第4話 倉の爆発

 基地内部の造りは複雑だ。

 候補生が示された建物は、正規の一等兵が利用する敷地とは全く異なる方角を歩き、古びた建物のさらにまた奥にあるらしい。

 通りも塀に囲まれた基地内に、迷路のごとく張り巡らされており、道を覚えるだけでも相当かかりそうだ。


「訓練内容って何だろうな」

 軽やかな足取りで先を行く喜直は、振り返って尋ねた。道が覚えられないくせに何故か先頭を歩く喜直の後を、頼仁が追い、その後ろに和孝、朽月が続く。しんがりは識である。


「普通に考えりゃ、体力作りだろうな。鉄砲かかえて走ったり、腕立て伏せをしたりとか」

 喜直の疑問に和孝は推測をした。喜直はくるりと顔を向けた。

「和孝ってさ、体格いいけど何かしてんのか?」

 和孝はさして背が高いわけではないが、体形が良いせいか実際よりも大柄に感じる。年齢も二十歳を超えているように見えるが、実質まだ十七歳だという。


「んー。これはだなあ、毎日鍛えているからだ。後は先祖代々の丈夫な体の血筋を受け継いだんだ」

「へえ、すげえ! 毎日かー。俺、父親の体形は普通ぐらいだからなあ。羨ましい、なあ頼仁」

「血筋、か……」


 頼仁は兄の姿を思い浮かべ、血筋はあまり信じたくないと思った。

 病弱である兄は、背丈はあるものの驚くほど華奢なのである。

 今でこそ、帝もあちこちへ行幸として出かけているが、歴史を辿れば皇族は御簾に籠っていた時代の方が圧倒的に長い。体を鍛えることとは皆無の一族であった。


「識もああ見えて、着物の下は絶対にいい体躯しているぜ」

 先程の言い合いをなかったことにしようとしているのか、和孝は識まで巻き込む。

 頼仁は未だに嫌悪感を隠せずにいたが、喜直は一々引きずらないらしい。

「識、後で見せろ」

 先程の嫌みをすっかり忘れたように躊躇なく識に言う。

「断る。阿呆が」

 にべもなく一蹴されていた。


 空を見上げると、太陽はずいぶんと高い。もう間もなく正午のはずだ。

 頼仁らの視界に黒い建物が見えてきた。瓦屋根に黒い漆喰の壁という珍しいを通り越して異様な色合いだ。他の建物と同様に塀に囲まれていたが、高さがあるため塀の反対側からでもその倉はよく見えた。

