鏡男、現る。

犬塚ハジメ

前編

 あわせ鏡――後ろからの姿も映すように二枚の鏡を合わせること。髪や衣服を整えるために利用する。正面で合わせれば無限に見えるほどの鏡像ができる。別名、共鏡ともかがみ

 一方で、合せ鏡は不吉というイメージを持たれている。十三番目の鏡像に死に顔が映る、過去や未来が映る、悪魔が住んでいる、夜中に見てはいけない――都市伝説として多くの話が噂されている。

 合せ鏡によって人生を狂わされた一人の男がいた。


    1


 日比野ひびのひよりは、電車が地元の駅に停車すると降車し、パンプスをコツコツと鳴らして階段を下り、改札口へと向かった。肩から提げた鞄からカードケースを取り出し、自動改札機のセンサーにかざす。

 肩に届く明るい髪にスーツ姿。ツンとした気の強そうな顔立ち。年の頃は二十代半ば。どこにでもいそうな社会人女性だ。

 駅の利用者はまばら。夕方の下校・退社時間であっても人は少ない。朝に少し混み合うくらい。都心から離れた出口が一つの、接続のない駅などそんなものだった。

 ひよりは駅のすぐ近くにあるコンビニに寄り、酒と数種類のつまみを買った。もうすっかり日は落ちて視界が悪い。自宅まで直行するのみだ。

 手にぶら提げたコンビニのビニール袋がガサガサと鳴る。閑静が売りの住宅街は、駅から離れれば人通りも街灯も少ない。慣れた道だから、ひよりは警戒もせずに歩く。不審者注意の黄色い看板に視線も送らずに通り過ぎた。

 駅から十数分歩けば、特筆すべきことのない長方体の白いアパートが現れる。オートロック付きの女性におすすめという謳い文句の安アパート。設備としては取ってつけたようなもので、ないよりマシ程度。築年数が浅いことだけが長所だ。

 ひよりは階段を上がり、自宅の鍵を開ける。中は真っ暗。扉の奥はすぐ部屋になっている。薄手の暖簾のれんを目隠しにしていた。

 その暖簾を無造作に開き、ベッドの前に置いてある座卓にビニール袋を置く。スーツを脱いで地味な色のスウェットに着替える。どっかりと腰を下ろし、袋からコンビニで買ったものを自宅に並べる。缶チューハイ、枝豆、炙りイカ、一口チーズ、ミックスナッツ。およそ健康的とはいえないラインナップだが、夜遅くに揚げ物がないだけマシだった。

 鞄から折り畳み式の卓上ミラーを取り出して開いて座卓の端に置く。裏側はアラベスク模様のような幾何学的な形式の柄が施されている。スワロフスキーが散りばめられていて華やか。

 ひよりは缶のプルタブを起こした。プシッと炭酸の抜ける音がする。喉を鳴らして勢いよくあおり、卓上を軽く叩くように缶を置く。「ぷはーっ」と幸せそうな息を吐いた。

『ひよりさん、化粧は落とさなくていいんですか?』

「いいの、いいの。あとでするし」

『そんなこと言って、この前もそのまま寝て後悔してましたよ』

 一人しかいないはずの部屋に男の声が聞こえる。はっきりとした声ではなく、電話越しのような何かを介したくぐもった音だ。

「お局様みたいなこと言わないの。せっかく気持ちよく飲んでるんだから」

 ひよりの人差し指が鏡に向けられる。もう片方の手は缶を掴んだまま。

『ハイハイ。お仕事大変でしたもんね。お疲れ様です』

「よろしい」

 鏡面には一人の男が映っている。重いボサボサの髪に不健康そうな顔色、痩せているというよりは運動とは無縁の弱そうな身体つき。実体になるものは、この部屋にはない。テレビや携帯のように映像を映しているわけではない。ましてやプロジェクションマッピングというわけでもない。鏡そのものに男はいた。


