第3話 六月の花嫁、龍の片鱗を垣間見る


 その日は、杏朱に身なりを整えてもらう日で咲夜は鏡台の前に座らされ髪を梳かれていた。


「梳く力は強くありませんか?私、人の髪を梳くのって初めてで⋯⋯」

「えっ?あ、大丈夫です。ではなくて!あの、何度も申していますが自分で出来ますから」

「いけません咲夜様!咲夜様は総領の見込んだ大事な花ですから」


(杏朱さんは人に仕えるのは初めてって言っていたし、私もわからないことだらけで、かえって有難いかも)


 咲夜は段々と彼岸の世界や龍の一族についての輪郭を捉えられるようになってきていた。咲夜のいた世界には、神獣と崇められる獣が存在する。そしてその獣の一族が彼岸にはいくつか存在していた。

 龍の一族もその一つで、他にも虎や鶴などがいるらしい。白麗は龍の一族の長であり、歴代の中でも随一の通力を持つという。この世界では人の姿をしている者はみな何かの化身であり、何かしらの特異な能力が備わっている事も杏朱は話してくれた。


(なら、人の心を気取る能力だってあるのかも)


 この異能のことは、まだ彼岸に来て誰にも話していない。

 杏朱に言うべきか迷ったが、かつての村でそれが知れた時の人々の反応を思い出すと途端に口が重くなった。


「どうかなさいました?あ、やっぱり痛いです?」

「いえ!丁度良いです。ありがとうございます、杏朱さん」

「うふふ、そうですか?なら良かった」


 よそう。子どもの頃の私は、異能が異能であることを理解できずに当たり前のことと思い、人生を破綻させた。良かれと思って気取った人の感情や感覚を詳らかに口にしてしまった事で世界は一変してしまったのだ。

 周囲に気味悪がられ、遠ざけられた。それが神送りで咲夜に白羽の矢が立ったきっかけでもあるだろう。


(私は、もう「前」の私を繰り返すわけにはいかない)


 ここでは悪目立ちせず、衣食住を与えてくれて親切にしてもらった白麗や杏朱。これから出会う人達に心を砕きたいと咲夜は思った。

 それから顔をあげて、杏朱に尋ねる。


「お着物もありがとうございました。更にお願いして申し訳ないのですが、もしよろしければ手に巻くものか包むものをいただけませんか」


 咲夜の願いに対し、杏朱はしげしげと咲夜の手を見る。

 色白でか細い手や爪は短く切り揃えられているが磨かれてはいない。特になんの変哲もない手に杏朱には見えた。


「何処かお怪我を?」

「いえ!ただその⋯⋯、そう、郷里では手を隠す習慣がありまして」

「まぁ、そうでしたの」


 手以外でも触れ合ってしまえば、とてつもなく強い感情や感覚であれば気取ってしまうことがあるが、咲夜の異能はあくまで「手で触れること」が鍵だ。物理的に覆ってしまえば、ずいぶんと能力は鈍くなる。

