第4話

 修之輔の住居の座敷には穏やかな春の昼下がりの陽が差し込んでいる。

 弘紀が明るい日の下に開いた手紙は一字一字がくっきりと綴られていた。その特徴的な筆跡には修之輔も見覚えがある。弘紀が黒河藩に滞在していた時の友人、澤井礼次郎のものだ。弘紀と礼次郎はいつも連れ立って修之輔の剣の稽古を受けに来ていた。修之輔は今よりもまだ子供らしい表情が残っていた当時の弘紀の容貌を思い出して、懐かしさを覚えた。


「礼次郎からの手紙には、あまり大したことは書いていなかったのです」

 今、二十二歳の弘紀の顔にその頃の幼さはない。くっきりと伸びる眉の下、黒曜の瞳は闊達さと思慮深さの両方を兼ね備えて光を湛える。けれど形良い口から零れる言葉の中に滲む親しさは、その頃から変わらない。


 修之輔が当時の弘紀の姿を思い出して向けた眼差しに、弘紀が少し首を傾げた。気づかれても構わない。

「どんなことを礼次郎は書いてきたのか」

 修之輔が弘紀に促すと、弘紀は目線を手紙に落として内容を教えてくれた。

「礼次郎自身、月狼は昔話の一つとして聞いた憶えしかないそうです」


 —— 黒河の統治者を補佐する日輪の巫女は、狼を使役する。


 その昔、人々に災いをもたらす狂狼を日輪の巫女が退治した。その後、狂狼は月狼の名を与えられて巫女の命令に従うようになったが、狼を操ることができるのは巫女だけだった。狼は巫女に呼ばれない間は牢に封印される。巫女がいなくなれば狼は牢を破って狂狼に戻り、その地に災いをもたらす。


 それは以前、田崎から聞いた黒河の伝承とほぼ変わらない内容だった。

「礼次郎は、佐宮司神社の奥宮が狼を閉じ込めていたという牢だったのではないか、と付け加えています」

「あの社が、か」

「はい」

 あまり納得がいかない、という修之輔と弘紀の感想はほぼ似たようなものだった。


 ある夏の数日を、二人は共にその奥宮で過ごしたことがあった。緑深く清涼な清水に囲まれた奥宮にそんな謂れがあることはその時もまったく知らなかったし、気づきもしなかった。


「あの後、礼次郎は奥宮に足を踏み入れたことを家の者から咎められたそうです。そう思ってみると、礼次郎はそれまであの奥宮に行ったことは無いと言っていましたし、理由を知らなくても黒河の者達は避けていた場所だったのかもしれませんね」

 無意識のうちに刷り込まれている決まりごとが、黒河に住む者を支配している。その考えは、奥宮の実体とは異なって、違和感なく受け入れることができるものだった。


 弘紀の目が暗黙の問いを修之輔に投げかける。


 —— 貴方は、どうだったのですか


 口には出さない弘紀の問いに、口には出さず心の内で修之輔は応える。


 ——まったく聞いた憶えがない。


 互いに無言のままのやり取りは、それでも互いに疎通する。一呼吸置いて弘紀は手紙に視線を戻した。

「そもそも武家たるもの、農民達が信じる怪力乱神はもちろんのこと、根拠のない妄言に惑わされてはならないと黒河の伯父上は厳しく言い渡していました。言い伝えを知らない者がいてもおかしくはないでしょう」