 ひよりの鏡の中に住んでいる、通称鏡男の本名は各務かがみとおるという。半年前にひよりがたまたま立ち寄ったフリーマーケットで手に入れた鏡に取り憑いていた男だ。

 休日にほんの気紛れで見て回ってみれば、強烈に目を引く卓上ミラーがあった。異国情緒溢れる綺麗な細工ではあっても、ひよりの趣味ではない。けれど、何故かどうしても欲しくなり、出店者に話しかけた。八千円という価格に目が飛び出たものの、交渉をして六千円で手に入れた。

 いい買い物をしたと上機嫌で家に帰ってから鏡を開くと、暗い男の姿が映り、思いきり叫んだ。ぶん投げて割らなかったのを褒めて欲しいくらい驚いた。踏み留まったのは値段のお陰だったかもしれない。

 ――い、曰くつきってヤツ?!

 ひよりは震える手を精一杯伸ばして鏡を床に伏せ、その日は近づかないように過ごした。


 出店者と連絡がつくか、このまま家に置いておいていいものか、散々悩んで出した結論が「おはらいをしてもらう」だった。見てはいけないものが見えるのは生まれて初めてだ。霊感が強いとか、神経が過敏であるとか、一切経験がない。見えないものが見えるのは、異常事態に思えた。一週間ほどネットで祓う方法を検索し続けた。

 神社でおき上げ? 霊能者に相談? 下手なことをしたら逆に呪われると映画だかテレビだかで見たことがある。

 親や友人に相談するとして、どう切り出せばいい? 巻き込むことになる?

 様々なことがひよりの頭の中を巡り、考えることと調べることに疲れ果てた。そもそも、幽霊関係に疎いひよりが一人で解決できるわけがなかった。法外な金額のお祓い業者を見つけても、詐欺なのかどうかすらも分からないのだ。

 疲れきっているところに、会社でトラブルがあった。何一つミスをしていないのに、上司に尻拭いを押しつけられた。日付が変わるお陰で終電間近まで対応に終われた。よろけながら帰宅し、玄関で靴を脱ぎ捨ててベッドに飛び込んで一言。

「会社、爆発しないかな……」

 ほとんど口を動かさない、力のないぼやき。聞こえているのは、きっとベッドだけだ。それなのに、どこからか声がした。

『分かるぅー!』

 ベッドに乗った通勤鞄の口が外れ、財布やポーチが散らばっている。その中にあの鏡があった。そこから聞こえたような気がした。

 ひよりは何事かと鏡に手を伸ばす。疲労のあまり頭は鈍くなっていた。音がするから音源を辿る――機械的な行動だった。開いた鏡にはスーツ姿の黒髪の男。目頭を押さえて泣いていた。

 ひよりの肩から力が抜けた。あまりに人間的な言動に今までの恐怖がどこか遠くへ飛んでいったのだ。怪奇現象だお祓いだと悩んでいたのに、拍子抜けしてしまった。それから、鏡男と少しずつ会話をするようになり、今に至る。


 鏡男は、各務透と名乗った。元は普通の人間だったらしい。今は鏡の中でしか生活できない身の上だ。

 生前は女とは縁がなかったらしく、おどおどした様子だった。そんな態度だから、ひよりは逆に怯えていたことが嘘のように話しかけていった。学生時代から口数が少ないクラスメイトともコミュニケーションを取っていた経験が生きたのかもしれない。こんな子いたかも、と親近感を得るくらいだった。

 そのうちに各務も慣れてきたのか、ひよりと話せるようになってきた。今は主に帰宅後で人の目がないときに話す。奇妙な友人のようになった。ひよりは一人暮らしの侘しさが紛れるし、各務はそもそも話し相手がいないので話せるだけで有り難いらしい。


