第7話

「秋生、これを持っていってくれ」

 一晩を木村の屋敷で世話になって翌朝、修之輔は出立の前に木村から袱紗に包まれた手のひらに載るほどの箱を手渡された。

「年明けてからいちばん良くできた樟脳だ」

 そういわれれば包みの合わせ目から清涼感の独特の匂いが漏れている。

「弘紀様に渡せばいいのか」

 包みを受け取り何気なく確認した修之輔の言葉に、木村は目を剝き腕と首を大きく横に振った

「いやいや、いきなり何を言い出すんだ秋生。儂が弘紀様に差し上げるなど、そんな畏れ多いことは許されないだろう。せめて西川様か加納様だ。最も加納様がお気に召されて弘紀様に献上しようというのなら、有難いことこの上ない」


 下士である木村の身分で、当主の弘紀へ直接物品を献上することは許されることではなかった。けれど羽代で作られた樟脳、しかも樟脳の開発をしている当の木村が自信を持っている品なら、弘紀は喜んで手に取るだろう。

 だがその感想は弘紀と修之輔に私的な関係があるからで、それを木村に明かすわけにはいかなかった。


「分かった。城に戻ったら加納様に報告書と共にお渡しする。実際にできたばかりの樟脳を手に取れるとあれば、加納様もかならず喜ばれることだろう」

 これが自分の立場に相応しい返答だと思いながら、けれど修之輔の脳裡に浮かぶのは、興味津々でこの箱を手に取り、樟脳の白く柔らかな塊をためつすがめつ眺める弘紀の顔だった。


——加納様に渡す前に、弘紀に一度、見せてみよう。

 

 修之輔は言葉に出さず自分の心の内だけでそう決めた。


 丘陵地の高台にある須貝の庄から坂を下りると、広くなった道に外田とその部下数人の姿があった。外田達が着ている揃いの黒羽織は、度重なる出動の要請に払いきれない埃が染みついていて、それが彼らの外見をかえって勇猛に見せていた。


「木村、突然悪かったな」

 外田が大きな声で詫びの言葉を掛ける。

「構わないですよ、ちょうど道筋じゃあないですか。儂も秋生と久しぶりに話すことができましたし、なにも問題はありません」

「儂が木村に用があったんだがな。その話をする時間が無くなった。ほれ、あの城下の屋敷の話だ」

「ああ、あの屋敷は外田さんにお貸ししているんで、お好きなように使ってくれていいんですよ」

 茶の栽培に本腰を入れる木村は、せっかく城下に構えていた自分の屋敷に戻ることがほとんどなくなっていた。なのでしばらく屋敷を外田に貸していたのだが、その外田も屋敷どころか城下に戻ることができない日々が続いている。


今日きょうび、どなたに貸しても同じことになったでしょう、気にしないで下さい」

 すまんな、と頭を下げる外田の謝意が誠実なものであることは、傍で聞いている修之輔にも分かった。外田は一度顔を修之輔に向けてから、大げさな仕草で木村に告げた。

「では木村、ここからは儂が秋生を預かる」

 木村も面白がって外田に合わせ、恭しく頭を下げた。

「馬廻り組頭殿の身の上、どうぞよろしくお頼いいたします」


 木村の屋敷がある須貝の庄から浅井の宿までは四里ほどある。

 昨日の移動は木村と話をしながらだったが、今日は外田が話し相手だった。

「なあ、秋生。山崎から寅丸のことを聞いているか」

「山崎殿から、寅丸のことについて話があるとは」

「ああじゃあまだ聞いていないか。実はあいつ、脱藩しようとしているらしい」

 それはこのような場でする話ではなかった。

「外田殿、その話、浅井宿に入ってから聞いた方がいいのではないでしょうか」

「浅井宿でこそこんな話はできん。どんな有象無象が耳をそばだてているか、分かったものではない」

「そんなに浅井宿は油断のならないところになっているのですか」

「表向きはそうでもないが、それは儂等が睨みを利かせているからだ。その睨む目をひと時たりとも外せない状態が続いていると云えば通じやすいか」


 外田達の部隊は一度要請があって羽代城を出ると、十日以上は戻れないことがしばらく続いている。負荷が日に日に強くなっている状況は明らかだった。

 寅丸のこと、浅井宿のこと、外田に聞きたいことは幾つかあったが、宿へと向かう道は次第に人影が目立つようになってきた。

 領民は外田たちの外観に身を引き、修之輔たちの旗の紋印を見ると道の傍に平伏して蹲る。そうすると修之輔たちとしても足早にその場を去るわけにいかなくなる。

 仕方なく馬を早足で走らせて平伏不要の意志を明らかにしなければならなかったが、揺れる馬の背で会話を続けることはできない。どころか、

「しまった、表から入らねばならなかった。いつも通りの習慣でついこっちから入ってしまった」

 その外田の言葉通り、いつの間にか宿場の中ほど、三間ほど先には街道の道筋が見えるところにまで修之輔たちは入り込んでしまっていた。


 仕方なく馬を下り、商家の通用口の軒先を擦るようにして宿場の中へと足を踏み入れる。こちらの存在に気づいた商人に木戸を開けさせて、修之輔と外田はそれぞれの部下を引き連れてぞろぞろと街道の表に出た。

 浅井の宿は東海道の一つで、旅人が途切れることなく行き交っている。突然現れた修之輔たちの姿は目立つことなく、賑やかな宿場の雰囲気の中に紛れ込んだ。

 番所に詰める役人は、修之輔たち馬廻り組の到着を浅井宿の表木戸で待っているはずだった。足早に松風を牽いて修之輔は部下とともに番所へ向かった。


「ええじゃないか、ええじゃないか」

 通り過ぎる宿場の途中、昼間から酒を飲んで良い心地になった町人が、茶碗を箸で叩きながら歌う声が聞こえてきた。連れの二、三人も唱和しているが、周囲は特に関心を持つ様子もない。酔客が身に着けているのはお伊勢参りの装束で、東海道では見慣れたものだからだろう。


 りん


 不意にその場にそぐわない涼やかな鈴の音が聞こえた。


 視線を巡らせると、その先に祠が見えた。

 赤い鳥居。狐の石像。


 白い神官。


 それは一月に竜景寺で見た、あの神官だった。

 思わず修之輔の眉根に力が入る。古老という名のその神官は修之輔が注視する視線に気づいたのか、ちらりとこちらに目を向けた。が、直ぐにばさりと袂を翻して背を向けた。


 神官の背後には町人が数名。小さな稲荷神社の祠を前にして祈祷を行っていたようだった。民の日常の営みに過ぎない。彼らに羽代の役人である修之輔が声を掛ける理由も必要もなかった。修之輔はそれ以上その姿を視界に入れることなく、番所への道を急いだ。

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