夜汽車ブルカニロと旅のはじまり

 

 それからおそらく二つのブロックを越えたであろう頃だった。

「お客様」

「はい」

 車掌がコルに話しかけてきたのだ。

 中性的な顔立ちをしている、とコルはまじまじと彼の顔を見て思った。意識をしないうちに「きれい」と呟いてしまったので、咄嗟にコルは口を塞いだ。

「レポートの進捗はいかがですか?」

 柔らかな声だった。

 コルは本を閉じて、答える。

「締めの一文と、参考文献一覧をまとめるだけで終わりです。今はどのあたりなのですか?」

「ちょうど二ブロックを越えた辺りです。まだまだ到着まで長いですから、大鴉先生とお話しするには絶好のチャンスかと」

「よかった! 先生と話すタイミングが掴めないままだったら、どうしようかと思いました」

 コルはほっと胸を撫で下ろす。

「大鴉先生のことを信頼していらっしゃるのですね」

 車掌は穏やかな笑みをたたえながら言う。

 その言葉にとげがあったわけではないが、コルは首を傾げた。信頼とはまた妙な感覚がする。間違ってはいないだけに、その覚えた違和感を言葉にする術をコルは持っていなかった。

「そう……そうなんだと思います。私は先生のこと、信頼していると思います。だけど先生のことはまだまだ何も知らなくて……だから知りたいんです。先生のこと」

「そうですか。非常に愛されていますね。あの人は」

 愛されている、ともおかしな言い方だった。コルは意識して先生のことを愛したことなどないし、愛していると伝えるのもおかしな関係だった。

「あの、少し勘違いをされていると思います」

 だからゆっくりとコルはその絶妙な違いを言葉にしようとした。

「私は先生を愛しているわけでも、信頼しているわけでもないと思います。ただ当然のように先生のことを慕っているんです。先生は物知りで、気配り……はちょっとできていないけれど、行動力もあって。知識と好奇心が人並み以上の、ちょっとおかしな先生なんです。私、先生のことが……好きというか、慕っています。憧れであり、目指すものであり、しるべです」

 長くなってしまった、とコルは思った。しかしまだ言い足りなかった。

 先生は星のような人だ。彼女はそう思っている。憧れ、目標、しるべ。彼は必ず自分を先導してくれて、守ってくれる。星が夜道を照らすように燃えているのと同じように。星は決して他人のために輝いているわけではない。その輝きに惚れ込んで、人が夜道の手助けにして歩いているに過ぎない。

 コルも彼にそういった感情を抱いて歩いているに過ぎなかった。今思えば、憧憬の念が強すぎるために先生に一定の解釈と距離を持っていたのかもしれない。人間だけれど、偶像のように思っていた。よくない、と彼女は自省する。

 車掌は彼女の発言に興味深そうに翠玉色の瞳を見開いていた。

「……そうですか」

「ええ」

「けれど、じゅうぶんに愛されていると私は思いますよ。羨ましいぐらいです」

 車掌は一礼をして去って行った。

 愛されている。

 コルにはよくわからなかった。愛しているという自覚がない。自分がただ慕っているものに、愛するという概念は勝手についてくるのだろうかと思案する。

 そういえばこんな情動の研究があったな、とコルは学士の街を思い出した。せっかくだからオーレシアにも手紙を書いてから、先生と話そう。そう思った。


「ずるいぜ、大鴉先生は」

 それは車掌の声だった。

 先生が顔を上げるとゆるく睨んだような、笑っているような、絶妙な表情の車掌がいた。

 彼はその機微のわからぬ顔のまま、先生の向かいにどすりと座る。足を組み、腕も組んだ。威嚇の体勢だと先生は思った。

「何がだい?」

「大鴉先生の呼称の通り、愛されていらっしゃる」

 ふう、と車掌は息を吐いて天井を見上げた。吐き捨てるかのような台詞だった。

 先生は読んでいた本から顔を上げて「それは間違いだよ」と言う。

「僕は君の方がずっと愛されていると思うけどね」

「どういうことだよ」

「だって君は大鴉様の元へも行けるこの夜汽車を手に入れた――そうは思わないかい。ヴィヴィ」

 それはかの吟遊詩人の名前でもあったが、同時に車掌の名前でもあった。

「そうは言うけれど、俺は大鴉様の姿さえ見たことがないんだ。今回あんたが連れてこなかったら、一生拝めなかっただろうよ」

「そんなことはないよ。君は何処へでも行けるんだ。神様の居場所にだって行けると僕は思うよ」

「居場所がわかれば、ひとっ飛びさ。でもその居場所というものは、誰にだって行けやしない。昔にこう謳ったな。神はどこにもおわすもの、同時にどこにもいけぬもの。その羽はからから草と同じよう――」