「それにしても、今日の課長の態度はないと思わんかね。カガミくん?」

『あー。あの人、上司だって自覚ないんですよー』

 ひよりはアルコールをすすりながら、ナッツの袋に手を入れる。硬い感触が幾つか指の先に触れ、それを口の中に放る。

「でしょー。仕事振られるばっかで、こっちの意見はまるで聞いてくれないし。召し使いじゃないっつの」

 くだを巻いて口の中でバリバリとナッツが噛み砕く。塩気で喉が渇き、またチューハイを一口。

『ひよりさんは召し使いに大人しく収まってるタイプじゃないですもんねえ』

「ん? 今、悪口言った?」

『いえ、何にも』

 各務は鏡から外界に出られないため、酒もつまみも口にしていない。ひよりが喉を鳴らして飲んでいる姿を見ているだけだ。元々アルコールは受けつけない体質だから見ているだけでいいそうだ。

「ねえ、いつもの話してよ」

 ひよりの肌が少し血色がよくなっている。間延びした口調、とろんとした目つき。ほろ酔い状態だ。

『好きですねえ』

 各務は一つ咳払い。それから昔の話を語り始めた。


 *****


 二十年前、各務はとある商社で営業をしていた。当時はまだ紙が主流で手間がかかる作業が多かった。パソコンはあっても、すべてがデジタル化はされてはいない。帳簿や商品管理など、各務の会社では手書きで行っていた。そして、その面倒な部分がなぜか各務に集まってくる。他にやる人がいないから、やらなければ業務が止まる――そんな無用な責任感で個人の範疇はんちゅうを越えた仕事を時間外まで抱えていた。

 連日残業が続けば、ケアレスミスが増える。その度に上司に叱責しっせきされる。そうすれば、仕事の効率が下がるという悪循環だった。

 各務は子どもの頃から内気で、それは社会人になってからも変わらなかった。上司や同僚からは陰気、仕事ができない、要領が悪い、声が小さいなどの評価を受け、卑屈な性格に拍車をかけていた。

 それでも改善しようとし、就業外に商品の勉強や人との話し方など勉強した。今に思えば、完全にえ過労働オーバーワーク。悲劇は起こるべくして起こったといえる。

 会社は建築法に準じているのか怪しい雑居ビルの中にあり、建物はところどころ傷んでいた。その日も二十二時を過ぎていて、同じビル内にある他のテナントからも人がいなくなっていた。

 各務は溜まった疲労と長時間になる数字との格闘に加えて周りに人がいない解放感で妙な気分になり、ふわふわとした足取りで外にある自販機に向かおうとした。夜間でエレベーターは作動しない時間だ。数え切れない残業でそれは把握している。自然と階段を使おうとし、一段目で足を捻った。

「うゎッ」

 簡単に体勢が崩れ、重力に従って下に落ちていく。各務が生きている人間として最期に見た景色は、安全確認用の踊り場の鏡。窓に室内の明かりが照らされて擬似的な鏡を作り出し、各務の身体を挟んで合せ鏡になっていた。

 次に各務が目を開けたときは鏡の中。倒れている己の姿が視界に映り、パニックに陥った。鏡面をがむしゃらに叩くも、びくともしない。感触は鏡なのに異様な強度がある。

 何が起こったか分からないまま、「倒れている自分」を見つめる。あれは生きているのか、死んでいるのか。ぴくりとも動かない。

 夢、幽体離脱、錯覚――この現象の可能性は複数あっても答えは出ない。

 不幸なことに、他に人がいない時間帯であれば誰にも気づかれない。時間は残酷なほどに余裕があった。鏡の中にいる今の状態を手探りで確かめてみる。

 動ける範囲は鏡の大きさだけ。奥行きは身体の厚みほど。薄い長方体の中に閉じ込められたようだ。どうやってもそこから出られない。

 途方にくれたまま夜が明けた。やがて見知らぬ社員が現れ、倒れている各務の身体を発見して叫んだ。騒然とする建物内。救急隊員がやって来て、意識確認をした後に身体を運び出そうとする。

『やめてくれ! それはオレの身体だッ!!』

 それは本能的な恐怖だった。いまだに状況は理解できていない。けれど、あの身体から引き離されたら不味いことになると直感的に思った。

 各務の声は慌ただしい中で届くことはなかった。その場に一人だけ取り残された。呆然としている間もなく、今度は鏡の前を通り過ぎた女のバッグにつけられた飾りの中に移動した。とても抗えない強烈な力で引っ張られる。例えるなら人間が重力により落ちていくような感覚だ。

