第10話 それから

 姫宮 百合は何処までも高い空を睨んでいた。さっきまで明神から借りていた単行本を読んでいたのだが、そろそろ約束の時間だった。

「百合ちゃん! 久しぶり!」

 不意に声をかけられ、百合は満面の笑みで振り返った。歳は二十六、七くらいの小綺麗な女性が、二歳程の子供を抱えている。百合はその幸せそうな様子に会釈した。

「お久しぶりです。美奈さん、それから愛ちゃん、こんにちわ」

 雑踏の中で二人は挨拶を交わし、近くの喫茶店に入った。外の喧騒と違い、静かな店内に二人は腰を下ろした。

「あれ? 明神くんは?」

 美奈の何気ない言葉に百合は少し不満気な顔をしたが、直ぐに笑顔を作った。

「仕事が忙しいそうです」

「今日は日曜日よ?」

「和弥さんの事業に引っ張られて、それでそのままそこの責任者に押し付けられたそうです」

「うわぁ……相変わらず……」

 美奈が冷や汗を流しながら言うと、百合は嘆息した。

「ええっと、確か同棲してたよね? 結婚式いつ? あ、愛が小さいから遠慮した方が良いかな?」

 美奈が矢継ぎ早に言うと、百合は少し俯いてぽつりと話した。

「全くそういった話しが出て来なくて……」

 百合の発言に美奈は再び冷や汗を流した。

「え? だってこっちの大学に通うってなった時から同棲してるんでしょ? っていうかあれからもうかれこれ十年くらい付き合ってるよね? それで結婚式いつにしようかとかって話題上がらない?」

 美奈の言葉に百合はゆっくりと頷いた。

「何それ」

「忙しいのは解るんです。奨学金の返済とかもあって、大学でもバイトを掛け持ちしてたし、明け方近くまで勉強してたの知ってるから私の方からも中々話しかけられなくて……」

 百合の話しに美奈と二歳の愛は目を丸くした。

「いや、いやいやいやいや。意味解んない。何の為の同棲よ? 寝室は?」

「別です」

「シェアハウスじゃない。何考えてんのよ」

「私もそう思います」

「よくそんなんで続くわね」

 美奈が半ば呆れ気味に言うと、百合は苦笑いを浮かべた。

「月に一回は外食に連れて行ってくれるんです」

「月一って……それどうなのよ? 高級レストラン?」

「近所の夜鳴き蕎麦屋です」

「百合ちゃん、それはいかん」

 美奈が即答すると、百合は肩を竦めて笑った。不意にお店のドアが開き、冷たい風と共に男の人が入って来ると、愛が両手を上げて振った。

「パパ〜!」

 愛に呼ばれ、智弥はにこりと笑って愛の隣に腰掛けた。

「ごめん、伊織に怒られてて」

「パパ、祐弥くんとは連絡取ってる?」

 突然聞かれ、智弥は驚いていたが、百合を一瞥してから再度美奈へ視線を移した。

「お父さんの葬式以来連絡取ってないかな……でも、百合ちゃんと同棲してるから、僕の事なんて眼中に無いんだと思うんだけど……どうして?」

 美奈が簡潔に説明すると、智弥は何度も軽く頷きながら話しを聞いていた。

「……僕にも祐弥の考えている事は解らないけど、何も言わない百合ちゃんに甘えてるんだと思うよ? 直接聞いてみると良いと思う」

 智弥はそう言うと、持っていた紙袋をテーブルに置いて百合に差し出した。



 明神 祐弥はパソコン画面と睨めっこをしていた。帳簿をエクセル入力出来るように変え、収支金額と実際の金額とを数えながら、和弥のいいかげんな思い付きで始めた事業をなんとか軌道に乗せることが出来た。それはこの事業に感銘して融資をしてくれた人が居たからに他ならないのだが、どういうわけかその融資をしてくれた人から娘を嫁にしないかと何度か話しを持ちかけられた。娘の方がどうやら惚れたらしく、何度か食事に誘われたが、断っていた。それがつい昨日、融資を倍にするから……などと話しを持ちかけられ、正直この事業自体が嫌になって来ていた。

 そもそも、和弥が思いついて突っ走った事業だったし、ある日突然

「お前をサラリーマンにしておくには惜しい。俺は政界へ行くからお前に事業を任す」

 なんて言って強引に押し付けられてしまった。伊織は和弥の秘書として活躍しているらしい。智弥は弁護士。刹那は救命医になって活躍しているらしい。霞雲は自衛隊へ入ったと聞いている。直人は高校を卒業してから職を転々としているらしい。

