第4話

「さて、日輪の巫女が何者であるのかを語る前に、記紀神話は伊勢が語る皇尊すめらみことの物語であることをご承知おきくださいませ。古事記に語られる時代のその前に、この国には多くの部族が住んでおり、それぞれがそれぞれの神を、それぞれの神話を持っておりました」


 松笠の語る言葉は滔々と、羽代城大手門の前に広がる砂浜に流れていく。

 灼ける日差しに晒されて、先ほどから弘紀の首筋には汗が流れている。

 浜辺にいるのに波の音も風の音も遠い。思わず体の均衡を失いかけた弘紀は足の裏に力を入れた。だが足の下はさらさらと崩れる海砂だった。


「山に寄る民たちは山ノ神を、川に依る民たちは水ノ神を。石を砕く者達は石ノ神を、海の恩恵を授かる者達は海ノ神を、生業に応じて八百万の神々を部族ごとに奉じていたのでございます。その中にいつしか大陸から強大な鉄の技術を手に入れて勢力を伸ばした部族がありました。彼の者達は大和と名乗り、やがて都を築いて皇尊すめらみことを推し立てたのでございます。その部族が奉じた神が天照神、語った神話が古事記として今に伝えられております」


 古事記を日本古来の思想であると主張したのは、国学者の本居宣長だった。本居宣長は伊勢の商人がその出自である。伊勢神道の影響を多分に受けた本居宣長の思想は、平田篤胤の復古神道の考えに引き継がれ、儒学と融合した水戸学や尊王論を生み出した。

 今、世の中で尊王攘夷を声高に叫ぶ者達の思想の根底には密やかに、伊勢の、古の大和民族の神話が紛れ込んでいる。


「大和民族は戦闘と懐柔を繰り返して他の部族を従えるうちに、その部族の神や神話を己の物語の中に吸収していきました。日輪の巫女は、大和との激しい戦闘の末に敗北した部族の神に仕えていた巫女のこと。貴方様のお母上は古のその部族の長、民を率いていた巫女の血筋でございます」

「ならば黒河の領主、岩尾家がその血筋の本流ということか」

 弘紀の母である環姫は、羽代の隣りにある黒河藩の現当主、岩尾氏の妹姫だった。この縁があったので、以前に弘紀が黒河藩に身を寄せていたという経緯がある。


 だが波笠は首を軽く横に振った。


「いいえ、違います。巫女の本流は、貴方様の母上のそのまた母上から流れております」

「本多の家がそうなのか」

 弘紀が黒河に身を寄せてきたとき、住処を用意してくれたのは当主岩尾家ではなく、本多家だった。本多家は黒河藩主居城よりも広大な敷地に屋敷を構えており、弘紀のためにその一角に平屋であっても豪奢な家屋を建ててくれた。


 波笠は今度こそ頷いた。


「はい。本多家こそが黒河の辺り一帯、どころか南北の海を貫く広大な土地を支配した一族でした」

「そんなに強大な民族であったなら、その名が記録に残っているのではないのか。現に熊襲、蝦夷は記紀の中にその名がある。だが本多の名前は、記紀はもとより、他の古い書物にもなかった筈だ」

「日輪の巫女の民族を従属させた大和民族は、日輪の巫女が仕える民そして奉じる神から姿と名前を奪ったのでございます。本多という名は後世のもの、そのため日輪の巫女の民族は記録に欠片かけらも残さずに、歴史の中に埋もれてゆきました。それは他の民族にも行われたことでございます。唯一、日輪の巫女と由縁のあった佐宮司神社、あの神社の名にその名残があるとも言われております」


 黒河の城下にある佐宮司神社は本宮と奥宮をもっている。

 元々は山の中の社殿を一つ、持っていただけだった。山の裾野の方へと人が集まり始めたのがきっかけで、集落の中心近くに拝殿が建てられた。山の中の社殿は奥宮と、人々の近くに降りてきた社殿は本宮と呼ばれるようになった。

