33話 辞世の句は許されず。
「計画の全容は分かっておりませんが──」
侍医ピルトンは既に語れぬ身となっている。
もっとも──、生きていたところで彼が全てを知っている訳ではなかった。
「ピルトンが持って来た手土産はコレでした」
そう言ってウォルフガングは、小さなアンプルを
「薬?」
透明な液体が密封された容器には、トールも見覚えがあった。
──注射とかで使うやつだよね……。
薬種によっては太古と同じく注射針が使われるケースもあるが、多くはフルミストか衝撃波で浸透させる無針注射のため痛みと無縁になって久しい。
「メッセンジャーリボ核酸──と、聞いております」
遺伝子コーディネートにより免疫力を高め、ニューロデバイスに生体機能を常時モニタされているオビタルとはいえウイルスや細菌との果てなき戦いは続いていた。
mRNAを活用して人体にタンパク質を生成させる手法は現代においても有用である。
「なるほど。それが手土産という事は──」
◇
「これが、貴方の申した我らの益か?」
ウォルフガングは胡乱げな目つきで疑問を口にした。
隣に立つクラウディオも不快そうな表情を浮かべている。正統なる高貴を尊ぶ彼の美学に反する光景ではあるのだろう。
強化ガラスの奥に在る無菌状態とされた空間に、四肢を拘束された二人の古典人類が左右に並んで臨床台に載せられていた。
何れも顔面を覆う頭巾を被せられており表情は見えないが、側面に配されたバイタルモニタ上で変動し続ける数値は両人が生きている事を示している。
とはいえ、右側の男が重篤状態にあるのは明らかだった。
四十度近い高熱と恐らくは夢見の悪さで、頭巾の奥から唸るような嗚咽を漏らしている。
「邦許が火急の
遥か昔に交わした始祖との契約を履行し続けるのも、天駆ける種族に与えられた責務、更に言えば矜持であるべきだろう。
「実に悪趣味だな」
サヴォイアへの派兵に関しては対立するクラウディオとて、ウォルフガングと意を同じくしたのか何度も頷いていた。
「全ては我らオビタルの為で御座いますよ、ウォルフガング殿。──つまるところ医道とは、過去の非業非情を肥やしとする
と、侍医ピルトンは澄まし顔で応えた。
「さて、四十八時間前に投与済みの検体ですので、そろそろではないかと──」
──益が──益がございますとも──それは──、
──実際に、お目にされた方が宜しいかと。
勿体ぶった
多数の医官を引き連れてきたピルトンが最初に要求したのは、最高度の隔離とセキュリティが保障される無菌室だった。
──ロイド製薬も始祖の死体を使い怪しげな研究に勤しんでいると噂に聞くが、
──此奴等、福音の頸木に至っては生きたままとは外道も極まっておる。
──連中との腐れ縁、アダム公に進言すべき潮時であろうな……。
ウォルフガングの心中に湧いた懸念など露知らず、バイタルモニタの明滅と共にピルトンは喜色の声を上げた。
「来ましたぞッ!!」
彼の言葉を合図とした訳でもあるまいが、重篤の症状を示していた男から獣の様な咆哮が響いた。
「ククク、ようやく発症致しましたな。──ほれ」
ピルトンが傍にいた医官に指示を出すと、臨床台の拘束具が解かれた。
「天秤衆方々が営々と
忠実で思慮深い奴隷級とは、常人を凌駕する暴性と膂力を獲得する見返りとして、あらゆる理性を失った存在である。
彼らは聖座異端審問所の地下倉で飼われていた化け物だが、その多くは旧聖都アヴィニョンにてベルニク揚陸部隊の手で殺害されていた。
「アレで培われた技術を転用しましてな」
拘束具を解かれた男は頭巾を破るように剥ぎ取ると、拘束されたままの不運な同族へ襲いかかり相手の肉体に犬歯を食い込ませた。
同時に、強化ガラスを揺らすほどの絶叫が轟く──。
「よ、ようは──人を狂わせる薬という事か?」
危険を感じ取ったクラウディオは、強化ガラスから一歩後ろへ退いた。
「左様で。尚且つ感染性──平たく言えばウイルスなのです。まあ、惜しむらくは空気感染ではなく、接触感染といったところでしょうか」
そう言ってピルトンは、孫を愛でる眼差しを血飛沫が舞う無菌室に送った。
「アレに罹患したなら高熱で数日間苦しんだ後、唐突に凶暴化して周囲に襲いかかり感染者を増やします。──が、最終的には脳炎が劇症化して死に至るのです」
