主様のドア

292ki

その腹には何も無かった

今でこそ、このように窓には鉄格子がしっかりと嵌っていて、天井が妙に高い部屋に居着いている私ですが、昔はそれは立派なお方のお屋敷で使用人をしていたのです。

主様はとても素晴らしい人でした。マア、私は主様の腹から出てくる前の記憶を持たないので比べる人はいないのですが……それでも断言出来ます。主様は素晴らしい方でした。

え?主様は私の母親なのかですって?何だってそんな不思議なことをお聞きになるのです?……アア、腹から出てきたと言ったから勘違いされたのですね。私としたことがうっかりしておりました。

私は主様の腹に胎児として宿り、産道を通って産まれてきたわけではありません。主様の腹には立派な木製のドアがあったのです。私はそこからコロンと前転してこの世界にやって来たのでございます。

普通の方には信じられないことでしょう。しかしね、私の主様のお腹にドアがあったのは間違いのないことなのです。そこから出てきたのは私だけではありません。その屋敷で働くしよう人は須らくそのドアからやって来たのです。

ドアから出てきて一番最初に見るのは宗教画の様に美しい主様です。高級そうな革のソファに腰掛けて、優雅に足を組んでニッコリと微笑んでおられました。そうして私にこう仰ったのです。

「ようこそ、可愛い72番目の召使い」と。

その声は正に天上の調べ!私は主様のお言葉通り、72人目の召使いとなってせっせとお屋敷で働きました。

お屋敷での日々は大変ではありましたが、とてもやりがいのある、楽しい仕事でした。私は要領が悪かったので、先輩である12番目の召使いのアルデリセによく叱られておりました。それでも私は幸せでした。何せ、あの素晴らしい主様のお役に立てるのです!これ以上、名誉なことがあるでしょうか?

あの屋敷で働く使用人は、皆主様のために働くのを何よりも嬉しく、栄誉に思っている……私はそう思っておりました。

エエ、違ったのです。そうではなかったのです。そうでないからこそ、私は今ここにいるのですから。

……暑く、寝苦しい夜だったことは覚えています。私は夜中に目が覚めました。普段、そんなことはないのですが、その日はあまりに暑かったのです。私と同室のコリータとディンキンスも目を覚ましておりました。それぞれ62番目と70番目の召使いです。

私共は顔を見合わせてどうやって寝直そうか考えました。そして、水を飲みに行くことにしたのです。この寝苦しい夜に冷たい甘露を、と。

そっとそおっと誰も起こさないようにゆっくりゆっくり部屋から抜け出して調理場に行こうとした時、私共の耳に小さな啜り泣く声が聞こえてきました。

なんだろう?私たちは互いに首を捻りながら、その声の聞こえてくる先に向かったのです。

アア、愚かで可愛い召使いたち!そんなことをしなければ幸せでいられたのに!

辿り着いたのは主様のお部屋でした。私共は主様が泣いていらっしゃるのかと思って焦りました。主様の美しい顏に流れる涙を止めて差し上げねば!そう思い、扉を開いたのです。いきなり大きく開けては主様が驚いてしまうと、小さくゆっくり開けたのです。

そこには主様の腹に頭を擦り付け、泣きじゃくるアルデリセの姿がありました。

主様は聖母の様に優しく、アルデリセの頭を撫でていらっしゃいました。

「帰りたい」

私共があまりに衝撃的な光景に言葉を失っていると、アルデリセが涙声でそう言いました。

「帰りたい」「帰りたい」「主様の中に帰りたい」「開けてください」「開けて」「主様、ドアを開けて!」

最後はもう悲鳴の様でした。主様はもう一度優しくアルデリセの頭を撫でると、優しい慈愛の笑みを浮かべてこう仰ったです。

「良いでしょう」と。

主様のお言葉と共にアルデリセの頭が、体が、足がどんどんと主様の中に吸い込まれていきます。いいえ、正しくは主様のお腹にあるドアに吸い込まれていくのです。

アルデリセがドアの向こうに消えるまで、私共は呆然としておりました。そして、主様が愛おしそうに腹を撫でた瞬間、私共は弾かれた様に立ち上がり、部屋へと戻ったのです。

あれは何だったのか。私共の矮小な脳味噌では答えの出せぬ不可思議で神秘的な現象でした。しかし、答えが出せずとも私共が思ったことはひとつです。

「アア!なんて羨ましい!」と。

私共も主様のドアをもう一度通りたい!それを叶えられたアルデリセはなんて幸福なのでしょう!

噂好きのコリータがその時、共にいたのが全ての終わりでございました。

コリータの話した噂は瞬く間に使用人達の間を駆け巡り、主様の部屋には連日可愛い召使い達が押し寄せました。主様はその一人一人に慈悲を持って接し、アルデリセと同じようにドアを通してやりました。

何人も何人も何人も望まれるがままに通してやりました。

そして、屋敷には私以外、いなくなったのです。使用人のいない屋敷は屋敷でなくなり、主様は主様でなくなったのです。

そこには腹に全てを詰め込んだ、いと尊き御方と私だけが残ったのです。

……何故、私だけ残ったか気になりますか?それは主様が私に望まれたからです。

私も最初は他の皆の様に主様のドアに通ろうとしました。しかし、他でもない主様が私の肩に手を置き、お頼みになられたのです。

「アア、可愛いグリンデ。愛しきグリンデ。72番目の召使い。どうか私のドアになっておくれ」と。

主様が望まれれば否やはありません。私はお腹を晒しました。そこに主様がトンテンカンと立派な木製のドアを作って下さったのです。

「ありがとう、ありがとうグリンデ」

そして出来たドアを主様はお通りになられました。私はその時、確かにそこに何もかもが満たされる素晴らしき満足感を得たのです。

ほおら、見て下さい。これがそのドアです。主様以外はまだ通らせたことのないドアです。

素敵でしょう?素晴らしいでしょう?主様はセンスも抜群でしたので。

だから、私は待っているのです。このドアの向こうから主様がコンコンとノックした時、すぐにこの世界にお通し出来るよう、私はずっと待っているのです。

私のお腹のドアからいつ主様がお戻りになられるか……貴方、ご存知ですか?

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