 それでも村では知られただけで奇妙に思われたものだが──と咲夜は少しだけ視線を下げた。しかし杏朱は快く微笑んだ。


「承知いたしました。歳は若くおっちょこちょいですが腕の良いお針子が芽にいるのですよ。頼んでおきますね」

「ありがとうございます」

「いいえ。それにしても他に見ない見事な黒い髪と黒い瞳だこと。羨ましいわ」


 白麗と彼に付き従う臣下が住まう大屋敷を「龍宮」、その外れに囲まれたこの場所を「禁苑」と呼び、更に大門の外を出れば一族達の家家が建ち並んでいるという。

 杏朱に簡単に案内をされた時にも何人かの龍の一族に出会ったが、皆眉目秀麗で色とりどりの髪色や目の色をしていた。この彼岸では黒髪黒眼は珍しいらしい。


「私の世界では殆どこうです。私には杏朱さん達の髪色などの方が華やかで綺麗に見えますよ」

「うふふ、生き物って無い物ねだりですわね。自分にないものを欲しがるんだわ。きっと他の花達もさぞや咲夜様を羨むに違いありません」

「ええ?でも別に珍しいからと言っても格別こう⋯⋯う、美しさとかそう言ったものとは無縁で」


 ごにょごにょと口ごもる咲夜に対し、杏朱は笑った。


「あら、美醜の価値も基準も人それぞれですわ。私は咲夜様をとても美しく愛らしいと思いますよ。そもそも身も蓋もない話ですけれど、爺の御眼鏡に叶わなければ此処に来ることもありませんでしたし」

「えっ、あ⋯⋯えっと、良かった、です?」


 あっさりと悪びれもなく言う杏朱に対し、咲夜は曖昧な笑みを浮かべる。

 御眼鏡に叶わなければ二度目の死を迎えていたのだと思うと、結果的に「良かった」と答えるしかなかった。


(不思議だ。村であんな目に遭っても、私は此処で生きようとしてる)


 爺と呼ばれる翁に触れられた折に色々な思惑を汲み取った。詳しく理解できなかったが、それは打算的なもので決して咲夜にとって気持ちのいいものではない。

 けれど死の間際の次第に飢えて乾いていく恐怖も、朝も昼も夜もわからない暗闇も、それを何も感じなくなっていく虚無も咲夜は知っている。

 この彼岸で咲夜は天秤にかけたのだ。そして咲夜の天秤は生きる方に傾いた。正しいかどうかは、人によるだろう。


 咲夜はそっと目を伏せた。



 月華園の中にある小さな書室が、咲夜の憩いの場所となった。

 咲夜の住んでいた世界では、女子どもの識字率はかなり低かったが、彼女は独学でかなや漢字を学んでいた。その足がけは母で、咲夜が幼い頃に色々な話を寝物語に聞かせてくれたことにある。母がいなくなった後も、一体どれだけ聞かせてもらった物語達に助けられたかわからない。


「知っている字もあるし、法則性がわかれば読む事が出来そうなんだけど⋯⋯。でもこれじゃあまるで呪文みたい」


 咲夜はずいぶんと文化の異なるこの彼岸について、少しでも知ることが出来ないかと思い、日々書物を開いた。

 しかしそこに連ねられているのは漢字の羅列で、咲夜は苦い顔をする。独学で習得したせいもあって、漢字はかなよりも自信がないのだ。


「これは⋯⋯」


 今日彼女が手に取った一冊は、文字が大きく書かれ挿絵もあった。立派な龍と大蛇の絵が描かれている。どうやら子ども向けの本のようだった。そして時折書物の隅に落書きがされている。子どもの描いたものだろう。

 咲夜がこの部屋を憩いの場とする理由の一つには、本とは別に隅に子どもが使っていたであろう玩具などの存在もあった。この部屋の至る所に残る痕跡に咲夜は温かみを感じ、頭の中で勝手ながら物語を作っていた。


(ここで暮らしていた母子はきっととても幸せだったんだろうな。ここに住んでいるっていうことは、お父さんはここの一族の長?ってことよね。でも随分使われていないみたいだったし、……あの人の妻子が住んでいたわけではないのかしら)


 とはいえ咲夜の世界でも、彼女自身が結婚適齢期だ。白麗の見目は、少なからず二十代前半くらいに見える。結婚をしていてもおかしくはなさそうではあるが、この屋敷の年季を考えると前の住人と白麗が夫婦ということはないように思えた。

 咲夜はすぐにそんな事を忘れ、手元の本の頁に視線を戻す。本に記された落書きを見つけた時、母親は叱っただろうか。それとも困ったように笑ったのだろうか。恐らく後者だ。子どもを慈しんでいたのだろう。落書きは他の頁にも施されていた。

