第3章 白南風の煽揺

第1話

 三月になっても羽代の領地内は小さな騒ぎが続いた。それは羽代に限ったことではなく、日本の各地至る所で同じ状況だった。この年の春を心穏やかに過ごせた者は、いったいどれほどいただろうか。


 羽代城には二日とおかずに江戸表からの知らせがもたらされた。その知らせには江戸城からのお達しの他、江戸勤番の者達が独自に収集している江戸の情勢や他藩の動向もあり、状況は目まぐるしく変化し続けていた。

 また大阪で茶葉を売りさばく役目の者からも頻繁に上方の情勢の報告があり、幕府と朝廷の間に張り詰めた緊張があることは明白だった。


「ただ、朝廷と幕府の間には合議が成り立つことはほぼ確実かと存じます」

 羽代城二の丸御殿の表座敷で、弘紀の左側に座る加納が発言した。部屋には他に、番方を統括する西川や、内務を担う他の家老数名が集められていた。

「ならば公武合体が実現するということか」

 西川が加納に問いかけた。

「左様かと。そうなればひとまず安心はできるだろう」

「加納殿、それはあまり喜ぶべきことではないのでは」

 西川の口調は疑問よりも非難の意が強い。西川はこのところ、加納への反発を隠さないようになっていた。

「西川殿、公武合体が実現すれば、都の天子様と江戸の将軍様とが協力し、この国を立て直すことができるのだ。否定すべきことではない」

「そうはいっても今のところ将軍様が公武合体の後に他の武家をどのように扱うのか、まったく見えてこない。位階の剥奪や領地替えの強要も在り得るのだぞ」


 西川の言い分と加納の反論の論点がずれ始めている。


 弘紀は注意深く両者の応酬に割って入る機会をうかがった。加納は概ね弘紀の意志を理解して藩政を補佐している。なので加納の反論は弘紀の見解でもあるのだが、西川の言い分も否定できない状況があることを弘紀は把握している。

 西川が自らの論題に持っていこうとする流れに加納が反発した。

「あったとしてもそれは西川殿の身の上に起きることではない。島津公や毛利公など、将軍様への礼を欠いたお方々なれば戦々恐々としておられようが、朝永の家中は徳川家譜代、位階も領地も将軍家から拝領しているものなれば、それに執着するのはご恩を私物化していることになる」

「将軍家の横暴を甘んじて受けよと申すのか」

「そういうことでは」


 弘紀は、とん、と、手にしていた扇子で畳表を軽く叩いた。

「加納、そこまでだ。この場はそなたたちの意見を交わす場ではない。西川も将軍家へのあからさまな批判は控えろ」

 弘紀に名を呼ばれた二人は平伏し、議論の行方を怖々見守っていた他の家老たちの緊張が緩んだ。

「朝廷と将軍家が手を結び、新たに天子様を頂点に据えた政権を徳川宗家が作られるというのなら我ら武家はそれに従うのみだ。ただ、島津公の懸念である海外との貿易を将軍家が独占することについては、私も少々疑問に思うところがある」

 弘紀は居並ぶ者達を見回しながら話し続けた。

「尊王攘夷であるとか、佐幕開国であるとか、そんな言葉の対立で片づけられるほど単純な状況ではない。割り切った単純な言葉で民を扇動し、羽代領地内を荒立たせる者達への対応こそ、我らが解決しなければならない目前の問題だ」

 加納がちらりと横目で西川を見る。弘紀は内心で溜息をつきながら、言葉を続けた。

「羽代の周囲の諸公とも、おおよそ朝廷と将軍の間でなんらかの決着がつくまでは敢えて事を荒立てるようなことはしないことを内々に決め合った。朝廷と将軍家の合議がどのような結果になろうと、我らが為すべきことは領地を平穏に治めることだ。それを忘れないように」


 周囲の雰囲気から、今日の話し合いはここでやめた方が良いと弘紀は判断した。

「加納、江戸表からの報告はこれで終わりだな」

 加納は少し逡巡し、「はい」と応えて平伏した。

「ならばまた明日に。今日はここまでにしよう」


 家老たちが退席していき、最後に加納が残った。

「何か」

「恐れながら他の皆様方の前でお伝えするようなことではないのですが」

 そう云って加納が伝えてきたのは、羽代の城下町に御師が来ている、ということだった。

「御師など珍しくないだろう」

「それが矢根八幡宮に寄宿して、薬や稲虫除けの札をあたりに配っているとのことです」

「届け出は出されているのだろう。どこの御師だ」

「はい。出雲大社の御師だということです」

「随分遠方から来たものだな。なぜその者が八幡宮に」

「布教しに行った江戸から出雲に戻るところだそうです。八幡宮も出雲大社もどちらも海神を祀るということで、八幡宮の神主が羽代でも講を開くなら境内の地蔵堂を使えば良いと許可したと」


 竜景寺に許可なく立てられた稲荷権現社のことが弘紀の頭に浮かんだ。だが、同時に思い浮かべたのは八幡宮神主の野心とは無縁に長閑な顔だった。


「今のところ攘夷などといった言説を説くことなく、ただ真面目に民の生業の何たるかを説いているようでございます」

 八幡宮は寺子屋を開き、農民や商人の子弟への教育にも熱心だ。だがそこに付け込まれる可能性も否定できない。だからこそ加納も弘紀に報告してきたのだろう。

「分かった。しばらく様子をみることにしよう。誰か一度、八幡宮に行かせた方が良いと思うが、適任の者に心当たりは」

 加納が軽く目を伏せ、頷いた。

「自分が直接出向こうと考えております。その際には、どうぞ弘紀様の馬廻り組をお貸しください」

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