次の旅へ

 先生の説明はこうだ。

 美術革新が行われた。理由は“神を覗く者”に縛られた生活を一新するためにだ。近々暴走状態になると見込まれていたあの“神を覗く者”はインクの飽食に耐えきれずに今回暴走してしまった――というのが事の顛末である。

 何故美術革新が必要なのか? その問いに先生はこう答えた。「インクを抽出し、そこから生み出される創造にだけ満足するのではなく、その先の創造――インクまでもを創り出す、その創造にこそ神は満足と希望を見出す」とのことだった。

 先生の演説は事実上手くいった。もちろん先生の言葉に不満を抱く者も居たが、美術革新の台頭者が、かの神郷画家バルドゥールと“神を覗く者”を操っていた教会のシスターであることを知り、彼らはすぐに手のひらを返した。

 色が戻った――インクの帰巣が終わった美術神郷はと言うと、鮮やかな街並みに変わっていた。

 それこそ葬式の日々が永劫続くような、色褪せない街が広がっていた。白黒の家具や家は元から色がなかったわけではなく、一度材料を“神を覗く者”に色を吸い上げてもらう禊ぎを行う必要があった。そのためインクが戻った今、非常にカラフルな、しかし目が痛くならない程度の絶妙な塩梅での鮮やかな街並みがあった。

 コルはぼろぼろになった教会から出て、改めて美術神郷を見渡す。

 そこにはコルが一番最初に思い描いていた美術神郷があった。何処を見ても鮮烈な色彩があり、センスが感じられ、髪色や肌色の統一されない人々がいる場所。そんなものを想像していたから、彼女はついに空想が現実になり、なんとも言えぬこそばゆい気持ちになった。

「なんだか……この短い期間で二つの街を行き来しているようです」

 コルの感想に先生は頷いた。彼は一つにまとめていた髪を結び直しながら、コルの隣にやって来た。

「そうだね。ここまで変わるとは僕も思わなかったな」

「先生は思いつきで行動をしているのに、どうしてあんな風に上手くいくんでしょう? やっぱりバルドゥール画伯が仰ったように、大鴉様から祝福を受けているんじゃありませんか?」

「思い付きじゃないところもあるけれど……さあ、どうだろう? でもね、きっと不思議なことはこの世にはないし、解明できるもので溢れていると僕は思っているよ」

「……小鴉もですか?」

「そうさ。寧ろ僕は論文にしにくかろうと、それを知りたくてたまらない! だってインクを、色を食べて生きるだなんて面白いと思わないかい? それに契約をして生き長らえるというのも、生物的……というか、僕ら人間に近しい感覚がする。だから知りたい、と思うのは当然じゃないかな?」

 嬉々として先生が話すので、コルは首を傾げた。それ以上の問題が山積みだというのに、この人はいつだってある種前向きだ。知識に貪欲で、好奇心に負けっぱなしなのだ。

 コルと先生の滞在はそれから予想以上に長期となった。

 先生にレポートを急かされながら、美術革新が完了するようコルと先生はバルドゥールらと共に奔走した。革新と名が付けばそれらしくなるものの、いかにして美術神郷が白黒ではなくなったかの、それらしい理由を知るのはあの場にいた人間しか知り得ない。ましてや先生の口車に全員が乗っているような状態だった。だから彼はその緩い足元を固める作業をした。地盤はいくらでも硬い方が良いだろうと、先生はどこまでも協力を惜しまなかった。

 結局コルと先生が美術神郷を出たのはそれから一週間後のことだった。葬式の間だけの滞在のつもりが、倍以上になってしまった、と先生は苦笑する。

 美術神郷の街並み――人となりは、予想外な方向へ飛んだ。

 自分の家屋に色彩的センスがないと言い出し、家屋の染色を一から始める者たちがいた。

 自分の戻った髪色と瞳の色に納得がいかず、インクをかぶったり、インクに目を浸して病院は大変なことになった。

 インクを混ぜながら「あなたの色に染まりたいの! 調合を教えて頂戴!」という愛さながらの台詞が響いた。

 どの色がどの色彩を生み出すのか忘れた人々は、色彩辞典なるものを作り出した。

 そういった大きな変化が、美術神郷を埋め尽くしていった。

 変わったと言えば、バルドゥール画伯も頭からインクをびっしゃりと被った人間だった。「私も夜になりますぞー!」と言いながら、自分で調合したインクをかぶり、彼の髪色は黒から青に寄り添った。その様子を認めたアグラヴィータの人々が、ならば自分も! と様々にインクを調合し、髪の色や様々なものを染めた。

