第9話 無力の声

 襟巻に顔を埋めながら、頼仁は気怠そうにあくびをした。

 その手には縄が握られている。

 隣に座る識は頼仁を睨んだ。

「頼仁。それを放せ。そしてこれをほどけ」

「断る」

 頼仁はにべもなく即答する。


「これでは逃げられぬよう手綱をつけられた飼い犬だ。こんな屈辱的な姿はない」

「俺だってやりたくてやっているわけじゃない。

 むしろさっきから他の奴らに、そういう趣味なのかよとか言われて、意味はわからないけど、すっごく不快だ」

 頼仁は不機嫌そうな眉を更に寄せて、くっきりとした皺を眉間に浮かべていた。


 爆発音に気を取られた隙を見て加賀地は識を殴り、転がった彼を見事な手技で縛りあげた。

 その横顔は恐ろしいほど涼しげで、人を殴ることも縛り上げることも手慣れた様子だった。

 そして現在その縄をまことに遺憾ながら、頼仁が握っている。


 事情を聞いた加賀地は和孝と、そして何故か喜直を誘ってどこかへ行ってしまった。そのため縄は必然的に頼仁が持つこととなったのだ。

 朽月は先程まで共にいたのだが、今は皆の分の筒を持って、水を汲みに行っている。

 頼仁は膝を抱えて、目を軽く閉じた。


 連れて行かれた和孝には何らかの処分が下るということが予測される。

 重大な事をしでかしたのだ。当然の結果だ。

 だが、頼仁の心は晴れなかった。こうなることを望んでいたはずなのに、どこかもやもやする思いを抱えていた。

 明けた朝の空は、頼仁の心を表すかのように雲がかった灰色だった。


「……どうして、和孝の肩を持った」

 沈黙をかき消すように、ぽつりと識が尋ねた。頼仁はむくりと首をもたげた。

「やっぱり昨日の俺達の会話、聞いていたのか。盗み聞きなんて趣味が悪いな」

「気持ち悪いこと言うな、とかほざく貴様の声で目が覚めたんだ。あんな中、寝ていられるか」


 頼仁は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「別に肩を持ったわけじゃ……」

「そんなに正体をばらされるのが怖かったのか。頼仁親王」

「…………うるさい」

 頼仁は舌打ちをしたい衝動にかられた。どこに行ったってこの肩書はついて回る。自分の意思とは無関係に。


「じゃあ、和孝をあの場で捕らえて、今のお前みたいに縛った方が良かったっていうのか。それとも突き出せば良かったのか。……くだらない」

 頼仁はそう吐き捨てたが識の眼差しは冷ややかなものだった。

 それが気に入らず、頼仁は縄から手を離すとそのまま識の胸倉を掴んだ。

「それと一つ覚えておけ。頼仁親王はもうどこにもいない。それ以上口にするな」

 凄んだが、識は一歩も動じなかった。


 すると突然、頼仁は背後から腕を引っ張られて、無理やり識から引き離された。

「何を……!」

 振りほどこうとしたら素早く手を後ろで捩じられ、動きを封じられてしまった。

「お止めなさい。また、問題を起こしてどうするのですか」

 背後から聞こえたのは、朽月の固い声音だった。

 さほど強い力でもないのに、彼女に抑えられた頼仁は動けなかった。

 朽月の苦言は頼仁だけでなく、識の方にも向けられた。


「あなたもどうしてそう、彼に一々突っかかるのですか」

 識が朽月の問い掛けを黙殺する。

 無視を決め込むつもりだったのか、それとも答えられなかったのかはわからない。

 とにかく識のその態度に苛立った頼仁は口を開いた。


「……自分が没落した宮家出身だからだろ」

 突然の暴露に識は頼仁をじろりと睨む。

 そんな彼の視線にかまうことなく、頼仁は朽月に拘束されたまま続けた。

「俺、お前とどこかで会ったことがあるなってずっと感じていたんだ。……思い出したよ」

 頼仁は顔を上げて、識を見据える。

「御所の園遊会の時、お前は一人離れて庭の木を眺めていた。あれは宮家ばかりが集まるものだった。なのにお前は、他の奴らよりずっと質素な格好をしていた。だから、記憶に残っている」