 弘紀の云う黒河の伯父上とは、黒河藩主である岩尾氏のことである。弘紀の母の環姫は岩尾氏の腹違いの妹にあたる。


「黒河で定められている決まりごとや人間関係の厳しさに、私も最初のうちは戸惑ったのです」

 手紙を持つ手を下した弘紀が云う。

「そうだったのか。弘紀はすぐに周囲に馴染んだように思っていたが」

 弘紀は首を横に振った。

「今でもこうして手紙のやり取りをしているのは礼次郎だけです」

 もっとも私の立場がこうですから、と弘紀は軽く笑んだ。その表情が少し寂しそうに見えたのは、春の陽が作る淡い影のせいかもしれなかった。


「礼次郎は佐宮司神社の神主殿にも聞きに行ったそうです」

「あの神主殿か」

「はい」

 弘紀の口調には面白がっている心が覗く。

 弘紀とも面識がある当の神主は、食えない初老の人物だった。佐宮司神社は黒河の地に昔からある神社で、早くに身寄りを無くした修之輔はしばらくそこで世話になっていた。修之輔が免状を持つ剣術も佐宮司神社に伝わるものに由来する。

 先日、弘紀の笛に誘われて披露した刀剣の演武は修之輔自身が佐宮司神社に奉納したこともあった。だが弘紀のあの笛の演奏は、あの時初めて聞いた旋律だった。


 修之輔がそこまで考えたとき、

「やっぱり神主殿はまともに応えてくれなかったようです」

 手紙の続きを読む弘紀の声に思考が引き戻された。

「神主殿なら黒河の昔話を知っているだろうと礼次郎は聞いてみたのですが、一言、知らん、と」


「知らん」

 にべもなく神主は即答したという。

「そんなはずはないでしょう」

 礼次郎は気にせず追求したという。

「忘れたな、そんな昔のこと」

 神主は長い白髭を捩じりながら礼次郎から視線を外した。

「でも神主殿は去年食べた饅頭の数と種類は覚えているんですよね」

「儂が自分で食ったものだからな。昔話など食えもしないし腹にもたまらん。いちいち憶えておられんわ、儂も年だからな」

 これから神事があるから、と礼次郎はそこで神社から追い出された。

 答える気は全くない。神主の意思表示は明らかだったという。


「……そういえば、あの神主殿は田崎と親しかったようです。田崎の変調を知らせておいた方がよいでしょう」

 その弘紀の言葉に、修之輔は神主が口にしたいくつかの言葉を思い出した。


 ——我が神社に伝わる古書は全て焼いた。焼いたその火で芋を焼き、田崎も一緒に焼き芋を食べたぞ


「弘紀、田崎様のことは確かに神主殿に知らせた方がよいと思う。それとは別にくろさぎのことはどう考えたらよいのだろう」

 参勤交代の時に江戸で接触したくろさぎという人物は、田崎や佐宮司神社の神主とも知己の仲だと云っていた。くろさぎはある神社の御師だと名乗ったが、その神社は存在しないことが分かっていた。


 ——いにしえの邪教は全て忘れ去り、己の足で歩くことを始めよ


 江戸の路上に投げられた炭のかたまり。散らばる焦げた紙片を地に伏して必死に掻き集めるくろさぎに向けて弘紀が代弁したのは、佐宮司神社の神主によるくろさぎを断罪する言葉だった。


 弘紀が目を伏せた。

「あの後、遅れて江戸を発った加ヶ里から知らせが届きました。江戸の海にくろさぎの死体が浮かんだ、と。刺し傷があったため殺されたことは確かですが、下手人も、殺された場所も分からなかったそうです」


 身元不明の宗教者については厳しく取り締まるよう幕府は江戸府内にも諸公へも言い渡している。一揆や強訴を主導する者が宗教者や宗教者に扮した思想家であることが珍しくないためだ。くろさぎが何らかの政治活動をしていると思われて血気に逸る江戸見廻り組や、薩摩や長州の浪士に斬られたとしてもおかしくはない。


「月狼について、いま私たちが調べることができるのはここまででしょう」

 弘紀が礼次郎からの手紙を畳む。

「けれど」

 畳んだ手紙を懐に戻す前、弘紀は座敷の外に目を向けた。柔らかに青い春の空と温かな日差しに弘紀が目を細める。

「日輪の巫女と呼ばれた私の母について、今度は調べてみようと思うのです」

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