第6話

 浅井宿での人殺しの知らせが羽代城に届けられたのは翌早朝のことだった。直ぐに家老職にある者が招集され、藩主御前での会議になった。


 浪士は投宿していた宿の手代を斬り殺したその部屋で、朝まで寝ていたという。姿の見えない手代を訝しみながら朝の声掛けに部屋を巡っていた女中は、座敷から廊下にひたひたとしみる血の海に悲鳴を上げた。

「朝か」

 浪士はその悲鳴で目を覚まし、腰を抜かして廊下にへたり込む女中に自ら己が手代を殺したことを告げた。

 呼ばれた浅井宿番所の役人に、浪人は抵抗することなく捕縛された。


 問題になったのは捕縛されたその浪士の身元である。

 宿から番所に届けられていた宿帳の写しから、浪士は水戸藩士であることが分かった。浪士の身柄は羽代の番方が使っている浅井宿内の屯所に預けられた。


「よりによって水戸の浪士だとは」

 筆頭家老の加納は苦い顔を隠そうとしなかった。現行、羽代では他藩の武士を処罰する権限を持たない。これは羽代だけでなく他の多くの藩でも同様だった。武士が他藩の領地内で問題を起こせば、取り調べの後の身柄は武士の籍がある藩に引き渡される。そしてその藩の慣例に従って処罰が決められる、という仕組みになっていた。


 羽代城二の丸御殿の表座敷に参集した数人の家老は、皆、加納と同じような表情だった。ただ一人、西川だけは特に変わったことのない平静の顔をしている。

 弘紀は一人一人の様子を注意深く観察しながら、状況を説明した。

「既に江戸表には早馬を出した。上屋敷から水戸藩邸に事の次第を伝え、科人の処分を願うことになる。早くても十日ほどはかかるだろう」

 加納が一度頭を下げてから発言した。

「その間の監視は奉行所の者達に任せて宜しいでしょうか」

 弘紀がその加納の言葉に反応する前に、西川が加納に意見した。

「加納殿、奉行所ではなく、番方に任せるのが筋ではないだろうか。浪士とはいえ水戸公のお抱えになっている武士、文官に一任するのは少々物足りない」

 加納はまたか、というように西川を一瞥した。

「物足りないとはいえ浪士一人のみ。西川殿の云うように番方の一部隊を差し向けるわけにはいかない。番方には別の任務がある」

「聞けば彼の浪士は下士というわけでなく、相応に身分がある者のようだ。あまり身分の低い者を付ければ無礼になり、水戸公に申し訳が立たない」

 西川の言い分は水戸への配慮に傾き過ぎている。生前幕閣にあって強固な攘夷派であり、今の将軍慶喜公の尊父であった斉昭公への心酔があるのだろう。


 だが、加納にしろ西川にしろ、咎人である浪士の水戸藩士という身分に捉われ、領民が殺されたという事実を軽んじている。 

 弘紀は加納と西川の両方に苛立たしさを覚えながら、伏せ気味だった目線を上げた。

 居並ぶ者達が弘紀の仕草を見て取って平伏する。

「西川の云うように番方を差し向けよう。ただしその理由は奉行所の裁量の外にある事案だからだ。羽代の領民を弑した罪人に配慮は要らない。羽代は殺人の罪を厳しく咎めることを彼の者に自覚させるように」

 弘紀の指示は加納と西川のどちらの肩を持つというものではなかった。

 弘紀に連なる朝永家は、代々羽代を統治するにあたって明文化された決まり事を制定してこなかった。これは慣例として羽代領内の裁決には領主の意志そのものが適用されることを意味する。

 慣例は家中に浸透しているため弘紀の決定に異を唱える者はいない。その日のうちに番方から山崎が牽きいる小隊が浅井宿に派遣されることになった。 


 江戸表から水戸藩の役人が件の浪士の身元を引き取りに行くという返事の早馬が届いたのは、十日を過ぎて十五日ほど経ってからだった。しばらく放置されていた感は否めないが、先の三月末、江戸では立て続けに二度大火が生じたことを考えれば仕方がないことではあった。

 浪士の引き渡しは浅井宿場内の羽代軍屯所で行われ、浪士の手を縛る縄は淡々と水戸の役人に渡された。

 浪士の手を縛る荒縄を牽いた水戸の役人たちが、浅井宿を経って羽代藩の外に出るまで、羽代軍の歩兵を指揮する山崎が部下数名と共に同行した。


 だが、羽代領を出て山崎たちが後を見送るその目前で、水戸の役人は浪士を縛る縄を解いた。


「羽代への侮辱だ」

 山崎からの報告を受けた加納ら羽代の家臣たちは憤った。

「殺されたのは羽代の領民だ。なのに水戸は、罪に問わない、と、そんなあからさまにする必要は無いだろう」

 流石に眉を寄せる西川は、それでも自論を崩さない。

「攘夷の意志を示さない羽代への牽制ではないのか。水戸公を始め幕閣の中にも開国を是としない方がおられる」

 その西川に反論する者があったが、それは加納ではない家臣だった。

「島津公はこのところ攘夷よりも開国を標榜している。徳川氏を支持することと開国を推し進めることはすでに一様というわけにはいかなくなっている」

「羽代は徳川様か島津公か、どちらにつくべきか」


 弘紀は揺らぐ家臣たちを前にして、いつもより強めに声を発した。

「攘夷か開国かが今、問題なのではない。領民を殺され、その下手人を無罪で解放した水戸の態度こそ責めるべきところだ」

 座はいったん静まった。弘紀は声を低めて自分の意志を、羽代の意志を、表明した。

「水戸公へはこの度のこと、羽代が非常に遺憾に思っていることを伝え、そして罪に相当する罰を科すように強く求める」


 弘紀は自分の決定が理に適ってはいるが、同時に、誰からも諸手の賛同を得られないものであることを分かっていた。

 羽代の家臣たちはもはや自分たちの意見がどうであるというより、どちらの勢力に付いた方が有利なのかで物事を判断し始めている。


 弘紀は誰にも気づかれぬように袖の中で手を強く握りしめた。皮膚に食い込んだ爪の跡が両の手の平に赤く刻まれた。

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