 この倉の奥に新月寮がある。目印だと言われた倉が眼前にあるため、もう程なくして着くであろう。

 そう考えていた矢先。


 奥から何か破壊されたような衝撃が、倉を中心に周囲一帯にかけて響き渡った。


 一同は驚愕の面持ちで、その黒壁の倉を振り返った。

「え、何だ」

「爆発……?」

 五人のその足は倉の方へと向かう。


 倉の扉は鉄で出来ており、ちょっとやそっとの力では壊れることのないよう閂がかけられていた。今の爆発で吹き飛ばなかったことが、その頑丈さを物語っている。

 壁の内側から人の声らしきものが聞こえた気がして、頼仁は扉の隙間に耳を当てた。

 張り裂けんばかりの声で、助けを求めているように聞こえる。


「誰かいる」

 頼仁がそう告げると、和孝はさっと顔色を変えて閂に手をかけた。

「何が起きてるのかわかんねえけど、開けるぞ!」

「そ、そうだよな。中にいる人、助けねえと」


 鉄製の重い扉を和孝と喜直が二人がかりで開ける。

 金属の軋む音と共に、開いた扉から塵のようなものが一気に内部の空気と共に外に押し出された。

 埃を吸い込まぬよう襟巻を鼻にまで引き上げて、頼仁がすぐさま中に飛び込んだ。


 内部には粉々になった木々の破片や、ばらばらになった紙切れがそこら中に散らばっていた。

 もとは何か作業をする部屋だったのだろうか。小さく反射しているのは硝子の欠片のようだ。間仕切りの壁などは吹き飛んで、かろうじて柱が残っている程度である。

 建物の構造上、窓はなく、扉を開けても奥の方まで光が射しこまない。

 深く、暗い闇が内部に広がる。


 だが頼仁はためらうことなくそちらの方に踏み入った。呻き声が奥から響いていたからだ。

 恐怖などは感じなかった。むしろ声が聞こえるうちに早く助けなければ、という焦燥の方が大きい。がしゃがしゃと瓦礫を踏み分け、頼仁は声を上げる。

「おい、誰かいるんだろ! 返事し……」

 ろ、という言葉を言い終わらないうちに、頼仁はひゅっと息を呑み込んだ。


 踏み出した左足に床がない。

 ぽっかりと空いた闇。散らばった木々の残骸は、床を形成していたものだったのだと気付いたが、時既に遅し。

「う、わああああ!」

 頼仁は重力に吸い込まれるように、地下へと落ちていく。咄嗟に身を縮めて受け身をとる。


「だっ!」

 衝撃が体の全身を貫いた。だが、武道を習っていたおかげか、それとも衝撃が分散したからなのか、はたまた幾重にも積み重なった瓦礫が緩衝の役割を果たしたからなのか。

 それなりの高さから落ちたものの、奇跡的に怪我も気絶もすることもなく、頼仁は地下に転がることが出来た。


「……死ぬかと思った」

 転がったまま頼仁は息をつく。

「おい! 大丈夫か!」

 上から聞こえる必死の呼びかけに、頼仁は答える。

「とりあえず生きてる」

「ちょっと待ってろ。すぐに縄か何かをおろしてやるから」

「お怪我はありませんか?」

「考えなしに飛び込むからだ、この短慮」

 心配の声に混じってそんな聞こえなくてもよい声が聞こえた。

「識の野郎……」

 頼仁は青筋を立てたが、呻き声が先程よりもはっきりと聞こえてそちらへ視線をやった。


 地下全体は当然ながら光が届くはずもなく、全くと言っていいほど何も見えない。

 ただ、足を動かした感覚から一面の瓦礫に覆われているということがわかった。

 頼仁が落ちた所にはたまたま鋭い破片などがなかっただけで、大怪我を負っていてもおかしくない状況だったのである。


 頼仁はさらに耳を澄ませた。

 立ち上がって瓦礫を掻き分け、そちらへ近付いた。

「おい、そこにいるんだよな? ちょっと待て。すぐに……」


 瓦礫の、崩れる音がした。

 それまで何も無かった空間に、爛とした赤い輝きが二つ現れる。


「え……」

 硬直した頼仁の背後に、地上からの縄が落とされた。そして和孝の声が響く。

「待ってろよ、すぐに行くか」

「来るな!」

 反射的に叫んだ瞬間、何かが頼仁に向かって飛びかかって来た。


 咄嗟に身を捻り、かわした。瓦礫の山が粉砕される音が先程より大きく背後で響く。

 心臓が跳ね、一気に冷や汗が流れた。

 考えている暇は無かった。

 頼仁は降ろされた縄を引っ掴むと、必死に登った。

 途中でぐっと縄ごと引き上げられ、頼仁は何とか地上に這い出す。

 地下の一筋も光の射さない環境に比べれば、地上は倉の中とはいえ随分と明るく感じた。


 地下の異変に皆は明らかに何か感じたようだった。

「おい、どうしたんだ」

「何か、猛獣でもいたのか」

 口々に尋ねられたが、頼仁には答えられなかった。

「わからない。とにかく……」