疫学を語るのは本書の主旨ではないが、感染症の歴史を紐解けば狂犬病に類似が見いだせるだろう。
「ところが、あれだけの
得意気な表情で語るピルトンは、胸元から無造作に取り出したアンプルを左右に振った。
「左の検体には我らの開発したワクチンを投与済みですからな。さらに、幾つか制限事項はありますが抗ウイルス薬とて──」
「ピルト──いや──クラウディオ・アラゴン公」
ピルトンの言葉を遮ったウォルフガングだったが、冷静に語るには鋼の如く自制を働かせる必要があった。
「貴公やファーレン公、他一部のお歴々が、我が
太上帝の掲げた不戦の誓いを遵守するアダム宰相に対し、選帝侯を中心に好戦派と呼ぶべき勢力が形成されている。
彼等がアイモーネや青鳩と手を組んで、新生派勢力と戦争状態に持ち込む奸計を巡らせている事はウォルフガングとて把握していた。
「本当に、これを利用されるおつもりか?」
メディアを使い挑発するも良い、騙し討ちで密かに暗殺するも良い、艦隊を率いて攻め入るも良い──。
だが、疫病を世に撒き散らすなど、余りに下策が過ぎよう。
仮にワクチンと治療薬を確保したとしても、自勢力の民に──否、例えベルニクの民であったとしても、無辜な童子に至るまでが多数犠牲になるかもしれないのだ。
「い、いや──知らん。誓って僕は知らんぞ」
クラウディオが激しく首を振った。
「何なのだ、これは? いったい誰の──まさかアイモーネか?」
「おや?」
故人となった領主、そして選帝侯すら預かり知らぬ企みに自らが加担していた事実に、ピルトンは誇らしい気持ちになっていた。
「福音の
ニコライ・アルマゾフ。
過去には七つ目と協力してマクギガンで暗躍し、現在は
結果として彼こそが、好戦派、アイモーネ、
「
ニコライと何度か面識のあるクラウディオが驚きの声を上げる。
二大勢力の緩衝地帯とされるクルノフで開かれる定期的な会合では、ダニエル・ロックの影に隠れるようにして存在感を希薄にしていた。
「私から耳にした事は内密に願います。クラウディオ公、ウォルフガング殿」
慌てた様子でピルトンは念を押すように付け加えた。
だが、福音の頸木に関わる秘事など、ウォルフガングにとってもはや些末な問題である。
「ともあれ──クラウディオ公が関知せぬ企みであったのは僥倖」
僥倖ではあったが、益々と情報を得る必要性が生じていた。
「ピルトン──」
「何でしょう」
いつしかウォルフガングの言葉から、ピルトンに対する敬称は失われていたのだが、持参した手土産に絶対的な自負を抱く男は相手の激烈な怒りに気付いていない。
彼の持参した手土産は頸木の手綱たるニコライ
「つまり、貴方等はやがてこれを使う。その際に我々を助けるという盟約が、ベルニクを払う兵を出すフォルツの益という訳なのだな?」
「左様で御座いますとも。此度の窮地をお救い頂けましたなら、優先的にワクチン並びに抗ウイルス薬の供与を──」
「いつだ? そしてどこで?」
ウォルフガングの知りたい情報はそれに尽きる。
「はぁ、いや、そこは私も存じておりませんが──」
「ニコライ次第なのだな?」
「既にグリフィスとトスカナへ必要物を運んでおります。となれば、まさにニコライ様の御心次第かと」
ダニエルとニコライを含む
トール・ベルニクも同様である。
「ふむん」
ウォルフガングは真偽を見定め続けてきた己の眼光で、ピルトンの顔貌を睨み据えながら腰に吊るしていた剣を抜き放つ。
「それ以上を知らぬは
「え、ええ、無論でございま──ひいっ」
侍医ピルトンはショウを見せる相手を間違えたのだろう。
「辞世の句は許さぬが、近しい者に
喉元に感じるタングステンブレードの冷たさは、ピルトンの末が異邦となった事を高らかに宣していた。
「急げ。刻が惜しい」
その時、妻子と友人を持たぬ男の脳裏に浮かんだのは、先天的な病を克服した姪の輝く微笑みだけだった──。
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★青鳩の動向については、
19話 飢餓を求む。
https://kakuyomu.jp/works/16817330648495045364/episodes/16817330666875646037
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