第6話 野営
夜。煌々と照らされた松明から少し離れた所で、頼仁は腰を下ろしていた。
軍の捜索隊は陣をかまえていた寺を離れ、北へと移動した。
捜索は夜間で打ち切りとなり、今夜はこちらの荒れ野で夜を明かすという。
野営であるため、篝火が焚かれているだけの、完全な野宿であった。
今のところ、逃亡中の男はおそらく北に向かったと思われている。
捜索隊が夕方から移動を開始したのもそのためだ。
捜索隊の情報網と行動力は頼仁らが考えていたよりもずっと速く、候補生の収集した情報など、数あるうちの一つか二つに過ぎなかった。
現在は東西南北全ての隊が北に向けて包囲網を狭めており、遅くとも明日には結着がつくだろうと予測されていた。
ほうほう、と梟の声がどこからか鳴り響く。
目の前の焚き火を、頼仁は無言で見つめていた。ゆらゆらと小さな炎が目の前で踊る。
頼仁の隣にいるのは朽月で、他の三人は食料をもらいに行っており、まだ帰って来ていない。
日が暮れると、めっきりと寒くなる。
口には出さないものの、膝を抱えて小さくなっている朽月の様子を見かねた頼仁は、襟巻を外すと彼女に向かってぞんざいに突き出した。
「使いたきゃ使え。襟巻じゃなくて、巻物みたいになってるけど」
「……ありがとうございます」
朽月は驚いたように瞬いたが、素直に受け取り首に巻いた。先程までの頼仁の体温が残っていて、仄かに温かい。
何だかんだ言っても、彼は自分よりも弱い立場の人間は放っておけない性格らしい。その不器用な優しさが彼女には嬉しかった。
「腕の具合は、どうですか」
そう尋ねると、頼仁は思い出したかのように改めて右手を曲げ伸ばしした。肘を伸ばした時の痛みはもうほとんどなかった。
「効果はあったみたいだな。今はもう、何ともない」
「それは良かったです」
まるで自分のことのように朽月は安堵して微笑む。頼仁はそんな彼女の反応に、素っ気なく返した。
「別に怪我は小さい頃からよくしていたし。痛みには慣れている」
「それは……」
衣の下にあった傷跡を思い出し、朽月はわずかにたじろいだ。
それを敏感に察した頼仁は険を帯びた瞳で睨んだ。
「言いたいことがあるなら、はっきり言え。俺はそんなふうに腫物扱いされることが一番嫌いだ」
その声音は固い。
倉で暴れて乱れた衣服や、触れられることへの拒絶を見せたことから何となく察してはいたが、朽月の今の様子から、頼仁は自分の古傷を目にされていることを確証した。
朽月は動揺をしつつも、手を握りしめると口を開いた。
「辛い経験をされたのかと思って……でも、言いたくないことなら、言わなくてかまいません。誰だって……言いたくないこと、触れられたくないことがありますから」
「ふうん……お前にもあるみたいだな。そういうこと」
頼仁は自嘲気味に唇を釣り上げると、衣の上からそっと太腿の傷跡をなぞった。
肉が一度欠け、再び盛り上がった傷口は衣の上からでもよくわかるのだ。
これらの傷のせいで、頼仁は人に体を触れられるのも、肌を見せるのも抵抗があった。
だから着物も女官の手を借りることなく自分で着る。
そうした頑なな態度がさらに己の評判を貶めているのはわかっていたが、こればかりは直す気もなかった。
「いいよ。今日、俺のことを庇ってくれた礼に特別に教えてやるよ」
頼仁は努めて感情の抑えた声で、静かに話し始めた。
「…………小さい頃、養子に出された時に、だよ」
何がきっかけだったのかはわからない。ただ、気が付いた時にはそれが日常になっていた。殴られることが当たり前。それが頼仁の物心ついた時からの感覚だった。
皇族の男児は大抵の場合、一度宮の外へ養子に出される。
頼仁もそれは例外ではなく、彼が出されたのは裕福な地主の屋敷で五歳の時のことだった。
始めはしつけの延長だったのかもしれない。
今となっては知るすべもないが、とにかく頼仁は日常的に養父から暴行を受けるようになった。
外面は完璧に人の良い養父だったが、その裏の顔は己の妻や子にも力で支配する暴君だった。
