第10話

「秋生は今日、戻ってきたばかりだから、明日私の方から声を掛けるつもりだったのです」


 修之輔がここに連れてこられたのは、弘紀の命令ではなく滝川の独断だったようだ。その理由を考える前に修之輔はもう一度、灯りの当たる向きを変えて弘紀の顔を見た。


「弘紀、顔色が良くないようだ。体調を崩しているのか」

 弘紀は軽く目を見開いて修之輔を見た。

「体調は悪くないのです。……けれどこのところ眠りが浅く、よく眠れていません」

 弘紀の仕事が多忙を極めているのは十分に分かっていた。煩雑なだけでなく、近頃は重い責任を伴う事案が多く、起きていても寝ていても、それらのことが頭を離れないのだという。

「疲れて寝床に入っても、一度それらのことが気になりだすともう眠れず、書物を開いて解答を探し、朝になってしまったことも少なくありません」

 弘紀が瞼を軽く伏せると頬には睫毛の影が落ちた。睫毛の影は修之輔がこれまでに見た覚えのない弘紀の目の下の隈を目立たせた。弘紀はひどく疲れているように見えた。


 他藩では、家老職に就いている者達が政に関わる多くの事案を評議して、最終的な決断のみ藩主が行うことが多い。一方で羽代の家中は分断の気配を常に孕み、家老職だけでの評議は事実上不可能だった。

 その結果、家中だけでなく、領地内全域にわたる事案のほぼすべてが弘紀の指示や裁可を求めて堆積しているのだと、弘紀は形良い唇に珍しく気弱な微笑を浮かべながら云った。


 その弘紀の表情を見ながら、修之輔は強い自責を感じずにはいられなかった。修之輔自身、弘紀の聡明さにたのんで安易に意見や解決を求めていたのは事実だった。いつも正しい答えを、拠るべき道筋を示してくれる弘紀に依存しているのは、修之輔だけでなく羽代の家臣全体に言えることなのかもしれない。


 求心力のある君主と云えば聞こえはいいが、弘紀本人にかかる負担は計り知れない。


 これまで弘紀は気詰まりを感じると自ら修之輔の部屋に遊びに来たり、あるいは私室に呼び出したりして、修之輔を相手に気分転換をしてきた。本人が思っていた以上にそれが弘紀の心理的な負担を和らげていたのだろう。

 なのに修之輔が巡検に出てしまい、気楽な話し相手を失った弘紀は気分転換ができぬままずっと一人で執務に向き合っていた。解けない緊張が安眠を奪い、そしてここ二、三日は気分が塞ぎがちだったのだという。


 滝川はそんな弘紀の様子を察して、帰還したばかりの修之輔を弘紀の部屋に連れてきた。だがそれは、今まで秘密にしていたはずの二人の間柄を滝川が知っていたからこその判断だ。


「滝川は口が堅いから、大丈夫です。そもそも奥のことは表には絶対に出さないことになっていますし」

 弘紀は何でもないことのように言う。修之輔は、正直なところ滝川に何か言われるのではと懸念していたが、ここは弘紀の言葉を信じるよりほかになかった。


「せっかく滝川が気をきかせてくれたのですから、秋生、今回の巡検のことを何か聞かせてください」

 弘紀がそう修之輔にせがんできたが、毎日羽代城へ送った報告書を弘紀は読んでいたはずだ。

「弘紀、寅丸が羽代を離れるかもしれないと山崎から聞いた」

 報告書には書かなかったことを話題に選んで、だがそう言った後でこの話題が適切なものではなかったと気づいた。弘紀の表情が少し硬くなったのを見て取り、修之輔は後悔した。

「山崎から、他には何か聞きましたか」

 弘紀の口調は穏やかでも、隠しごとは無理だと察した。

「……寅丸が、以前弘紀の命を狙っていたと」

 弘紀が軽く息を吐く。

「本当は私から秋生に告げておかなければならないことでした」

「弘紀、なぜ寅丸を処罰しなかったのか」

「……田崎が集めた証拠は状況証拠であり、本人の言質は取れていません。確証のないまま人の心を裁くのは不条理というものです」

 冷静な弘紀の言葉に反論の余地はなかった。

「そうか」

 頷く修之輔に、弘紀は一瞬迷った様子を見せて、それから付け加えるようにこう言った。

「それに、寅丸は秋生の友人ですから」


 自分を気に掛けてくれる弘紀の心遣いを有難いと思ったが、同時に言わなければならないことがあった。

「弘紀、寅丸は確かに俺の友人だが、弘紀を弑そうとした。この二つは全く違う問題だ。寅丸は当主である弘紀に対して決して許されないことを目論んだ。慣例通りに裁かなければ他に示しがつかなくなってしまう」

 弘紀は修之輔を注意深く眺めた後、いったん目を伏せた。

「物事の裁決をする時、私は過去の記録や徳川家の決まり事を参考にしています。けれど文書だけで全てを決めてしまうと、それに関わった人々の心の機微を忘れがちになる」

 修之輔は暇があればすぐに書物を開く弘紀の姿をいつも見ていた。書物に記された記録を知識として蓄えることは、弘紀の仕事に必要不可欠なものだ。


「人の心を無視する、というわけではないのですが、時々自分がひどく冷酷な人間である気がして落ち込むことがあります。朝永に叛心を抱いていた寅丸を、これまで例外として追求して来なかったのは自分が冷たい人間ではないと標榜したい、そんな私自身の弱さかもしれないのです」

 弘紀は冷静に自分自身の心の中を分析した。

「寅丸の件は、これまで放置していたので今さら蒸し返すのもおかしな話でしょう。脱藩するというのなら、それで良しとします。それ以上の追求はしません」

 弘紀がどこか吹っ切れたような表情で目線を上げた。そして、


「寅丸の命までを奪う必要はありません」


 修之輔の目を正面から見ながら弘紀はそう云った。

 さっきまで翳りがあった弘紀の瞳にいつもの勝気な光が戻る。肌に赤みが戻ってくるその様子に修之輔は安堵を覚えた。


「少し、気持ちが楽になりました」

 そんな修之輔の気持ちを代弁するように、弘紀は正座していた足を崩して前に投げ出すように伸ばした。屈託のないその様子こそ弘紀には相応しい。修之輔の部屋で寝っ転がって本を読んでいる姿が、弘紀本来の姿なのである。


「……だけど他に、いくつもいくつも問題があるのです」

 弘紀は大げさにため息を吐く。修之輔は弘紀の素直な本音を受け止めた。

「ならば、一つずつ、できることを一緒に考えていこう」

 その修之輔の言葉を聞た弘紀は、きょとん、と修之輔の顔を見上げてきた。軽く目を見開いたその表情は、二十二歳という年齢よりも弘紀を幼く見せた。


 弘紀は不意に破顔し、いつもの華やかな笑みを満面に浮かべた。

「一緒に、考えてください」

 修之輔は弘紀の復調を嬉しく思いながら、

「政治のことには口を出せない」

 そう弘紀に釘を刺したが、弘紀はほとんど意に介した様子がない。

「ま、そうですね。じゃあ貴方と私とで考えなければならないこと。……私の母のことを一緒に考えてみましょうか」


 弘紀は政とは関係がなくても十分に内容の重い問題を口にした。

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