第7話 真夜中の邂逅

 静寂が闇を覆っている。

 焚いていた炎は消え、見えるのは離れた所にぽつり、ぽつりとある小さな篝火だけだ。

 秋の終わりの野営地は虫の音色すら聞こえず、静まり返っていた。

 時折、思い出したように梟が鳴くぐらいか。


 そんな中。他の者が睡眠をとっているにも関わらず、和孝はむくりと起き上がると一人歩き出した。枯れた草を、音を立てないように踏みしめる。

 異常なほど慎重に動くその背中に、声をかける者があった。


「おい、どこに行くんだ」


 和孝はゆっくりと振り返った。声の主がわかったからか、さほど驚いた様子はなかった。

「小便だよ、頼仁も来るか?」

「ふうん、じゃあそうしようかな」

 声の主である頼仁は、内心を気取られないように並んで歩いた。

 だが、その瞳は獲物を密やかに狙う梟のようだ。

 頼仁は待っていたのだ。彼が一人で動くのを。


 頼仁の内心を知らずに、和孝は人の良い笑みを浮かべた。

「俺がいて、良かったな。一人で怖かったんだろ?」

 和孝の一言に頼仁は眩暈を覚えた。

「あ……?」

「寝息があんまり聞こえなかったから、実はこっそり起きていて、誰か起きるのを待っていたんだろうと思ったんだよ」

 怖がり扱いされたことに頼仁の頬は引きつった。


「……なわけないだろ。そんなのお前と話す口実だ」

「口実? お前、そんなに俺と二人っきりになりたかったのか。まいったな、男にまで好かれるなんて」

「気持ちの悪いこと言うな!」

 頼仁は吠えた。今この瞬間、探りにいこうとしていた気力が完全に消え失せた。

「慕われているという意味で言ったんだぜ。はっ、まさかお前俺のこと本気で…」

「……それ以上言ったら絞めるからな」

 拳を握りしめて構えると、ようやく和孝はからかうのを止めた。

 ここでようやく頼仁は自省する。完全に和孝の調子に巻き込まれていた。

 呼気を整えて落ち着いた頼仁は、少し前を歩く和孝に問い掛けた。


「和孝。お前は一体何を知っているんだ?」

「何の話だ」

 肩をすくめた和孝に、頼仁は追及する。

「とぼけるな。お前、あれが何かの実験にされているの、知っていただろう」

 和孝がすっと真顔になった。同時に彼がまとっていた軽い空気が立ち消える。

「それだけじゃない。あの男を、逃がすように指示を受けていただろう」

「……俺が何で」


「だって、お前だっただろ。あの扉を開けたのは。

 それにお前、静か過ぎるんだよ。朽月が推測を話している時。その割には軍の内情に妙に詳しい。もしかして何か知っているんじゃないかと思ってさ。まあ、予想通りだったみたいだな」


 頼仁は一気に言い切った。実を言うと根拠は薄く、己の直感に従った確率の低い賭けだった。だが、違和感の正体は彼であることは間違いなかった。

 もっとも、これでとぼけられても、それはそれでかまわないと思っていた。

 少なくとも圧力をかけることが出来る。

 だが、和孝の今の様子だけで何かを知っているということは明白だった。


 頼仁の視線を和孝は真正面から受け止めた。一方的な睨み合いがしばし続いた。

 風一つ立たない野営地は痛いぐらいに静かだった。

 しばらくの沈黙の後。逃げられないと悟ったのか、和孝は溜め息をついた。


「頼仁。思ったことを口にするのは悪いことじゃねえが、もう少し俺のことを慮ってくれてもいいんじゃね? 誰かに聞かれたらどうするんだよ」

「あいにく、思いやりなんて持ち合わせちゃいないんでね」

「軍曹だけじゃなく、俺達のことも信用していなかったんだな」

「当たり前だろ?」


 頼仁は鼻で笑った。そもそも頼仁は誰のことも信用していない。

 心を誰かに預けることなど一度としてなかったのだから。

 和孝は後頭部をがしがしと掻いた。どう説明をするべきか、本気で悩んでいる風情だ。もっとも、それは表面上の行動かもしれないが。

 しばらくして漸うと和孝は口を開いた。


「あのさ。俺も全部は知らされているわけじゃねえんだ。

 確かに俺はあの倉の扉を開けた。そうするように指示されていたからな。

 何で、なんて考えちゃいなかった。そうしろって言われたからそうしただけだ。

 正直な話、俺もどうしてそんな指示を出されたのかよくわからねえ。

 ある程度確証もないのに口に出したら、さらに皆が混乱するだろ。

 わからねえのは俺も一緒だ。だから……もう少し待っていてくれねえか」


「……そうやって、明日も素知らぬ顔をするのか。わかっているのか?