 刹那。巨大な影が地下から跳躍する。

 気配を感じた五人は一斉に散った。

 頼仁が柱の裏へ身を滑り込ませると同時に、それは頼仁らが今しがた立っていたその場所へと降り立った。


「嘘……だろ……?」

 その人間技とは思えない行動に頼仁は絶句した。

 暗闇で見えなかった姿が今ならば、はっきりと見える。

 爛と輝いていたのは赤い瞳。顔全体を覆うぼさぼさの髪と髭。擦り切れた衣服から伸びる細長い手足。

 だが、目の前にいたのはまぎれもなく人間の姿をした存在だった。



「俺を閉じ込めたのは……てめえか!」


 男はそう絶叫すると、柱の影にいた頼仁のもとへ拳を叩き付けた。

 持ち前の反射神経を生かして避けたが、部屋と部屋を分ける柱の一部が崩壊する。

 灰塵が立ち込めて、視界はもうもうと曇った。


「何なんだ、あいつは」

 逃げた先にいた識がそう呟く。

「わからない。地下にいて、いきなり襲ってきたんだ」

 頼仁がそう答えると、ひゅんと風を斬る音がした。頬を何かがかすめて、一瞬遅れて熱を持った液体が頼仁の肌を伝わる。すぐ後ろの壁で、割れた木の残骸が砕ける音が響いた。


「…………」

 無言でそれを拭った頼仁は、ふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。

 助けを求めるから駆けつけて来てみればこの仕打ち。一体どういうつもりなのだ。

「あの野郎……!」

 頼仁は落ちていた木片の棒を引っ掴んで駆け出そうとした。


 だがそれを識が頼仁の襟巻を掴んで止めた。首が絞まって呻き声が洩れる。

「どけ、貴様は引っ込んでろ」

「……何しやがる!」

 げほげほとむせながら、頼仁はぎっと識を睨んだ。


 一方、頼仁の危険を察知した喜直は、先手必勝の精神で竹刀を構え、謎の男に突っ込んで行く。

「はあああ!」

 ふっと視界が揺れるほど、男が異常な速度で一直線に喜直に向かう。

 それを見た朽月は、直感的に喜直が弾き飛ばされて、宙を舞う姿が脳裏に浮かんだ。

 間に合わない。


「危険です。やめなさい!」

 朽月が咄嗟に足を引っかけて喜直を転がした。

 勢いあまって喜直の体は宙を飛ぶ。

 それを瓦礫の影から様子を伺っていた和孝がもろに食らいそうになり、思い切り喜直の体を受け流した。先程よりも数段大きい物音が響いた。

「あっぶねえ!」

「お前の方が危ないわーっ!」

 したたか頭を打ち付けた喜直の怒号が倉中に木霊した。


 男は一連の出来事を意に介すことなく、そのまま識と頼仁の方へと向かう。

 識は隅に落ちていた鉄の棒を手に取ると、薙刀のように振るった。

 棒が頭上すれすれに飛び、頼仁は思わず怒鳴った。

「この狭い所で、そんな物振り回すな!」

「下がってろ。自分の身ぐらい自分で守れ!」


 識は男に向けて、鉄の棒を振りかざしたが。

 男はそれを手で受け止めると、鉄の棒を素手で真っ二つに折った。


「何⁉」

 一瞬目を疑った隙に識は不意打ちを食らい、そのまま男に吹っ飛ばされて床に転がった。

「識!」

 頼仁は声をあげた。

 視界の端で転がった識が一回転して、体勢を立て直した。それを見て安堵したのも束の間。

 男はそのまま頼仁に向かって突進してきた。

「くっ!」

 頼仁は身を捻ると拳を避け、その肋骨に木片を叩き付けた。


 木片と男の肋骨が砕ける音がした。鈍い響きに頼仁の腕全体が痺れる。

 並みの人間なら、今の衝撃で立ち上がることが不可能となる。

 だが、男は痛みなど感じないように笑った。

「…………!」


 次の瞬間、頼仁は右腕をねじ上げられ宙吊りになった。

 腕を握られた瞬間血の気が下がったが、頼仁は必死でもがいた。

「こいつ、放せ……」

 頼仁は袂に忍ばせていた懐剣を出そうと左手を伸ばす。


 が、それよりも早く男が動いた。ぐっと大きく振りかぶる。振り子のように頼仁の体は大きく揺れた。

 そして。

 その勢いのまま華奢な体が壁に叩き付けられる。崩落の音が響く中、頼仁は意識を失った。



「っ……!」

 すぐ傍の壁で人が叩き付けられた音がして、朽月は戦慄した。少しずつ闇に目が慣れた視界の中、頼仁の体が壁に吸い込まれるように吹っ飛び、もんどりうって転がっていくのをどうすることも出来なかった。

 震える体を叱咤して、朽月は人形のようにぐったりとした頼仁に駆け寄る。

「大丈夫ですか⁉」

 返事はない。

 襟巻の隙間から指を入れて喉を押さえ、呼吸と脈を確認する。微かにまぶたは震えている。衝撃で意識が混濁しているようだ。どうすればよいのかと動けない彼女の耳朶に、和孝の声が響いた。