 それから、各務の長い旅が始まった。本人の意思関係なく様々な場所を転々としていった。何度も助けを求めたが、残酷なことに外へ声が届くことはなかった。

 移動するのは鏡の中のみ。合せ鏡になった反対側へ移ると察したのはすぐのことだ。鏡面反射するものなら種類は問わないらしく、鏡だけではなくガラスや金属も対象だった。ただし、あまり不鮮明なものには反応しない。ガラスはガラスでも曇りガラスでは意味を成さない。もしかしたら、湖面などは可能かもしれない。移動した後はコーヒーカップに乗った後のように酔うから、短期間で飛ぶのは遠慮したかった。

 月日が経つに連れて鏡の中の生活にも慣れていくと、自分の存在感が増していった。ある日、道路のカーブミラーで子どもに見つかり、大騒ぎをされたことがある。姿や声が外界に届きやすくなったと知ったのはこのときだ。相手が子どもだったから大事にはならなかったものの、各務の肝が冷えた。始めの頃は助けて欲しいと思っていたはずが、そのときには見つかったらどうなるかという恐怖に成り変わっていた。

 大勢の人間に騒ぎ立てられるのか。動物園のような見せ物になるのか。もし、その中で鏡が破損したら……。

 各務は人間から隠れるようになった。鏡の縁にあるほんの少しの隙間に身を置けば見つからないようだった。窮屈な日々が続いたが、さらに悪い状態になるよりマシだ。

 短時間ながらも繁華街の大きなショーウィンドウにいたときは地獄だった。ケースや布などで鏡を目隠しされれば、一目に晒されずにゆっくり休める。商業地区では常に人通りがあるから気が抜けずに狭い縁で息を潜めていた。

 最後に辿り着いたのが開閉式の卓上ミラー。ほとんど使われなくなっていて、開かれることは少なかったから気兼ねなく休めた。それがある日マーケットで売り出され、日比野ひよりの手に渡った。

 鏡越しに聞こえる会話は元社畜として深い同情を得るほどの内容だった。ある日、ひよりの呟きに思わず同意してしまったことで、奇妙な関係が生まれた。人間との会話に飢えていた各務にとっては――生前は苦手であったが――この上なく楽しい時間ができたのだ。


『――で、ひよりさんと初めて会話をしたときに頼んだのが、会社を調べてもらうことでした』

 各務は境遇を芝居がかった口調で簡単に話し、

『オレがやらなきゃ。会社を辞めれば迷惑がかかる――などなど、迫真の思いで勤めた会社は――』

 ひよりは缶を口元につけて各務が披露する話を見つめている。

『倒産してたんですよ。ずっと前に』という言葉で話を閉めてから、各務は大口で笑い始めた。『泥舟……ッ、泥舟にしがみついてた……!』額に手を当てて身体を震わせる。

「いやー、今思い出しても笑えるわ。私が『潰れてるみたいだけど』って言ったときにこぶしを突き上げてたもんね」

『だって、未来に羽ばたけとか社訓読まされてたのに……ッ。未来って……! なかったじゃないですか‼︎』

 各務は目の縁に涙を滲ませながら腹を抱えた。一しきり笑い終えると、呼吸を整えながら落ち着いた声に戻る。

『鉄板のネタができたことだけは会社に感謝してます』

 コホンと咳を一つ。少しぼそぼそとした聞き取りづらい口調。

 ひよりに出会ったことで、各務は自分については事故死したことになっていることを知った。転落で頭を強く打ちつけたことが原因。すぐに治療を受ければ助かっただろう。長く放置されたことが不運だった。社員を一人残した企業への管理責任が問われる――という短い記事になっていた。鏡の中を二十年渡り歩いていただけに、予想していたとおりの末路だった。