 お前の解き放った奴は快楽殺人者……いや、殺人鬼だ」

「知らなかったんだよ!」

 荒げた語気を、ふっと和孝は弱めた。

「いや……嘘だ。知ってたけど、ここまで大事になるなんて思わなかったんだ。すぐに捕まって終わると、そう考えていたんだ」

 頼仁はすっと目を細めた。


「浅はかだな。お前の愚かさが今の事態を招いているんだ」

「頼仁」

 名前を呼ばれて頼仁は顔を上げる。

 すると、彼は少しだけ傷付いたような眼差しを、頼仁に向けていた。

 何故かそれが頼仁の胸の奥をちくりと突いた。

 自分でもわからないその感覚に、頼仁は困惑した。


「正直なのは悪いことじゃねえ。でもな、そんな言い方ばかりしていると、いつか皆に嫌われて一人になっちまうぞ」

「……俺は別に……かまわない。独りでいい」

「本音と建て前を使い分けろ、という意味だ。正直なのは悪いことじゃねえけど、生きにくいぞ」

「俺はそんなふうには生きられない」


 大人がつく嘘。お世辞という名の優しい嘘も、見え透いた同情心も、幼かった頼仁はすぐに見抜いてしまった。

 子どもだったから悟ってしまったのかもしれない。

 和孝は頼仁の返答に複雑な表情をすると、ほんの少しだけ―憐れみのようなものを滲ませた。

 そして、彼は口にする。


「なるほど。だから宮を追い出されたのか。頼仁親王」

「なっ……!」

 和孝の思いがけない一言に、今度は頼仁が息を呑む番だった。

 和孝は数歩分だけ、頼仁に歩み寄る。

「ある人が教えてくれた。俺に指示を出した人だけどな」

 とん、と和孝は頼仁の胸を拳で軽く叩いた。頼仁の体は無意識に強張る。


「お前の身分を黙っておいてやるから。この件は互いの胸の内にしまっておこうぜ」

 頼仁は動けなかった。どくん、と心臓が音を立てる。

 一方で和孝は落ち着いていた。相手を黙らせたことに対する高揚感も、焦りも何もなかった。

 彼は、頼仁の出す答えを始めからわかっていたのかもしれない。


 しばらくの沈黙の後、頼仁はやっとの思いで口を開いた。

「わかった……他の奴にも言わない」

 和孝の口元がうっすらと安堵でほどける。

 でも、と頼仁が被せる。

「勘違いするな。言う必要がないから言わないだけだ。俺はお前と共犯になるつもりはない」

 頼仁なりの返答に、和孝は少しだけ微笑む。


「ありがとな。頼仁」

 その言葉を最後に、和孝は頼仁から離れた。篝火の焚かれている方角へと立ち去っていく。その後ろ姿を頼仁は茫漠とした思いで見つめていた。

 何をしに行くのか聞きたかった。だが、つまらない意地がそれを阻んだ。


「……ああ、くそっ」

 頼仁は息を吐き出してその場にうずくまった。

 結局、何も聞き出せなかった。それどころか、思わぬ反撃に完全に絡めとられた。

 親王の位など捨てたつもりでいたのに。いざ、それを突き付けられると驚くほどうろたえた。他の者達にばらされたくなかったのだ。


 ……あることに気付いて頼仁は愕然とする。親王と知られて距離をとられたくなかった。余所余所しい態度に出られるのが嫌だった。

 負けない、と決めたのに。何をやっているのだろう、と思う。

 ひたすら自分の弱さを突き付けられている。

 頼仁は、重く、こごった溜め息をついた。


 頼仁が同年代の人間とまともに付き合うのは、実はこれが初めてだった。

 頼仁自身が誰かに頼ることは皆無だったし、今でこそ多少落ち着いているものの、昔は誰かれかまわず突っかかって行った。

 同年代の子と出逢うことは稀であったのに加えて、どう対応したらいいのかわからなかったのだ。


 従兄弟などもいたが、御所における数少ない集まりに頼仁が出席することは数えるほどしかなかったし、向こうも向こうで遊ぶ相手が決まっていて、頼仁はその輪に入れなかった。

