第2話
巡検に出た時の軍装ではなく、黒羽織に馬乗り袴の平服である。ただし馬廻り組の紋を鞍飾りに付けた軍馬が列の後方で牽かれている。額に白い星のある明るい栗毛のこの馬は、修之輔が使っている
三月半ばとはいえ肌に触れる風の温度はまだ冬の冷たさが抜け切らない。それでも日差しの柔らかさは早緑の芽吹きを促す春の陽のものである。
急いだつもりもないが、黙々と歩いているうちに事前に通達していた時間より四半刻ほど早く矢根八幡宮に着いた。
「大変申し訳ございません、
修之輔たちが宮司の住居に設けられた座敷に通されてすぐ、取次の小者が体を縮めて詫びてきた。
「時間通りで良い。それまで少々我らは内々の話がある。この座敷を借りる」
加納はこともなげにそう云って辺りから人を下げさせた。座敷には修之輔と加納の二人が残された。
「秋生は正月に竜景寺に行ったが、そのことについて西川殿から何か言われたか」
特に前置きなどないまま加納が修之輔に問うてきた。修之輔は、
「何も言われておりません」
そう応えながら、加納がこの話題の時間を取るために自分を八幡宮に同行させたことを察した。
「そうか。最近、西川殿は番方の下士によく話しかけるそうだ。屋敷に呼ばれて供応を受けた者もいると聞く。下の者に目を掛けるのは良いが、西川殿は攘夷の考えに傾きがちなところがある。秋生の周囲に西川殿に唆されて攘夷の思想を標榜する者はいないか」
「いません」
思い当たる節は皆無だったので即答してしまったが、筆頭家老である加納への礼を欠いたのではないか。修之輔は改めて自分の返答への説明を加えた。
「番方の下士を束ねる山崎殿とは親しくさせてもらっています。が、山崎殿は先の参勤に同行した折りに品川沖に居並ぶ黒船を見て攘夷は無理だ、と実感したと云っておりました」
二年前、山崎が江戸の朝永家中屋敷に居並ぶ下士の同胞を前にして、どれだけ黒船が凄いのか、大砲の性能や小銃の豊富さなどを興奮して話して聞かせていた様子を思い出した。
「山崎殿の他にも参勤に行った者、江戸勤番から羽代に引き上げてきた者達は、最早攘夷が実行不可能な理想に過ぎないことを理解しています。彼の者達は日頃の指示は西川様から受けていますが、だからといって攘夷に傾くようなことは無いかと存じます」
「うん」
簡単な相槌だったが、加納の表情には確信があった。その表情に修之輔の警戒心が喚起される。
これは藩主直轄の馬廻り組頭である修之輔が、深入りしてはいけない問題だった。
修之輔が安易に加納に組しても、あるいは西川を庇っても、中立が崩れる。けれど加納は修之輔のそんな張り詰めた神経に気づかないまま、話を続けた。
「西川殿は竜景寺に縁がある。正月に秋生が竜景寺に出向いたことを、自分への牽制と取ったようだ」
修之輔は加納のその言葉への反応を控えた。修之輔は隣藩、黒河の出自であり、四年前にこの地に来たばかりである。知らないことについて、自分の意見は無い。
「秋生もある程度は聞いていると思うが、そなたが羽代に来る前から弘紀様の周囲に不穏な動きがあった。今は亡き英仁様を竜景寺は庇って後ろ盾になっていたのだ」
その軋轢の結末は知っている。弘紀は竜景寺が集めた無頼の衆に命を狙われ、修之輔が首謀者であった英仁を斬り殺した。
過日の血生臭ささが鼻腔に蘇る前に、加納の話は思ってもみない方向へとすすむ。
「その竜景寺に古くから使える武士の一族があったのだ」
座敷の入り口の襖は半ば開けられ、庭の様子がその隙間から見て取れる。内密の話ではなく、羽代に元からいる家臣たちは知っていることなので隠す必要がないのだろう。
「その一族は、中世の戦乱にあって竜景寺を守るために雇われた。槍をよく使い、その後棒術にも武芸の幅を広げた。徳川家の御代になり、朝永様が羽代の守護に就かれてから彼の一族は朝永の家中に加わったものの竜景寺との縁は切れなかった。むしろ朝永様と竜景寺との間を取り持っていた」
「だが田崎殿は、その一族を滅ぼした」
加納はそこでしばし言葉を切った。修之輔にとって初めて聞く話だが、どこに向かう話なのか先が読めない。
「以前、秋生に城下の剣道場に案内してもらったことがあったな」
庭に目を移したまま加納が云う。
「あの剣道場の主、寅丸はその一族の生き残りだ」
鶯の鳴き声は谷渡りに変わり、境内中に響き渡る。
「お待たせしており大変ご無礼いたしました」
その時、座敷の入り口から声がかけられた。それは外出から戻ってきたばかりの八幡宮の宮司だった。
「町から葬式の依頼が急に参りまして、執り行う今日の宵までの準備を指示しておりました」
宮司が入り口正面に拝礼し直して遅れた理由を説明する。最近は神社でも葬式を執り行うようになっているというが、寺でも神社でも、人の生死に決まった刻限はない。仕方のないことだろう。
「構わぬ。こちらとて急を要することではない」
感情のない平坦な加納の声に不興を買っていないことを察して、宮司の肩からは見て分かるほど力が抜けた。
「さて、どのようなご用向きでございましょう」
「最近、ここに出雲の御師が逗留していると聞いた」
「ああ、あの者ですか。すでに町方に届け出は出しております。何か問題が」
「身の上は問題ない。羽代に入ってから彼の者は何をしているのか」
宮司は日に焼けた人の良い顔に柔和な笑みを浮かべた。
「大国主命の功徳を説いておられます。中でも稲虫除けの御札は特に農民に有難がられております。この八幡宮はもとより海神を祀っていたこともあり、海の幸、海の禍ともに祀れども、人が産み出す作物や、それがもたらす個々の財産には疎いところがございました」
「ならば八幡宮に欠けたところをその御師の教えは満たすのか」
「はい。それだけでなく、彼の御師はとりわけ物腰が柔らかく、声が良いとの評判です。江戸に毎年通っているため当世の流行りにも詳しくて、錦絵や瓦版、黄表紙の類を見せては人を集めております。また出雲は昔から文化教養に優れた土地柄で、商家で催される歌詠みの会などにもよばれていると話しておりました」
そこで、宮司様、と座敷表から呼ぶ声が聞こえた。宮司は大きく頷いた。
「ちょうど彼の者、町から戻ってきたようです。よろしければお会いになって見てくださいませ」
加納が頷き、さっそく出雲の御師が呼び出された。三十二、三歳の壮年で伊賀袴に筒袖という出で立ちは御師というよりも文人の趣である。目鼻立ちは整っているのだが、一度目を離すと輪郭が朧になり容貌を思い出すことが難しくなる。整っているからこそ目立った特徴がなく、捉えどころのない顔貌だった。
「出雲大社の御師、波笠と申します」
人の耳に忍び入る柔らかな声音。座敷に入るまでの隙のない立ち居振る舞い。
この人物を、知っている。
修之輔は思わず視線を畳の上に置かれた自分の太刀に走らせた。
波笠は修之輔の様子を見て軽く笑み、一言、詠うように呟いた。
「瓦版を一枚、いかがでございましょう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます