第八星『星の後悔』

「ただいま、トリスタちゃ──ってどうしたのその子!?」


「遅かったですね、ニータさん」


 ようやく戻ってきたニータに、トリスタは皮肉を言いながら頬を膨らませる。

 だって、待っている間の体感は一時間近くあった。ご飯を買ってくるだけなら十分とかからないはずだ。


「ごめん、思いの外時間がかかっちゃって。でもほら、美味しいミートパイ持ってきたから、許して?」


 そう渡されたのは、手のひらより大きい、トリスタにとっては慣れ親しんだミートパイだった。


「これをどこで?」


「ジュディさんに頼んで作ってもらったんだ。ほら、君の雇い主の」


 確かに、トリスタの前雇い主はジュディス・ドレイパーだ。

 それに、このミートパイはジュディスがよく作ってくれたものと同じ。


「もしかして、これのために時間がかかったんですか?」


「うん。もうちょっと早く出来上がるものだと思ってたんだけど、誤算だったみたいだ。ごめんね?」


「いえ、わざわざありがとうございます」


「いえいえ! ところで、その子は?」


 ニータが指したのは、トリスタの隣に座る少年だ。

 言うまでもなく、一時間前にトリスタの目の前に現れた少年である。


さっき、血を流して倒れてたんですひゃっひ、ひをひゃはしへひゃおへへひゃんれす


 ミートパイを渡されるなり齧りついたトリスタは、ニータの質問にまともに答えられない。

 だが、ニータは相変わらずの不思議な力で察したようだ。


「え? あぁ、そういうこと? でも、どうして助けたの?」


 トリスタはやや明るい赤髪の少年を見下ろし、しばらく黙り込んだ。

 少年の肩口に巻かれた布には、血の滲んだ跡がある。


「危ないのは分かっているでしょ? ここはクラテニオ大森林だ。今なお戦火が森を焼く、世界で最も残酷な場所。部外者は、案内役はもちろん子供でさえも信用してはならない。それは君も知っているはずだ」


「分かってます。それでも──」


 トリスタの脳裏を、あのとき手を掴み損ねた赤髪の少女の顔がよぎる。


「もう二度と、目の前で人が死ぬのを見たくなかったんです」


 こう言っても、ニータには理解してもらえないのではないかと思った。

 彼女は少し変わっているし、死生観もおそらく他の人とは違う。


 ニータが心からトリスタを心配しているのは分かっている。だけど、トリスタは自分の命が最優先だとは割り切れない。

 だから、いくら怒られようとも少年を助けたことを後悔する気はなかった。

 そう覚悟するもしかし、ニータの口から紡ぎ出された言葉は、トリスタの予想したものとは少し違っていた。


「──分かった。でも、忘れないでよ。いつでもぼくに連絡していいってこと。今回のことも、ぼくに連絡すればすぐに済んだはずだ。頼まれれば、君の望むようにした。ぼく無しで危険なことをしないで。ぼくは君を失いたくないんだ」


「わ……かりました」


 トリスタは後悔しないとはいった。だが、ニータの苦しそうな表情を見ると、申し訳なく感じてきた。

 大切な人を失う苦しみは、トリスタが一番知っているはずだから。

 そして、ニータの大切な人──少なくとも失いたくない人の中に、自分が入れていることが少しむず痒い。


「さぁ、白蛇族のレネー君。ぼくたちが助けてあげられるのもここまでだよ。住処まで戻れるかな?」


「どうしてオレの名前知ってるの?」


「ぼくは世界で三番目に物知りだからね。残念ながら、君の怪我は治せないけど」


「なら、鬼がどこにいるか知ってる?」


「君を斬った鬼のこと? ──それは知らないな」


「じゃあ、仕方ないか。オレ、帰るよ。お姉さん、ありがとう」


 そう言ってスタスタと離れていく少年に、トリスタは思わず幼い頃のレックス・ドレイパーの姿を重ねた。


「待って!」


 気が付けば、ニータの時と同じように、少年の後ろ姿に声をかけてしまっていた。


「家まで送らせて。怪我はまだ治ってないでしょう? その状態でまた襲われでもしたら──」


「トリスタちゃん。危険だ」


「でも、見過ごせません」


「君のその気持ちは理解できなくもない。でも、ぼくが君を守れるのにも限界があるんだ。ぼくの権限は万能じゃない。だから、いざという時に君を守れないかもしれない」


「それでも構いません。自分の身は自分で守ります」


「…………そう。なら、仕方ないね。本当は帰るまでとっとく予定だったんだけど──」


 ニータは観念したように息を吐くと、何やらもぞもぞと空間をいじり始めた。


「おーい。シーちゃーん。ご主人はこっちだよー」


 その呼びかけに応えるように、聞き馴染んだ羊の声がどこからか鳴り響いた。

 と同時に、シーちゃん──トリスタの愛羊が空間から突然現れた。


「シーちゃん!?」


 飛びついてきた愛羊の頭を撫でるも、トリスタは動揺を隠しきれない。

 どうしてこの子がここに──。


「さっき街に戻ってきた時、いきなり物凄い勢いでぶつかられたんだ。それが何だったと思う?」


「まさか」


「そう、君のシーちゃんだよ。訳も分からず彼女に嗅ぎ回されるから何かと思ってたんだ。そしたら、君の羊であることが分かってね。試しに連れてきてみることにしたんだよ。──案の定、彼女は君を求めていたようだ。良かったよ。生物の魔女ならまだしも、ぼくでは動物の心は分からないからね。違ったら美味しく食べようかと思っていたところなんだ」


