第2話 出立
頼仁は築地塀を慣れた動作でよじ登る。
瓦の上に立ち、後ろを振り返るとそこには、人生の半分近くを過ごしてきた御所が眼前に広がっていた。
開国をして武士の時代が終わり、王政復古が始まった。
帝を中心とした富国強兵の名のもとに、軍備が進められ、列強国と渡り合う。
そんな時代の背景下に頼仁は生まれついた。
だが、第二皇子というだけで、頼仁の扱いはけして恵まれたものではなかった。
おそらく、東宮を蔑ろにしない意図もあったのだろうが、自身の人間性にも問題があるのだと頼仁も十分に自覚していた。
朝のひんやりとした空気が、簡素な衣服の隙間から忍び込んで来る。
頼仁が今、身に纏っているのは御所で過ごす時とは異なる、裾を絞った袴に襦袢という身軽な格好であった。
長髪を切ってしまったため、首筋が特に冷える。
そのため白い薄布を襟巻として使用していた。温かいというわけではないが、それでもここの内部の冷えきった空気に比べれば断然ましだった。
実質的にこの空間を支配する女官の中に頼仁の味方は誰一人いなかったし、この日もいつものごとく最低限の用意だけをすると、一声もかけなかった。
皆、頼仁が父に反発して宮から追い出されたとでも思っているのだろうか。
見送りの者は誰一人おらず、頼仁自身もそれを望んでいないのでいつものごとく、門ではなく塀から抜け出したのだ。
が、それはどうやら誤算だったようだ。
「おい、書状なくしてどうやって行くつもりだったんだ」
いつの間にか焔が頼仁から少し離れた塀の上に佇んでいた。
この男が突然姿を現すのはいつものことなので、そのこと自体にはもう慣れている。
「鳥部野基地へ行けと既に通達は受けている。そこへ行けば話は通ると思っていたんだが、どうやらお前の不手際のようだな」
頼仁は険しい顔のまま言い返した。
「相変わらず、口の減らねえ奴だ」
焔は書状を袂から出すと、すっと放り投げた。
風を切って回転したそれは、頼仁のもとへ正確に飛び、手で受け取るのにそれほど難しくはなかった。
「……おい、もう少し丁寧に扱え」
正式な書状の乱雑すぎる扱いに、さしもの頼仁も渋面する。が、焔はどこ吹く風だ。彼にとってこれは、紙切れ一枚にすぎないのだろう。
頼仁は念のため、中身を確認した。その文面を追っていた頼仁の眉は、さらに険しくなった。
「一等兵ではなく、候補生?」
記された内容は、頼仁が伝え聞いていたものと異なっていた。確か一等兵として配属されると聞いていたのだが。
「ああ、そうだ。早い話が一等兵以下に急遽変更になった。良かったじゃねえか。楽しい楽しい訓練が追加されるぜ」
がりっと頼仁は奥歯を噛んで焔を睨んだ。
どうやらこの男、とことん自分を貶める気らしい。
「へえ、そうか。ならもう後は這い上がるしかないな。……覚えてろよ」
怒りで書状をぐしゃぐしゃにしそうになるのを必死で抑えて、頼仁は書状をたたむと懐に入れた。
「試験も何も受けずに、軍に入るってんだから、これぐらいの扱いは当たり前だ。いいか、軍ではてめえの身分なんざ関係ねえ。せいぜい横暴な振る舞いは慎むんだな」
「ああ、そうだな。お前みたいな奴がいなけりゃ、大人しくしといてやるよ。もしもそんなろくでなしがいたら、ひいては上官であるお前の責任ってことだからな」
「責任転嫁か、本当にてめえはガキだな。どこにいても目障りだ、とっとと失せろ」
しっしっと追い払う動作に、頼仁の堪忍袋の緒が音を立てて切れた。
頼仁は眦を決すると、それなりに高さがあるにも関わらず、身軽にひらりと飛び降りた。
ずざっと土埃を巻き上げて立ち上がると、腕を伸ばして人差し指を指した。
「いいか、よく聞け! 俺の中で親王頼仁は死んだ。けれど身分なんか無くったって、どこでだって這い上がってやる!」
そう叫ぶと、頼仁は勢いよく背を向けて駆け出した。
大嫌いだった。何もかも。
皮肉しかぶつけて来ないあの男も。冷めた視線しか送らない父も。女官の慇懃無礼な態度も。