頼仁への扱いが特に酷かったのは、全く恭順する素振りを見せなかったからだろう。
物が無くなったからと言っては殴り、粗相をしたからと言っては蹴り付けた。吐いて昏倒するまで暴力を振るい続けたのも一度や二度ではない。
少しずつ、酷くなるその仕打ちに幼い頼仁の心は瓦解していった。
どうして殴られないといけないのか。何故、痛めつけられないといけないのか。
疑問に思うことすら出来なくなっていった。
文字通り、精神が崩壊するまでに追い詰められていた。
たった一つの感情だけが、心の底でくすぶった。
そして御所へと引き取られたのは七歳の頃。頼仁の衰え具合が目に見え始め、役人らの手によって連れ戻されたのだ。
頼仁を虐待した養子先にどのような処罰が下されたのか、頼仁は知らない。壊死したその心に、関心すら抱かなかった。
終わったかのように見えた悪夢は、それでも頼仁を取り巻き、苛み続けた。
時折発作のように訪れる激しい苛立ちが、抑えようのない怒りとなって爆発をした。
それは明らかに異常なもので、女官らの手に負えるものではなかった。
数年が経ち、少しずつその発作の頻度は減っていったが、頼仁のそれを本当の意味で理解しようとする者は誰もいなかった。
父は子どもに対して関心を見せることはほとんどなく。唯一兄だけは温かく接してくれたが、恵まれた環境で育った兄に対し、頼仁が心許せるわけもなかったのだ。
「…………」
乾いた音がして、火の粉の爆ぜる音がした。一通り話し終わった頼仁は無言で冷えた手を炎にかざした。
親王の身分は隠すため、ところどころ端折ったが、大筋は変わらない。
自分の忌まわしい記憶を口にするのは、想像以上の精神力が要った。
大したことではない、とうそぶきながらそれは、彼の心の奥にまで侵食していた。
自分の心がどれだけ不安定になっているのか。頼仁自身は無自覚だった。
彼女に話したのは聞いてほしかったからかもしれない。それとも昼間に聞いた喜直に触発されたのか。彼のように話したかったのかもしれない。
凄絶な過去に、大人しい彼女はどのような反応を見せるだろうか。頼仁はそっと視線を滑らせた。
朽月は沈黙をしていた。くせのある横髪が彼女の表情を隠す。やがて彼女の薄い唇がゆっくりと開く。
「教えて下さって、ありがとうございます」
つい、と丁寧に頭を下げる。
予想外の反応に頼仁は愕然とした。
彼女の声音に動揺の色はほとんどなく、穏やかで、静かだった。
だが。
彼女は顔を上げると、うっすらと瞳が潤んでいた。
頼仁の心臓が思いもよらず、跳ねる。
そうして。
「……お辛かった、でしょうね」
発せられたその言葉に、頼仁の中の何かが音を立てた。
「……お前なんかに、俺の気持ちがわかってたまるか」
頼仁は一息で詰め寄ると、首を絞めかねない勢いで彼女の胸元を掴んだ。
「そんな感情あるわけないだろ。いいか、俺は辛かったんじゃない、憎かったんだ。
養子先の奴も、女官も、父上も、その取り巻きも、あと、兄上も、全員まとめて殺してしまいたいほど憎かったんだ。辛いなんて生ぬるい言葉で、俺に同情なんかするな……!」
朽月は静かにそれを受け止めていた。
彼女の腕ならば、振り解こうと思えば振り解けただろう。
だが、朽月はそれが出来なかった。
ぱたぱた、という雫が頼仁の頬を伝って零れていたのだ。
発する言葉は口汚いのに、歪んだ顔はとても悲しそうだった。そしてもっと悲しいと思ったのは、その全てを悲しいとすら思えない、擦り切れてしまった彼の心。
朽月は手を伸ばして、頼仁の頬に触れた。
拭われた涙で頼仁は初めて自分が泣いていることに気が付いた。
それでも憎々しげに、朽月をねめつける。可哀想な奴、と思われるのだけは我慢がならなかった。
どれだけそうしていただろうか。頼仁の握った拳が白く、色をなくしていた。
爪が食い込んで、食い込み過ぎて、痛みの感覚が麻痺していた。