 生前の人生に未練はない。両親とは上手くいっていなかった。居心地の悪い地元から逃げ出すように上京し、慣れない場所で就職した。就職先は言うまでもなく……。

 鏡男として生きていくのも窮屈きゅうくつだが、元の社畜人生に戻りたいかと聞かれればノーだ。今はひよりと会話ができるから悪くはない。


「そもそも、なんで営業になっちゃったの? 素人でも分かるミスマッチなのに」

『それはですねー。悲しいことに自己評価が低すぎて、就活は失敗続きで……。たまたま入社できたのが、その条件だったんです。道は色々あったのになあ。当時のオレ、アホ』

 各務がしたのは自虐的な笑いでも悲壮感はない。二十年前経っているからだろうか。「あの頃は若かった」と茶化すような雰囲気だ。

『ひよりさんは凄いですよ。デザイナーなんてクリエイティブな仕事じゃないですか』

「……あたしも似たようなものだよ。全然クリエイティブじゃない」

 ひよりは缶をテーブルに置き、身体を伏せてぼやく。

 学生時代は積極的だった。行事に張り切って参加し、クラスを先導する方。挫折を味わったことがないというわけではない。しかし、学生だからか失敗しても無限に内からエネルギーが湧き出ていたように思える。大学では希望だったデザインの道に進み、充実していた。

 卒業後は好きな大手化粧品メーカー……の下請けに就職した。商品に関われるのだから贅沢は言うまいと、それでも前向きだったのは入社半年まで。得意先である大手メーカーは絶対で、こちらの意見などないものという社内の常識を知ってからは情熱の炎が急速に萎えていった。先方から提示されるデザインを製造用に仕上げるのがひよりの仕事だ。製品プロダクトデザイナーという。

 製品に関わっているのは事実だが、そこにひよりの意見は含まれない。達成感に欠けていた。

 おまけに先輩と二人体制だったのが、一人になり圧倒的に人員不足だ。上司は事務の課長と兼任で、パソコンの使い方が怪しければ、デザインのデの字も知らない男だ。何度かけ合っても、あれやこれやと理由をつけて話が前に進まない。

 営業からは販促用のリーフレットを作って欲しいと急に振られたり、得意先の仕様変更を二つ返事で快諾したりと、無茶な要求ばかりだ。要は社内全体がデザインについて疎い。デザイナーといっても、ウェブデザイナーやファッションデザイナーなど細分化されているのだ。食品店といっても、肉を売る店もあれば、魚を売る店もある。それほどの違いがある。

 理解者が少ない中で、ひよりは社内のなんでも屋と化していた。その点では各務と似ている。転職も考えたことはある。しかし、安定した給料を手放すと考えると思い止まった。生活がかかっているから危うい道は選べない。学生時代に比べて慎重になっていた。予防線なしでは生きられない大人になってしまったのだ。高校時代からの友人から事業の誘いも来ているが返事を延期している――。

「あー……」

 ひよりはベッドを背もたれに天井を仰ぎ見て大きく息を吐いたかと思うと、

「ネガティブよくないっ! 飲んで忘れよっ」

 両手を上げて明るい声を出した。

「それでこそ、ひよりさんです。オレもなんだか前向きに慣れる気がします」

「褒めても何も出ないよ。今日は気が済むまで飲むよ!」

「その前に化粧落とした方が……」

 翌朝、そのまま寝てしまったことに気がつき、アパートの一室で絶叫が響くのだった。


    2


『――女性を狙った犯行が続き、いまだ犯人が捕まっておりません。人気のない場所や夜道には充分お気をつけ下さい。CMの後は今流行りのあのスイーツの特集です』

 ひよりは寝惚け眼でテレビ番組を眺めながらトーストをかじる。朝のニュースはアナウンサーや芸能人の弾む声で爽やかな雰囲気を醸し出している。低血圧にとっては別世界だ。ひよりは朝が苦手でも、テレビやネットで仕事柄流行りをチェックしている。食事やメイクをしながら流しているだけではあるが。