 そして佐宮司神社の奥宮は、通常、人が入ってはならない禁足地であると先日の礼次郎の手紙には書かれていた。


 けれど禁足地であるはずのその奥宮に、修之輔は毎年通っていた。

 祭礼の期間だけ設えられた祭壇に長覆輪の刀を奉納する、それが佐宮司神社の神主から修之輔に課された儀式だった。


 ご神体のない神社。

 祀る神を失った祭殿。

 祭壇の脇に置かれた錆びだらけの鈴。


 奥宮を守る修之輔と二人、あの緑深い奥宮で過ごした夏の日々を弘紀は思い出した。今思えば切ないほどに懐かしい黒河での記憶に、だが今は浸っていることはできなかった。


 弘紀は目に力を入れて波笠を見た。

「……なぜ、私にこの話をしたのか」

「日輪の巫女についてお知りになりたいというのは、貴方の意志ではございませんでしたか」

「その方が私にこの話を聞かせる理由がある筈だ。だから羽代に来た、そう言ったのはそちらだった。理由を言え」


 波笠は笑みを深くした。顔を真一文字に裂くようなその笑みは、どこか人外の生き物の気配を思わせた。

 波笠は出雲大社の御師である。出雲大社が奉じるのは大国主命だが、封じているのは確か——八岐大蛇。


「出雲は貴方様のお母上の血の系譜と同じような歴史を辿ってまいりました。むかしむかしに我らの祖先も大和による侵略を受け、長年の戦闘の末、大和による支配を受け入れました。それまで我らが奉じていたのは稲に実りをもたらす水ノ神。天を駆け、雨を降らして田を潤す勇壮な我らの神は、大和の神話の中で醜い大蛇に姿を変えられました。八岐大蛇を封じるのは大和の神。イズモの名と神の形骸は残っても、黒河の日輪の巫女と立場は同じです」


 淡々と語る波笠の声には冷たい熱が増していく。


「朝廷は皇尊が政権を取り戻すことを望んでおりますが、伊勢の目指しているところは異なります。伊勢は仏の教えに奪われた過日の権力を再び手にするため、寺院の勢力をそぎ落とし武家を政権から遠ざけて、自らの信仰の復古を願っております」

「それが伊勢の御師が朝廷に入り込み、日本各地で札を撒いては薩摩を巻き込む騒乱を引き起こしている理由である、ということは、先ほど聞いた話だ。そなたたち出雲の目的は何だ」

 波笠は弘紀の目をまっすぐに見た。

「古に、大和に奪われた我らの信仰の復活です。世の騒乱に乗じて伊勢の教えが国教となってしまえば、失われた我らの神も信仰も、もう二度と戻っては来ないでしょう。伊勢が薩摩と結んで政権を取ることは絶対にあってはなりません」

「……私に妨害へ協力しろ、というのが、其方の云いたいことなのか」

 波笠は目を伏せて深く頭を下げた。


「無念のうちに亡くなられたお母上様への孝行にもなりましょう」


 陽の光は砂浜を真白に光らせて、視界の底が白一面に染められる。

 真白な、真白な、まるで季節を違えた雪原のようなその光景は、誰かが見た夢のような景色だった。


 不意に、砂が蹴られる音がした。

 音のする方を見ると、馬が一頭、弘紀と波風を目掛けて浜辺を駆けてくる。近づくにつれ騎乗しているのが修之輔であることが分かった。遠目に弘紀の姿を認め、慌ててこちらに向かっているのだろう。


 周囲に波の音と風の音、そして海の気配が戻ってきた。


「おや、貴方の忠実な月狼が戻ってまいりましたね。日輪の御子様、彼の者を檻から出した以上は狂狼と変じないよう十分にご注意下さいませ」


 夏の浜辺の真白な日差しの下、松笠は柔和な顔に浅く笑みを刻んで、そう云った。

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