 宮の外では自分より年下の子どもと遊んでいたが、それは頼仁の年齢が十を超えてからであって、その頃の年の子は皆学校に行ったり、親の手伝いをしたりしていた。


 自分の矮小さを、頼仁は嫌というほど思い知る。

 今日初めて自分と年代の変わらない者と出逢って。自分と少しだけ上の年齢というだけなのに。心も体も、自分よりも卓越しているように感じた。


 大事なものを奪われても、憎んだのは自分の弱さだと言い切った彼。

 耳を背けたくなるような話を真っ向から受け止めた彼女。

 自分にはないもので。ただひたすら羨ましかった。

 そして羨むしかない自分がひたすら疎ましかった。


 戻ろうと頼仁はようやく思った。どう頑張ったって、自分は自分以外になれないのだ。そんなことに感傷的になる方が馬鹿馬鹿しい。

 手足を伸ばし、ゆっくりと立ち上がる。しかし、その動作がふと止まった。


 いつの間にか、周囲はうっすらと白い霧に包まれていた。

 さっきまで見えていたはずの篝火も見えなくなってしまっている。

 頼仁はまいったな、と口の中で呟いた。これでは方角がわからなくなってしまう。

 それほど離れてはいないから大丈夫だろうが。


 ざり、と奇妙な土の感触に頼仁は眉を寄せた。

 この地帯はもう少し柔らかい枯草で覆われていたはずなのだが。


 ふと視界の端で子どもの姿が見えて、頼仁は目を見張った。

 背丈は頼仁よりずっと低い。

 こんな夜中にどこに行くのだろうか。

 ここは軍の野営の場だ。勝手に入り込めば確実に咎められる。


「おい、そんなところで何をしている」

 声をかけたが、子どもはまるで頼仁の声に気付いていない。

「おい!」

 頼仁が苛立たしげにその手を伸ばす。触られるのは苦手なくせに、触れるのは平気なのだ。

 我ながらよくわからない体質だと思いつつも、あと少しで手が届くというところで。


 突然子どもは振り返った。そしてすっと頼仁の体を通り抜けてしまった。

 頼仁は愕然とした。自分の体をすり抜けるという有り得ない出来事以上に、その子どもの姿に頼仁は我を忘れるほど驚いた。

 今のは。幼い頃の自分に酷似していなかったか。


『何をされているんですか』

 衝撃で動けない頼仁の背後で冷めた子どもの声が響いた。

 その声が向けられているのは自分以外の人間だと何となくわかった。

『天に向かってお祈りをしていたのだよ』

 この声は。今より少し高い声。兄の信仁の声である。


 頼仁はこの会話に覚えがあった。御所から帰ってきたばかりの頃だ。

 最も心が荒んでいた時で。一方の兄の信仁は、今の頼仁と同じぐらいの年であったか。

 頼仁は背中で彼らの会話を聞いていた。


『お祈り?』

 胡乱気な声で幼い頼仁が尋ねると、信仁はうん、と丁寧に答えた。

『天は神であり、神は私達の祖先であると言われている。だから、こうやってね、毎日お祈りをしているんだ。皆を護って下さるように、と』

 その時、頼仁は一笑に付した。

 そんなもの、効くわけがない、と。


 帝は祈りを捧げ、天にいる神と心を通わす。そうした上で、国を守るのだ。

 でも、当時の頼仁はそれを信じられなかった。

 だって――。


『大丈夫、神様にはきっと頼仁の声も届いている。やってごらん』

 そう兄に促されてその時の頼仁は渋々手を合わせた。

 柏手を打つ。

『頼仁、かけまくも畏み畏み物申す。願わくば、闇に出でたる塵芥ちりあくた、祓いたまえ、清めたまえ』

 静かな夜は音も無い。祈りは悲しいぐらい届かない。

 そのことを兄に言うと、彼はううんと困ったように首を傾げた。

『――大事なのはね……』

 ……………………

 ………………

 …………


 はっと我に返った頼仁は瞬いた。気が付くと荒れ地で横になっていた。

 頼仁はかすかに身じろぎする。

 いつの間に戻って来たのだろう。目の前には、先程の焚き火の残骸があるのが暗闇でもわかった。

 近くには喜直が寝転がってくうくうと寝息を立てていた。

 霧などはまったく立ち込めていない。

 天には夜空が広がっている。松明が遠くで燃えている。


「……夢……?」

 頼仁は思わず呟いた。

 どこからが夢だったのだろう。

 見渡したが、和孝の姿はなかった。和孝と話をしたことは現実であると思うのだが。

 虫の音一つない死に近い世界。

 ここは鳥辺野。死者が葬られる土地。あの世とこの世の境目。


「幽霊でも、化けて出たか……」

 頼仁は自嘲気味に笑った。

 過去をかき乱し、どうもおかしくなってしまったのかもしれない。

 少し。いや、とても疲れた。

 頼仁は額に手を当てた。瞳を閉じると、今度こそ静かに眠りに落ちていった。

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