第11話 常世と祈り

 識に一撃を受けた頼仁の意識は、現実と夢の狭間を漂っていた。

 それは常世と呼ばれる世界だった。

 一面は霧がかかり、遠くを見渡すことが出来ない。


 頼仁は湿った砂地の上でうつ伏せのまま倒れていた。

 意識体というのは奇妙なものだ。

 肉体が存在していないため驚くほど軽やかに全身が動かせる。

 かと思えば自らの意思で自由に動くことはとても難しい。


 この時の頼仁もそうだった。

 これは現実ではないとはっきりわかるのに、体は鉛のようで指一本動かせなかった。


 ざり、と遠くで土が擦れる音がした。


 頼仁は奥歯を噛み締めた。

 こんな所で倒れている場合ではないのに。

 あの化け物を何とかしなければいけないのに。

 自分はいつだって無力なままだ。


 ざり、ざり、と何かが近づいて来る音がする。

 ああ。また自分を殴ろうとするあの腕が来るのだろうか。


 そんなことを一瞬考えて、いや違うと打ち消した。

 あれはもう終わっている。御所に戻されてから、殴られることはなくなった。

 まずい、時間が自分の中で混乱している。

 今、何とかしなければいけないのは囚人の方だ。


 ざり、ざり、と足音はさらに大きくなる。

 あの囚人を倒さなければ、四人もあの殺された一家と同じ目に合う。

 どうすればいい。何が出来る。助けなければ。何とかして。

 ふと、遠い日々に確かに聞いた兄の声が蘇った。


『大丈夫、神様にはきっと頼仁の声も届いている』


 だが、頼仁はそれを否定した。

 だって、助けてくれなかった。

 神様も、誰も。だから自力で何とかするしかなかった。


『大事なのはね、神仏を尊びて、己の為に祈らず。

 神様は人の清らかな心をもって聞き届けて下さるものだ。

 祈りは相手のために捧げるものなんだよ。そうして祈りは願いとなる』


 ざり、ざり、と近付く音。

 近付いていた足音が、突如として止まった。

 そして、『声』が聞こえた。


『そう、尊厳の欠片もないあなたの祈りなど届くわけがなかった』


 頼仁はのろのろと首を上げた。

 そこにいたのは、昨日の夢に見た年の頃の頼仁だった。

 幼い面差し。華奢な体。だが。


「お前は……誰だ」

 掠れる声で問うた。見た目はあの頃の頼仁だったが、何かが違う。

 根本的なまでに違う。

 そう、自分はこんな澄んだ目をしていない。

 こんな――清冽な気を放つことなどない。


『さて、誰でしょう。我はあなたであり、あなたじゃない。でも、ずっとあなたの中にいる』

 謎かけをするように、それはくすくすと笑う。


『あなたが今、現世で対峙している化け物。あれは穢れた存在。

 この世にいてはならない者。もはや、我らの声が届かない生き物。

 ……頼仁。あなた、あれを倒したいでしょう。消したいでしょう。

 あなたが真に願うなら、あなたの声を、聴きましょう』

 柔らかいのに、逆らうことの出来ないほどの厳然とした声音でそれは言った。


「なるほど……そういうことか」

 頼仁は寒気を覚え、顔を歪めた。恐怖ではない。もっと、大きな。圧倒的な力が自分に語りかけているのだ。

「俺であって、俺じゃない。でもずっと俺の中にいる。お前は……」


 頼仁の動かした唇の形に、目の前にいるそれは満足そうに頷いた。

 人間の意識の遥かに奥深くに、それは存在する。

 通常ならば絶対に出て来ることなどない深い深い意識の底に、けれど確かに息づいている。

 そして頼仁は肉体にもそれが宿っている。

 帝は神の血筋を引く。頼仁の血にもそれは眠っているのだ。


 頼仁は静かに呼吸を整える。

 どくん、と心臓の奥で脈動をした。

 耳や目からだけではない。血が、鼓動が、全身が、語りかけて来る。

 それを感じながら、頼仁の脳裏に映っていたのは別の光景だった。

 蘇る記憶は兄と見上げた夜空。

 そして、こちらを振り向くことのない父の後ろ姿。

 国を守るため。この国の民の願いを一身に受けて、国の御柱として佇む姿。


 あの時の頼仁は兄の言った言葉の意味を理解することを拒絶した。

 誰かのために祈ることなど出来なかった。

 だから、頼仁は祈ることを止めてしまっていた。


 けれど。

 今、頼仁は痛切に想っている。

 護れる力が欲しい。

 そして必ず、護ってみせる。

 その想いを、魂に突き立てた。


「……俺は……あいつらを護りたい」


 頼仁は右手を伸ばした。

 頼仁の、誓いのような祈りを聞き届けたそれは、ふっと笑った。

『いいでしょう。どうすればよいのか。あなたはもうとっくの昔に知っている』

 そして伸ばされた右手を掴む。信じられないぐらい強い力で頼仁を引き上げる。


 最後に一つ、頼仁は尋ねた。

「あいつは、一体――何なんだ」

 穢れた存在。この世にいてはならない者。そう目の前に立つ者は言った。

 その正体を尋ねる頼仁に。

 頼仁の姿を模した〝神〟は、その幼い顔に不釣り合いな大人びた面差しで答えた。

『オニ、と。そう彼らは名を付けた』


 ◇ ◇ ◇


 識が地面へと叩き付けられる姿を、和孝は視界の端で見た。

 ぐったりとした指先。まだ意識があるのが奇跡的なぐらいだ。

 当然だ。あちらは疲れを知らない体。

 対して識は普通の、それこそ何の訓練も受けていないただの人間なのだから。


 和孝は血の気が下がり朦朧とする意識の中、上衣の裏側を探った。

 仕方ない。最後の最後まで使いたくなかった手段を使おう。

 それは人間として死ぬことになるだろうが。

 ほんの少し、口の端で笑う。


 ――和孝を、利用しやがって……!


