後編

    3


 十八時半、ひよりは地元の駅に着いた。帰宅時間だというのに、駅構内には学生数名とビジネスマンらしき男だけ。普段も駅はこんなものだ。

 各務の協力もあって定時内に資料は完成した。営業には「再提出リテイクはなしですよ」と念を押し、データを突きつけるようにして退勤。今日のところは問題はなかったが、後ろ倒しになったA社の案件がある。明日からは残業しなくてはならないかもしれない。

 改札口を出て、寄り道をせずに帰宅しようとした。せっかくなので今日くらいはゆっくり休みたい。

 駅前には広場や商店街などの開けた場所はなく、すぐに民家が狭い中をひしめき合っている。取り立てて目立つものはない。だから、場違いな存在に気がついたのはすぐだった。反射ベストを着た警察官が直立している。

 警官はひよりと目が合うと、「夜道はお気をつけ下さい」と軽く会釈した。最近は物騒だと報道されていた。現場はこの近辺だっただろうか。目立つ怪我人はいないらしいが。警戒体制にあるのかもしれない。ひよりも頭を下げて自宅への道へと進んだ。


『遅いときはタクシーで帰った方がいいですよ』

 座卓の上で各務は口を尖らせた。ひよりはパーカーにショートパンツという部屋着で胡座あぐらを掻いている。

「でも、ここは駅前でもなかなかタクシー捕まらないんだよ」

『明日も定時通りだといいですね』

 各務の顔は渋いままで眉間に皺が寄っていた。「お父さんみたい」とひよりはこっそり思いながら、円筒状の容れ物からクリームを指先で取り出して腕に塗る。

「明日からはどうなるか分かんない」

『なかなかにブラックってやつですね』

 各務は最近覚えた言葉を使いたがる。もっともらしく腕を組んで頷く。 

「そうだね。今日はありがと。手伝ってくれて」

『いやいや。自分にはあれくらいしかできませんから』

 言葉を一旦区切ってから、

『ひよりさんの仕事は素晴らしいですね。フォントの種類やサイズ、色を変えるだけで読み易くなる。適切な行間とイラストで平凡な文章が見違えましたました。オレの社畜時代にそういう能力があればよかったんですが……』

 少し残念そうに言う各務。

「文章の方は任せてたからね。あたし一人じゃ間に合わなかったと思うよ。分かり易くまとめるの上手いと思った。きっと働いてたときの経験が生きたんだね」

 ひよりは腕にクリームを広げ終わり、次は脚にも滑らす。歯切れのいい口調でさりげなく言葉を投げかけた。

 各務は数回瞬き、薄っすらと笑みを浮かべ、「あの頃も無駄じゃなかったかもしれませんね」と小さく言った。

「あたしも嫌々とはいえ、色々なことを任されてきたからできることが増えたのかな」


    4


 次の日は朝から雨が降っていた。

 ひよりはあらぬ方向へ跳ねる髪にスプレーを吹きつけてからヘアアイロンで慌てて整える。

「もーッ……! 午後からって言ってたじゃん!」

 独りちつつ無理やり髪を押さえつけ、出勤の支度を終えて鍵を施錠する。こういうときの各務は邪魔にならないように鏡の中で大人しくしている。今はバッグの中で揺らされるだけだ。

 濡れたアスファルトの上を小走りで駅まで走る。傘に勢いよく叩きつける雨。急げば急ぐほど足元は濡れる。ストッキングを穿いているだけに余計に気持ち悪い。

 ——サイアクな日。

 肌にまとわりつく湿気に不快感を抱きながら出社した。


「納期を延ばして下さいって言ったじゃないですか……!」

 ひよりは営業に報告があるとデスクまで呼ばれた。雨はまだ降り続けており、灰色の雲から溢れた水が窓を叩いている。

「いやー。やっぱり無理だったわ。お得意さん期待の新作だしなあ。分かるだろ?」

 営業の言葉から悪意は感じられない。ひよりの気が遠くなる。いつものらりくらりとかわされてしまうから、念のために打ち合わせから帰ってきた営業を捕まえて釘を刺そうとした。しかし、あろうことか「納期が前倒しになった」と言い出したのだ。自分の意見が通らないことを覚悟していたひよりもこれには青褪めた。他の依頼も溜まっている状況で間に合うはずがない。

「物理的に不可能ですッ」

 思わず声を上げたところで、部屋の最奥に座る職場長が渋い顔を向ける。ひよりはすぐに声を潜めて言葉を続ける。話が大きくなると悪者にされることは目に見えているからだ。

「これからも依頼が来るんですよ。それを全部納期通りだなんて……」

 営業は大口を開けて笑う。

「今まで問題なかったんだ。今回も大丈夫大丈夫」

「いえ、そんな話をしてるんじゃなくてですね……」

 なおもひよりが説明を続けようとしていると、営業は荷物をまとめて背広を羽織る。「客先と打ち合わせがあるから」と言い、事務所を出ていく。離れた席にいる事務の女から心配げな視線を背中に受け、ひよりは肩を落とした。