 子の為と整頓された玩具には、手製のものも見受けられた。咲夜は何頁かに及ぶ落書きを指でなぞりながら、ひとり微笑む。


「ここにいたか。ずいぶん探した」

「⋯⋯あ、えっ!は、白麗、様!!」


 皆が様づけをして呼んでいた事を思い出しながら、咲夜は勢いよく立ち上がり頭を下げる。

 白麗はその様に一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに微笑んだ。


「そう畏まらずともよい。供は外に控えさせている。急な訪問ですまないな。もっと早くに様子を見に来たかったんだが、なかなか時間を作れなかった」

「い、いえ。そんな。お気遣いいただきありがとうございます」


 目の前にいたのは、この禁苑に住まう事を許してくれた龍の一族の長その人だった。相変わらず整った顔立ちをしている。

 最初に会った時は人前だったこともあってか、厳しそうな印象もあったが今の彼はとても柔らかな印象が勝っていた。

 咲夜が持っている本を見て、白麗は僅かに表情を変える。驚いた様子だったが、すぐに穏やかな表情に戻り咲夜が気づく事はなかった。


「──⋯⋯それは、ずいぶん懐かしい物語を読んでいるな」

「あ、申し訳ございません、勝手に物色してしまって」

「良い。手持ち無沙汰ではかえってつまらないだろう。此処にあるものは好きにおし」


 平伏していた時もそうだったが、白麗は咲夜に語りかける口調も心なしか柔らかだ。意図的にそうしてくれているというのは、咲夜にも異能を使わなくてもわかった。

 彼は此処へ来て間もない彼女をずいぶんと気遣ってくれている。


「ありがとうございます。えっと、あの、此処がとても気に入りました」

「そうか。それは良かった。最初はかなり手荒な歓迎になってしまって気になっていたんだ。傷になったりはしていないか?」


 最初に出会った時に縄で縛られていた咲夜の手首に白麗が視線を落とすと、彼女が手袋をしている事に気づく。杏朱が芽に頼んで早速繕ってもらったものだ。

 もしや傷を隠しているのでは――と白麗が案じているのは、やはり心を気取らずとも表情で咲夜にも理解出来て首を横に振る。


「大丈夫です!これは、こうすると落ち着くので杏朱さんに頼んだんです」

「杏朱に?ずいぶん長く世話を焼いているのだな」

「私あんまり綺麗な方で、それこそ彼女の方が花と呼ばれる方なのかと思っていました」

「……なに?」


 白麗は驚いた様子で咲夜に聞き直す。そんなにわかりづらい事を言ったろうかと思い、咲夜は短く言いなおす。


「えっと、杏朱さんからご自身が芽だと聞いたものですから。今も身の回りのお世話をよくしてくださいます。でもきちんと正式に芽が決まるまでの臨時だとは伺ってます!」

「……なるほど。それは、うん。まぁ、良かった」


 白麗はやや苦い顔をしながら微笑む。

 何かまずかったのだろうかと咲夜は白麗を見たが、彼は「そなたが気にする事は何もない」とまた笑って見せた。


「困った事があったら杏朱を通してなんでも言うと良い。調子の良い奴だが、決して他者を無碍にはしない。あれに言えば、私の耳にも入るから」

「い、いえ!寝床や食べ物があるというだけでもう十分すぎるくらいで!寧ろ頂いたご恩を返せるようにしなくてはと思うばかりです」


 禁苑は、咲夜の世界でいうところの大奥だ。咲夜はその知識を物語で得たわけだが、ただ知っているだけで自分が登場人物達の立場に立っているということをいまいち理解しきれないでいる。つまり白麗の――龍族の総領の花として恩を返すという事がどういうことを意味するのかまで理解が及んでいないのだ。

 白麗は一瞬目を瞬かせて押し黙る。申し訳なさそうに頭を下げるこの娘は、恐らく自分の言っている事の意味を理解していない。それは彼にもすぐにわかった。寧ろ此処にはきちんと理解した上で彼に情熱を注ぐ花しかいないのだ。異界から来たとはいえ、同じ年ごろの花達とこうも違うものかと白麗は思わず笑ってしまった。