「何処へ行っても周りに変なのしかいない」

 などと愚痴っていた。何処へ行っても仕事を覚えるまでは誰だってしんどいし、失敗すれば怒られるのは当然なのだから、最初の一年くらいは我慢しろと言ったのだが、それでも中々、勉強が苦手だったから勤めるのが難しいのだろう。最近は農協で働き始めたというのは耳にした。

 そんな直人の人生が少しだけ羨ましかった。色々な事に挑戦する姿勢は素晴らしいと心の底から思う。続かない事が少し残念ではあるけれども……

「……」

 祐弥はパソコンを閉じると、軽く溜息を吐いた。時計を見ると、もう夜の十時を指している。手速く片付けると、家路に着いた。

 今の事業を他の人に任せて、自分も好きな事を……と考えてみるが、特別何かになりたい訳では無かった。百合は図書館の司書になっている。彼女には少し役不足な気はするが、本人がこれと決めたのであれば何も言うまい。自分も公務員試験を受けるつもりでは居たのだが、和弥に振り回されてそれどころでは無かった。

 家に帰り着くと、居間の卓袱台に百合が突伏して寝ていた。どうやらずっと帰りを待っていたらしい。今日は久しぶりに美奈と智弥と愛に会うのだと話していた。祐弥も一緒に……と誘われたが、断った。

 今の自分を見て、智弥に説教されるのは目に見えているし、あの幸せそうな家族を見ていると何だか自分が不甲斐なくて惨めになる。

 祐弥は部屋から毛布を取ってくるとそっと百合の肩に掛けた。そして百合の隣に腰掛けると、眠っている百合の寝顔を眺める。

 彼女が知ったらどう思うだろうか? 融資が倍になるのならばと身を引いてしまうのだろうか? それとも

「仕事と私、どっちが大事なの?」

 と君は詰るだろうか? 俺から話さなくて、人伝にそんな話しを耳にしたら、何故話してくれなかったのかと怒るだろうか?

 百合の顔を見つめながらあれこれと悩んでいると、不意に百合の目が薄っすらと開いた。祐弥が微笑むと、百合はゆっくりと顔を起こした。

「ただいま」

 祐弥の声に、百合はこくりと頷いた。いつもなら「お帰り」と返してくれるのだが、まだ眠たいのか、意識が朦朧としているのだろう。

「事業の融資を倍にしてくれる話があって、その条件に娘と結婚してくれと言われたんだ」

 百合の目はゆっくりと瞬きしている。動揺している風は無いが、何を考えているのか分からなかった。だから少し意地悪がしたくなってしまった。

「君は俺に何をくれる?」

 祐弥の問いに百合は再びゆっくりと瞬きした。

「貴方の心に花の盃を」

 祐弥は虚を突かれて思わず笑った。

「成る程、それは嬉しい」

 百合がこくりと頷くと、祐弥は優しく百合の頭を撫でた。

「もう俺なんか飽きて他の男に目移りしてれば良いものを」

「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」

「小百合咲く小草が中に君待てば野末にほひて虹あらはれぬ」

 百合は祐弥の返歌を聞いて驚いた様に目を瞬かせた。

「待っていたのは私の方だよ?」

「君が心変わりするのをずっと待っていたのだけれど……」

「その言い方は狡い」

「嫌いになったか?」

「だったらどうする?」

 いつもなら「大好きだよ」と返して来るのだが、そう言われて意地悪が過ぎただろうかと少し不安になった。

「お前が嫌になったのなら、それは俺が至らないせいだから……本当に申し訳ない」

 嫌われて別れると言われたらこれから先、何を心の拠り所として生きていけば良いのか分からなかった。離れてしまった彼女の気持ちを再び引き戻すのは容易な事では無いだろう。けれどもさっきの和歌や、花の盃の下りでまだこちらに気持ちはあると言う事だ。だからここは真摯に謝って、これ以上機嫌を損なわない様にしようと考える。

 百合は再び紙袋の中を弄って紙とペンを取り出した。

「悪いと思うなら書いて」

 祐弥はその紙と百合の顔を交互に見つめた。百合がしてやったと言いたげな笑みを浮かべている。成る程、中々こっちが結婚の話しを切り出さないから手を変え、品を変えしたのだろう。だからと言って少し強引な気はする。

