第10話
深夜の羽代城二の丸御殿の奥、弘紀の私室には棚にも床にも書物が積まれている。
弘紀はそのうちの一冊を螺鈿の飾りが施された瀟洒な文机に広げ、けれどそれには目を落とさずに手元に置いたものを眺めていた。
す、と灯明の火が揺らいで冷たい風が一筋流れる。
隠し扉を静かに開けて、修之輔が部屋の中に入ってきた。
今日の夕方、馬廻り組が城に帰還したとの知らせを受けて、弘紀は自分の部屋に来るようにと修之輔に伝えていた。
弘紀は軽く笑み、側に来るよう修之輔に促した。修之輔は文机に向かう弘紀の斜め後ろに座り、弘紀の手元、灯りの中にある物に視線を向けた。金属でできた小ぶりの置物。長さや太さは細竹の一節と云ってちょうどいい。
けれどその金属の色合いや形の風合いから、それは舶来物のようだった。
「嵐を予見するための天気管という道具だそうです。イギリスの船にはこれが備えられている、と」
修之輔の視線の先を察した弘紀がそう言って、文机の上から天気管を持ち上げた。
金属でできた筒の中にはガラスの筒が組み込まれている。中には液体が入れられているらしく、ゆらゆらと揺れる影が灯りを映した。
弘紀が修之輔の自分の間の畳の上に天気管をとん、と置くと、軽いその衝撃でガラスの中に雪片のような白い欠片が舞い散った。
「樟脳の結晶です」
ふわふわと小さな綿のような樟脳のかたまりが、液体の中を舞い落ちていく。
「結晶がどのような形になるのか、それによって、明日、嵐が来るか来ないかを知ることができるのです。未来の天気を知りたいという欲求は、古今東西、国が違っても変わらないものですね」
この天気管は江戸屋敷にいる弘紀の兄が最近送ってきた物だった。何度見ても見飽きることのない結晶の様子を眺めていると、修之輔が懐から小さな箱を取り出した。
「何ですか、それは」
「木村から預かった樟脳だ。報告書に添えて加納様に提出する予定だが、その前に弘紀に見せようと思って持ってきた」
弘紀が手を差し出すと、小さな箱が手の平にそっと置かれた。
「須貝の樟脳ですか」
蓋を開けると和紙に包まれてはいても独特の香りが辺りに広がる。
「俺には出来の良さは分からないが、木村は良い物ができたと言っていた」
「純度も申し分なさそうですが、これだとかなりの楠が必要だったのではないでしょうか」
弘紀のその言葉を受けて、修之輔は木村から聞いていたことを弘紀に話した。
「やはり茶の木のようにはいかなさそうですね。もっと長い目で育てなければいけない産業なのでしょう」
「藩が樟脳を作り始めたと聞いた農民が、楠を求めて山に入っているようだ。そして木村のところに売りに来るらしい。田畑を耕している農民が、なぜ本来の仕事以外のことに手を出しているのだろうかと疑問に思った」
弘紀は少し考えてから、修之輔の問いに答えた。
「農民の間に格差が広がってきているのです。その格差を埋めるために、農業以外のこともやらざるを得ないのでしょう」
「格差、とは」
「主に金銭を持つか持たないかの格差です」
本来なら課せられた年貢を納めるのが農民の生業だが、耕作の技術が発達した今、米以外の作物を農民は育てている。育てた作物は商人に買い取られ、他の土地に運ばれ売られている。商人に作物を打ったその金銭をうまくやりくりし、農民の中には次第に大きな商いをするものも現れてきた。
「うまく成功できなかった農民の中には成功した者を羨むだけでなく、己の不満を向ける傾向があるのです。近頃頻発する村の中での争議の原因の多くは、そのような感情が発端となっています。ならば大元の不満を解消しようと年貢の加減で格差を取り除こうとしても、今度は成功した者の中に年貢を取られ過ぎだと新たな不満が生じ、それが藩政への不満となるのです」
灯明の灯りの中、天気管の中の樟脳の結晶は次第に底に降り積もり、漂う白片は姿を消した。弘紀は畳の上から天気管を持ち上げて文机の上に戻した。
「樟脳については、民を使って大規模に進める前に、限られた場所で人員も制限してしばらく研究を行うべきでしょう。楠の伐採も藩の許可制にします。そうすれば楠をめぐる軋轢もなくなるのではないかと思うのです」
そう言い終えて振り返ると、修之輔は目を伏せて軽く頷き、賛同の意志を示した。
気にかかっていたことの一つに解決の道筋を見いだせて、弘紀は息を吐いて肩から力を抜いた。そうしてまだ修之輔に言っていなかったことがあったのを思い出した。
「巡検、ご苦労様でした」
修之輔が僅かに首を傾げたように見えた。それが修之輔のどんな感情による反応なのか分からなくて、弘紀は膝を進め、もう少し近くから修之輔を見上げるように視線を合わせた。
「浅井の宿で騒ぎがあったと聞き、心配をしていたのです」
また修之輔が僅かに首を傾げ、けれど今度は言葉を継いだ。
「その弘紀の言い方だと、我ら馬廻り組の力量があまり評価されていないように聞こえる」
修之輔には珍しい揶揄するようなその物言いに、弘紀は修之輔の真意を探ろうとその目を覗き込んだ。
「そういうことではなく、ただ私は貴方の身が」
むきになって抗弁し、けれど修之輔の眼差しの中に弘紀にだけ読み取れる微かな感情が見て取れた。
心配していた、という弘紀の素直な言葉に、不意を突かれて戸惑ったのは修之輔の方だったようだ。
「……任務、ご苦労様でした。貴方が無事だったことを嬉しく思っています」
あらためて一言ずつゆっくりと。
弘紀がもう一度自分の気持ちを伝えると、修之輔の目元が弘紀だけに分かる程度、少し、笑みに緩んだ。
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