そして、結局は言いなりになって軍へ向かうしか居場所がない自分も。
頼仁は京の町並みを駆け抜けた。少しずつ空が白み、明るくなる。
朝焼けに染まる、華族や元公家が集まる一帯を走り抜け、町民の屋敷が集まる通りに差し掛かった頃、ようやく頼仁は走る速度を緩めた。
直線に伸びた道には、人の往来が少しずつ見え始めてきた。
この辺りは商店も多く集まり、朝早くから開いている店も多い。
軒先に看板をぶら下げた店の一つから、商いの格好をした初老の男が現れ、頼仁と目が合うと丸くした。
「あれ、お前がこんな時間に来るとは珍しいな」
「別に来たくて来たわけじゃない。こっちの方に用があったからだ」
頼仁は不機嫌そうな面持ちで答えた。そっけない口調で愛想の欠片もない。だが、御所にいた時よりは口調も表情もまだ柔らかいものであった。
「おっさんは店、これから? もう年なのに、大変だな」
すると男はからりと笑った。
「なあに。せがれが帰って来るまでの辛抱だよ。チビ共にもそう言い聞かせて手伝わせているよ。ま、本音は父親がいなくて寂しいんだろうけどなあ。そういうわけでまた遊んでやってくれ」
頼仁は肩をすくめて答えた。
「こっちに来られたらな」
頼仁はこれまでにも時折、御所を抜け出してはこの辺りの界隈に足を伸ばしていた。
下々の者と戯れていると陰口を叩かれていたが、頼仁が実質的に行っていたのは親が仕事で忙しい子ども達の遊び相手だった。
「それにしても、お前ひどい顔しているぜ。朝飯は食ったのか? まだならうちの店の饅頭、一つ買っていかねえか」
「買わせるな。普通は持って行け、だろ。小僧からたかるなよ」
男は頼仁の生意気な返答に声をあげて笑うと、特に気分を害した様子もなく指をさした。
「金がねえならすすめねえさ。でも、今のお前は小銭があると見た」
その鼻の効きに頼仁は内心舌を巻いた。
今の頼仁の懐には、兄から渡された小銭があった。
世間知らずの兄は何を勘違いしたのか、御所を出る前日に困らないようにとこっそり女官伝手に小銭が入った袋を渡したのだ。
「……そんなにひどい顔か?」
「ああ。まるで般若のようだぜ」
大層だと思いつつ心当たりがあるので、頼仁は観念して袂を探った。
「……一つぐらいなら買ってやってもいい」
「へい、まいど!」
饅頭屋はにかっと笑って頼仁の渡した小銭を受け取った。
「まだ温かいはずだ」
そう言って、油紙で包んだ饅頭を頼仁に渡した。
甘い物は嫌いじゃない。頼仁は少し目を細めて、饅頭にかぶりついた。
柔らかい餡が口いっぱいに広がる。けして甘みが効いているわけではないが、このさっぱりした味が頼仁は好きだった。
そんな頼仁の表情を見て、白髪の混じった饅頭屋は孫や息子を見るように頷く。
「良い顔するじゃねえか。いつもそうやって笑ってりゃいいのに」
「……うるさい」
気まずさが入り混じり、そうぶっきらぼうに答えて顔を背けた時。
「いい加減、お止めになって!」
通りの端から、女性の鋭い声が響いた。
頼仁が目をやると、建物に挟まれた道とも呼べない路地裏に、一人の女性が二人の男に絡まれていた。
被衣を被った年若い女性だった。
纏っている着物は薄紫色で、ほっそりとした体つきであることが遠目にでもわかる。少女といっても差し支えない年齢だろう。
「随分とここも物騒なんだな」
頼仁がそんな感想を漏らすと、饅頭屋は苦々しい表情をする。
「おおかた、まだ酒が抜けきってねえんだろ。たまにいるんだよな、夜通し飲み歩いて、ああやって若い子にちょっかいかける奴が」
「ふーん……ちょっかいかけているだけならいいけどな」
頼仁は残りの饅頭を口の中に押し込むと、そろそろと壁伝いにそちらへ近付いた。
「……いいじゃねえか。金目のものを寄越せとか言ってるんじゃねえ。少し俺達の言うことを聞いててくれりゃ……」
「いいから、こっちに来やがれ。何なら……」
切れ切れに聞こえてくる野郎の言葉に、頼仁は軽く舌打ちをした。