朽月は少年の激しい感情に翻弄されながらも、表面上は落ち着いてそっと彼の拳に手を置いた。
「ごめんなさい……あなたが憎むのは当然のことだと思います。だって、あなたは何一つ、悪くないから」
微かに頼仁の手が震えた。それに気付かない振りをして、朽月は少し目線を遠くにやる。そうして夜空を見上げながら唇に言葉をのせた。
「でも、笑って、子ども達と遊んでいる姿を見ると、普通に優しい人なんだ、と思いました。憎しみも、辛かった出来事も背負って、それでも優しく笑っていて……。あなたの笑っている顔、私は好きですよ。だからきっと……そんなふうに笑うことの出来るあなたは強いのだと思います」
くしゃりと、彼女は笑った。
「いつか、あなたの傷が癒されることを、私は祈っています」
怒りを爆発させた後、頼仁は我に返った。
頼仁はそれまで掴んでいた手を離すと、思わずその場を逃げ出した。
どくどくと全力疾走する鼓動を抑えて、ただ足を進める。目的などない。
途中、歩いていた一等兵の一人にぶつかり、よろめいた。大丈夫か、と声をかけられた気がしたが、返事をすることすら出来ず頼仁は再び歩き出した。
「…………くそっ……」
自分の失態を許せず、自分自身に悪態をつく。
この世の不幸を一身に背負ったような醜態を晒したことが、たまらなく恥ずかしかった。
もう平気だと思っていたのに。あれから何年も経つ。だが、あの忌まわしい記憶は予想以上に頼仁の記憶に深い根を張っていたのだ。
頼仁は一度立ち止まると、冷えきった空気の中、息を吐いた。
汚れた塵が空にも立ち込めている。冴え渡る月もどこか霞んでいた。
この世は全て、穢れている。人間なんて、一皮むけば悪人となりうる。
だから人間が嫌いだった。
でも、それ以上に嫌いなのがそんな人間に負けてしまう弱い自分だった。
頼仁は怒りをぶつけてしまった己の両手を広げた。掴みかかった、行き場のない感情。
――あなたは何一つ、悪くないから
朽月の声が突然蘇って、頼仁は自分でも驚くほど動揺した。
そんなこと、言われなくても自分が一番わかっている。だから他の誰が何も言わなくとも関係ないはず、だった。
なのに。どうしたって彼女の濡れた瞳が頭に焼き付いて離れない。
息をすればするほど苦しくなる胸をおさえる。
「……俺の中に、入って来るな」
落ち着くまで目を閉じて、何度も何度も深呼吸をする。そうやっていると、波立った感情も少しずつ治まっていった。
「おーい、お待たせ」
呑気な声が聞こえて、頼仁はまぶたを開けた。
見ると喜直が大きく手を振って、こちらに向かっていた。和孝の姿も見える。
頼仁は内心の動揺を気取られないように平静を装って彼らを待った。
今しがたの出来事を知られるなんて、屈辱以外の何ものでもない。
「俺達下っ端までなかなか飯が回らなくってよ、結局おにぎり一人一つしか当たらなかった。すまん」
「いや、かまわない。識の野郎は?」
彼の姿だけ見えないことに気付いて、頼仁は周囲を見渡した。
「水汲みの手伝いに行った。あいつ、意外とそういう面倒な仕事はやってくれるんだ」
意外と良いところもあるんだよなあと和孝が呟いた。
頼仁は彼らと共に朽月のもとへと戻った。
気まずかったが、自分が平然としている方が彼女も余計な気を使わないだろうと思い、何事も無かったように振る舞うこととした。
竹の皮に包まれたすっかり冷たくなった握り飯を手に取り、一つを朽月に差し出した。
一応、先程の八つ当たりに対する侘びのつもりだった。
だが、朽月は身動き一つしない。
その視線は先程頼仁が貸した襟巻の文字に注がれている。
「朽月?」
頼仁が声をかけると、朽月はゆっくり瞬き一つすると、顔を上げた。
彼女と視線がかち合う。先程の出来事を思い出し頼仁は動揺しそうになったが、精神力を総動員して全てを抑え込んだ。
朽月は頼仁の内心を知ってか知らずか、落ち着いた瞳で三人を見渡した。
「あの、先程のこの文字について一つ思い出したことがあります」