 その町並みを見て、ナーナは言う。

「これじゃあ神郷彩園ね」

 そのようになるのは、時間の問題だろう。

 滞在の間に先生は髪を切った。肩まで伸びた髪を、耳たぶまでばっさりと切り落とした。

 というのも、コルが進言したからだった。

「最後に切ったのはいつですか?」

「ええと……数年前、かな?」

 それでは切られるのも仕方が無い! コルは自ら鋏を握り、先生の髪を切った。先生の髪は少しごわごわとしていた。髪色のアッシュグレイは一本ずつが白髪のように輝くので、コルは先生の年齢がわからなくなった。

 そういえば、先生のことを何も知らないのだとコルはその時に気づいた。長躯で細身――のわりには筋肉があり、着痩せをするタイプ。知識欲と好奇心だけは少年並みで、頭脳はおそらく明晰。学問的には高い学位を持ち、学士の街では希代の天才と呼ばれていたはずだ。

 なんだ、それなりのことは知っているではないか、とコルは胸を撫で下ろそうとする。しかし逆に言えば、コルはそれ以外のことを知らないのだった。自分のことを守ると言ってくれた人のことを、恐ろしい程に知らないのだった。

 ――帰り道には、先生とたくさんおしゃべりをしないと。

 コルはそう思いながら帰路につくため荷物をまとめた。人と仲良くなるには対話から。画材と仲良くなるには一筆書きから。そうアグラヴィータの絵本にも書かれていた。

 ついでと言わんばかりに、コルはセティの前髪を切る作業を頼まれていた。決してコルの鋏さばきが素晴らしいから、というわけではなく、セティからのお願いだった。

「セティくんは前髪を切って、インクを被るんですか?」

「ううん。僕は、パパみたいに、しない。この黒髪、すき」

「それもいいですね。でもどうして髪を切ろうと?」

 セティの前髪は確かに伸びきっていたが、先生ほどではなかった。というか、先生が伸ばしっぱなしにしすぎているのだ。先生の堕落についてはおおよそ予想は付く。本を読むときにだけ、邪魔になってきたら前髪だけ切っているのだろう。そんな気がした。

 もじもじとセティがみじろぎしながら「誰にも言わないでね」と前置く。

「美しいもの、いっぱいみれるよう、切るのです」

 にか、とセティは笑った。

 その言葉にぞわぞわとコルは背筋が震える思いをした。そうだ。こんなことを言われてみたかったのだ! ドキドキ高鳴る胸を押さえながら、コルは「ええ!」と頷き、セティの髪に鋏を入れた。

  

 見送りにはバルドゥール家族が来ては、先生に多大な感謝を述べていた。バルドゥールもナーナ夫人も視力を取り戻し、快適で自由な暮らしができていると同時に、バルドゥールに至っては作品のアイデアが止まらず溢れているらしい。