 ヴィヴィと呼ばれた車掌は軽やかに歌い上げた。

 小さく先生が拍手を送ると、けっ、とヴィヴィは吐き捨てた。

「あんたからもらったって嬉しくはないね」

 綺麗な顔を歪ませながら言うので勿体ない、と先生は思うが言わなかった。また文句を言われるに違いなかった。

「あんた、あの人に何を見せてる?」

 ヴィヴィはふいに問うた。

「あの人、というと」

「あの端末だよ。大鴉様の」

「端末っていう呼び方は酷いな。彼女にはれっきとした名前があるんだから」

「それだってあんたが名付けたんだ。羨ましいね」

 先生は口籠もる。ヴィヴィの言うとおりだった。

 ちら、と彼は対角のボックス席を覗いた。コルは眠っているようだった。

 彼は数ヶ月前の出来事を思い出す。

 星の降る夜だった。

 星の降る夜は天使が落ちるとされている。天使というのは天国にいる者ではなく、天からの使いという意味で、先生はただそれを信じていつものように夜道を散歩していた。星が降る夜の散歩は、とても美しいものだった。

 そんなときに一羽の鴉を見つけたのは、彼にとって僥倖であり、今回の旅路の始まりだった。

 彼の前に現れた鴉は、紛うこと無き大鴉様の使いだったのだ。

「あんたは大鴉様の使いに選ばれた。世界の在りようについて、あんたは語ったらしいじゃないか。この世は美しいもので溢れている、と」

 ヴィヴィはいつかの話をする。それはまさしく先生本人が語り尽くした顛末だった。

「そうすると大鴉様はお気に召して、ある端末をよこした。それがアレだ」

「アレだなんて呼び方をしないでくれ。彼女は――」

「僕の教え子だ? いい呼び方じゃないか。アレは大鴉様の端末だ。後生大事に育てて、守り抜くはずのものを、あんたは旅路とやらに引き込んだ。ちなみに前に会ったときは聞かなかったが、どうやって周りの人間との都合をつけたんだ? 存在しない教え子を旅路に連れて行くのは、なかなかに骨が折れるだろうに」

「それこそ神の技さ。僕がある程度の設定を与えると、翌日にはその通りになっていた。劇作家にでもなった気分だったよ」

「そりゃあいい。神っていうのは、そういうものじゃないとな」

 束ねた金髪を指先でいじりながらヴィヴィが愉快そうに笑う。

 くつくつと笑っているが、ヴィヴィは真剣だった。嫉妬を僅かに孕み、彼は先生の辿ってきた道筋を語る。それが事実であり、仕様もないものだと知らしめるかのようだった。

「どうして旅を選んだ? あんたの周りには何でも揃うだろう。何故ってあんたは選ばれた人間だ。この世で最も誰もが知りたがる神話研究の権威で、あんたが一つ頼めば王のようにだって振る舞えるだろう」

「僕は王様じゃない。真に大切なのは見て、聞いて、自分で考えて感じることだ。その瞳が何を捉えるかを選別するのは、僕の役目ではない」

「ふうん。流儀ってやつだな、それは。あんたの流儀だ。善悪を教えて、美しいものとは何かを語らない。こういうものがある、と紹介に終わる。当人がこれだ! と思えば、旅とやらは終わるのかい?」

「それで彼女が満足するのなら」

「大鴉様、とは呼ばない辺り、相当執着していると見える」

 そこまで言われて先生は挑発に乗りそうになってしまった。ヴィヴィの物言いはそれほどに失礼な態度だった。

 ヴィヴィは震える先生の様子を認めて、駄目押しの一言を放った。

「そんなに愛した女と瓜二つのあの子が可愛いか?」

 喉まで出かかった言葉を押さえ込むのに、相当の努力が必要だった。それほどにその台詞は禁句だった。

 先生は思い出す。あの数ヶ月前に大鴉様の使いに端末の――コルの形をどう模すかについて、問われた時、真っ先に思い描いてしまったのが死んだ恋人の姿だった。いけない、と思った頃にはもう遅く、コルは彼女とほぼ同じ形をしてこの世に現れてしまった。