 祐弥は徐ろに立って自分の部屋に入ると、引き出しから百合が出した紙と同じものを持って来た。百合はそれを見て思わず目を丸くする。

「悪い。一応準備はしていたんだが……」

 祐弥の言葉に百合は瞳を輝かせた。

「……嘘」

「仕事に感けて君とちゃんと話しが出来てなかった。一緒に住んでいるだけで、何も話さなくてもわかり合えていると過信して、君の優しさに胡座をかいていた。今の事業は他の人に任せて、ちゃんとした仕事に就くから、入籍はそれからにして貰えないだろうか?」

「え、やだ」

 百合に即答され、祐弥は困惑して百合を見つめた。

 謝罪のつもりだったのだが、意図が伝わらなかったという事は無いだろう。ともすれば後半の仕事に就いてから入籍が嫌だと言う事だろうか。そういえば以前、百合の祖母に面会した折に婿養子になれとは言われたので、うちに入籍するのが嫌だと言う事だろうか……?

「何で事業辞めちゃうの?」

 百合が真剣な表情で聞くと、祐弥は瞳を宙に投げた。

 え、そっち?

「そもそも和弥の思い付きで突っ走った事業だったし、俺は社長なんて柄じゃないし……この歳で会社持ってると、色んな人が周りに来て少し息苦しいんだ。一度社会へ出て経験積んでからでも遅く無いと思う……」

 やたら結婚してくれと言い寄って来る年増が多くて正直辟易している。

「子供たちはどうなるの?」

「だから、運営を他の人に任せるだけだから、児童福祉施設事業自体が無くなるとかそういう事では無くて……」

「え、じゃあ私結婚しない」

 百合がそう言って卓袱台に拡げた紙を床にばら撒くと、祐弥は困った様に目を伏せた。

「私との結婚を理由に事業から手を引くのなら私は結婚しない」

 百合は意志の籠もった目で祐弥を見つめ返した。祐弥はその瞳に気圧され、目をそらした。

「明神くん、今迄ずっと頑張って来たじゃん。教員免許も取って、税理士の勉強もして、補助金とか給付金の事とか調べて……どうしてその努力を全部棄てようとするの?」

 百合に詰られ、祐弥は軽く息を吐いた。

「もう事業は軌道に乗ったし、運営は俺じゃなくても良いと思う」

「明神くんはそれで良いの?」

「俺は別に……」

「明神くんは最初、どうして神崎さんの思い付きの事業を手伝おうと思ったの?」

 百合に聞かれ、祐弥は目を伏せた。色々な事情で親と暮らせない子供達に安心して暮らせる施設を。親が居ても家に居場所の無い子供達に居場所を。塾へ通えない子供達に教育の機会を……と和弥に絆されて手伝っていた。まさか途中でほっぽり出されるとは思っていなかった。

「この国の将来を担う子供達に少しでも貢献出来ればと思っただけだ」

「今、投げ出したらそれが出来て無いよね?」

 ちゃんと運営出来ているのだから自分としては潮時だと思っているのだが、百合は納得いかないらしい。

「駄目か?」

「箱だけ作って後の運営は人任せなんて明神くんらしくない」

 それは和弥に言うならまだしも、自分に言われると何だか釈然としない。

「そこまで言うのなら手伝って」

「その言葉を待ってた」

 百合はにこりと笑うと、祐弥は眉根を寄せた。

「明神くん、一人で何でもかんでも抱え込み過ぎなんだよ。もっと周りに頼ってよ」

「お前の夢を壊したく無くて」

「図書館司書が私の夢なわけ無いよね? 私の夢は今も昔も明神くんのお嫁さんだよ?」

 祐弥はそれを聞くと何だか気恥ずかしくて目を合わせられなかった。

「じゃあ、改めて……」

 百合は床に投げ捨てた婚姻届を拾い上げた。

「黒髪に白髪交じり老ゆるまでかかる恋にはいまだ逢わなくに」

「俺と一緒に居ると苦労するぞ?」

「知ってる。でももう慣れちゃった。どんな苦しみの中にあっても楽しみはあるものよ。明神くんが……あなたが私に教えてくれたのよ」

 祐弥は百合の瞳を見つめると、溜息を吐いた。

「神なびの三諸の山に斎ふ杉思ひ過ぎめや苔生すまでに」

 祐弥はそう呟くとペンを取った。慣れた手付きで空欄を埋める。百合が嬉しそうにそれを眺めていると、祐弥が不意に百合の顔を見つめた。

「明日、指輪買いに行くか」

「え? 良いの?」

 百合が嬉しそうに喜んだので、女避けの為に結婚指輪が欲しいとは言えなかった。

「式はいつにしよっか?」

 百合の質問に祐弥は手を止めた。丁度書き終わった所だったのだが、思わず頭を掻き毟る。百合のウエディングドレス姿は見たいが、自分は洋装が苦手だ。かと言って和装……白無垢姿も写真に納めておきたいが、自分もとなると……でも百合の祖母も結構な年齢だし、式自体は早い方が良いだろうし、かと言って百合の親戚は呼んで、自分の親戚を呼ばない訳にいかないし……と一通り考え倦ねた。

