第3話

 ——瓦版を一枚、いかがでございましょう


 その声は修之輔だけに届く声だったのか。修之輔の緊張に加納が気づいた。

「秋生、どうした」

「……いえ」

 応えようとしたが、どのような言葉にすればよいのかわからなかった。


 月の光も届かない深夜の品川の町角で、日本橋の料亭百川の脇を流れる運河の側で。


 気づかなかっただけで他に何度もあったかもしれない江戸での波笠との接触は、実のところ単なる擦れ違いでしかなかった。


 無言になる修之輔に、波笠は一度深く拝礼した。

「ご無礼がございましたら何卒お許しくださいませ。布教の手掛かりに当世、江戸の流行りもの、瓦版に錦絵に、いくつか持ち歩いております。もしよろしければご覧に入れましょう」

 波笠は後ろに置いていた風呂敷包みを引き寄せて結びを解いた。中には口上の通りに刷り物がいくつも重ねられている。

「見せてみろ」

 加納の言葉に好奇心は無い。単調な取り調べの冷徹さで波笠が差し出した紙の束を捲り始めた。

 役者絵、美人画、風景画。子供のためのおもちゃ絵、はんじ絵、鯰絵なまずえに、色とりどりの色彩が畳の上に溢れていく。

 画だけでなく、書物も何冊かあった。修之輔が手に取った一冊は、表紙を捲れば岩絵の具の色彩も豊かな多種多様の薬草の図譜だった。


「これを民に配っているのか」

 一通りの検分を終えた加納が律儀に紙の束を整えながら波笠に訊く。

「配っていてはすぐに無くなってしまいましょう。見物の人寄せには使いますが、すべてを配るわけにはまいりませぬ。あるいは、絵心のある者はこれを写していくこともございます」

「そなた出雲の御師といったな。この中に布教に使う物が見当たらない」

「札は江戸の檀家だんかにすべて配り終えました。もともと出雲から江戸に向かう道筋で檀家を巡り、江戸で新たな檀家を得、金銭尽きれば出雲に戻る算段です」

「ならばなぜ羽代に留まる」

 加納は容赦なく波笠を追及し、八幡宮司は心配そうに加納と波笠を交互に見た。だがとうの波笠は臆した様子は全く見せずに加納に応える。

「ここは東海道のど真ん中、各地に散った馴染みの御師達がここで合流いたします。けれどこの地の宿場町である浅井の宿が物騒だと聞き及び、ならば新たな檀家を探しつつ羽代の城下に留まるのがいちばんかと存じまして、こちらの八幡権現宮司様の厄介になっております」

 どこか言い訳じみた説明だが、浅井宿の治安の悪さを理由に出されれば羽代側としてはそれ以上何も言えない。訊問に淡々と応ずる波笠というこの御師の処遇を、加納はまずは様子見と判断したようだった。

「ならば毎日の出所帰還を欠かさずに宮司に伝え、宮司は記録を番所へ提出せよ」


 深々と頭を下げる宮司と波笠に見送られ、修之輔と加納はひるの鐘と共に八幡宮を出た。

「秋生、何かあの者に気になるところがあったのか」

「江戸で見かけた覚えがありました。気のせいかもしれませんが」

 修之輔が応えられるのはこの程度だった。

「気になるか」

 気になるというならば、竜景寺に滞在している古老というあの伊勢の御師も同じだった。

「目を離さない方がいいということだな」

 慎重に言葉を選ぶ修之輔の様子に、加納は何かを察したようだった。


 羽代城に戻ると午過ぎの仕事が始まろうとしているところだった。

 二の丸御殿の家老詰め部屋に向かうという加納とは城の大手門をくぐって別れ、修之輔は住居である三の丸の片隅の長屋に向かった。

 三の丸は敷地の半分が整地された空き地で、調練を行う場所となっている。春の湿り気を含んだ風は冬の木枯らしのような土埃つちぼこりは上げず、辺りに微か漂うのは沈丁花じんちょうげの香りだった。

 確か二の丸御殿の庭園に沈丁花の木があったはず。

 修之輔がかつて手入れをしたことがある庭園の植栽を思い出しながら部屋の戸を開けると、部屋の中には弘紀がいた。

「おかえりなさい」

 華やかな笑顔を向けてくる弘紀が身に着けているお仕着せの着物は、今、修之輔が身に着けている着物と同じものだった。同じもののはずなのに弘紀が着ると自分より上等なものに見えるのはなぜだろう。修之輔はそんなことを思いながら羽織を脱ぎ、

「今日の仕事は終わったのか」

 と、弘紀に尋ねた。

午前ひるまえに一つ終わらせたので、十分休んでから次の仕事にかかるとおもてに伝えてあります」

「そうか」

 修之輔がかめの水で手を洗い、足を拭うその間に、弘紀は読んでいた本を片づけて書見台を部屋の隅に寄せた。艶やかな漆の塗られたその書見台は修之輔の部屋にあったものではなく、弘紀が持ち込んだものである。

 書見台の他にも、気づけば文箱や紙など弘紀は自分の物を修之輔の部屋に持ち込んでいた。修之輔の部屋を隠れ家代わりと思っているのは間違いない。

 火鉢の炭をおこして土瓶どびんを火に掛け、修之輔は弘紀の前に座った。

「八幡宮のことを聞きたいのか」

 弘紀は軽く頷いた。

「加納からの報告が今日中にある予定ですが、何か私が貴方から直接聞いておいた方がいいことはありましたか」

 まっすぐに見上げてくる弘紀の黒曜の瞳と視線を合わせると、そのつもりは元からなくても、隠し事は出来ないと思う。

 修之輔は波笠との面会の内容を簡単に弘紀に伝えた。弘紀は少しの間目を伏せて、けれど直ぐにまた修之輔の目を見返した。

「では現在、古老という伊勢の御師が竜景寺に、波笠という出雲の御師が八幡宮にいるのですね」

「ああ。しかも両者ともに先の江戸参勤の時、羽代に何らかの接触をしているようだ」

 その接触の目的は分からなかった。参勤のあの時は、もっとあからさまに弘紀との接触を求めてきたという者がいた。もしかしたら彼の者ならば何か知っていたのかもしれない。

「月狼といわれても俺には何も思い当たらない。それが意味を持つ名だと教唆した田崎様は、もう人の言葉を解することができなくなっている」

 困惑しか覚えない相手にどう対応すべきか、今度は修之輔が弘紀に尋ねたくて、その言葉を口にする前、弘紀が懐から一通の手紙を取り出した。


「黒河藩の礼次郎からの手紙です。先日、月狼について尋ねた手紙の返事が届きました」

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