ルミナリウム

硝水

第1話

 そこに海があることは知ってるけど行ったことがない、という話をしたら、じゃあ今から行こうよと彼は言った。文化祭の雑用を買って出た彼に勝手に付き合って居残っていた僕は、時計の文字盤と短針を見比べながら眉をしかめる。

「今から?」

「なんで、今行きたいから誘ったんでしょ」

「別に行きたいという話では」

「だったらそんな話しないでよ」

 散らかったカラーペンを乱雑に片付けながら立ち上がった彼は、右手で鞄と僕の鞄と僕の腕を一度に掴んで、左手でばちばちと教室の電灯を消す。廊下はとうに暗くなっていて、突き当たりの職員室から漏れる光だけがリノリウムを濡らしていた。

「離してよ」

「今日自転車?」

「そうだけど」

「友達の家で夕飯食べるって親に連絡しな」

「なんで」

「行くでしょ、海」

 鞄をそれぞれ担ぎ直しても握られたままの手首に、彼のぎざぎざした爪が食い込んだ。細い手首には大きな腕時計がコチコチと鳴っている。

「海に志村の家があんの」

「ないよ」

 カゴに鞄を放り込んで、やっと解放された手でハンドルを握る。そのまま走り出す彼の背中を追うか見送るか迷って、

「志村!」

 ひらひらと振られる手首の、文字盤がきらきらと月明かりを反射する。

「あーもう」

 また明日、を言わなかっただけでこんなにも消えてしまいそうな後ろ姿をするのは、彼だけだった。


「どう」

「なにが」

「海」

「……思ってたよか、きたない」

 爪先で砂に埋まったビニール袋をほじくる。小さいカニが出てきた。

「観光地じゃないんだから」

「でも水面は月がふたつになったみたいで綺麗だね」

「クソロマンチスト」

「なんだよ、連れて来たくせに」

「来たいって言ったのそっちじゃん」

 彼は至極つまらなさそうに靴のままばちゃばちゃと波を乱している。

「で、何ご馳走してくれんの」

 爪を噛むのをやめて、僕の肩に腕を回す。

「月とか?」

「え」

 ばちゃん、と聞こえた時にはもう口の中は海水でいっぱいだった。濃い藍色にゆらゆらと踊る光が、時々彼の顔を照らす。浅い海底で馬鹿みたいにもがいてやっとのことで立ち上がると、膝に手をついた彼はゲラゲラ笑いかけて咽せていた。

「何すんだよ」

「月はいっこで充分でしょ」

「クソロマンチスト」

「はは、おいもう寒いから行こうぜ」

「志村のせいだろ」

「あそこの駅、待合室にストーブあるんだ」

「聞けよ人の話を」

「俺に倒置法は効かない」

 どこかの家の焼き魚の匂いと、ひどく冷たい手に引かれて線路沿いを歩いていく。

「なぁ」

「なに」

「時計、いいの」

 彼は割れたガラスを一瞥して、また前に向き直った。

「時計が壊れても、時間は止まらないじゃん」

「うん」

「速くも遅くもならないし」

「うん」

「過去は変わらないし、未来を変えたとしても、変わったってことはわからないじゃん。変わったかもしれない、と思うだけで」

 ず、と鼻を啜る音が聞こえる。掴まれた腕がみょんみょん伸びていって、彼がとても遠くを歩いているような気がした。

「志村」

「なに」

「俺、お前のこと何も知らない」

「当たり前じゃん、話してないし」

 がたぴしと鳴る扉を過ぎ、古臭いストーブのプラグを挿し込んで、ぼぼぼとうるさく燃える炎に手をかざす。

「だから、自分に何かできたかもしれないって、そういうの宮野は、後悔する必要ないから」

「なんで後悔する前提なんだよ」

「しそうだから」

「うるさい」

 ふらふらと舞い込んできた蛾が、吸い込まれるようにストーブの火に巻かれる。

「志村」

「なに」

「また明日」

「明日、休みだけど」

「別に休みに会ったっていいだろ」

 彼は困ったように微笑んで首を横に振った。手首から腕時計を外して、そっと握らせてくる。

「帰るわ」

「おい」

「あげる」

「要らんて」

「持ってて」

 カンカン、と警報器が鳴っている。ホームへよたよたと歩いていく、後ろ姿を、消えてしまうんだ、と思いながら眺めていた。

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ルミナリウム 硝水 @yata3desu

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