「写真だけにしないか?」

「却下です」

 百合がにこりと笑って応えた。

 祐弥はまさかこの時既に結婚式場からお色直しのドレスに至るまで百合がリサーチしているとは思っていなかったし、実家の権力と金にものを言わせ、直近の大安吉日に予約を取ってしまう姫宮家の財力と顔の広さに少しばかり気後れした。話しを聞いた智弥と和弥が、直ぐに知り合いに連絡を入れ、滞りなく式が終わる頃、盛大なドッキリを仕掛けられた気分だった。



 ーー朗らかな陽だまりの中で、幼い子供の泣き声が空に響いた。その声に驚いて、公園で一緒に遊んでいた七、八歳頃の子供達が幼子の元へ駆け寄る。

「大丈夫?」

 真っ先に少女が声を掛けた。幼子は膝を擦りむいていて、血が滲んでいる。

「鈍臭い」

 少年が呟くと、少女はきっと少年を睨めつけた。

「右京! そんな言い方しないの!」

「だって本当の事だろ?」

「珀、大丈夫? おんぶしようか?」

 二人が言い争って居ると、もう一人の少年が優しく幼子に声を掛けた。

「左助、甘やかすなよ。これくらい唾でも付けとけ」

「傷口を洗って消毒してから絆創膏!」

「出た。清美の女医の娘アピール」

「お母さんは関係無いでしょ!」

 二人が再び喧嘩を始めると、十歳くらいの少女が割って入った。

「喧嘩しないの。珀、大丈夫?」

 少女の言葉に珀は頷いた。もう涙は止まっているが、口をへの字に曲げ、眉間に皺を寄せている。

「愛、珀の両親は何してるんだよ?」

「今日は珀のお母さん、他の施設の視察へ行くって言ってたかな? お父さんはすぐそこの施設に居ると思う」

「自分の子供ほっぽいて他所の子供の面倒とかイカれてるよな」

「そういう右京の親は選挙が近いからそれこそ家に居ないんじゃないの?」

 図星を指され、何も言えない。

「私のママもね。毎日沢山怪我をした患者さんの為に頑張ってるの。だから私も早く大きくなって、ママのお手伝い出来るようになりたいな」

 清美がにこりと笑うと、愛は清美の頭を撫でた。

「僕は警察官になりたいな。珀は?」

 左助が背に負った珀に問いかけると、珀は考える様な素振をした。

「ケーキ屋を開いて、毎日たらふくケーキを食べるのじゃ」

 珀の発言にその場に居た全員が笑った。

「珀らしい」

「それで施設の子供らにも振る舞ってやるのじゃ」

「成る程」

 子供達はわいわい言いながら近くの施設へ入った。庭には滑り台とブランコがあり、開かれた施設は誰でも利用出来た。日本建築風の外観が、この街でも一番目を引いた。ご飯が食べられない子の為に子供食堂も併設されている。年齢の異なる色んな事情を抱えた子供達がここには集まっていた。その一人ひとりに声をかけ、お金が無くて塾へ行けない子供達に勉強を教えてあげている大学生や、研修生が何人か居た。

 その中から愛が祐弥の姿を見つけると、祐弥も気付いたらしく、直ぐに駆け寄って来た。

「珀、皆と居たのか」

 幼い頃から施設へ連れ歩いている為、割と誰とでも付き合える子に育ったのだが、やはりこの仲間が一番しっくり来るらしい。祐弥は左助から珀を抱き上げると、珀のお腹が悲鳴を上げた。