 そんなふうに自分を無条件に信じてくれた奴。

 裏切っていると知りつつも、最後まで黙っていてくれた奴。

 少し離れた所で、うつ伏せで倒れている頼仁に目をやった。

 そんな奴らのためならば、人として死ぬのも悪くない。

 冷えきった指先が、上衣の裏地に隠していたびいどろの瓶に触れた瞬間。

 それまで一切感じることの無かった突風が、頼仁を中心にして立ち昇った。


 頼仁はうっすらと目を開くと、立ち上がった。

 そして袂に入れていた懐剣の鞘を抜いて目の前にかざす。

 死への恐怖も、何も無かった。意識を自分の根底にだけ集中させる。


「日本皇国頼仁、かけまくも畏み畏み物申す、この国を守護せし天へ願う。願わくば、禍つこの罪穢れ、祓いたまえ清めたまえ」


 どくん、と頼仁の心臓が、さらに深い場所で脈動する。

 仄かに立ち昇るのは、神気。光をまとった風が揺らめき、清冽な波状が頼仁を中心に広がっていく。

 それに合わせて神気に煽られた頼仁のまとう襟巻が、羽衣のようにふわりと舞った。


 神の血筋を引く彼の祈りと、神の意思が今確かに一致した。

 頼仁の祈りはただの人間以上にその体に戒めを与える。効力が実体化するのだ。

 神が乗り移った頼仁は、一歩歩みを進めた。


 巻き起こる風が天へと突き、そこからはらり、はらり、と白銀の欠片が天から舞った。

 全ての罪を包み込む厳かな雪。

 頼仁が進むごとに足元からふわりと立ち昇る神気。

 そうして天と地から溢れ出るその力が。きらめく光と、白銀の欠片が。

 頼仁のかざした刃に集約される。

 頼仁は溢れ出る力を刃に集中させると。


「散れ!」


 伸ばされた両腕にかまうことなく、頼仁はその懐剣を真っ向から突き刺した。

 囚人が大きくのけ反った。

 開いた囚人の口から、咆哮が響き渡った。

 頼仁の刺した傷から予想していた何倍もの血が噴き出る。再生するはずの傷口が囚人の肌をなぞるように広がった。


 その血からぞわりとした触角のような影が現れた。

 するすると伸びるそれは頼仁の手や足、首に巻き付いた。

「っ…………!」

「頼仁⁉」

 和孝は叫ぶ。

 だが、それが囚人の力の源であるということが頼仁にはわかった。

 今ならば、神気に満たされた自分の中で浄化出来る。


 ぞわぞわと影が皮膚を通して頼仁の中へと忍び込む。全身が粟立った。

 頼仁は懸命にそれに耐えようと歯を食いしばった。

 だが。

 その男の魂の記憶が頼仁の中になだれ込んだ瞬間、頼仁の腕から力が抜けた。



『じゃあ、いってきます。父さん、子ども達を頼むよ』

 知らないはずの声。だが、その脳裏に見たことのある人物が顔を見せた。

『これからお国のために働くってのに、お前ひどい顔しているぜ。朝飯は食ったのか? まだなら店の饅頭、一つ買っていけ』

 にこやかに饅頭屋の親父は笑って、これから徴兵で軍へと入る息子に声をかけた。

『買わせるなよ。普通は持って行け、だろ。息子からたかるなよ』


 そう言って、男は父親に精一杯の笑顔を見せた。己の意思とは無関係に入隊をする。危険な任務もあるという軍へ。