朽月は頼仁の襟巻に書かれていた『非時香果』を指して言った。
「トキジクノカク。読み方が変わっているため、すぐには思い出せなかったのですが、今にして思えば、たぶんこれのことだと思います」
冷えた握り飯と、識の用意した水をそれぞれ腹に収めると、焚き火を囲った四人を前に、朽月は話し始めた。
「兄から一度、聞いたことがあるのです。私の兄も、軍と関わりのある仕事をしているのですが、彼はこう言っていました。ただ人間を育てるだけでは、諸外国に勝てるわけがない。それを上回る能力が必要なのだ、と」
日本皇国は開国以来、諸外国―米国、英国、ロシア、フランス―と渡り合うため、富国強兵のもとに、目覚ましい発展を遂げた。
不平等条約も改正され、アジアの中でもその存在を日増しに高めつつある。
が、それだけだ。
あくまでも日本皇国はアジアの小国。現在の独立は各国の複雑な思惑の上に維持されているにすぎない。
少なくとも、そう他の国々は認識していた。
そして日本皇国はその認識を覆そうと躍起になっているのが現状だった。
「能力って例えば?」
頼仁に促されて、朽月は続けた。
「治癒能力や筋力の向上。あれは……明らかに、鍛えただけの力ではありません。何らかの薬を与えられたというのが、しっくりきます」
倉で遭遇した男の様子が脳裏に蘇った。異常な跳躍力、折り曲げられた鉄の棒。骨を砕かれてもびくともしない強靭な肉体。
頼仁はふっと息をつめて腕をさすった。腕を捻り上げられた時の痛みが蘇った気がしたのだ。
「薬って、阿片とか?」
あれこれと考えていた喜直が問い掛ける。それに、否定をしたのは識だった。
「阿片の効力は鎮痛および睡眠だ。不法な所持および売買は禁止されているが、医療用のための使用ならば認可されている。例えば手術の麻酔などに」
その隣で和孝がうんうんと頷き同調した。
「あ。そうなのか」
喜直は得心した表情を浮かべた。
「で、その薬がこの『
頼仁の問いに朽月は曖昧に頷いた。
「かもしれません。もしかしたら見当外れのことを言っているかもしれませんが」
頼仁は記憶を遡ったが、そのような薬の名前は聞いたことがなかった。
皇族男児である頼仁は教育もそれなりのものを受けてきたので、知識と教養は他の者にひけをとらない自信がある。
だが、医学などの専門的なものは未知の領域だった。
喜直が手を上げた。
「気になったんだけど。筋力の向上って、体を筋肉質に変えること?」
「どうなのでしょうね……」
朽月はわからないと首を振る。彼女の持っている知識はそこまでらしい。
「それがどうした?」
頼仁が尋ねると、喜直はいたって真剣な顔で疑問を口にする。
「いや、俺の個人的な興味のあるところなんだけど……つまり、腹筋とかばっきばきに割れるのか?」
「さ、さあ……?」
「気になるとこ、そこなのか?」
和孝が思わず聞き返した。
頼仁は呆れつつも倉の外に出て来た時の姿を思い返した。
「あの男はそんな筋肉質には見えなかったな。見た所、普通の人間と変わりない……むしろ細いくらいだった」
ふと頼仁の脳裏に何か奇妙な感覚が走った。
今まで見落としていた何かを気付いてしまった気がする。
だが、その違和感の正体がわからない。
頼仁はもう一度、倉で起きた一連の出来事を脳内で再生する。
「まだ実験途中かもしれねえな。軍が何を考えているのかは知らねえけどよ」
和孝はぱきっと小枝を折って、火の中へ入れた。ぱちぱちと枝が燃える音が響く。
「国益のために犯罪者を利用した人体実験、か。世間に知られたら、
枝をくべてわずかに大きくなった炎が、ゆらゆらとそれぞれの顔の輪郭を映し出している。
識はそれを眺めながら、ぼそりと呟いた。
「……人間兵器になるかもしれん」
不穏な一言に、周囲の空気がすっと冷えた。緋色の炎が不気味に燃え盛る。
頼仁は乾いた息をこぼした。人間兵器、という言葉で思考の淵から現実に引き戻されたのだ。
「ありうるな。成功した暁には、とんでもないものが出来そうだ」