 ダークブルーのスーツを着てドアの施錠をする。早足で駅までの道を急ぐ。駅まで十数分かかる道のりは、本来なら自転車で通いたいところ。しかし、自転車置場は小さな駅で圧倒的に不足していた。朝は学生や会社員ですぐに埋まってしまう。ひよりがそのことに気がついたのは、引っ越した後のことだ。利便性は住んでみないと分からないことが多い。事前に調べたつもりが駐輪場や街灯の不足は盲点だった。気がついてからはダイエットになると気持ちを切り替えて出勤時は駅まで歩くことにしている。

 電車に揺られて乗り換えつつ三十分ほどすると都心に出る。オフィス街の細い小道に入った先にひよりの勤める会社はある。

 オフィスビルの五階までエレベーターで昇る。デザイナー室は機材の関係で部屋が分かれている。先輩が辞めてからは個室状態だ。

 パソコンの電源を入れてメールを確認し、今日の予定を頭の中で整理する。得意先であるA社の新製品のデザインについては最優先と言われている。人手が足りないから、それだけに時間をかけている余裕はない。昼までにある程度は進め、その後に抱えている他の案件に手をつける。

「よし」

 気合いを入れてからパソコンと向き合った。ブルーカット眼鏡をかけ、マウスをカチカチと鳴らす。机の端には各務が取り憑いた鏡が置かれている。


 十一時過ぎてひよりは手を止めた。今まで水分も取らずに作業していて、ちょうど集中力が切れる時間だ。その甲斐あってか終わりが見えてきた。デザインの時点でいい加減な仕事をすると製造まで響くから手は抜けない。

 一息入れるためにも一階にある自動販売機で飲み物を買ってこようと財布をバッグから取り出しているとドアが開いた。

「日比野ちゃーん」

 ガタイのいい若い男がデザイナー室に入ってくる。媚びるような笑顔を浮かべている顔。身体に似合っていない猫撫で声。ひよりは嫌な予感がした。

「今、ダイジョウブ?」

「はい……。なんですか?」

 ひよりの顔に警戒色が差す。

「明日、B社にプレゼンするんだけどさあ。そのスライド資料作りを頼めないかなと思って」

「えっ。時間がないです。A社の案件が優先ですよね?」

「そうそう、そうなんだよね。でも、用意した資料のダメ出しが部長から入っちゃって。ちょいちょいっと見た目を整えたら納得すると思うんだよね。明日の朝一まででいいからさあ」

 同僚の営業は笑顔を顔に張りつけたまま手をパチンと合わせる。

 ちょいちょいと言うなら自分でやって下さい、と喉元まで出かかったのをひよりは堪える。以前なら言ってしまったかもしれない。新人時代に似たような出来事があったことがあった。そのときは突っぱねようとしたところで職場長に呼び出された。営業の邪魔はしてはいけない、そうだ。

 その後も仕事が押しつけられるようなことが続き、表現を変えて説明しても意見は通らなかった。そもそもがデザイナーの仕事を勘違いしていて理解しようとしないのだ。だから、滅茶苦茶なことを言い出す。和食屋ならデコレーションケーキを作れるよねと言うものだ。

 下手に口を出すと悪い結果になるということを身に染みて理解しているので最後は首を縦に振らなければならない。

「じゃあ、A社に納期が延びると伝えて下さい」

 苦し紛れで伝えた交換条件を軽く受け流される。同僚が去った後でひよりは沈んだ顔をする。もし、納期が守れなかったら、会社の評価も下がるが、ひより自身の評価も下がる。そうなると仕事がやり辛くなるのは目に見えている。納期を守ったところで、現場を知らない上層部は人員補充の必要なしと判断するのだ。どちらに転んでもひよりに利はない。置いていかれた資料と元データを触る気にもならなかった。