 何年前のことだったか、はっきりとは覚えていない。

 あの時も、親族が集まる時だというのに、頼仁はその場から逃げ出していた。

 一人で庭を歩いていたら、頼仁同様に一人、親族の輪から外れた者が池の傍で佇んでいたのだ。


「識って、識部宮のことだな。そしてお前は家を再興させるため、軍で身を立てようと入隊した。そんなところか」

 識部宮は頼仁から遠い血筋に当たる。宮家といえ皇族の末端であるため、生活は困窮を極めていたのだろう。

 識は肯定も否定もしなかった。長い沈黙が落ちた。そして。


「……そうだ。そしてそれこそがお前との決定的な違いだ。ついでに言うと、俺はお前みたいな奴が一番気に入らない」

 低く淡々と識は言う。


「どれだけ努力を重ねても、結局は地位や権力がものを言う。そのくせ大した才能もなくて努力もしない奴が上にのさばっている。俺は俺の力で家を再興させなければならないのに。実力が伴っていないからと、そろいもそろって潰しにかかりやがって。

 だから、大した努力もせずにぬくぬくと生きて、気にくわないことに不平ばかり言って人の行動を邪魔するお前みたいな奴は、俺の前に出てくるな!」


 識のそれは、頼仁だけではない、おそらく自分を取り巻く全ての理不尽―皇族や華族に向けての叫びだった。

 だが、それをぶつけられた頼仁の方はたまったものではない。

 頼仁は拳を握りしめた。

「勝手にぬくぬく生きていると決めつけるな!」

 そう叫んだ瞬間。


 拘束が緩み目の前に影が現れたかと思うと、横っ面を叩く音がした。

 かたん、という音がして足元に置かれていた筒が倒れた。水が零れ、地面に広がっていく。

 いつの間にか識の正面に立っていた朽月は、憤りの混ざった瞳で識を見下ろした。

「自分のことばかりで人の気持ちを考えることの出来ないあなたも、その上にのさばっている人間と大した差はないってどうして気付かないんですか?」

 一方、叩かれた識はそちらへ視線をやると、口を開いた。


「九条家の令嬢が、随分な礼儀だな」

 正体をあっさりと看破され、しかし彼女は驚いた様子を見せなかった。むしろ目を見張ったのは頼仁の方だった。

「九条って、五摂家か……!?」


 九条家とは一条、二条、近衛、鷹司に並んで代々摂政や関白の地位に上ることが出来る最も高貴なる家柄のうちの一つだ。

 もちろん立場上は帝の臣下であるが、歴史を辿ると外戚として政の中枢で権力を振るってきた。

 帝の地位が神格化した現代において、その権威は以前より落ちてはいるものの、一線を画していることに違いはない。


「なら朽月は偽名か」

 すると彼女は首を振った。

「朽月は母の名前です……。令嬢など……形ばかりのものです。たとえ認知されていても、庶子の身の上は知れています」

 庶子、と聞いて頼仁は瞬いた。識は一瞥した。

「九条家に引き取られた娘の話は一時期華族の間では有名だったからな。その人に媚びる笑い方、妾特有だな。吐き気がする」


「なっ……」

 識のあまりの言い草に頼仁が反論しようとしたが、それを柔らかい声が遮った。

「自分でもそう思います。本妻の奥方様から疎まれ続け、屋敷に追い出されないようにするには、笑って相手の機嫌をとることしか知らなかったですからね」

 切なく彼女は微笑んだ。


 本妻の子ではない娘の扱いなど、歩む未来は閉ざされている。良くて政治の道具にされることが関の山か。

「ここに来たということは追い出されたか」

 すると彼女は首を横に振った。