 まるで死体を動かしているようだった。それほど精巧な造りだった。神の創造とは人間の予想をはるかに超えるものだった。

 恋人と似ているから、そっくりであるからコルを大切にしているのではない、と先生は言いたかった。けれど心のどこかにそう思っている自分がいることを否定できなかった。

 今にも舌に乗せれば弾丸の如き勢いでヴィヴィを殺そうとする台詞が飛んだだろう。しかし先生は、ただただ落胆するしかなかった。

「当たってるかはどうかは知らないが、その様子だと図星らしい」

 ヴィヴィは挑発はするが、声だけは笑っていなかった。表情と声音の切り分けられる人間だった。

 組んでいた脚を組み替え、ヴィヴィは窓の向こうの夜空を見つめる。

「愛なんてものは、おそろしい。だから愛にならぬ程度がよい。よく俺もそう歌ったよ。そんなんじゃ、熱病の花園に行った方がいいんじゃないか? あそこは恋なんて病理だって、治してくれると噂じゃないか」

 反論はできなかった。治すことができたらどれだけ幸いか。コルと彼女を切り分けられるようになれればどれほどよいか。

 今でも先生の中にその女性は立っている。特別な席を設けられ、そこにコルがいるわけではない。かといって、コルが特別ではないと断言する気にもなれない。実に中途半端な人間だった。先生は自分のことをひどく恨んだ。忘れたい。忘れたくない。けれど上書きもしたくない。

「……僕に彼女を譲れ、と君はそう言っているように聞こえるけれど、そうはいかないよ。何故ならこれが僕と大鴉様の契約だからだ。彼女に、コルにこの世で最も美しいものを見せる。それが叶わない時は僕が先に死んだか、彼女を守り切れなかった時だ。僕は死ぬ気も無いし、彼女を殺させるつもりもない。僕は僕の願いを、諦めることもきっとない」

 先生は言い切った。視線を床に落として、ぐったりとしていた。

 ヴィヴィはつまらなさそうに返事をした。「なら、見守らせて頂きますよ……」と言い、席を立った。

 車両と車両を繋ぐ扉が開閉する。閉じる音と共に、先生は目を伏せた。


 かくん、と首が落ちるような感覚がしてコルは目覚めた。

 何ブロックまで進んでしまったのだろう。彼女は手元の本が読み進められ、レポートが完成していることを確認してから恐る恐る先生の元へと駆けつけた。

「先生」

 顔を覗くと先生は眠っていた。丸眼鏡の向こうで瞳が伏せられている。睫毛はそこそこの長さだった。

 声を掛けて起こすことはできたが、コルはそうしなかった。そうっと彼女は先生の向かいに座わり、トランクを自分の左隣に置く。

 本を読もうかと思ったが、先生から目が離せなかった。不思議な引力を感じながら、コルはまじまじと先生の顔を見つめる。アッシュグレイの、耳たぶまで切り揃えられた髪と、彼の趣味だという丸眼鏡。他にも眼鏡やサングラスの類いは多く所持しているらしい。

 肌はそこまで白くはないことに気づいて、コルは自分の手の甲と彼の頬の色を比べてみた。まだ自分の方が白いことを知り、なんとなく彼女は落ち着いた。

 ふう、と息を吐く。

「先生。私、あなたのことを……信じています」

 ぼんやりと彼女は呟いた。

 愛しているだとか、信頼だとか、あまりよくわからない。彼女は先生の語る美しいものに惹かれて今この夜汽車ブルカニロに乗車している。次に向かうという宝石商の中央区では、何が待っているのだろうかと心を躍らせながら。まだ何があるのかもわからない。旅の始めに持った地図を頭の中で広げて、コルはまだ見ぬものにときめきを感じた。

 何処までも行ける。自分に翼はないけれど、この人は自由をくれる。

 車掌の言葉がうっすらと浮かんだ。じゅうぶん愛されている。憧憬を愛と呼ぶなら、彼は十二分に愛されているだろう。星のような人。どうか落ちぬようにと祈る人。そうであれ、とコルは思った。