「とんでもないものって巨人みたいな? あ、それとも相撲取りみたいな? それだけ聞いていると、すごいのが出来そうだな。立てば大木、座れば岩山、歩く姿は相撲取り、みたいな感じで」
「………………何だ、その宣伝文句まがいのものは」
深刻な空気をぶち壊す、豊か過ぎる喜直の想像力に、頼仁は脱力した。
「うん。即興で作ったにしては良い感じに出来たと俺も思った」
「貴様らと話をしていると、こっちがおかしくなりそうだ。どうせなら馬鹿につける薬でもないものか」
識の心の底から馬鹿にしきった瞳を正面にいる二人へと向ける。その貴様らの中に自分も入っているようで、大変不本意な頼仁であった。
「まあまあ。とにかく根拠はねえし、それがどういったもんかもわからねえんだ。
俺達は上からの指示に従って、捜索をするしかねえだろ。とりあえず、やばい奴なんだってことを念頭においておかなくちゃな。朽月、貴重な情報ありがとうな」
ふるふると朽月は頭を振った。動きに合わせて髪が柔らかに揺れる。
「いえ。あまりお役に立てなくてごめんなさい」
「そんなことねえって。明日からも頑張ろうぜ」
「……頑張るという言葉を軽々しく使うな。大した実力もない奴が言うと、安っぽくなる」
識が苦々しく言う。昼間、軍人からも同じようなことを言われた時から、ずっと彼の中で引っかかっていたのだ。
「お前もな」
間髪入れずに言った頼仁の一言に、識はじろりと睨んだが、特に何も言わなかった。
喜直は膝を抱えて顎を膝頭に乗せた。
「俺頑張ってるけどさあ、自分が何か役に立つ気がしねえんだけど」
「そうとも言えんぞ。捜索は数があってのものだからな」
突然聞こえたその声に、頼仁ら五人は慌てて立ち上がった。
川崎軍曹が角灯を吊り下げて、候補生のもとへとやって来た。
「お前達に目は二つずつ付いているのだろう? 足が二本ついているのだろう?
ならばその分、見える範囲、捜索出来る範囲が広がるというわけだ。
期待はしないが、いないよりはましだ。
どんな小さな仕事にも意味があるのだから、役に立たないと思わずに励め」
そして角灯を掲げた。
「朽月、といったな」
その双眸を朽月に注ぐ。
「はい」
何を言われるのか、朽月の顔に緊張の色が浮かぶ。
一同の空気も微かに強張った。もしや先程の薬の話を聞かれていたのか。
だが、彼女が発した言葉は糾弾からはほど遠いものだった。
「女性陣は皆、あちらで休んでいる。来たければ、来るがいい」
「……あ、ありがとうございます!」
朽月は頼仁に襟巻を返すと、残った者に一礼をして立ち上がった。
「お前達も、しっかり休め」
それだけ残すと、川崎軍曹は軍服をはためかせて、颯爽と立ち去っていった。
その後ろ姿を眺めながら、喜直はほう、と息をもらした。
「……俺、あの人が教官だったら良かったのに、と今ちょっと思った」
「それが本性だったらな」
頼仁は襟巻を首に巻き直した。
「もしもあの軍曹が逃げ出した奴が朽月の言った通りやばい奴だってわかっているのなら、俺達にそれを伝えなければいけない。でも、何も言ってないだろ。信用は出来ない」
「どうだろうな。軍曹って下士官だし。上からの命令に従っているだけかもしれねえしな」
頼仁が視線を送ると、和孝は説明するように付け足した。
「女性で軍曹の地位って、大変だと思うぜ。何だかんだ言って女性はどうしても力では男に劣るからな。一等兵でも従いたくない奴だっているだろう。一方で高官は皆、華族の人間だ。上と下、両方見て行かなくちゃならねえ」
「高官って、皆華族なのか。平民は?」
「よっぽどの手柄を立てない限り、無理なんじゃねえのか。縦社会だし。将校で平民出身は一人もいねえぞ」
「……詳しいんだな、随分と」
頼仁はそれだけ答えて、早々に話を打ち切った。
そして無言でもう一度視線を彼に送った。
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