それは後の皇の器

@murasaki-yoka

第1話 皇子の死

 日本皇国。

 その最高位につく帝が日常を過ごす御殿の一室は、一触即発の空気が漂っていた。


 帝の御前には紺の直衣を纏った少年が召し出されていた。

 まだ幼さの残る面差しに、勝ち気な力強い瞳が印象的である。

 しかし本来ならば女官の手によって丁寧に整えられるはずの黒髪は乱雑に一つに結ばれ、背中に流していた。

 比類なき栄誉である謁見だというのに、彼の表情は不機嫌の極みで、不躾にも目の前に座している帝を睨み付けていた。


 一方の帝はそれを気に留める様子もなく、ただ、少年とは対照的なその冷めた瞳で彼を見据えていた。

 こちらは淡い色の袿を肩にかけた軽装だが、布地には光沢があり一目で上質の代物だとわかる。さらり、と軽い衣擦れが室内に響いた。


「何故お前が呼び出されたのか、わかっているな」


 帝は腕を組むと、何の感情もこもらない、無機質な声で尋ねた。

 対して少年の瞳は鋭さを増した。


「さあ。心当たりが有りすぎてわかりませんね。一体何が、細かいことを気にされない寛容なお父上様の気に障ったのか」


 父上、と呼ばれた帝は、嫌みしか含まれていない息子の返答に、表情一つ変えなかった。

 それを少年はたたみかける。


「そもそも息子に一切の関心を払わなかったあなたが、いまさら世継ぎでもないこの頼仁に一体何の用で?」


 帝の第二皇子、御年十三になる頼仁よりひと親王しんのうは不敬にも冷めきった声でそう告げた。


 今、この場には帝と頼仁以外誰もいない。全ての従者を下がらせている。呼べばすぐに応じる位置にはいるのだが、姿はない。

 そのため、頼仁の無礼な物言いをたしなめる者は誰もいなかった。


 眉一つ動かさない帝と慇懃無礼な態度を崩そうとしない親王。

 例えるならば細い糸が張った空気。この二人の間には、親愛の情など存在したことがなかった。

 恐ろしいほどの沈黙がこの場を支配する。それが限界まで張り詰められた時。


「――珍しい光景だな」


 その糸を断ち切るようにどこからともなく一人の男が現れた。

いつの間にか隅の柱にもたれるように立つ男は、一度見たら到底忘れられない風貌をしていた。

 長身に白い髪と。そして顔の上半を覆う鬼のような面。軍服の上には漆黒の衣を纏っていた。


 男の登場に、頼仁はちっ、と舌打ちをした。

 一方の帝は突然現れたその男に、ようやく感情らしきものを見せた。


ほむらか」

 そう呼ばれた男は悠々と頼仁の隣を横切ると、帝の座る畳に平然と踏み入った。

「俺以外でこの場に入り込める奴がいたら、会ってみたいもんだな。人払いがしてあるから何事かと思ったら……」

 途中で区切り、焔は面越しに頼仁を一瞥する。


「少し、頼仁に話があったからな」

「ほお。貴様が息子の対話を優先させるとは珍しいな。雪でも降るんじゃねえのか」

 焔がそう毒づくと、頼仁はじろりとねめつけた。

「勝手に入って来るなよ。軍の鬼は礼儀も知らないみたいだな」

 頼仁の一言に、焔は凄みのある笑みを浮かべた。


 この男は現在の日本皇国において、帝に次ぐ高位である参謀総長の地位にいる。『焔』という通り名に相応しい苛烈なその性格は、弱小だった日本皇国の軍をわずか十数年という歳月で列強に並び立つまでに成長させた、まさしく軍の鬼だった。


「てめえが言ってんじゃねえよ、このクソガキ。聞いたぜ。てめえ、女官全員に無視されているらしいじゃねえか。普段の振舞いが粗暴だからだよ。それで父親に泣きついたんじゃねえのか」

「っ!  誰が……!」

 頼仁は歯ぎしりをすると立ち上がった。


「俺に近寄るなって言っただけだ。別に女官なんかいなくても、俺はか弱い兄上と違って自分のことぐらい自分で出来る!」

「どうだか。良いご身分に生まれただけで、自分の思い通りにならないと癇癪を起こす貴様みたいな我儘な奴に、付き合う方だって嫌気がさすだろうよ」

「何をっ」

 容赦なくこき下ろす焔の言葉に、かっとなって頼仁は叫んだ。

「国の権威を振りかざし、好き勝手しているのはお前の方だろう!」


「頼仁」

 二人の舌戦を無言で聞いていた帝は、ようやくここで口を開いた。

「お前の粗暴は確かにこちらの耳にも及んでいる。平気で宮から出たり、下々の者と戯れたり。女官長からもついに苦言が出た。これでは皇室の威信に関わる。親王としての地位及び皇位継承権を剥奪するように、という者まで現れる始末だ」

