に嫁したのか、伊勢の神宮との関係が何かあったのでしょうか」
これについてなら調べる伝手がありそうです、弘紀はそう云って表情を緩ませた。
一方で修之輔は、伊勢という言葉に浅井宿周辺の暴動と伊勢の神官との関連を思い出した。弘紀に直接話すことは負担になるのではないか、そう思って開きかけた口を閉じると、弘紀が修之輔の顔を覗き込んできた。
「何かあるのなら言ってみてください」
完全に復調した弘紀が黒曜の瞳に強い意志を込めて修之輔を見る。この目で見られては修之輔に黙っていることはできなかった。
「……浅井宿周辺で起きた一連の暴動の扇動者は、竜景寺にいる伊勢の神官ではないのかと、そう思った」
考えすぎだと言われてもおかしくない直感だったが、弘紀はしばらく無言で何かを考えた。そして、
「竜景寺には加ヶ里を遣っています。今後は神官の身辺にも注意を向けるよう伝えましょう」
弘紀は修之輔に笑みを向けた。
修之輔たち馬廻り組による巡検によって藩主の訓示が浅井宿周辺の農村に行き渡り、新たな争いの火種は一端鎮火したように見えた。だがその小康状態は長くは続かなかった。
「申し上げます、三河吉田で民衆の暴動が生じたそうです。規模は大きく、収束の気配はないとのこと、羽代を含む周辺は暴動が伝播しないよう各自の領地を充分に管理するようにと江戸表から知らせが届きました」
江戸よりも羽代は三河吉田に近い。なのに幕府から直接知らせが来たことは暴動の深刻さを現わしていた。
「三河吉田の近辺からの報告は。何が原因の暴動なのか」
弘紀は江戸表から届けられた書状に目を通しながら尋ねた。二の丸御殿表座敷では、家老の者達の他、情報を収取する役目の者達が慌ただしく出入りを繰り返していた。いくつかの書状を手早く捲る筆頭家老の加納が、状況を要約する。
「伊勢神宮の御札が降ってきたのが切っ掛けとのことです。狂喜乱舞した民衆が暴徒と化し、大店や豪農の家屋を襲って金品の収奪や家屋の破壊をしているようです」
「浅井宿への影響は」
「暴動は西へ向かっているため、今のところ浅井宿への影響はありません。ですが国境の警備を厚くする必要があります。西川殿、兵を派遣できる準備はできているか」
「弘紀様の命令があれば、直ぐにでも動かします」
「では、直ちに派遣するように」
弘紀の命を受け、西川は席を立った。
西へ向かう暴動。
一揆や直訴ではないのに何故、一方向へ向かうのか。
弘紀は加納に重ねて尋ねた。
「何もないところから札は降らないだろう。何者かの仕掛けではないのか」
「札が降った詳細は不明だそうです。札を手に入れた農民たちは天照大神の功徳だと、天照皇太神宮の幟を掲げて伊勢へ向かっているとのことです」
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