 残りの時間、すっかりやる気を失くしたひよりは、目の前にある仕事を淡々と消化するだけで過ごした。定時になれば荷物をまとめて帰り支度をする。毎日、数時間残業すれば間に合うかもしれない。心身ともに自分を犠牲にしてやらなければならないことなのだろうか。やるせなさが募る。

 今まで似たようなことは何度もあった。作業要員が一人しかいないから仕事をやらなければならなくなる、仕事をやれば余裕があると思われる、いつまで経っても人員が追加されない――という悪循環だ。今度という今度は心が限界だった。今まで頑張ってきたのは何なのか。「退職願」という言葉が頭を占める。


 帰り道はどうやって電車に乗ったのか覚えていない。今日の出来事が繰り返し頭の中で再生されて上の空だった。身体が通い慣れた道を覚えているのだろうか。気がつけば地元の駅についていた。雨は止み、濡れた地面がその痕跡を表している。

 現実味のない浮遊感のある足取りで駅を出て家までの道に出る。駅から離れれば閑静かんせいな住宅地が広がっている。街中だというのに騒音の一つしない。ぼんやりとしているひよりの中に静寂が染み込んでいく。心に渦巻く負の感情が徐々に収まる。これから仕事をどうすればいいか、やっと考え始めた。

 ――今まで頑張ってきたけど……。

「あのぅ、すみません」

 唐突に背後から声が聞こえた。相手の機嫌を窺うような遠慮がちな呼びかけ。例えば、道を訊ねるような、人を探しているような。あるいは、何かの勧誘を想起させる口調。

「はい?」

 ひよりは眉を潜めて振り返った。本来ならば急に呼びかけられれば、足を止めてしまったかもしれない。ひよりの身体は前へ進みながら、首を後ろに傾けただけ。第六感が働いたのかもしれなかった。

 微かに空を切る感触。ひよりは咄嗟とっさに一歩前へ進む。無理な体重移動で足元がよろけた。

「チッ」

 背後の人物は忌々しげに舌打ちをする。

 二十代から三十代前半に見える若い男。仕立てのいいスーツ。マスクから覗く目鼻立ちは整っているのに、傲慢さと苛立ちを含んだ表情が醜悪で上品には見えない。手には細長い金属の棒のようなものが握られている。

 男の仕草を見るに、ひよりに向かって金属棒を振り下ろしたらしい。無意識の行動のお陰で運よく逃れられた。

 ぞわり、とひよりの背に悪寒が走る。硬質な得物を向けられた。こんなものが当たれば無傷では済まない。恐怖の感情に従い、考えるより早くその場を勢いよく走り出した。

 頭によぎるのは、テレビやインターネットで報道していた女を狙う通り魔事件。警察も警戒していた。しかし、報道では傷害事件までは発展していないと伝えていたはず。

 人通りのない道で助けを求めようとした。喉から出る「助けて」という声は遠くまで届かない普通の大きさ。動揺で喉が開かなくなってしまったのも原因としてある。一番の要因は、大声は大きく息を吸わなければ出ないということにあった。意識して腹に力を入れなければならない。準備をしていない状態で全力疾走をしながらでは難しい。呼吸することで精一杯だ。一度立ち止まれば容易だろうが、それは今の状態では不可能だった。ちょっとやそっとの音は家の中が賑やかな時間帯では生活音に紛れてしまう。

 運動に適さないパンプスを履いていたひよりは、とうとうつまずいてしまった。膝や腕をしたたかに地面に打ちつける。肩にかけていた鞄は放り投げ出され、中身を地面にぶちまけた。

「いい子にしてろよ」

 嘲笑を含む言葉と共に金属棒が振り上げられた。


 *****


 男は裕福な家庭に生まれた。

 勤労な両親と甘い祖父母に不自由なく育てられ、有名校に進学し、大手企業に就職した。

 学生時代から要領がよく、こと人間関係に関しては苦労をしたことがない。

 同じような生活水準の者だけを集めて徒党ととうを組んだ。それ以外の付き合う必要のない人間たちは蹴落とした。挫折という経験をしたことがなく、子どもの頃にだけ持つ万能感がいつまでも彼の中からは消えなかった。

 就職先では上司に気に入られたこともあり、同期を差し置いて一早く役職づきになった。こうなると目敏めざとい女子社員が群がってくる。彼にとって女とは愚かでいやしく利用価値のある存在だった。そういった種類の人間しか近寄らなかったのだ。