 頼仁は鼻で笑った。


「お望み通り、そのようになさったらどうですか。どうせ血も涙もないあなたのことだ。一人の人間がどうなろうが、知ったこっちゃないでしょう」

「そうだな。確かに私の知ったことではない」

 心底興味がなさそうに帝は返す。

「だが、それをするわけにはいかない。こちらとしても、都合というものがあるからな」


「それこそ皇室に傷をつけるからですか? それとも世継ぎ問題?

  良いではありませんか。兄上がいらっしゃいますし、他にも従兄弟殿や叔父上など後継者候補は腐るほどいるし。それとも優秀な隠し子でもいて?」


 確実に逆鱗に触れそうな侮辱だったが、帝は顔色一つ変えなかった。

 一方焔は頼仁の暴言を受けて、からかうように帝に言った。

「へえ。隠し子がいるとは俺も知らなかったな」

 くだらない、と言うように帝は扇をぱしり、と閉じた。


「もっと良い方法を思いついたからだ」

 帝は目を眇めた。冷酷な瞳で息子をねめつける。

「切り捨てるのは簡単だ。だが利用する方が、遥かに無駄は少ないし有効だ。焔」

 突然名を呼ばれた焔は胡乱気に帝を見た。


「頼仁を軍に入隊させる。これは勅命だ。異論は誰にも言わせない。無論、お前にもな」


◇ ◇ ◇


 頼仁は御殿を退出し、自室へ戻る廊下を進む。

 帝が日常を過ごす御殿と、親王らの住居にあたる御殿は長い廊下を結んで繋がっていた。

 廊下からは四季折々の草木が見られ、現在は紅葉が色鮮やかに内庭を彩っていた。

 その廊下の片隅に、紅葉を眺めるように佇む一人の青年の姿が見えた。

 頼仁はわずかに眉をひそめたが、そのまま歩みを緩めることなくそちらへ近付いた。

 無視するわけにもいかず、頼仁は御前に立つと、口を開いた。


「どうされたのですか、兄上」


 青年はゆったりとした動作でこちらを向いた。

 高い位置で括った髪がその動きに合わせて音も無く揺れる。

 線の細い容貌から覗かせる瞳は穏やかさが目立つが、今はそれに加え、憂いをはらんでいた。


 彼は先日、東宮として正式に宣旨を受けた、兄である信仁のぶひとだった。

 頼仁はこの兄に対しては複雑な感情を抱いていた。

 御所で居場所のない頼仁に対して唯一温かく接する人格者だが、頼仁は彼にどうしても心許せないでいた。


御常おつね御殿へ召し出されたと聞いたので、心配していたのだよ。父上は、何と?」

「それで、ずっとこちらにいたのですか」

 頼仁が尋ねると、曖昧に彼は微笑んだ。

 問題児である弟が父に呼び出しをされたということを聞いて居ても立ってもいられず、かといって踏み込むわけにもいかず、この廊下で待っていたのであろうと頼仁は推測した。


 頼仁は軽く息をつくと、袂に隠していた懐剣かいけんを取り出した。

 黒いうるしで塗られた鞘、刃は銀で造られた最高峰の品だ。

 これは頼仁が持っている母の唯一の形見だった。

 彼らの母であった皇后は、頼仁の誕生と共に既にこの世を去っている。

 兄の目線にそれを掲げて、頼仁は冴え冴えとした声で告げる。


「命の危険があったら、と思ってこれを忍ばせていたのでご心配なく」

 信仁は柔和な表情に困惑の色を浮かべた。

「頼仁……また、そんなこと言って……。でも穏便に済んだようで良かった」

 はっと頼仁は鼻で笑った。常々能天気な兄だ。

 穏便? 笑わせる。あの男が善人であると、この愚かで人の良い兄はまだ信じているのだ。

 こういうところが、嫌いなのだ。

 頼仁は懐剣の鞘に手をかける。


「いいえ。親王頼仁は遅かれ早かれ消されます。だから……」


 からん、と鞘を落とした。抜き身になった刃に映ったのは、己の冷たい瞳。

 頼仁は後ろで一つに括っていた己の髪に刃を滑らせると、ざく、と断ち切った。

 突然の暴挙に絶句する兄を尻目に、頼仁は言い切った。


「だから、俺の中で親王頼仁はここで死んだことにする」

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