「いいえ。私は、私の意思でこちらへ参りました。追い出されたのではなくて……逃げたのです。あの屋敷から」

 静かにそう告げる。


 昨夜、彼女は頼仁の笑っている顔が好きだと言った。だが彼女自身の笑顔は人に媚びるために作られてきた痛々しいものだった。

「どこにいても居場所なんか、ありません。自分で作らなければそれは、ただのがらんどう、ですよ」

 どちらに告げたのかはわからない。もしかしたら、自分に言い聞かせたのかもしれない。

 彼女は零した筒を手に持つと、先程と変わらない足取りでその場を離れた。



「朽月」

 頼仁は河原で水を汲み直していた彼女へ声をかけた。

「……もう、九条でも藤子でも、呼び名は何でもいいですよ」

 九条藤子はそう言って顔を上げた。そして、申し訳なさそうに微笑む。

「すみません。私も問題行動を起こしてしまいましたね」

「あれぐらい、いいだろ。仕置きも必要だとか、加賀地の奴も言っていたし」

 そして頼仁は小さく言った。


「……あ、ありがとう」


「え……」

 藤子が小首を傾げると、頼仁は少しむくれたように言った。

「ありがとうと言ったんだ。一回で聞き取れ」

 言いなれない言葉に、頼仁は頬が熱くなるのを感じた。

「識を引っ叩いてくれたことと、俺を何度か庇ってくれたこと。……感謝してる。それと……昨日は掴みかかって悪かった……」


 照れくさいのか全力で目を逸らす頼仁。

 そんな素直ではない様子に、藤子は小さく笑った。

「何?」

「いえ、お礼を言われて嬉しかったんです」

 そう言って彼女はにっこりと笑った。


「ありがとうと言って下さって、ありがとう」


 その顔に浮かんでいたのは、誰かに媚びるためのものではない、純粋な笑みだった。

 突然頼仁の心臓が意味もなく跳ねた。礼を口にした時以上に顔が熱くなった。

 頼仁は即行で流れる水に手をつけると、頬の熱さを誤魔化すようにばしゃばしゃと洗った。

 何でこんなに恥ずかしいのかわからず、頼仁は今この瞬間だけは父である帝の鉄仮面が心底羨ましく思った。


 冷えきった水で顔を洗うと、幾分か落ち着いて頼仁は一つ深呼吸をした。

 水のせせらぎが、戸惑いや気まずさを流していくようにさらさらと響いた。


「お前も……両親のことで苦労していたんだな」

 頼仁は襟巻の裾で水気を拭くと立ち上がった。水辺で穏やかに待っていた藤子は目を細めると、視線を水流の向こうへとやった。

「本当は逃げたくなんかなかったのですけどね」

 藤子はそう呟くと、今度は頼仁の方を向いた。

「でもあなたの方がご苦労をされていたでしょう? 皇后さまも早くに儚くなられましたから……」


 頼仁と兄の信仁の母である皇后は、頼仁生誕後、産後の肥立ちが悪く息を引き取った。

 だから頼仁は、母のことを伝え聞いた話でしか知らない。

「母である皇后が生きていても、それはそれで苦労してたと思うけどな。……性格は相当きつくて周りも恐れていたって聞くし」

「そうだったのですか……。とてもお強い方だったのですね」

 聞いた話なんだが、と前置きをして頼仁はわずかに伝え聞いている伝説を口にした。


「兄は母親からの期待が辛すぎて、七歳の時に心労から吐血したとか。

 国外からの来賓の無礼な振る舞いに堪忍袋の緒が切れて、皇后が直々に一喝したとか。

 名が咲葵子さきこといったんだけど、あんまりにも厳しい性格だから帝は日記の中で咲鬼子と書いていて、正式な書状にうっかり鬼の字の方を書いてしまって全部書き直しになってしまったらしい」


