第9話

 ——寅丸は弘紀暗殺のための刺客だった。


 寅丸の隠された一面を明かされても動じる様子のない修之輔と、一呼吸分、視線を合わせたのちに山崎は表情を弛緩させた。

「やはり察していたか、秋生」

「これまでの様子で因縁があることは何となく。だが寅丸が黒河に来たのが弘紀様暗殺のためだったとは、知らなかった」


 寅丸が羽代の朝永家中と一線を引いている。そのことを修之輔が知ったのは羽代に来てからだった。また田崎が常に寅丸の身辺を見張っていたことは更にその後から知ったことだった。


 その田崎の名を山崎は口にした。

「田崎様もご存じだった、というか、田崎様が寅丸の叛心を明らかにしたのだ。弘紀様も田崎様から聞いて御存じのはずだが、これまで寅丸を咎めようとはされてこなかった」

 御目こぼし頂いていたんだろうな、と山崎は自分自身の言葉に納得している。

「むしろ弘紀様は寅丸に家名回復の機会を与えたのだ。前の参勤の時、西洋武器の調達に寅丸は関わっていた。あの任務を完遂すれば寅丸は我らと共に何らかのお役目を貰えた筈なのだが」


 もともと寅丸には薩摩藩との内通の疑いがかけられていた。弘紀は寅丸が持つその繋がりを逆手に利用し、薩摩藩を介して西洋の武器を買い入れる道筋を手に入れた。

 だが江戸参勤の時に実行されたその計略の過程には、幕府重臣である酒井公の配下を巻き込んだ表に出せない事実が含まれている。寅丸もそれに関わっていた以上、どんな功績を上げてもおおやけの褒賞は不可能だった。


 山崎が知らない裏の事情を飲み込み、修之輔は無難な言葉で山崎に応えた。

「その任務には外田さんを含めて何人かが関わっていた。寅丸だけに家名回復のような大きな褒賞はできないだろう」

 だからといって、と山崎が自分の太鼓腹を叩いた。苛立った時の山崎の癖だ。

「褒賞されなくても謀叛の罪が相殺されたのなら、こそこそせずにそれこそ番方の一兵卒、儂の歩兵隊の一人として馳せ参じるぐらいの気構えを見せるべきだ。こんな状態が続く様なら儂は寅丸の脱藩も已む無しと思う」

 風呂上がりの赤ら顔にさらに血の気を登らせて、山崎は鼻息荒く言い放った。

「あいつのことだ、ここを出てもどこかで上手くやっていくだろう」


 修之輔は山崎の言葉に安易な同意を示すことができなかった。


 脱藩は朝永家との主従の契約を反故にすることでもある。藩によっては主への重大な裏切り行為に等しく、それこそ謀叛と同様の厳罰に処される場合がある。


 弘紀はどう判断するのだろう。


 修之輔が何も言わずにいると、しばらくの沈黙で熱が多少は下がったらしく山崎の声が小さくなった。


「寅丸は苗字を捨てたと云っていた。家を捨て、家名を捨てたのならば既に主従の縛りもない。なのになぜあいつは羽代に居続けるのか」

 生まれ育った羽代で、これから先も生き続けることを疑わない山崎に寅丸の在り方は理解しがたいようだった。


「……自分の感情や都合ではどうにもならず、その土地に縛られることがある」

 生まれ育った国を出て、羽代で生きていくことを決めた修之輔には寅丸の逡巡が分かる気がした。


 山崎は修之輔の顔を眺め、そうか、と短く頷いた。


「……風呂を浴びてくる」

 修之輔がそう言い残して座敷を立つと、背後で山崎が羽代の地図を畳み始めた。

 今夜、既に羽代城への報告の早馬は浅井宿を発っている。神主の件は明日の朝でも構わないだろう。あるいは。


 弘紀に直接言えば良い。


 屯所の窓の外から水滴が落ちる音がした。夜の浅井宿にはいつのまにか静かな雨が降り始めていた。


 修之輔が二度目の巡検を終えて羽代城に帰還すると、暦は六月の十日を既に過ぎていた。帰還したその日は報告書のまとめに時間がかかり、修之輔が三の丸にある自分の長屋に戻ったのは五つ時を過ぎていた。


 解くような荷物もない。ただ羽織を脱いで灯りを付けると、座敷の中にどことなく人の気配があった。弘紀が来ていたのだろう。

 明日、明後日の内には会えるはずだと思いながら休む支度をしていると、長屋の表戸を叩く音がした。開けると小姓が提灯の明かりを灯して立っていた。

「秋生殿、滝川様からのご指示です。これから二の丸御殿の奥までいらしてください」

 滝川とは、弘紀の身の回りの世話をする奥の取締役の名である。表には決して出て来ない滝川から修之輔がこのような呼び出しをされたことはこれまで一度もなかった。

「わかった」

 頷くと、小姓は早足で歩き出す。後ろについて御殿の中奥まで踏み入れると、そこには滝川本人が待ち構えていた。


 十代の年若いものが多い奥勤めの中で、滝川の年齢は六十を過ぎている。滝川は弘紀の父が朝永家当主であった時に小姓として勤めに上がり、今は羽代城の奥を取り仕切る立場になった。朝永家に長く仕える家臣で信頼が篤い。


「お呼びに応じて参上いたしました」

 平伏する修之輔を前に、滝川は、

「これから弘紀様の御話し相手になれ。部屋に案内する」

 そう云って立ち上がった。後についていくとすぐに廊下の先、見慣れた調度が見えてきた。いつもは隠し通路を使っているので、弘紀の私室に表から来たのは数えるほどしかない。


「弘紀様、御話し相手を連れてまいりました。中へお通しください」

 花鳥の装飾が美しい襖の向こうから、微かな衣擦れの後、訝し気な弘紀の声が聞こえた。

「頼んでないが。今夜は少しやることが……」

 弘紀がすべてを云い終える前、滝川が素早く開けた襖の隙間に修之輔は強引に押し込まれた。


 隅に立てられた几帳。書棚に床に積まれた書籍。文机の上には天気管。見慣れた弘紀の部屋の中。修之輔の背後で襖が閉められた。


 目の前の弘紀と無言で顔を見合わせて。


「……滝川には、ここで貴方と会っていたことがバレていましたね」

 弘紀は苦笑を浮かべて、けれどどこか嬉しそうにそう云った。

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