「あ、あの?」

「……っふ、いやすまない。あまりに実直な物言いだったから、ついな。咲夜と言ったな。お前はもう少しこの世界や我が一族のことを学んだ方が良さそうだ。誰に何を言われても慌てずゆっくり覚えていくといい。もし誰かが責めたら、総領の意思だとお言い。そうすれば皆黙る」


 また人に笑われてしまったと咲夜は恥ずかしくなって俯く。

そんなに突拍子もないことを言っているつもりはないのだが、美しい人が微笑む姿はそれこそ花が綻ぶようだなと彼女は内心思った。白麗の思いやりに頷き、深々と頭を下げる。


「もう此処が、この世界が、咲夜。お前の居場所だ。住みよくよりよい場所に自らしていっていい」

「私の……居場所」


 そんなものは元いた世界にはなかったし、誰にもそんな事を言われた事がなかった。白麗の微笑みと言葉は、咲夜の胸をじわりと温かくする。今すぐにどんな不幸があっても、きっともう悔いはない。

 そう思えるくらいに彼の言葉が真心に溢れたものであることが、彼女には理解できた。


「ありがとうございます」


 そうして咲夜がはにかめば、白麗はまた暫く黙って目を見開く。今の今までずっと咲夜は恐縮しきった態度で、謁見の際も強張った表情しか見せてこなかった。そんな彼女の微笑は何かに怯えている様子よりずっと可憐で良いと純粋に白麗は感じた。白麗もまた彼女の微笑に返すように静かに微笑む。

 暫く他愛のない話をしてから屋敷を出ると、其処には杏朱がいた。


「あら、滅多に夜に花のもとに通われないお兄様が珍しいこと。やはり稀人が気になって?」

「それはそうだろう。私の代で稀人が来た例はないし、爺達もうるさい。――……それにしてもお前、あの稀人に妙な真似をしているだろう。いずれ禁苑の管理者であるということは、あの娘にも露呈するぞ」

「まぁその時はその時ですよ。これからこの禁苑に住まうのだもの。あの非力な人の子に、少しくらい理解者がいるに越したことはないでしょう?何よりあの娘が気に入りましたし」


 女の園に住むという事については、男の白麗には想像もつかない程に厄介事がつきものだ。

 見聞程度に彼も理解しているが、杏朱の物言いに苦い顔をするだけに留める。


「お兄様もきっと気に入ると思いますけれどね。だってほら、爺やこの世界の種族の者達と違って欲がないもの。それにちょっとやそっとの事じゃ動じない。大した器ですよ」


 伝聞によれば稀人は元いた世界からはみ出た者であるという事を白麗は知っている。確かに咲夜は欲深な者には成り得なさそうだ。

 白麗にとっても好ましい部類の性格をしている。しかしそれ以上はない。白麗は自嘲気味に笑った。


「この呪われた身に似合いの花などない。摘んだところで、花などたちどころに枯らしてしまうのだからな」

「……」


優秀な龍の長。その世継ぎを望む声がどれだけ多くあるかは、白麗自身も杏朱も知っている。

 しかしそれを望む事は、花を枯らす――つまり花の命を奪う事に他ならない。白麗は衣の袖を捲り、杏朱にそれを見せる。


「……また鱗の範囲が広がりましたのね。お兄様、急ぎませんと御身が」

「構わない。私は体勢を整え、碧麗の帰還を待つ。碧麗には妻がいる。妻も花鈿持ちだ。知れば爺達も序列云々を抜きにして、当主として認めざるを得ないだろう」


 白麗はそれだけ言い残して杏朱の側から離れる。杏朱は兄の背中を黙って見送った。それから溜息を一つ吐いて、空を見上げる。


「――……この禁苑にも花鈿持ちが現れればいいのにねぇ」


 星々が輝く夜空は美しいが、杏朱の悩みに答えてくれることはなかった。

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