「え?」


「冗談だよ。さて、その子の上に君と少年が乗るんだ。そうしたら、ぼくも守りやすい」


「二人乗りはいけません」


「大丈夫だよ、二人とも小柄だし。シーちゃんなら重くても行けるでしょ?」


「駄目です。二人以上で乗るのは危ないんです」


「うーん。分かった。君に無理をさせるわけにもいかない。トリスタちゃんがシーちゃんに乗って」


「いえ。シーちゃんにはこの子を乗せます」


「ええ? 意外と君は頑固だね。仕方ないなあ。まあ、いっか。じゃあさっさと送り届けよう。あまり長居すると夜になってしまう。ぼくは星空をこよなく愛しているけど、この場所に限ってはそうじゃないからね」



        ★☆★☆★



 辺りはだんだんと暗くなり始めてきていた。

 それに、さっきまでは着込まないと寒い程度だったのが、今は上着を一枚脱がないと暑い。


「──そろそろだよ」


 少年──レネーに導かれ、トリスタたちは鬱蒼とした森の中を歩き続けていた。

 だいぶ歩いたので、疲れた脚はもう感覚がない。

 しかしそろそろにしては随分と──、


「白蛇族は地下住まいなんだっけ?」


「うん。バレたら殺されちゃうから」


「そんなところにぼくたちを連れて行っていいんだ?」


「お姉さんたちはトクベツ。オレを助けてくれたから」


 なるほど、人が住んでいる気配がないのは住居が地面の下にあるからか。

 この土の地面の下に人がいるだなんて想像できないが。


「着いた。ここだよ」


 レネーは立ち止まり、地面を指差した。しかし、地面には穴が空いているような様子はない。


「上手く隠したものだね」


「まあね。ここに住んで長い──らしいから」


「四百年くらいだっけ? 今はどの種族が優勢なのかな? 前に来た時は鬼族が繁栄してたはずだけど」


「そりゃあもちろん、オレたち白蛇族だよ。鬼は半分ぐらい死んだしね」


「──っ。トリスタちゃん!」


 いきなりニータに手を掴まれ、トリスタは動揺する。


「どうしたんですかいきなり!?」


「──あれぇ、もうバレちゃった? じゃあ、オレたちも早くしないとね」


 振り返ってトリスタたちを見たレネーの顔には、今までのあどけないものとは打って変わって、残虐な笑みが浮かべられていた。

 次の瞬間、レネーの腕が振り上げられる。その手には、細長い針が握られていた。


「──っ」


 トリスタはあまりの突然の出来事に息ができなくなる。

 針がトリスタを襲い、しかしそれはニータによって阻まれた。

 ニータの不思議な力に弾かれた針は、宙をキラキラと舞う。

 助かった──?

 ──いや、違う。


「くっ──」


 トリスタを襲った針に気を取られたニータの横腹を、刃が凪いだ。

 薄着のニータは呆気なく肌を割かれ、真っ赤な血を流す。


「ニータさん!?」


 ニータは苦痛の表情を浮かべると、トリスタの手を握ったままその場にしゃがみ込んだ。

 トリスタもしゃがみ、ニータの怪我の様子を確認する。浅いが、傷周りが変色している。


「──飛べない」


 ニータはいつものように瞬間移動することで、事態の脱出を図っていたようだ。

 だが、今はそれができない。


「トリスタちゃん……。シーちゃんに乗って逃げるんだ。このまま北に行けば、星空の街に着ける。そこまで、走って逃げて──」


「ニータさんはどうするんですかっ?」


「──」


「シーちゃんに一緒に乗りましょう! はやく……!」


「……二人乗りは、いけないんだろう?」


「そんなことを言ってる場合じゃ……!」


「大丈夫だよ、トリスタちゃん。今は苦しいけど、幸いぼくは死なない。それに、君が一人で逃げないと、追われてしまう。そうなったら、ぼくは君を守れないかもしれない。ここはぼくがどうにかするから、その間に君だけでも逃げるんだ。ぼくのことは心配しないで。必ず君のもとに帰ってくるから」


「でも……!」


「いいから、はやく。そろそろ蛇たちが出てくる」


「いやぁ、即効性の毒だったと思うんだけど、意外と耐えるんだね? お姉さん。さすが、定期的にここに来るだけあるよ。──あぁ、別のお姉さん。逃げるなら、早くしたほうがいいよ? オレは助けてもらったからお姉さんを標的にはしないけど、オレの仲間は違うから」


「──っ」


 冷ややかなレネーの口調に、トリスタはようやく現実が見えてきた。

 トリスタが信じようとしたものは全て虚空で、今ここで逃げなければ全てを失ってしまうこと。


「シーちゃん、行くよ!」


 トリスタは愛羊の背中に乗り、その場から逃げ出した。

 ──毒に侵され、無数の蛇たちに囲まれたニータを背後に。






 膝をついたニータの周囲には、大量の白蛇たちがずらりと並ぶ。

 ニータは荒い呼吸を繰り返しながら、苦しい笑みを浮かべて赤毛の少年を見た。


「やはり、もとからぼくたちを狙っていたようだね。──いや、正確にはと言うべきか」


「まあね。随分と前から目障りだったそうだよ。オレはそんなのどうでもいいんだけど」


「残念だなあ。ぼくは君たちに危害を与えることなく星を集めてきたつもりだったんだけど」


「まあ、そんなこと言っても今更だね。お姉さんは今ここで死ぬんだから」


 少年が言い切ると、蛇たちが一斉に頭を上げた。

 個々の繋がりが薄いはずの白蛇族をまとめ上げる少年の統率力に、ニータは目を見張る。


「──いやぁ、流石のぼくでもやばそうだ」


 非力な星揚師ニータの体に、蛇の鋭い牙が襲いかかった。

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