やはりこいつら、一般市民に紛れた野党の類か。
軍備に金をかけている余裕があるのならば、こういった奴らも取り締まれと頼仁は常々思っている。
頼仁はちらりと饅頭屋に視線を送った。すると饅頭屋は無理だと言わんばかりに首を振る。どうも関わる気がないらしい。
商店をかまえる者にとって矛先が自分の店に向けられてはたまらないのだ。これはけしてあの饅頭屋が事なかれ主義だというわけではなく、商売人のある意味当然の行動だ。
別に頼仁とて関わる義理もないのだが、絡まれているのが自分と変わらぬ年代の少女であるというだけで放っておくのも寝覚めが悪い。
頼仁は懐に忍ばせていた懐剣を握って、声をかけた。
「おい、お前ら」
すると男二人は人相の悪い顔つきで、一斉に振り返った。
「ああ?」
「何だ、このクソガキ」
ここでもクソガキ扱いかよ、と心の中で悪態をついていると。
突然、男のうちの一人が首筋に一撃を受けて弾き飛ばされた。
どう、と音を立てて男が倒れる。
男に攻撃を加えたのは、今まで絡まれていた少女であった。
被衣で表情はよく見えないが、彼女は突き出した右手をこともなげに払った。
「……っの、女!」
状況を把握したもう一人の男が逆上して、少女に掴みかかろうとした。
だがそれよりも素早く、少女の薄絹の被り物がふわりと舞った。
彼女は身を捻って男をかわすと、背後に周り後ろから男の右手を捩じり上げた。
「ぎゃああ」
ぎりぎりと捻り上げる痛みに耐えかねて男が叫喚すると、少女は凛とした声で言い放った。
「これに懲りたら、もう二度と私にかまわないで下さい」
「わかった、わかったから放せ……!」
少女は言われた通りに腕を放すと、男は地面に崩れ落ちた。
そのまま少女は軽く息をついて、動いた際に落ちた被衣を拾った。それが決定的な隙となる。
最初に倒した男が今にも射殺しそうな視線で、再び起き上がろうと腕を伸ばした。
が、そこまでだった。
それよりも早く頼仁が動き、その男の頭部を蹴り飛ばしたのだ。
「がはっ……」
頭部に思いがけない衝撃を食らい、その男は動かなくなった。さすがに死んだら困るので頼仁も加減はしたが、脳震盪は起こしたであろうと思われる。
少女は、頼仁の容赦ない蹴りに少なからず驚いたようだった。
「あらら」
口元に手を当てて目を丸くする。背丈は頼仁より高く、大人びた顔立ちをしているが、見た目だけでは、とても男二人を倒したとは思えない。
だが、一部始終を目撃した頼仁は、表情にはあまり出さなかったものの内心、舌を巻いていた。
「驚いた。お前、強いんだな」
頼仁がそう告げると、彼女は花が咲くように微笑んだ。
「でも、最後に助けられてしまいましたね。ありがとうございます」
「いやー、俺も驚いたよ」
見ると、全く関わろうとしなかった饅頭屋までもが、こちらへ寄ってきている。
「お前……」
何か言いたげな頼仁にかまうことなく、饅頭屋は少女に告げる。
「どうだ、もしよかったらうちで働かねえかい? うちの店の看板娘になってもらえたら評判になりそうだし、力も強そうだし。今なら賃金としてこれぐらいは出すさ」
そろばんを弾きかけたが、せっかくですが、という少女の声が割り込んだ。
「私は行かなければならない所があるので、慎んでお断りいたします。申し訳ありません」
「そうか? そりゃあ残念だ」
頼仁ははあ、と息をつくと足を向けた。
「じゃあ、俺はもう行くからな」
少女は頷いた。
「はい。私はお役人の方に彼らを引き渡しておきます」
頼仁はすたすたと歩きだした。その背に少女の声が届く。
「ありがとうございます。またどこかでお会いできるといいですね」
会えたらな、と頼仁は肩をすくめた。
それからほどなくして少女と頼仁の人生は交錯し、長い道を歩むこととなる。
だが、その時の頼仁はそれを知る由もなかった。
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