「朽月! そいつを連れて、逃げろ!」

 朽月は顔を上げて、扉の方へ目をやった。二人の場所から扉まで一直線。その間に障害物はない。男はこちらに背を向けている。

 確かに逃げるのならば今が絶好の機会だ。だが、あとの三人が。

 そう言おうとしたところに、更に追い打ちがかかる。


「それでもって、誰でもいいから助けを呼んできてくれ!」

 確かにその通りだ。今の自分に出来ることはそれだけだ。

 朽月はぐっと唇を噛み締めると、頼仁を背負った。年下とはいえど、十三歳の少年の体は予想以上に重い。必死に足を進めて、建物の外へと抜け出す。


 倉の外に出ると太陽の光が降り注いだ。倉に入った時よりもずっと眩しく、けれどその眩しさに泣きたいほどほっとした。

 朽月は近くの木にもたれかけるように頼仁を降ろした。

「頼仁さん……?」

 頼仁の息が先程より苦しげなことに気が付いて、朽月は彼の襟元を緩める。

 が、合わせ目からわずかに見えた肌を見て、朽月は凍りついた。


 まだ子供らしいなめらかな肌は、痣と古傷に覆われていたからだ。

 

 内出血の痕は痛々しく、放置されて随分と経つのだろう。

 思わず手首や腕などに視線を走らせたが、人目に触れるところには傷はない。

 そのため、それが意図的につけられたものだということがわかってしまった。

 努めて平静に呼吸をして、助けを呼びに行こうと朽月は立ち上がる。

 だが、走り去ろうとしたその裾を、頼仁の意識の無いはずの手が掴んだ。


 ◇


 異常なほど痩せこけた体で這いつくばり、子どもは顔を上げる。

 そんな目で見れば見るほど殴られるのはわかっているが、泣いて赦しを乞うことだけは絶対にしなかった。その子どもはその方法すら知らなかったのだ。

 再び腹部に衝撃が走り、喉の奥から胃液が溢れ出す。

 堪えきれなくなって、げえげえとせり上がってきたわずかばかりの液体を床にぶちまける。空っぽの胃に、もはや吐くものすら残っていなかった。

 激しく罵倒された後、右腕を引きちぎられんばかりにねじり上げられた。

 悲鳴すらあげる気力もなく、ただ玩具のように投げ飛ばされる。

 壁にぶつかり、転がる。

 抵抗が出来ず、恐怖すら麻痺してしまった子どもの心。

 だが。

 子どもは何かにすがるように、右手を伸ばした。


 ◇


 目を覚ました頼仁は、ゆっくりと顔を上げた。同時に右手から力がするりと抜けて、垂れ下がった。

「気が付きましたか」

 朽月はさっと膝を付いて頼仁の顔をよく見ようと手を伸ばす。


「触るな!」


 自分に向かって伸ばされたその手を頼仁は反射的に振りほどいた。

 朽月が驚きをはらんだ目で、頼仁を見る。

 振り払った瞬間に、右肘に鋭い痛みが走り、頼仁はようやく現実を思い出した。

「…………ったい……」

「すぐに人を呼んできますからね。だから動かさないように」

 跪いていた朽月は、そう忠告した。


 頼仁は、はあはあと荒い呼吸を数度繰り返した。

 意識が飛んでいた間に、嫌な夢を見たのはきっとこの痛みのせいだ。

 じっとりとした汗が全身を伝う。自分が気絶していたのは数分か、それとも数時間か、頼仁には区別がつかなかった。

「あの暴れていた奴は?」

 頼仁が尋ねた時。


 突然、破壊音と共に倉から一人の男が躍り出た。倉の内側が砕けたような土埃がもうもうと立ち込め、そこから姿を現したのだ。

「!」

 咄嗟に朽月は頼仁を守るように前に出て両手を広げた。

 朽月の思いがけない行動に、頼仁は息を呑んだ。このままでは彼女が格好の標的となる。


 だが、男の視線は朽月を素通りした。

 その男は日の下に出られたのが嬉しくて仕方がないとでも言うように、けたたましく笑ったかと思うと人間技とは思えない跳躍力で屋根の上に這い上がった。

 そのまま屋根伝いに次々と移動し、あっという間に基地全土を囲む巨大な塀の向こう側へと逃げ出してしまった。


 男の姿が見えなくなり、ようやく緊張の糸が解けた。