 社会人となってから問題が表面化した。

 学生時代と違い、どうしても上司たちのご機嫌取りはしなくてはならなかったし、己の希望通り好き勝手に振る舞うことは許されない。顔には出さなかったが、彼の中には拭い切れないストレスが蓄積していった。


 始めは野良猫。

 たまたま道にいて餌を求める一匹の腹を蹴り飛ばした。甲高い鳴き声と悶え苦しむ姿が爽快だった。


 次に庭先で飼われている犬。

 飼い主がいないことを確認し、催涙スプレーを撒いた。これも慌てふためく姿に胸がいた。


 気が大きくなり、路上にある車や自転車を傷つけてみた。これは良くなかった。ただの物体は反応がしないからだ。


 ストレス解消になるものはないかと幾つか試してみて、やがて一つの答えを見つけた。町に溢れているではないか。自分より劣る消耗品のような生き物が。


 大人しそうな女学生を見かけてすれ違い様にスカートをカッターナイフで切り裂いた。物陰で様子を見ていると、異変に気がついた女学生が制服を見て狼狽ろうばいしていた。気の弱い娘だったのだろうか。そのうちに啜り泣きをしながら、肩を落としてその場を去った。


 そのとき、男は今までにない昂りを覚えた。それからというもの、若い女に狙いを定め、転ばしたりぶつかったりして気を晴らしていた。

 清潔な身なりをして堂々と明るい顔をしていれば、警察に疑われることもない。職務質問さえ一度も受けることがなかった。

 懸念していた被害者の女たちの証言は、恐れる価値のないものだった。男の姿すらまともに伝えることができていないらしい。報道によると犯人の年代も曖昧だ。突然に襲われれば、混乱して相手の外見は記憶に残らないらしい。短い間だけ見たものを記憶しておくのは平常時でさえ難しいのだから無理もない。

 警察の手が自分まで伸びないことを悟った男はさらに大体な行動に移った。ねずみ花火を放り投げたり、低威力のスタンガンで軽い電気ショックを与えたり、髪を切り落としたり——。


 ある日、担当する所属部署の営業成績が悪いと上司から小言を並べられた。要領の悪い後輩が足を引っ張ったからだ。プライドを傷つけられた男は、ストレスをぶつけるのに格好の女を物色した。万が一に備えて場所と獲物選びは慎重に行っている。警備が手薄の駅に無防備で浅慮そうな女を見つけた。会社員のようだから、また同じ道を通るに違いない。周辺は人通りの少ない閑静かんせいな住宅地。仕掛けるのに申し分のない場所だ。そろそろ、もっと大きな悲鳴を聞きたい——。


 *****


「イヤッ……!」

 ひよりは立ち上がらずに地面を転がる。この行動がこうそうし、金属棒が空振って地面を叩く。カツンという甲高い音がする。

 通り魔は体勢を崩し、片膝を突く。血走った目でひよりを睨みつけ、「この女ッ!」と叫んで立ち上がろうとし――。

『こっちだ……』

 突如として聞こえた低い声に男の身体が跳ねる。他に人がいたのか? 辺りを確認したはずだった。予想外の目撃者の存在に焦る男は声の方を向く。

 視線の先には、雨上がりの濡れた道路にできた大きな水溜まり。真上にある街灯が煌々こうこうと照らし、水面にはっきりと景色を映し出していた。手前にあるのは、男の顔ではなく、見知らぬ不健康そうな人物の姿。

「は……?」

 男は混乱する。鏡面に映るのは目の前にあるものではなかったのか。思わず水溜まりをさらに覗き込んだ。瞳の中に水溜まりが映る。

『ああ、よかった……。こっちを見てくれて』

 水溜まりに映る男が喋る。両手を前へ伸ばし、水溜まりから浮き上がり、姿を現す。「像」だったものが立体になる。まるで競り上がる噴水のよう。その姿を通り魔の瞳ははっきりと捉えていた。

『鏡の世界へようこそ』

 水溜まりと瞳、図らずもこの二つは合せ鏡になっていた。

 ひよりの通勤鞄が地面に落ち、中身を地面にばら蒔いたとき、各務が潜む卓上ミラーも外へ投げ出された。そして、鏡面が水溜まりを映し、各務が水溜まりへ移動する。通り魔はそれを見たのだ。さらに各務は通り魔の瞳へ吸い込まれ——。