「いやはや、インクを混ぜ合わせる感覚が久しいもので! あの楽しさをどうして忘れていたのか驚くほどでしたな。先生とお嬢さんには感謝を申し上げたい!」

「本当ですか? また“神を覗く者”に代わるものを探すのでは?」

「そんなことはありません。きっとね! 絶対とは言い切れないのが人生というものです」

 あっさりとバルドゥールが言う。そのあっけらかんとした態度にどう笑えばいいものか、コルと先生は顔を見合わせて眉を下げた。

「こら、あなたったら」

 ナーナ夫人がバルドゥールを小突く。

「けれど、夜道でいいのですか? 暗いし危ないし……もし悪い人たちに出会ったら、先生とお嬢さんはどうされるのかしら」

「ナーナ夫人。そこはご安心ください。僕には最終手段がありますので」

 きっぱりと、しかし先生が笑いながら言う。コルとセティがそれにうんうん、と首肯をした。バルドゥールとナーナ夫人だけがわかっていないようで、彼らは首を傾げた。

「夜風が冷たくなってはいけませんし、そろそろ解散といたしましょう。バルドゥール画伯、ナーナ夫人。それからセティくん。良い夜と祝福を」

「ありがとうございました! 良い夜と祝福を!」

 コルと先生は頭を下げる。色とりどりの街灯がついた美術神郷に、別れを告げた。

「さようなら大鴉先生、お嬢さん! 良い夜と祝福を!」

「良い夜と祝福を!」

 バルドゥールらは別れを惜しむことなく、堂々とその手を振り、二人を見送った。

 二人は歩きながら次の街――ではなく小高い丘を目指した。美術神郷アグラヴィータから北西に向かったところに拓けた丘があることは地図で確認できている。まずはそこを目指すことになった。

 理由はコルがどうしても夜汽車ブルカニロに乗りたいと駄々をこねたからだった。

「ずるいです。先生はともかく、先にセティくんを乗せるだなんて!」

「だってあれは非常事態だったし、君の場所には向かえないと車掌に言われてしまったから、そうしたんだ。アレを呼ぶのは大変なんだよ? 我慢してくれないかい」

「無理です」

「早いね」

「無理です! 小鴉であったとしてもその存在は伝説、おとぎ話の代物! それが事実として乗れる汽車として存在するのは――あの汽車の音と空から降ってきた先生で証明がつきます! 乗せてください。今すぐに」

 口早にコルが言えば、先生は仕方があるまいと腕時計へ視線を落とした。

「やった!」

「でもブルカニロが使えることを吹聴はしないこと。神秘は神秘のままの方が良いという人間もいることを忘れてはいけないよ」

 その時コルは嬉しそうに調子よく返事をした。なんてお調子者なのだろう、と先生はそんな彼女を見て肩を竦めた。

 コルは足早に丘を目指していた。口調もどこかそわそわしていて、自分で目標を立てた「先生と話す」というのもなかなか実現できないでいた。先生と夜汽車ブルカニロでは、格が違う――というわけではないものの、彼女の中でなんとなくの優劣がついてしまっているのは事実だった。目の前の先生と、次があるかわからない夜汽車ブルカニロでは、ブルカニロの方が勝っていた。

「コル、そんなに急がなくてもブルカニロは待ってくれるよ」

「わかっています。わかっているんですけど、どんな汽車なのか楽しみで仕方が無くて。どういう風にあれは登場するのですか?」

「登場といえば……うん。線路のないところにそれはあっさりと登場するんだ。汽車の音を高らかに響かせながら、その音に感動をしていると当然のように扉が開いて、車掌が歓迎してくれる」