「それは……冗談みたいな話ですね」

「配偶者が死んでも泣かない、血も涙もない奴の唯一の人間らしい逸話だよ。俺は悪口のつもりで言ったんだけどな」

 そう言う頼仁の横顔が、藤子には少しだけ寂しげに見えた。


 たっぷりと水の入った筒を手に、もとの場所に戻ると軍人の姿が見えた。識に何かを告げているようだった。

「ああ。君たちも丁度良かった」

 近付くと、軍人は頼仁らにも顔を向けた。一方の識は先程と表情はあまり変わらないものの、焦燥のようなものがうっすらと滲んでいる。頼仁は嫌な予感がした。

「何かあったのか」

 識は重々しい口調でゆっくりと言った。

「死体が、見付かったそうだ」



 茣蓙の上に数体の死体が横たわり、その上にさらに茣蓙を被せていた。

 和孝と喜直も他の軍人達と同じようにその死体から少し離れた所に佇んで、痛ましげな瞳で物言わぬ彼らを眺めていた。

「そこの炭焼き小屋で見つかった。一家全滅、らしい」

 軍曹が淡々とした声音で説明する。

 うっすら漂う死臭を感じて、頼仁は顔が強張った。

 骨になった人間とは全然違う。昨日まで紛れもなく人だったものが、今目の前で死体となっている。


 被せた茣蓙の大きさが足りず、隠しきれなかった部分から、幼い子どもが母親の胸に抱かれたまま絶命しているのが見えた。

 死後硬直しており、関節は固まったままでその姿勢は動かない。

 それはまるで、母親が死んでからも子どもを守り続けようとしているかのように感じた。


「一人、生き残りがおりました!」

 軍人の声が響いて軍曹はさっと顔を向けた。

「何?」

「どうやら水瓶の中に隠れていたようです」


 しばらくすると、別の軍人に引き連れられた幼子がやって来た。

 髪は肩口で切っており、着ている物は粗末な物だった。

 何よりも頼仁がぎょっとしたのは子どもの表情だった。

 人間というのは衝撃的なことがあれば、一晩で人相が変わってしまうのだろうか。

 恐怖に慄いたまま固まってしまった、そんな表情を浮かべていた。


「先程から何が起こったのか、何か見たのか尋ねているんですが……この様子で」

「仕方なかろう。何があったのか、そんな愚かな質問などせずとも、小屋の状況を見ればわかる」

「ですが、奴が一体どこに行ったのかぐらいは聞き出せれば捜索の能率も上がります。おい、お前。家族の仇だぞ。何か見ていないのか」

 その子どもはがちがちと震えたまま、軍人から問い掛けられる問いに返せないでいた。

 軍人の無慈悲な対応に、頼仁はよほど止めろ、と言ってやろうかと思った。


 ふと、子どもは視線の先にあった茣蓙を見る。

 その子どもは軍人の詰問など耳に入らない様子で、よろよろとした足取りで茣蓙へと向かった。そして、崩れ落ちるようにぺたりと座り込んだ。

「……おっかあ……おっとう……」

 感情の抜け落ちた瞳で、それを映す。

「……じさま……ばさま……」

 ひび割れた瞳は、痛々しく。声はひどく掠れていた。

「……あんちゃん……」

 そして、腕の中で冷たくなった弟の名を、紡ごうとし。それは音にならなかった。


「…………う……う……うわあああああああああああああああああ」


 それは天を切り裂くような悲惨な叫びだった。

 狂ったように叫び続ける子どもを見て、頼仁は一歩も動けなかった。

 その姿が自分の幼少期とどうしようもなく被さった。

 この世は理不尽に満ちている。一方的な暴力。それを甘んじて受けるしかない弱者。

 それが当たり前なのかもしれないと心のどこかで思っていた。


 けれど、本当は。

 そんなふうに思っている自分と、そんなふうにしか見られない世界が嫌だった。

 頼仁の心の凍っていた箇所に、その波紋が広がった。

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