「さっきお昼食べただろう?」

「腹が減ったのじゃ」

「……手当が終わったら何か作ってやる」

 祐弥が呟いていると、右京達が掲示板や壁に貼られた紙を見上げている。

「今週はマザー・テレサですか」

「先週は塩の行進で有名なガンジーだったのに一貫性に掛ける」

 左助に続いて右京が声を漏らした。

「ここは色んな子供が来るから、色々と変えてはみている」

 祐弥の言葉に右京は少し不満そうな顔をしていた。清美がそんな右京に声を掛ける。

「右京、今週の本読んだ?」

「どうせまたよだかの星とかだろ?」

「本朝永代蔵、面白かったよ。文のテンポが良くてね」

 愛も話しに加わると、右京は更に顔を顰めた。

「小学生の読み物か?」

「読み物に年齢は関係無いと思う。珀も二歳で仮名序の冒頭は暗唱していた。頭の柔らかいうちに色んな物に触れる経験はさせておくに越したことは無いと思う」

 祐弥の説明に右京は珀を睨みつけた。祐弥は珀に優しく話しかけた。

「仮名序」

「ヤマトウタハヒトノココロヲタネトシテヨロズノコトノハトゾナレリケル。ヨノナカニアルヒトコトワザシゲキモノナレバココロニオモフコトヲミルモノキクモノニツケテイイイダセルナリ。ハナニナクウグイスミズニスムカワズノコゑヲキケバイキトシイケルモノイヅレカウタヲヨマザリケル。チカラヲモイレズシテアメツチヲウゴカシメニミエヌオニガミヲモアワレトオモワセオトコオンナノナカヲモヤワラゲタケキモノノフノココロヲナグサムルハウタナリ」

 一音一音はっきりと暗唱する珀にその場に居た全員が目を丸くして驚いていた。

「時代遅れだろ」

「故きを温めて新しきを知る」

 批判していた右京も言い負かされてそれ以上何も言えなかった。

「勉強したかったらいつでもうちに来て良い」

「うちは専属の家庭教師が居るから必要無いの」

「知識を詰め込んでテストで百点取るだけが勉強ではない。覚えた事を活かして他人に教えられる様になるまでが勉強だと思う」

 祐弥の言葉にぐうの音も出なかった。確かに施設の子は、其々に勉強を教えあったり、分からないところは年長や大学生や研修生に聞いている。教える側も、直ぐに答えを教えないで一緒に本やネットで調べたりしている。

「右京にならそれくらい出来ると思う」

「出来るさ! 俺、頭良いから!」

 右京が怒ると、祐弥は優しく微笑んだ。

「祐弥先生、論語はいまいちよく分からないんですけど」

 愛が話しかけると、祐弥は本棚を指し示した。

「そういう時は下村湖人の論語物語を先に読むのをおすすめする。総ルビしたテキストが本棚にあるから、先ずはそれから読んでみると良い。興味があったら本を探すといい」

「先生、何で勉強するんですか?」

 左助が質問すると、祐弥は首を傾げた。

「どうしてその質問を?」

「学校の先生は教えてくれなかったんです」

「そう……」

 祐弥はそう呟くと、本棚から冊子を一つ取り出した。

「マララは知ってる?」

「えっと、テロリストに銃で撃たれた子だっけ?」

「彼女の国連本部でのスピーチは?」

「……知りません」

 祐弥は左助に総ルビのテキストを差し出した。

「人によっては良い大学へ入る為とか、偉くなりたいとか、お金を稼ぎたいとか、夢を叶えたいとか色んな理由があると思う。先生は人格を磨く為にするものだと思うが、自分が生まれた国をより良くする為にするものだと言う人も居た。どれも間違いでは無いと思う。だから君なりの答えを探してみるのも楽しいと思う」

 祐弥に差し出されたテキストを受け取ると、左助は目を丸くしてテキストを見つめていた。祐弥が珀を連れて行ってしまうと、四人はお互いに顔を見合わせた。

「てっきり学問のすゝめとかを薦めて来るかと思ったのに、まさかのマララ……」

 愛が呟くと、右京が言葉を吐いた。

「どうせ外国の紛争だのについて興味が持てるようにって魂胆だろ。あとは外国語とか、戦争、国の防衛についてまで調べて考える様にって事でそれを選択したんだろ」

 右京の話しに清美と左助は感心した様に驚いていた。

「そこまでの意図が瞬時に拾える所は凄い」

 清美が呟くと、右京は我に返ってげんなりとした。

「あいつ狡いんだよ。言葉の額面通りを真に受けるのは子供のすることだって言うから、こっちが先回りする癖がついちまった。親父の弟じゃなかったらとっくに縁切ってる」

 右京が地団駄踏んでいる。皆は笑い合いながら渡されたテキストを読み、自ずと勉強会が始まっていた。

 朗らかな陽だまりの中で、今日も誰とはなしに子供達が集まっている。祐弥はその一人ひとりの成長を優しく見守っていた。

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隱神 其の肆 餅雅 @motimiyabi

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