「車掌さんは金髪の方でしたよね。それ以外にはどういう印象でしたか?」

「今回は物腰が柔らかかった気がするな。淡淡としていたけれど、仕事人だと思えばいい塩梅の人間だったよ」

「へえ……!」

 感動に心を躍らせていると、ついには目的の丘までたどり着いてしまった。

 拓けた場所だった。背の高い草木は存在せず、適度に木があり、夜空が近い場所だった。

「近々この場所は、本当に駅になるらしいよ。バルドゥール画伯がそう仰っていた。アグラヴィータは交通の便が悪いからって」

「確かに馬車やバイクなどしかありませんでしたね」

「ああ。駅の開発はまだまだ先だけれど今日は僕らがブルカニロへの駅にしよう」

 先生はそう言って南東の方角を指した。

 満天の星の中に色とりどりの美術神郷が見えた。

 月の明かりが照らし出した輪郭の中に、コルは一つおかしなものを発見した。

 それは流れ星のようで、軌道がへんてこりんだった。まっすぐに空から地面にめがけて流れるはずの星は、どうやら急カーブをしてこちらへ徐々に向かってくるではないか。

 目を丸くしていると、耳が小さな音を掴んだ。

 汽車の音だった。

 少しずつそれは心臓の鼓動と同じように音量を上げながら近づいてくる。

 黒鉄の車体。蒸気をまき散らす、巨大な乗り物。

 夜汽車ブルカニロは先生の説明通り、線路もなしに走っていた。

「先生、あれですか! あれが夜汽車ブルカニロですか!」

「そうだよ。僕らはあれに乗って次の目的地に向かうんだ」

 汽車がこちらに向かってくる。夜空を走り、蒸気をなびかせ、何列もある車両にコルは今にも跳ねたい気持ちを抑えるのに必死だった。

 そして車両の扉は開かれる。

「ご利用、ありがとうございます。夜汽車ブルカニロでございます」

 金髪の麗人はそれらしい車掌の制服を着て、深々と頭を下げた。コルもそれに倣って思わず頭を下げてしまった。

「今回はどちらへ?」

「宝石商の中央区へ。この子も一緒に連れて行って欲しい」

「かしこまりました」

 車掌は顔を上げると先生とコルを案内した。

 木の香りのする車内だった。何列も席があるわけではなく、ブロック席が車両の四隅に一つずつある広々とした作りをしていた。席にはふかふかのクッションが使われており、尻が綺麗に沈むのでコルは驚きを隠せなかった。汽車というものは、おしなべて硬い席なのだとオーレシアから聞いていたからだ。

「宝石商の中央区へはここから九つの駅を超え、十五のブロックと二十の山を越える必要があります。寝台車両はこの先にありますので、ご自由にお使いください」

「寝台まであるのですか?」

「夜汽車ですから。あいにく、お食事のご用意はできませんので、そこだけご了承ください。途中下車は基本的には叶いません。ですが明日の正午までには宝石商の中央区付近まで移動できるかと」

 コルは唖然とした。宝石商の中央区と言えば、美術神郷アグラヴィータから車掌の言うとおり二十の山を越えてようやく到着できるような場所だ。それが一夜にして移動できるとは。

「じゃあ、よろしく頼むよ」

 席に座り、トランクを置くと先生は車掌に言った。車掌はまた頭を深々と下げて、別の車両に向かってしまった。

 そわそわしながらコルは車両を見渡す。広い間取りである以外には調度品があるわけでもなく、窓の向こうで夜空が輝いていること程度しか気になることはなかった。コルと先生以外に乗客はいる気配がない。

「貸し切りというやつでしょうか」

「そうだね。貸し切りだと思うよ。だからのびのびとレポートが書けるんだ」

 先生はそう言ってトランクから本と紙、それからペンを取り出した。

 慌ててコルは彼を止めようとする。

「無粋です、そんなの! こういうものは汽車の景色を楽しみ、話に花を咲かせるべきだと思います」

「でもコル。君のレポートは終わったのかい?」

「そ、それは……!」

 隠し通すつもりはなかったけれど、こんなところでまで! とコルは泣きたくなった。

 そんなコルの様子を見て、先生は困ったように言う。

「終わっていないわけではないと思うけど、この前のはもう少し精査できると思うよ。宝石商の中央区へ到着するまでにポイントを伝えるから、あちらの席で書いていなさい」

 ぐうの音もでなかった。コルのレポートは一度は先生に提出をしたものの、やり直しを食らっている最中だった。ほぼ完成まで書き上げてはいるものの、まとめの項で行き詰まってしまい、アグラヴィータを出る今日までそのままだったのだ。

 渋々コルは自分のトランクを持って移動の準備をする。

「先生は意地悪です。たくさんお話したいことや、考察をしたいことがあったのに!」

「それは正午までにたくさん話せるよ」

「そうですけど、風情がなさすぎです。せっかくの汽車旅なのに」

「旅の始まりから一気に態度が変わったなあ。でもコルのことだから、すぐに終わらせて話に来るのを待っているよ」

 先生はそう言ってコルを見送った。

 先生の座る席から対角のボックス席にコルは腰を下ろした。そこには大きな窓がこしらえており、夜空が一望できた。地上より高く、空に限りなく近く、決して地に足をつけながらでは見られない光景に彼女は目を輝かせた。

 けれどいけない。コルは早く終わらせてしまおうと本とレポートを広げた。

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