『………………ぃ』

 こもった声が微かにひよりの耳に届いた。音のする方向を見ると、机に置いた卓上ミラー。開いて鏡面をあらわにする。そこには憤慨ふんがいした様子の各務が映っていた。

『なんですか、あれはー?! 脳がピーマンか筋肉ですか?? ありえないーッ!』

 指を一本ずつタコのようにクネクネと動かし、辛抱堪らないといった心情を表す。

 心からの雄叫びにひよりは思わず吹き出し、口を押さえて声が出ないようにする。思っていたことをはっきりと言語化されたことが可笑しかった。

『ひよりさんの仕事じゃないのにっ。オレはああいう押しつけてくるタイプが無理なんです!』

「分かったから、もうちょっと声を抑えて。……ぷっ」

 先ほどまで沈んでいたひよりの表情が和らぐ。肩を震わせていると、各務は資料を見せるように頼んできた。

「これでいい?」

 コピー用紙の前に鏡を立てて置き、各務に見えるようにする。各務は書かれた文章を真剣な顔で黙読し始めた。

 ひよりは各務の不思議な行動に首を傾げる。そのとき、携帯が振動して何事かを知らせた。取り出した携帯の画面には親友の名前が表示されている。メッセージが一通届いている。指で叩いて画面を開くとリンクアドレスと共に短い言葉が載っていた。

『SNSでお店のアカウント作ったよ。試作品を載せてるから、仕事の参考にしてね』

 その友人は製菓の道へと進み、とある店で経験を積んでからオンラインショップとして独立しようと準備中だ。ひよりにはデザイン担当として一緒に働かないかと声がかかっている。経営自体は友人個人で行うから、ひよりに金銭の負担はかからないとのことだった。

 友人とは趣味は違うものの、性格は合うので高校時代から現在まで仲良くやっている。仕事の業界もまったく異なるが、互いに尊敬しあっている。

 リンクからSNSを表示させ、投稿を簡単に見る。童話のような優しいパステルカラーの世界が好みの彼女らしい作品が並んでいる。森の動物たちのクッキー缶、妖精のお昼寝クッション風マカロン、人魚姫のため息マドレーヌ――。ひよりの趣味ではないが、とても完成された菓子だということは一目見ただけで分かる。学生時代からSNS上でファンがいるくらいだ。個人店を経営するというのは、ただの夢では終わらない話になる。

 自分が手伝うならと、ひよりはつい想像してしまう。ひよりの好きなデザインはゴシック系の華やかなデザインだ。おとぎ話をモチーフとしたほっこりとした菓子の背景に主張しすぎないようにして華やかに飾り立てるのはどうだろうか。素朴な愛らしさが引き立てられるかもしれない。

 少し楽しくなったところで、ひよりは頭を横に振る。まだ返事を決めていない話だ。安定した給料を捨てるには勇気が足りない。新規事業は成功するにしても安定するまで時間がかかるだろう。実店舗とは違いリスクは少ないにしても。それまで今と同じ給料は求められない。友人を手助けしたい気持ちは充分にある。

 ひよりは「仕事が終わったら見るね。楽しみ!」と返信をしてから、携帯をバッグにしまう。夢のような世界をじっくり眺めていたいが、時間がそうはさせてくれない。

『ひよりさん、資料はオレが文章を考えます。ひよりさんはレイアウトに集中して下さい。自分にできるのは、これだけです』

「え?」

『こういうのは死ぬほどやらされたから得意分野です。お世話になってるのに、いつも何もできませんからお礼です』

 ボサボサ髪の不健康そうな顔が不器用な笑顔を浮かべた。

 遠慮しようにも今は時間がない。ひよりは各務を頼ることにした。一応完成しているというスライドのデータを開き、二人で画面を覗く。

『ヒィイイイッ。これを客先に見せようとしてたんですかーッ』

「頭が痛いね」

 自社のカタログに載っている文をそのまま抜き出したような定型文に、ただ文章と画像を並べただけの簡素なデータ。購買意欲は一ミリも湧かない。センスのある学生の方が上手くできるかもしれなかった。

 二人は営業の仕事に戦慄せんりつしながらも内容を修正していった。

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