 朽月は一気に力が抜けて、地面に座り込んでしまった。

「おい、大丈夫かよ」

 頼仁が尋ねると、朽月は弱々しく微笑んだ。

「ええ……何とか」


「俺なんかを庇う必要、なかったのに」


 思いがけない言葉に、朽月は目を瞬いた。頼仁はその様子に気付くことなく、続ける。

「俺のせいで怪我をされると……迷惑なんだよ」

「迷惑、でしたか?」

 聞き返されて、頼仁は詰まった。

 迷惑だったのは怪我をされたら、という意味であって、今の行動を含めて言ったわけではない。


 だが、何と言えばよいのかわからなかったのだ。

 ああ、こういう時は礼とか言うべきだったのか、とようやく気付いたが完全に言う機会を逸してしまっており、言い出せなかった。


 そうこうしているうちに、埃まみれになった和孝が倉の中から姿を現した。

「お前ら無事か? あの男、どこへ行った?」

 走り寄るなり矢継ぎ早に質問する和孝に、頼仁は今見たことを端的に告げた。

「あいつは俺達に見向きもせずに、塀を越えて逃げた」


 頼仁はだらんと下がった右腕を一瞥した。

「右肘を痛めたけど、平気だ。そっちは大丈夫か」

「怪我はねえけど、何か揉めているんだよなあ」

 和孝はちらりと視線をやった。半壊した倉の内部。そこで。


「うおおおお、俺の銀時計――っ!」

 喜直がそんな奇声を上げながら、全力で瓦礫の山をあさっていた。その隣で識が面倒くさそうに、だが律儀に瓦礫を払いのける。

 何をしているのかは、聞かなくともわかった。


「縁があったら出て来るだろ。諦めろ。そもそも貴様が足を引っ張るから……」

「俺、引っ張ってないし! てか、識がぶつかって来るから悪いんじゃねーか!」

 ぎゃん、と喜直が喚いた。大切な銀時計を無くしたことで、機嫌は最高に悪いらしい。

「とにかくご無事で何よりです……」

 朽月のその声に被さるように。


「まったく、捕らえていた囚人を逃がしてしまうとは。どうして下さるのでしょうねえ、あなた方は」


 ねっとりした声と共に、丈の長い外套を羽織った一人の男性が現れた。

 踵の高い長靴ちょうかに、うねりのある黒髪。切れ長だがやや垂れた目尻はそこはかとない怪しさを醸し出している。中性的といえば聞こえはいいが、そう見えるのは濃い化粧のせいである。

「何だよ、お前」

 不信感を露わに頼仁が尋ねると、男は大げさに息をついた。


「これはこれは。目上の者に対する口の聞き方も知らないとは。呆れを通り越して、嘆かわしい。私はあなた方候補生の教官に選ばれました、加賀地かがち彪雅ひゅうがと申します」


「教官……?」

 こいつが?と疑わしげに思ったのは頼仁だけではないに違いない。

 加賀地はそのような視線をものともせずに、横髪をすくって耳にかけた。

 そしてじっくりと倉を見る。


「時間になっても来ないから何かと思って来てみれば。大変なことをしでかしてくれましたね。よりによって囚人を逃がすなど……あなた方の責任は指導教官である私の責任になるのでしょう。この失態、どうすれば返上出来るのでしょうねえ」

 再び息をつく加賀地に、頼仁は思わず叫んだ。


「ふざけるなっ。俺達はたまたま巻き込まれただけだ! それを……」

 加賀地は声を荒げる頼仁の傍へ寄ると、無理やり垂れ下がった腕を上げた。

 人に触れられた嫌悪感よりも先に激痛が走り、頼仁が呻く。

 その反応を見た加賀地は頼仁の腕を伸ばすと、手の平が上になるようくいっと捻じ曲げた。するとこくっという音と共に肘がはまった音がした。


「あ…………」

「脱臼で済んで良かったですね。まあ、あれで死んだらそれまでの運命だったのでしょう」

 唖然とする頼仁を尻目に、加賀地はぞっとするほど優しい声音で言った。


「さて。あなた方に命じます。あの男を捕らえてらっしゃい。それが出来るまで、帰って来ることのないよう……よいですね?」


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