 父親は早く一人前になって店を継いでほしいと本当は願っている。

 子ども達だってまだ小さくて親に甘えたい盛りだ。

 だから、必ず生きて帰って来なくてはならない。何としても死ぬわけにはいかない。

 そう思って、そう願い続けていた。

 が。


『死にたくない……あいつらが、家族が待っているんだ……!』

 訓練中に起きた不慮の事故。全身に大怪我を負い、助からないと告げられた。

 最後に何か望むことはあるか。そう問いかけられた一言に、彼は望みを口にする。

 生きたい、と。

 ならば一つの実験体になれ。狂うかもしれない。生き残るかもしれない。

 目の前に垂らされた蜘蛛の糸。確実に死ぬか、奇跡を信じるか。選択肢のない道だった。


 彼はある意味で賭けに勝ち、ある意味で賭けに負けた。

 生き延びるための薬によって、彼の精神はことごとく破壊される。

 しかもそれは、完全に狂うわけではなく、時折正気に戻るという、完全に狂うよりもなお性質の悪いものであった。

 己の意思とは無関係に人を襲い始めたのだ。

 人を殺すのが楽しくて仕方がなかったのだ。


 だが、これでは家族のもとへは帰れない。生きていれば帰ることが出来ると。

 たとえ腕がなくなろうが足に障害が残ろうが、生きていれば帰ることが出来ると信じていたのに。

 あの牢に監禁され、男の心は体だけを残して死んでいった。


『俺を……殺してくれ……!』

 男の絶望的な叫びが頼仁の心をかき乱した。

「そう、か……」

 残酷な現実に吐き気がする。

 男は殺人鬼などではなく、どこにでもいる一人の人間だった。

 ふと、既視感のある姿が目に焼き付いた。


 男に薬を飲むよう命じた者。その男は薬に携わる首謀者であった。

 翻る銀の髪。特徴のある面。

 意識の中の光景が現実の世界と重なった。

 呑み込まれそうになる意識の端で頼仁は現実に戻るため、その名を叫んだ。

「焔……!」


 突如として。

 頼仁の目の前に割り込むように音も無く現れた焔は、流れるような動作で軍刀を抜いた。

 そして頼仁に絡み付いた影を断ち切る。

 それまで自分を拘束していた力が一気に緩み、頼仁は地面に倒れ込んだ。

 焔はそのまま襲いかかる囚人に手をかざした。


「――浄火」


 その瞬間、凄まじい火の手が囚人から巻き上がった。

「なっ……!」

 熱風が頼仁の頬を撫でる。

 それは囚人だけでなく、それまで頼仁に絡み付いていたものまでが霧散した。

 空気が驚くほど軽くなって、どっと息が楽になった。

 頼仁はぜいぜいと喘いで、顔を上げた。


 焔は涼しい顔をして、燃え盛る炎の中に手を突っ込む。

 男の胸に手を触れると、そのまま心臓をえぐり出した。

 真っ赤に燃え続ける心臓。

 鼓動をしていたそれは、やがて炎に包まれて消え、その手に残っていたのは、真珠のような小さな赤い実だった。

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