 各務と入れ替わるようにして通り魔の意識は身体から弾き出されて水溜まりに吸い込まれる。人知の及ばない力の前では抗えない。

『いやだぁあああッ!』

 通り魔が全身で叫んだ声は周囲にはまるで聞こえなかった。そこにあるのは、静かな夜と何の変哲もない水溜まり。翌日にはすっかり乾いて何も失くなっていた。


 *****


    5


 平日の夜、ひよりはラフな部屋着姿でパソコンに向かっていた。紅茶を口にしつつ、画像ソフトと奮闘する。

 通り魔に襲われてから一ヶ月が経った。あれからすぐに会社を退社し、デザイナーの個人事業を立ち上げた。

 親友に誘われた仕事は業務提携という形を取って協力している。優先的に依頼を受ける代わりに、仕事内容はポートフォリオ作品実績集として利用することになった。お陰で新規の仕事が順調に入ってきている。親友の店ではロゴや商品画像の構図からサイトのデザインまで多岐に渡り手を加えさせてもらった。皮肉なことに前職場で様々な仕事をやっていたことが大いに役立った。できることが多い方がフリーとして売りになる。早くに一定の収入が見込めるようになったのは有り難いことだ。何より会社勤めの頃に困らせられていたストレスから解放された。

 ひよりが身体を反らして伸びをすると、玄関のチャイムが鳴った。「またか」とじっとりとした目つきをしてから腰を浮かす。玄関の開けた先には茶髪の目鼻立ちの通ったスーツ姿の男が立っていた。一ヶ月前にひよりを道端で襲った男だ。

「また来たの?」

 腰に手を当てて呆れた顔をするひよりに向かい、「ひよりさーん」と口を開けた男の表情は締まりがなく、整った顔立ちには不似合いだ。

「ココ、完全男性禁制ではないけど、あまり出入りすると怒られるんだよね」

 溜息一つ吐き、目元が緩んでいる男に口を曲げる。

「分かってるの? カガミくん」

「こういう顔なんですってば」

 カガミと呼ばれた男はへらへらとした顔つきで後ろ頭を掻く。


 各務は合せ鏡を作り出し、通り魔とした。各務の意識は通り魔の身体に。通り魔の意識は恐らく水溜まりの中だ。咄嗟とっさの行動だったので、各務自身も何が起こったのかは正しく理解していない。水溜まりが消えたところで通り魔のがどうなったかも知る由もない。

 着ぐるみに入るように通り魔の身体に移った各務は、鏡に姿を映しても移動することはなくなった。身体に意識が定着したのかもしれない。現状については分からないことだらけだが、合せ鏡の間で投身するような実験などしたくはない。成り行きに任せて通り魔の男として生活し始めた。

 身体に残っている記憶をさらい、男になり済ます。男は裕福な家庭の生まれ、一流商社に役職者として勤めている。恵まれに恵まれた環境に各務は複雑な顔をしつつも、生真面目に毎日出社した。記憶を頼りにするだけでは心許ない。社内をよく観察し、取り扱い商品について退社後にこつこつと学び、徐々に会社に馴染んでいった。

 部下に面倒な仕事を押しつけ、のらりくらりと社会人生活を送っていた男の変化に周囲は違和感を抱かなかったらしい。元社畜の勤勉さが発揮され、積極的に業務をこなしていくようになってからは、取り巻きだった一部の女性社員以外からは好評価を得た。

 各務本人は他人からすぐに信用を得られる恵まれた外見と地位に仕事がし易いと感動し、さらに熱心に仕事に取り組んでいるところだ。


 こうして人間としての生活を取り戻しつつある各務はひよりの元へ足繁く通う。世代格差により今の時代にまだまだ慣れておらず、他人に成り済ます生活への疲れもあり、事情を知るひよりの元だと安心するらしい。

「もー。そのうち大家さんに怒られるー」

 ひよりは各務にコーヒーを渡して口を尖らせる。対する各務は気にする様子もなく呑気なもの。

「だから、ルームシェアしましょうよー」

 覚えたての言葉を楽しげに口にする。通り魔本人だった頃と比べ、険が取れて人懐っこい大型犬なような雰囲気すらある。

 通り魔は金銭的余裕があるからか、タワーマンションの高層階に住んでいた。通帳で家賃を知った庶民の各務は青くなり、すぐに解約して格安のマンスリーマンションに移り住んだらしい。浮いた金と貯金を合わせて通り魔が襲った被害者に匿名で見舞金を送った。本人に謝らせることはもうできないから、できる限り形にした。今は環境が整った定住先を探しているらしいが——。

「もっと広くて設備が充実したところに住めますよ」

「うっ! それは魅力的な話だけど……」

「ですよねー!」

 鏡男はもういない。人間としての新しい人生を得た。水溜まりごと消えた通り魔はどこへ行ってしまったのか。水と共に蒸発してしまったのか。それとも、どこかに移っていったのだろうか。誰も知るものはいない。

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鏡男、現る。 犬塚ハジメ @dogking828

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