「ん……コル、コル?」

「はい、先生」

「なんだ、いたのか」

 小さく身じろぎをしながら先生が目覚めた。瞬きをしながら先生は眼鏡を正す。少し暑そうにタートルネックの襟首を摘まんでぱたぱたと空気を取り入れた。

「レポートは終わったのかい?」

「終わりました。見て頂けますか?」

「もちろん」

 先生はコルからレポートを受け取り、最初に参考文献の欄を確認した。それが先生の癖だった。

「うん。よくまとまっているね。序文もなかなかいい文章になってるよ」

「ありがとうございます」

「内容は……前回からそこまで変えてないみたいだね」

「はい。本筋は変えたくなかったんです」

「『美術神郷とその生活および神話の親和性について』……ふむ」

 それは既に塗り替えられた白黒の生活に身をやつす人々への賛辞が集合したレポートだった。

「これからの美術神郷の生活は大きく変わっていくだろうから、前生活――とでも言えば良いかな。このレポートはこれから価値が高まっていくだろうね」

「そうでしょうか? たくさんの文献が資料庫にはあったので、そんなつもりはなかったのですが……」

「そう思っていると、いつしか価値が高くなったり、評価がされたりするものさ。君のレポートに救われる人間がきっと現れるよ」

 遠い話だ、とコルは思った。

 まだコルは名のある学生というわけでもない。それなりに勤勉であることだけは心がけている。けれど先生と比べてしまうと、どうしようもなく矮小な存在のように思えてしまう。そんなことはないのに。

「先生。もし評価をつけるなら、このレポートはどれくらいですか?」

「どれくらいだろう。うーん……とりあえず及第点以上はあげるし、赤点にはならないかな。考察によっては左右するけれど」

 コルはほっとした。及第点で満足してはいけないと理解しているが、それくらいなら安心できる。

「先生」

「うん」

「これは感想なのですが」

「どうぞ」

「美術神郷アグラヴィータは、とても素敵な場所でした」

 コルは大窓の向こうを見つめた。

「白黒の世界。バルドゥール画伯が描いたあの街の縮図。神話が根付き、宗教となった生活。壊れてしまいはしたものの、白黒のあの日常だって、きっと素晴らしいものだったんです」

「……君には美しいものに見えた?」

「美しかったです。何もかもが輝いて見えました。でも」

「でも?」

「なんというか……まだわからないです」

「わからない?」

「見るものすべてが美しいので、なんというか……テーマパークのようだったんです。ずっと浮き足立っていた。だからなんというか、まだ夢見心地で」

 先生はレポートから顔を上げた。

「……いい表情をしているね」

 コルの群青の瞳が輝いていた。

 頬が少しだけ紅潮している。肩が震えていて、口角が上がっていた。その様子を見て、悪い印象を覚える人間は少ないだろう。

 先生は安堵した。彼女が心の底から美術神郷を楽しんでくれていることがわかり、先生はほっとした。レポートの内容もまずまずだった。正しく、彼女らしく美術神郷を学んだのは明白だった。

「楽しかったです。これからももっと美しいものが見られると思うと、私はさらに小躍りしそうです」

「小躍りするほどかい? それじゃあ君はこの旅の果てにどんな踊りをするんだろうね」

「え? ど、どうしましょう。ダンスはそこまで得意じゃないんですけど……」

「大丈夫。きっとたくさんのリズムを覚えて、華麗に踊れるようになっているよ」

 先生はくすくす笑った。

「先生」

「うん」

「私は美術神郷であなたのことを疑いました。それは悪いと思っています。すみません。でも同時に……思い直しました。私、先生と一緒に美しいものが見たいです。もしかしたら、先生にとってはそれはとうに見飽きたものかも知れませんが、もし私にとって最も美しいものが見つかって、それを誰かに伝えたいと衝動に襲われたとき、きっと一番に伝えたいのは先生なんです。だから、一緒に目指して欲しいです」

 長い台詞だった。彼女はその瞳の輝きを殺さぬまま、先生に向き合った。

 群青の瞳には、星が映っている。

「先生、どうか一緒に」

 そのとき彼の心の憂慮は、じわじわと消え去っていった。ヴィヴィの言葉も、彼女への憂いも少しずつ晴れ渡っていった。完全に拭いきれはしなかったものの、彼はにこやかに笑えるようになった。

 コルはコルだ。彼女の願いを叶えるために自分も尽くすだけなのだ。たったそれだけのことだった。

「ああ、もちろん。美しいものを見て、どうかそれを伝えて欲しい。どんな世界だったか、僕に教えて欲しいな」

「ええ! それじゃあ語りましょう。美術神郷の素敵なところ……あ、あと先生のことも教えてくださいね」

「僕のこと?」

「だって先生だって、美しいものになるかもしれないんですから」

 ふふふ、と満足そうにコルは微笑んだ。

 夜汽車が進んでいる。遠く、先の宝石商の中央区へ進んでいる。

 二人の旅路は彩られたばかりだった。

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大鴉先生とコル 伊佐木ふゆ @winter_win

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